日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫)

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著者 : 井上光貞
  • 中央公論新社 (2005年6月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (593ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122045477

日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 内容的には古いけど,日本古代史を学ぶ姿勢が勉強できる。神話の処理の仕方も,一周回って現在を先取りしていると思う。でもあとがきはダメ。他の巻と違って内容の古さを補うようなものになっていない。

    (使えそうなところ)※古い本だから現在では誤りとされる説もおそらく含まれている。
    ◆更新世(洪積世)はヨーロッパでは氷河によって特色づけられているが,日本では富士山など多くの火山が活発に活動していたため,「赤土の堆積した時代」であった。関東では「関東ローム層」とよばれる土層で,完新世(沖積世)に堆積した黒土とは明らかに異なる。かつて,火山活動が活発な当時において人間が生活することは難しいとして,新石器時代に属する縄文時代以前には日本に人類は存在しないというのが定説であった。しかし,1947年に相沢忠洋氏が微小な石辺を群馬県岩宿の関東ローム層から発見,石器であると判明し,日本にも縄文以前の生活があったことが判明した。現在では日本各地で旧石器時代の痕跡が見つかっているが,それらの石器はハンドアックス→ブレイド→ポイント→マイクロリス(細石器)の順に発達していると考えられる。(p126~139)

    ◆かつては日本最古の文化であると考えられていた縄文文化は,1877年に巻貝の研究をしにやってきたアメリカの動物学者モースによって発見された。彼は汽車の窓から偶然,東京都品川にある大森貝塚を見つけ出し,発掘作業に乗り出した。江戸時代にはしばしば天狗や雷などと結びつけて考えられていた貝塚はしだいに脚光を浴びるようになり,これが日本における考古学の始まりとあった(なお,奈良時代の人間は昔に生きていた巨人の生活の残滓と考えており,江戸時代の人間よりも意外に的を得ていた。巨人のしわざと考えられたのは,縄文早期には海進がさかんで,現在よりも海岸線がずっと内陸に食い込んでいたから)。縄文時代は氷河時代以後,他文明の基準では新石器時代にあたる。世界の諸文明とは異なり,日本では磨製石器の発明と農耕が結びついていないが,代わりに縄文文化は世界最古の土器とも言われる縄文土器によって特徴づけられる(このことが分かったのも第二次世界大戦後のことで,放射性炭素年代測定法による発見であった)。考古学者はこの土器を用いた型式編年を細かに行ってきた。はたからみるとつまらないようなことをしているように見えるが,それはじつは「考古学の物差」というもっとも基礎的な仕事にしたがっているのである。(p143~156)

    ◆竪穴式住居とそこから見つかった人骨のようす,そこから導き出せる縄文早期の生活の貧しさ,そこからの成長を描いたp156~p166はそのまま使える。メソポタミアにおいて農耕文化を準備したナツメヤシにあたるのが日本ではクリやクルミなどの木の実だった。渡来人の刺激で成立した弥生文化を受容するだけの力を縄文人は持っていたと考えられる。

    ◆モースが大森貝塚を発見してから7年後に新種の土器が発見され,その地名から弥生土器と命名された。この土器に代表される弥生文化は縄文文化と異なり完全な農耕(現在では田植えを行っていたことが証明済み)を特徴とする文化であった。この時代には金属器がもたらされるが,成熟した金属文化が朝鮮半島経由で急速に流入したため,日本には青銅器と鉄器がほぼ同時期に流入した。弥生前期に生み出された石包丁も,弥生後期にはすでに鉄製のカマにとってかわられている。また,弥生前~中期の奈良県唐古・鍵遺跡の唐古池からは大量の木製農具が出土しているが,このような木製道具で耕せるのは湿田に限られているため,弥生後期には鉄製農具に代えられている。「弥生式農業集落は,はじめは低湿地をえらんでいたのだが,中期以後の生活圏は,住みにくいじめじめした湿潤地をさけて,塀や周辺の丘陵地帯や,山をこえ,河をさかのぼった山間地帯にも進出する。これは,稲の品種にも関係のあることで,冷涼地にも適する早生の稲の品種を経験によってえらびだし,これまでに稔熟の不能だった新しい土地へ生活圏をひろげていくことができたためだ」。第二次大戦直前期の唐古池の発掘から弥生式集落の発掘が急速に進んだが,その中にはこの時代を代表するもうひとつの遺跡,静岡県の登呂遺跡も含まれる。登呂の遺跡は比較的後期の集落だったから,石器はほとんどなくなり,鉄製の道具を使っている。鉄製の木工具の普及により,農耕具だけでなく容器も木でつくるようになったから,土器は少なくなっている。貯蔵庫も個人が所有するような(かつてドングリなどを詰めていた)壺ではなく,集団管理による高床式倉庫に収納するようになった形跡が見られる。(p167~191)

