光ってみえるもの、あれは (中公文庫 か 57-4)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (362ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122047594

感想・レビュー・書評

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  • 『ね、今日はどうだった。
    たいがい毎日、母は聞く。
    うん、ふつう。
    というのが、僕の返事だ』。

    人は他者とコミュニケーションを取る手段の一つとして、その他者の感じたこと、思ったこと、そんな心の内を本人に問いかけることがあります。と言ってもこれは難しいことを言っているわけではありません。美味しいものを食べに一緒にレストランへと行った時、感動を味わうために一緒に映画を見に行った時、そして非日常を求めて一緒に旅に出かけた時、『どうだった』と、相手の感情を確かめたくなるのは自然な感情だと思います。そんな時にその相手が『うん、ふつう』と答えたとしたらどうでしょうか?えっ、楽しくなかったの?面白くなかったの?と、相手が喜びの感情を見せなかったことを憂う状況が生まれてしまいます。そして、それが一度だけのことではないとしたら、あなたはそんな相手との関係を深めることの難しさを感じるかもしれません。

    では、それがもっと身近なところで起こったとしたらどうでしょうか?大切に育ててきた息子が『小学校に入学した』という翌日、そんな子供がどんな風に学校生活をスタートさせたのか、それを聞きたいと思うのは母親として当たり前の感情です。そんな時、『どうだった』と、期待を込めて訊く母親に『うん、ふつう』と子供が答えたとしたら、そこに『普通ってことはないでしょ、なにかしら、あったでしょ』と母親が畳み掛けて訊き返すのは当たり前のことだとも思います。

    さて、ここにそんな風になんでも『「ふつう」としか、なべてのものごとを感じない僕』が主人公となる物語があります。『祖母と母との喧嘩は、派手だ』という二人と共に一つ屋根の下に暮らす主人公の『僕』。この作品は、そんな『僕』が『ふつう』と考える日常を、周囲の少し不思議な人たちと過ごしていく物語。それは『一緒に、行ってみないか、小値賀島に』と誘う友人と共に訪れた島での体験を通じて、大人への階段を登っていく一人の少年の成長を見る物語です。
    
    『ね、今日はどうだった』と母親に訊かれると『うん。ふつう』と決まって答えるというのは主人公の僕・江戸翠(えど みどり)。そんな翠は『それ以外の返事(最悪、だの、最高、だの)をしなければならない時には』、『母とできるだけ顔を合わせないように』しています。『フリーライター』の母親は『ふつう、という答え』をする僕を嫌っていると思う翠。そんな母親は『一回も結婚をしたことがな』く、『結婚しないで、僕を生』みました。『江戸家には、どうやら「おとうさん」という存在が欠けているらしい』と、『幼いながらに薄々知っていた』という翠。そんな翠を含む家族のために『未婚で僕を生んだ母は、僕を生む少し前まで祖母・母二人ぶんの食い扶持』を稼ぎ、僕が生まれてからは『祖母・母・僕の、三人ぶんの食い扶持』を稼ぐために『猛然と働』きました。そして、翠は『祖母に育てられ』たこともあって、『祖母のことを「おかあさん」と呼んで』いました。そんな祖母は自分のことを『匡子さんと呼びなさい。マ、サ、コ、さん』と翠に命じます。『愛子が、翠くんのおかあさんです』という祖母。そんな祖母の指示に納得できない翠に『何回か、言いましたよ、アタシは』と言う祖母。そんな祖母に『翠くんがぼんやり者なだけですよ』と言われ『たしかに僕はぼんやり者なのかもしれ』ないと思う翠。そんな翠の家族、『江戸家の構成要員は、祖母・匡子さん、母・愛子さん、それに僕・翠の三人』で、『僕が生まれた日から今日まで、顔ぶれはいっさい変化してい』ません。一方で、そんな江戸家にしばしばやってくる人物がいました。それが翠にとって『遺伝子上の父親である(らしい)』『大島康郎、四十二歳、フリーアルバイター』でした。『母と大鳥さんとはその昔恋愛関係にあった』ものの、現在は『ただの知り合い』という二人。しかし、家に『上がりこんでしばらくすると、最初からこの家にいた人みたいになる』という大島。一方でそんな翠は学校で、平山水絵と花田と親しくしています。『三回試みて三回とも見事失敗し』た末に『セックスに成功した』相手である平山水絵。『みっちりとした体躯も、低く響く声も、くりくりとした目玉も、愛嬌に満ちている』という花田。そんな翠を中心とした面々のゆるやかな時間の流れを感じさせる物語が描かれていきます。

