<私>という演算 (中公文庫)

著者 :
  • 中央公論新社
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感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122043336

感想・レビュー・書評

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  • この作家が芥川賞をとった理由を考えている。
    もちろん講評は読んだがしっくりこなくて。
    この作家にネガティブな印象をもっているわけではない。

  • 思考のプロセスを日常描写をまったく省いて描いたものであり、小説なのか評論なのかという問題はあるけれど、いずれまた再読はするだろうと思う。

  • スタバに入り、薄いわりには、あまり、すぐに読み飛ばせない保坂和志の『私という演算』の仕上げに、目にいい、ブルーベリージュースを頼んで、取りかかった。

    小一時間ほど、集中して、この小説とも評論ともつかぬ不思議な本を読み終えた。傍線をひいたところを、ぱらぱらと見返してみた。小津安二郎の『秋刀魚の味』を語る文章にひいた傍線が浮き上がって見えた。

    「好き嫌いというのは出来の善し悪しのように判断の根拠が明確にしやすいものではないから、伝えようとするとかえって難しいし、今ここで好きの理由を書くつもりはないけれど、とにかく『秋刀魚の味』が特別好きで、小津安二郎の他の映画よりもずっと多く繰り返し見ている。そうやって繰り返し見ているうちにいくつかの理由が重なって、ぼくにはだんだんと『秋刀魚の味』が死んだ者たちが生きていた時間を反復している映像のように感じられるようになってきた。」

    気になりはじめた理由が、小津独特のカット割に対するある違和感からはじまっている。

    「まず何よりもそれがよく言われている小津安二郎のカメラの特徴で、小津安二郎は人物を胸から上のサイズの真っ正面で映すから、カメラのアングルから逆算して人物の位置関係を決定することが難しい。」

    しかし、これによって見る側に混乱が生じるわけではない。それは映画を見る身体というものに、観衆が馴らされているからである。

    「わかっていなくても常識的な線で勝手に決めるようになっていて、わからないからといって敢えて混乱を引き起こすような突飛な解釈をするようなことはないのが人間の認識の特徴で、映画の中でAさんとBさんが交互に映ってしゃべっていれば人は極めて自然な認識として、AさんとBさんが同じ場所にいて適当な距離をおいて座り適当に相手を見たり見なかったりしてしゃべっているものと勝手に(ないし自動的に)思うようになっていて、まさかAさんが東京にいてBさんが大阪にいて、AさんとBさんが別々にしゃべっているのが天文学的な確率の偶然によってぴったり意味がかみ合ってしまった、という、そういうところを映画に撮っているとは考えない。 」

    笠智衆が一人で酒を飲んでいるシーンをきっかけに、この文章の筆者は、完璧主義の権化のように言われる小津の映画が「映画というものが本当のところバラバラに撮影したフィルムを意味にそってつないでいくことであたかも統一されているかのように見せているのにすぎないのだということを、完全に覆い隠そうとはしていないんじゃないか」と思うようになるのである。

    「よく知られていることだけれど小津安二郎の映画は、おもに娘を嫁に出すことで、家族がほどけていったり、一人一人が別々の道を進んでいったりすることを背景としながら、家族が緊密につながっているほぼ最後の時間としての現在を映す。しかし、そういう筋や主題の上での一人一人ということと別に、真っ正面を見た人物はもっと即物的に、映画としての流れに関係なく、例えば他の出演者とまったく別に一人だけ撮影所にやってきて一人だけでフィルムに撮られて帰るように、あるいはたとえば一人だけ三年前に撮られたフィルムにはめ込まれているように、絶対的に一人でそこにいえるようにぼくには見える。」

    そこに筆者は死者を感じるのである。そして、次の少々、ぞくぞくするというかぞっとするというような結語につながっていく。

    「死んだ者たち彼らを記憶する家の中で、生きていたあいだの時間を反復しているように感じている今では、ぼくはこの視線を、“無人格の記憶の視線”とか“彼らを記憶する家の視線”とかのようなものとして感じている。『秋刀魚の味』の人たちは、彼らを記憶する家の視線の中で、彼ら自身の時間を家の視線として生きつづけているのだとぼくは感じている。」

    この文章が、ぼくのある記憶が蘇った。

    父の葬儀後、密葬に伴う、事後の弔問客のための、事後の1週間も過ぎ、とりあえず、家を閉める日が来た。

    元製鉄所に勤めていた叔父夫婦、元病院勤務の叔父夫婦とで掃除を済ますと、皆、なんとはなしに、20年近く前に亡くなった祖母の部屋に集まってきた。

    そこには、家族の写真が壁にかけられている。祖母、亡くなった叔父や、それぞれの何周忌かの親戚の集合写真。ちょうど仏壇の上ぐらいに、父の新しい遺影がかかっている。

    誰ともなく、この写真、東京へ持っていかないのと言う。叔母がお兄さん、何か寂しそうに見えて。

    しばらく、皆黙った。

    ぼくは、この部屋に、置いておいた方がいいと思う。父親はこの家を本当に好きだった。この場所にこの写真は置いておくべきだ。

    ぼくは遺影を小さい写真に印刷したものや、父の机の中に雑然と置いてあったスナップ写真を何枚もかばんの中に入れていた。

    元病院勤務の叔父が、そうだな、その方がいいかも知れないと言った。

    今でも、僕の実家の祖母の部屋には、父の遺影を囲んで家族の写真が何枚もかかっている。それは、ぼくの中で、団欒という暖かい記憶につながっている。

    “彼らを記憶する家の視線”という言葉にそんなことを感じていた

  • 最後の「死という無」は、宿題。
    自分の宿題。

  • 解説 新宮一成

  • 日常の片隅で感じる違和感やひっかかり。この感覚がたとえちっぽけであっても、大切なものなんだと教えてくれたこと。この感覚の正体をつかむ手がかりをくれたこと。この二点において、この本はわたしにとってとても貴重です。

  • 何度読んだかわかりませんね、これも。特に「閉じない円環」が好きです。小津を見始めたので、小津について触れられている保坂さんの作品をちょっと読んでみようかと思ったんです、今回は。保坂さんの「そうみえた『秋刀魚の味』」を読んだのみの僕の中の笠智衆のイメージはもっともっとふてぶてしいおっさんだったんですけど、実際に小津作品で見た笠智衆は全然違いましたね。というか、寅さんとかにも出てましたよね、笠智衆。あー、あの人だったのかと思った。(06/4/29)

  • 未読

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著者プロフィール

1956年、山梨県に生まれる。小説家。早稲田大学政経学部卒業。1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の閾(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、2018年『ハレルヤ』所収の「こことよそ」で川端康成文学賞を受賞。主な著書に、『生きる歓び』『カンバセイション・ピース』『書きあぐねている人のための小説入門』『小説の自由』『小説の誕生』ほか。

「2022年 『DEATHか裸(ら)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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