    ◆原始ゲルマン人の小勢力分立状態の社会や政治のようすがはじめて文字に記録されたのはゲルマン人自身の手によるものではなかった。これと同じことが日本人の歴史にもいえる。史上はじめて文字による日本の記録は,中国がのこした「『漢書』地理志」によるものであった。その後も残る弥生時代の記録としては,「『後漢書』東夷伝」による①57年における倭奴国王の印綬に関する記述,②107年における倭国王帥升らによる遣使とその後の大乱に関する記述と,「『魏志』倭人伝」による③239年における邪馬台国の記述のみ。このうち①や②については,古くから日本は統一されていたという思い込みから「倭奴国=日本」「倭国=日本」とするのが通説であったが,本居宣長のころから批判的に検証されるようになり,現在では北九州の郡程度の大きさの小さな国であったことが分かっている。また,②で国王帥升「ら」が生口(奴隷)を160人も献上しているのは(卑弥呼であっても記録上は10人),倭国王帥升が国家連合体の長であったことを示唆しており,①から②にかけてわずか50年足らずで指導的国家が入れ替わっていること,つまり当時の政治的変動の激しさを物語っている。おそらく後漢と楽浪郡の衰退(のちに南方は帯方郡として分離してしまう)に連動して生じたこのような政治的混乱が,③に登場する邪馬台国の台頭を準備したと考えられる。(p192~218)

