日本の歴史 18 改版 (中公文庫 S 2-18)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (595ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122046382

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  • 中央公論の歴史本第18巻。時代は江戸中期。時の将軍は徳川家斉。老中は田沼意次~松平定信~水野忠邦。田沼失脚後の松平定信の質素倹約を柱とする寛政の改革、家斉の大御所時代を経て、水野忠邦の天保の改革へと時代は進む。その間、天明の大飢饉などの飢饉があり、打ちこわしや一揆も多発した。為政者たちは何とか農村の荒廃を防ぎ、米や物価の高騰を抑えるために通貨における金の含有量を変えたり、株仲間を奨励or解散させたり、飢饉に備えて各地で米を蓄えさせたりと様々な方策を試みるが、それらの改革は吉宗の享保の改革ほどには効果が出なかったようである。定信失脚後には質素倹約の揺れ戻しか、家斉によってふたたび大奥などの華美な浪費があり、町人も”いき”をてらって文化が花開き「江戸っ子」という言葉も生まれる。そして近海にはロシアやイギリスの船が現れ、辺境の地を探検する者たちも活躍した。詳細→
    https://takeshi3017.chu.jp/file9/naiyou33201.html

  • 天明の大飢饉、松平定信の登場、足の裏までかきさがす、農村復興、米価調節と御用金、諸国国産品、海防と探検、もとの田沼に、博徒と八州廻り、三都の町人、大御所の生活、大江戸の文化、国学と洋学、草莽の文化、天保改革の前夜、士農工商おののくばかり、上知令と軍事改革、雄藩の擡頭、

    【気の毒過ぎる渡辺崋山】
    渡辺崋山(1793~1841)は時勢に遅れた鎖国体制の固守はかえって外国の侵略を招くと警鐘を鳴らし、幕府に睨まれるも、師である松崎慊堂(こうどう,1771~1844)の涙ぐましい救済運動により、死罪を免れ永蟄居の宣告を受けた。

    が…。

    天保11(1840)年正月20日に郷里の田原(愛知県)についた崋山は、久しぶりに老母や妻子に会ってくつろいだが、その後の塾居生活は悲惨の一語に尽きる。
    外出も不自由な上、五人扶持のあてがいではとても家族5人の口は糊(のり)せないので、崋山は畑をつくり、母・妻は綿くり・麻績(おう)みの内職に追われた。
    見かねた江戸の弟子たちから毎月2分ずつ送られてきたのが、家計の補いとしていくらか役立った。
    しかし貧乏に強い崋山はあまり屈託せず、師の慊堂の教えを守ってゆうゆうと晴耕雨読の毎日を送った。

    ところが、江戸の門人が崋山一家の窮乏を救うために開いてくれた書画会に、崋山が出品した事が蟄居をはばからぬ不謹慎な行為として藩の保守派に問題にされ、このままだと君侯にもお各めがあろうという噂までたてられた。
    その噂を耳にした崋山は遂に自刃を決意。
    忠義一徹の崋山は、自分の行動が重ね重ね主君に迷惑をかける事に我慢ができなかった。
    崋山は墓標の代わりに、

    「不忠不孝渡辺登」

    と大書し、子供には、

    「飢死るとも二君に仕ふ可からず云々」

    の遺書を残して見事に切腹した。
    天保12(1841)年10月11日、49歳の厄年だった。

    椿椿山にあてた遺書の末段には、

    「数年の後、一変も候はば悲しむべき人もこれ有るべきや」

    とあった。
    洋学者の社会的良心と、武士として守るべき忠孝の道とを両立させようと苦闘して遂に敗れた崋山は、時代の変革を死後まもない時期に期待して、この世を去った。

  • 改革の情熱に燃えた松平定信が退いたのち、将軍家斉は大奥に退廃と爛熟の生活を送り、町人は”いき”をてらう。折しも近海に出没する異国船は目を辺境に向けさせ、伊能忠敬・近藤重蔵・間宮林蔵らの活躍を生むが、先覚者はまだ変革の夢を次代に託さねばならなかった。

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