    「光ってみえるもの、あれは」と、指示代名詞で終わり、どこか不思議世界を感じさせる書名のこの作品。十二の章から構成されていますが、全体的な印象として捉え所が非常に難しい作品という印象を受けます。一方で主要な登場人物は六人とかなり絞られていますのでこのレビューではそんな登場人物から見ていきたいと思います。

    ・江戸翠: 視点の主であり主人公。高校一年生。母親からどんなことの感想を聞かれても『ふつう』と答える。

    ・江戸愛子: 翠の母親。フリーライター。未婚で母親となる。佐藤健太郎と付き合う。

    ・江戸匡子: 翠の祖母。自分をアタシと呼ぶ。愛子と激しく喧嘩をする。

    ・大島康郎: 翠の遺伝子上の父親(らしい)。学校含め色々な所に出没する。五島列島へ赴く。

    ・花田: 翠のクラスメイト。セーラー服を着て登校して物議を醸す。翠と五島列島へ旅に出る。

    ・平山水絵: 翠の彼女。性的関係にある。親に盗み見られるのを嫌い手紙などを常に持ち歩く。

    …という六人の人物が色々な形で結びつきあっていく様が描かれているのがこの作品です。

    そんな物語は大きく前半と後半に分けられます。前半はこれら人物の日常の関わりが描かれます。そんな中で江戸家のほっこりした雰囲気を描いたシーンが『江戸の日』が登場する〈結構な家系〉です。『六月二十日。江戸家が勝手に作った江戸家のためだけの特殊な祝日』というその日には、家族の中で必ずやらなければならないことが決められています。『まずは挨拶』、『おはよう』ではなく『おはようございます』と本格的に挨拶することから始まる一日は、『次に贈答』、『僕と母と祖母』が『それぞれ二つずつのポチ袋を』相手に手渡すという行事へと進みます。そして、『次に、午睡』、『休日ならば三人揃って畳の部屋で昼寝を』、『平日ならば出先で、各人それぞれに、一瞬でもいいから居眠りをする』…と描かれていくなんともゆるさを感じさせるそんな日は翠が『小学校に入学した年から』、翠の『父親参観日』のある出来事がきっかけで始まったという由来があります。『うちにはお父さんってものは存在しません』ということを翠が認識した初めての日というそのきっかけ。この章だけ読むと、祖母、母、そして翠の三人で暮らす家族のあったかくほのぼのとした関係性が見えてきます。

    しかし、そんな物語はそう単純ではありません。それは、この作品の作者が川上弘美さんだからです。そう、物語は一癖、二癖、なんとも引っかかりを感じさせる中に展開していきます。その一つが大島の存在です。翠の遺伝子上の父親(らしい)という微妙な関係性を持つこの男。愛子とは既に恋人関係でもなく、そもそも愛子には佐藤健太郎という恋人がいるにも関わらず、関わりを持ってくる人物、それが大島です。翠の学校にまで突如現れて翠を困惑させる存在。そんな大島が後半に向かってどんどん存在感を増していきます。