    ◆弥生後期(3cごろ)の日本人の社会状態は,約二千字にわたって書かれた「『魏志』倭人伝」に細かく記されている。シャーマン的なカリスマ性により異常な分裂状態に陥った北九州を何とかまとめていた卑弥呼は,歴代の王たちと同様に中国王朝の庇護を求めて遣いをおくったと考えられるが,当時の中国北部を支配していた魏はこれを歓迎したと言われている。それは称号にも表れており,光武帝が送った「漢委奴国王」の号と異なり,「親魏倭王」の号には中国皇帝の臣下であるという意味合いが込められている。当時朝鮮半島では原住民の連合が進んでおり,馬韓(のちの百済)・辰韓(のちの新羅)・弁韓(分裂したまま伽耶諸国に)が起こって,朝鮮経営が困難となっていたことが背景にあったと考えられる。
    ◆倭人伝による邪馬台国のようすはどのようなものであるか。①「禾稲を植う」(水稲稲作はゆきわたっていた),②「温暖で冬も夏も野菜を食べる」(具体的にはわからないが,おそらくウリ類などを栽培して食べていた)③「喪に服するときは肉食を避けた」,④「その地には牛馬虎豹羊鵲無し」(大げさだが牛肉など食べていなかったことは間違いない,ブタは飼育していた地域もあるらしいが他地域で重要であった馬の軍事使用はこの時点で行われていない,銅剣などとともに伝わった車の部品も弥生時代には利用されていない),⑤「籩豆(高杯)を用い,手食す」,⑥「薑・橘・椒・襄荷が自生しているのに食事に用いることを知らない」,⑦「人性,酒たしなむ」,⑧「桑を植え,蚕をかい,絹をつむぎ,真綿を産する」(弥生式遺跡からは鯨の骨で作った紡錘車などが見つかっており,壱与が中国に送った貢物の中にも含まれている),⑨「男子も女子もはだし」「(男子は)みな髪を結っているが,冠や帽子は用いず,頭をしばっている」「(女子は)単被で布の中央に穴をあけてそこから頭をだして着る」「(女子は)髪を編むことなく,うしろへ垂らし,その末を頭の頂きでかがみつらねる」,⑩「屋室があり,父母兄弟は寝床を異にしている」,⑪「吉凶を知るために骨を灼いて占う」(いわゆる太占の法。中国へ向けた航海のときも一種のマジシャンが同行して航海の成否を担い,成功したら褒美を与えられたが失敗したときは殺された),⑫「棺はあっても槨はない」(北九州ではおそらく南朝鮮文化の影響もあって甕棺墓や支石墓が行われていたが,棺を保護する施設まではまだなかったものと推定される),⑬「地面に土を盛って冢をつくる」(古墳ではなく墳丘レベルのものと推定されるがわからない),⑭「十余日のあいだ喪に服し,肉も食わず,喪主は大声をあげて泣く」が,「その他の人びとは,歌い舞い,酒を飲む」⑮「喪の期間がすむと,人びとは一家をあげて水辺にゆき,ちょうど中国の練沐の儀のように,水にひたって沐浴した」(南方のアジアによくみられる禊の一種),⑯「大人がまず(祭祀の対象に)敬礼すると,下戸たちは跪いて礼拝をせず,直立したまま手をうってこれにならい」,また「下戸が大人と道路で行きあうと,下戸はおそるおそる草むらに入ってしまう。何か言葉をかけるときは,うずくまったり,跪いたりしながら,うやうやしく両手を手につけ,返事をするときは『あい』というが,これは,かしこまりました,ということらしい」,⑰「大人は皆四,五婦。下戸もあるいは二,三婦。夫人は淫せず,妬忌せず」。この他にも,作者の陳寿によってカットされた記述にも重要なものがある。例:「まだ暦を知らず,春の耕耘と秋のとり入れの時を記して,一年一年を数えている」。また,作者はおそらく邪馬台国を実際よりもずっと南方の国と想定しており,「日本人は誰もが刺青をしている」などという記述もそれが原因と考えられている。⑨や⑰などもすこし怪しい。これほど詳細な記述が残されているにも関わらず,古代の文献資料はしばしば年号は把握できても場所が特定できないことが多く,邪馬台国の位置も確定していないのが実情である。(p218~272)

    ◆記紀にみられる初代天皇神武の東征と大和平定の物語は津田左右吉によって批判的に分析され,現在では神話の一部として扱われている。しかし,皇室の発祥地を九州とする説は否定されておらず,邪馬台国東遷説と絡めて説明されることもある。たとえば九州地方で祀られた青銅器は銅戈・銅矛であり,これは三種の神器のひとつに数えられている。一方,近畿で祀られた銅鐸はしばしば山奥で打ち捨てられたように出土されるので,これは九州勢力によって近畿の諸勢力が打倒・吸収された証拠ではないかというのである。また,古墳も北九州の埋葬文化(支石墓・甕棺墓)を起源とするのではないかという説もある。

    ◆筆者は,崇神・垂仁・景行の三帝は史実性のほとんどない神武~開化天皇の九代と,同じく史実性のない成務・仲哀の二代の間にはさまれている(その後にくる応神天皇は実在)が,非実在と言い切ることはできないとしている。11人の天皇に実在性がないとされる理由として,①名前が後世風で記紀の成立時期につくられたことが伺えるため,②この部分だけ父子直系の継承となっているため,③これらの天皇が葬られているはずの古墳が単なる丘であるため,など。成務・仲哀の二代は,おそらくヤマトタケルと神功皇后の伝説を挿入するために創作された天皇ではないかとしている。(p273~319)

    ◆3世紀末~4世紀末はしばしば「謎の世紀」と言われる。中国の混乱期に重なり,文献資料が残されなかったことが一因として挙げられる。そのため再び考古学的な視点に立って,古墳に注目する。古墳は,一般の人びとのささやかなくらしだけでなく,謎につつまれた大和政権の起源や国土の統一と結びついているため重要である。西日本で画一的な特徴(竪穴式石室やその簡素版と考えられる粘土槨,副葬品)を持つ巨大な前方後円墳が出現したことは,一般的には大和政権の優位性と大和からの文化波及を示しているとされる。古墳のかたちは各地域の族長の好みを表すのではなく,身分差によって大和政権から規定されたのだと考える学者もいる。副葬品に注目すると,前期の古墳に必ず副葬されているものとして銅鏡を挙げることができる。銅鏡は,弥生時代には全く見られない三角縁神獣鏡の他に,明らかに漢代の制作とみられるものも交じっているが,これは鏡を権力者のシンボルとして受け継ぐ習慣の終わりを示しており,さらに三角縁神獣鏡が実は魏から邪馬台国が受け取ったもので,卑弥呼から周辺勢力へと分与されたものだと考える説もある。銅鏡の他に前期古墳で見つかる副葬品としては,釧とよばれる貝からつくった腕輪や,玉類を挙げることができるが,このようなグロテスクな腕輪やネックレスや鏡を見につけた首長の姿を想像すると,ほとんど弥生時代と変わりないように思えるかもしれない。しかし,鉄製の鏃やのこぎり等の工具・農具,つまり武器類の数が飛躍的に増加している(弥生時代にも青銅製の武器が副葬されていたが,それはあくまで装飾的なものであったし,せいぜい首長1人分程度だった)ことから,古墳時代前期にはすでに首長の性格が神官的というより武人的なものに移行しつつあったことがわかる。この傾向は中期古墳から後期古墳にかけてさらに強まっていく。

    ◆草薙の剣と共に熊襲や蝦夷を征服したとされるヤマトタケルの物語と,神功皇后による新羅討伐の物語は,共に史実にもとづくものではなく創作である。しかし,この時期に大和政権の勢力が拡大したことは確かであるし,また朝鮮に対する出兵を行っていることも朝鮮側の史料により明らかである(ただし,当時行われたのは新羅討伐でなくどちらかといえば弁韓地方をめぐる争いで,主要な敵は高句麗だった。おそらく物語がつくられた時代の情勢を反映しており,斉明天皇がモデル)。4世紀は魏晋南北朝時代の中でも特に北方遊牧民が多数流入した混乱期であり,これに乗じて馬韓・辰韓ではそれぞれ百済・新羅が統一を果たし,弁韓地方の伽耶諸国に圧力をかけた。このころ北九州まで勢力圏を広げていた大和政権にとって,朝鮮半島でこのような情勢が関心を呼び起こしたことは確実である。そこで日済同盟が結ばれ,百済は他二国に対する優位を,日本は朝鮮半島への足掛かりと鉄資源の再確保に乗り出した。しかし,高句麗の広開土王(好太王)の石碑によれば,彼の騎馬隊は再三にわたって襲来してくる日本軍をことごどく撃退している(おそらくこの経験によって日本でも馬の軍事利用が始まった)。以上のような朝鮮への出兵は,北方の強国高句麗と戦いを交えるというような未体験の出来事を引きおこし,またより早く中国からの文明を取り入れていた百済からの刺激を受けることにつながった。おそらく国土統一と朝鮮出兵は相互補完的な関係にある出来事であった。この時期の朝鮮半島との交流については,「海の正倉院」といわれる沖の島などの研究により,この本が執筆された時期よりも飛躍的に理解が進んでいるものと思われる。

    ◆中国の混乱,さらにそれが招いた朝鮮半島の三国時代と日本の出兵という激動期が過ぎると,しだいに東アジア諸国は中国王朝との間に再び関係を結びはじめた。広開土王の一撃を受けてから10年目の413年,日本は邪馬台国の女王壱与が266年に遣使して以来,150年にわたって途絶えていた中国との通交を再開し,以後5世紀のあいだ7年に一回程度のハイペースで交流がもたれた。その模様は南朝の史書,特に「『宋書』倭国伝」に記されており,この期間に朝貢した倭国の王は讃・珍・済・興・武の「倭の五王」の名で知られている。これらの指導者の名が中国風の漢字一字となっているのは,中国側が勝手にやったことではなく,大和政権が高句麗や百済の例にならったためであるが,そのためどの天皇がどの五王に相当するのかということが現在でも議論の対象となっている。済が允恭,興が安康,武が雄略天皇であることは確実だが,それ以前の二王については応神~反正のいずれをあてるかは確定していない。ただ,いずれにしても応神天皇以降の物語は神話的ではなく,宮廷内の争いや恋愛,狩猟,饗宴などの挿話的な伝承ばかりとなる(このような断絶はそのまま「万世一系」の反証にもなりうる)ので,応神天皇は確実に実在が確かめられる最初の天皇ということになる。彼はおそらく4世紀末の人で,したがって葛城氏によって支えられながら国土の統一をはかり,朝鮮出兵の一部には関与していたことが想定できる。応神天皇の古墳は,次の仁徳天皇陵には及ばないものの非常に大規模なもので,大量の鉄器が埋納されている。これはおそらく南朝鮮との交流によって大量の鉄資源が流入したことを示している。したがって,5世紀は4世紀にもまして激しい戦闘の時代であり,それは古墳周辺に並べられていたとされる(おそらく殉死の風習を起源とする)形象埴輪がことごとく武人の特徴を示していることからもわかる。応神・仁徳以後の古墳からは鏡や玉への異常なあこがれが弱まり,腕輪類もほとんどなくなっている代わりに,鉄の甲や冑,それまでよりもずっと長い剣,また金や銀の装飾品が増えている。特に形象埴輪が発達した関東を中心に,人間や馬などの他にもさまざまな形の埴輪がつくられており,当時の生活をそのまま伝えている資料も少なくない。たとえば,家形の埴輪を見ると平屋式の建物が一般化していることが読み取れるが,縄文時代以後ながいあいだ床につくられていた炉にかわって竈を壁のきわにそなえつけるようになっていたことがわかり,たいへんな文化の進歩をうかがわせる。埴輪の列は葬列を表現していることが多いが,有名な踊る埴輪は,おそらく「喪主哭泣し,他人ついて歌舞飲酒す」の風習のなごりである。他にも無心に眠る子供をおぶった女の埴輪や,頭に壺を乗せた女(死者に食物を運ぶ下女?)の埴輪などもあり,埴輪の素朴な表現は当時の人びとのさまざまな生活の瞬間をカメラのようにとらえている。(p413~440)

    ◆応神天皇以降の5世紀の日本では積極的に大陸文化が吸収されたことは間違いない。その中で最も重要なものは文字である(応神以前の文字記録はひとつもない)。7世紀の日本を描いた中国側の記録によれば「文字無し,ただ木を刻み,縄を結ぶのみなり」(最近まで沖縄ではおこなわれていた)とあるが,5世紀の段階で大和朝廷は立派な漢文を用いていたことは478年の倭王武の上表文からも明らかである。複雑化した政府の仕事を処理するため,こうした文章の担い手(史)となったのは(楽浪郡を起源とすることの多い)渡来人である。最も有名な渡来人のひとり和仁は『論語』をもたらしたことで知られ,西文首(かわちのふみのおびと)の起源とされる。渡来人により導入されたのは文字だけではない。西文首と対照的に取り上げられる東漢直(やまとのあやのあたえ)の祖阿知使主(あちのおみ)は手工業者を百済から引き寄せる役割を果たしており,また弓月君に始まる秦造(はたのみやつこ)もその名のとおり機織りの技術で知られ,機織りの部を管理する伴造(とものみやつこ)として任命されている(その本拠地は京都の太秦)。また,土器についても大陸の製造法が伝わり,轆轤を使った灰色の上質の須恵器が大量につくられるようになった。須恵・陶・末などの地名があるところはおそらく須恵器の窯があった(弥生式のつくり方も残り,祭祀などの場面で用いられたが,それは土師器といわれる)。墓制においても,追加埋葬を可能とする横穴式墓室と,その結果生じた装飾古墳は,大陸文化の影響であると共に,日本人の死生観の変化を示していると考えられる。渡来人系は平安時代初期の段階で,氏(特権グループ)全体の約30%を占めていたとされる。古墳時代の末期にはたくさんの群集墓があらわれてくるが,それは渡来人のもたらした窯業・塩業・機織などの技術により,地方勢力と交通経済が活性化したこととも関係があるだろう。(~p462)

    ◆応神・仁徳の巨大な帝陵は大和政権の強大化を物語っているが,一方で允恭天皇のあたりから宮廷内部の勢力争いが激化し,衰退のきざしが見えることがわかる。おそらく葛城氏との反目が原因であり,共倒れのようにして双方がその力を失っていった。雄略天皇の時代につくられた華々しい上表文は,おそらく過ぎ去った過去の栄光を記したものである。交通の要衝をおさえた吉備国造による巨大な古墳の建造や,記録に残る武烈天皇の数々の奇行は,そうした応神王朝の衰退を象徴しているといえる。5世紀末期には葛城氏に代わって平郡氏が台頭し,専制的権力を握るようになったが,以後の歴史に大きく役割を果たすようになったのは,大伴・物部という二つの軍事的伴造の家柄の氏族であった(記紀にはよく登場するので古い家柄のように思われるが,実際には制作期にたまたま力を持っていたというだけ)。応神王朝の最末期に大伴・物部が台頭してきた事実は,歴史の変わり目を示している。葛城・平郡などの諸氏族は大和の地名を氏の名としていることからもわかるように古くから政権につかえる大和の地方豪族であったが,それに対し大伴・物部は一定の職業を世襲する伴造の身分であり,そのなかの軍事的指導官の役割をになう伴造であった。本来ならば大和の豪族よりも身分が低いはずの伴造が台頭し,執政官の役割(大連)をになうようになった背景には,何よりも軍事を優先する時代の流れがあり,これは皇室や大和の豪族がいずれもリーダーシップを欠いて軍事指導者としての資格を失いつつあったことの表れではないかと考えられている。こうして東北北部の一部を除いておおむね日本全国を統一した応神王朝は衰退していった。(~p484)

    ◆応神王朝末期の支配体制の破綻は,磐井の乱によって明らかとなる。おそらく一度断絶した皇室の血筋は大伴金村に迎えられた越前出身の継体天皇によって引き継がれ(だから前の武烈天皇は暴君として描かれている?)たが,この時期に朝鮮経営は決定的にデッドロックに乗り上げてしまった。大伴金村の判断により,任那の領域の一部を百済に引き渡すと,百済の利益を優先しているとして任那が反発をおこすようになり,さらにこうした混乱のさなかにこれまで存在感の薄かった新羅が力をたくわえ百済と競うまでに成長してきた。権威を低下させた大和政権はこうした状況を憂い,新羅を攻撃するために軍を派遣したが,逆に新羅は筑紫国造磐井に反逆の心があることを狙って磐井を味方につけ,派遣軍の足止めをはかった(当時の感覚では越前出身の勢力が中央の座についたのだから北九州の勢力がこれを簒奪しても不思議ではない)。大和政権は物部氏の下で二年にわたってこの磐井の乱を鎮圧し,任那まで軍隊を派遣することに成功したが,そこで司令官が残酷な盟神探湯を強行するなど専制的な態度をとったため,現地人の受けは悪く,朝鮮経営はますます悪化の一途をたどった。磐井の墓と伝えられる古墳には巨大な石人・石馬がそなえられている。これらは阿蘇山の噴火によるやわらかい凝灰岩を加工したもので,北九州独自の文化であるが,大陸文化の影響を受けてつくられた可能性があり,東方の埴輪文化に対するカウンターの表現であったかもしれない。また石人には多くの欠損が見られるが,これは風土記にあるように,生前から墓の建設にあたっていた磐井の反乱に応じた際,怒った官軍が墓の破壊におよんだ跡かもしれない。磐井の乱ののち,全国的に屯倉とよばれる政権直轄の支配地が全国の要所要所に成立し,古代専制的な国家の形成が進んだ。この時期になると小古墳が爆発的に増加し(群集墳),現在日本にのこる90%以上の古墳がこの時期に制作されたこともこれに関連しているだろう。これは先に述べた経済成長によってそれまで古墳の造営など考えられなかった有力農民層の台頭と,彼らを直接支配下におこうとした大和政権の試みを示している。しかし,上記のとおり朝鮮経営は見事に失敗し,その翌年に継体天皇は世を去っている。この責任を取るかたちで,大伴氏は没落の一途をたどり,代わって蘇我氏が台頭することになる。(~p509)

    ◆蘇我氏におされて即位した欽明天皇の時代に朝鮮経営はますます悪化し,ついに6世紀半ばには新羅が任那諸国を次々にほろぼして,3世紀にわたる日本の任那経営は終焉を迎えた。朝鮮経営の失敗により大伴金村が失脚し,代わって蘇我稲目と物部尾輿が政治の中心となった。蘇我氏は葛城氏の同族であり,軍事司令官としての大伴氏とはうってかわって開明的な性質の一族であった。彼らはおそらく将軍ではなく朝廷の財政機構を監督するものとして台頭し,朝鮮との貿易など経済的側面に関心を持っていた。蘇我氏が保護したとされる仏教の伝来も,この継体-欽明朝の時期と重なっている(火葬の風習が6世紀ごろの古墳には見られることから,民間ではさらに早い段階で伝来していた可能性はある。大陸文化にこがれていたであろう渡来人の間ではさらに広まりやすかったと考えられ,たとえば鞍作部の血筋に属する鞍作止利(鳥)は仏像制作で名高い)。(~p559)

  • 一般向けの通史シリーズである中央公論社の「日本の歴史」の第1巻ですが、記紀神話と考古学における戦後歴史学の成果を紹介しながら、古代日本の真実に迫ろうとしています。

    記紀神話の解釈については、津田左右吉の文献学的・批判的研究や、大林太良の神話学的研究などを参照し、さまざまな角度から、歴史とそれを記録する人間の営みについて、比較的詳しい検討がおこなわれています。また考古学的観点についても、井尻正二や森浩一らの研究成果を紹介しながら、戦後の歴史研究の新しい息吹を読者に伝える内容になっています。

    邪馬台国論争や江上波夫の騎馬民族説をめぐる論争などにも立ち入り、それぞれの立場から寄せられた議論を比較検討しているところなど、一般向けの通史としてはやや踏み込んだ内容になっていますが、著者の議論の運び方は懇切で、分かりやすいと感じました。

  • 謎に満ちた日本民族の生成を神話学・歴史学・考古学の最新の成果によって解明、神話の中の真実を探り、女王卑弥呼を語り、日本の歴史の夜明けを描く。

  • 50年前の本だけど、大きな流れを捉えるには良い本じゃないかと思う。

  • 神話の部分を読みたかったので、神話以外の時代は流し読みした程度だが、文献学的、考古学的、その他膨大な学問的な知識と批判精神で物事を分析していて圧倒される。歴代天皇が神話なのか実在なのか等、興味深い話が多い。

  • わたしは、今日本に留学しています、日本の歴史や、文化や、習慣を了解のは、必要です、それは、日本でよく生活できるに役立つと思います。

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第二次大戦後、画期的な進歩を示した歴史学と発掘成果いちじるしい考古学とは、古事記・日本書紀の世界に、まったく新しい光を投げかけた。これら諸学を総合的に協力させることにより、従来の歴史書には見られない鮮明さで、古代日本はその姿を現すこととなった。巻末に森浩一「四十年のちのあとがき」を付す。

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