    そんな物語は、後半に入って大きく動き始めます。それまでぐるぐると同じところを回り続けていた物語が青空の下へと飛び出す瞬間です。〈不思議なる顔〉から始まるその冒険物語は、『帰ってきた人がいれば、行ってしまった人もいる。大鳥さんである』と、やはり大島が起点を作る『博多からフェリーに乗って五島列島の島に渡ったらしい』という新天地での物語でした。『大鳥さんが島に行った、と聞いて、いちばん関心を示した』花田。そんな花田の『一緒に、行ってみないか、小値賀島に』という誘いに『日本の中でいちばん島の多い県である』という長崎、『花田の親類のいる小値賀島』へと渡る花田と翠。そこには、『東京の、どこまでいってもつきぬけることのない暑く湿った空気の層』ではなく、『空気はもっと自在に動き、風も遠くまで抜ける』という島の世界がありました。そんな島で過ごす少年のひと夏の物語。この島で繰り広げられる二人の少年の冒険譚は、それまでぐるぐると同じところを回って抜け出せないような鬱屈とした物語が嘘のように生き生きとした空気感の中に展開されていきます。そんな中で『どうして僕らは生きてるのかな』とふと口にする翠。それに『知らん』と一言答える花田は翠にとって衝撃的とも言える事実を告げます。『世界じゅうのおおかたのものが、この瞬間、僕は嫌いだった。そしてその中でも、ことに嫌いなのが、僕自身だった』という気分に陥る翠。しかし、それでも冒険は続きます。そんな物語は、まさかの結末へと、島へと訪れたことが翠にとって意味ある形で決着し、幕を下ろします。それは、ひと夏の経験が、『ふつう』に生きる人生から確かな一歩を踏み出した、少年の成長を見る物語だったのだと思いました。

    『江戸家には、どうやら「おとうさん」という存在が欠けているらしいということを、僕は幼いながらに薄々知っていた』という翠。祖母、母、そして僕という三人で暮らす江戸家に育った翠が主人公となる物語は、そこに一つの家族の形を見せてくれました。ありそうでいて、ありえそうもないとも言える家族の物語は、川上弘美さんらしい現実と非日常の境界線を跨ぐなんとも言えない不思議な雰囲気を常に纏いながらふわふわと描かれていました。そんな物語が動き出す少年の冒険譚を描く物語後半を経て少年に一つの変化を見出す物語は、何かにつけて『ふつう』と物事を捉える少年の目に、他とは違うもの、光ってみえるものの存在を意識する感情の先に、大人への一歩を踏み出させたのだと思います。

    「光ってみえるもの、あれは」というこの作品。捉え所の非常に難しい物語の中に川上さんらしい青春の物語、家族の物語をゆるやかに感じさせてくれた、そんな作品でした。

  • 本質を捉えられるようで手からするりと抜けていくような不思議な、川上弘美さん独特の世界観。

    主人公・翠は考えすぎるきらいがあるが、本質は他人へ踏み込んでいない、興味を持っていないように感じる。
    自分だけの狭ーい世界で満足しているような。
    きっとガールフレンドの水江は隣に翠がいても「一人ぼっち」に感じたろうな。

    そんな主人公こそが独りにならないのは、少しずつ普通じゃない周りの人間のお陰かな。そして彼らに大事に愛されているから、彼は彼らしくいられるという事、気がついていると良いな。

  •  のんび〜〜〜りたんたんとしたお話でした。少し、退屈な気もしました‥。
     翠の主観になっているので随分難しいことを考える人なんだなあと思っていましたが、島に渡ってからはなんだか良い意味でぼんやりと、深く考えないかんじがして気持ちよかったです。

    家は蜜蜂と薔薇の花で一ぱいだらう。
    午後から寺の晩課の鐘が聞えよう、
    透明な宝石のやうな色の葡萄は
    ほのかなもの蔭に日を浴びて眠るかに見えよう。
    そこでどんなにわたしがお前を愛するだらう。

  • 16歳の少年が少しづつ大人へと成長していく物語。
    川上さんのこういう淡々とした世界観がなんだか好き。前半はちょっと変わった家族構成だけど普通の高校生の日常と後半は五島列島の島に渡り自分の周りのいろんなことを見つめなおしながら少しづつ大人へと向かっていく翠。
    普通に生きるのって簡単なようで簡単じゃないんだよなぁ。

  • 心の隙間にするりと忍び込んで来て、決して泣かせる場面でも泣ける場面でもない箇所で涙腺が刺激されてしまいました。何故だろう。
    「ふつう」を自認する江戸翠16歳の夏。少し変わった母親と祖母との三人暮らし。遺伝子上の父親はたまにふらりと家にやって来る。小学生の頃からの友人は何故か急に思い立って女装するし、恋人は何故か急に冷却期間をおいてみようと言い出す。ふつうなんだけど、ふつうでない。のらりくらりとしているようで、何もかも受け止めて考えている。自由でありながら不自由。そんな青春の日々。
    各章ごとに詩の一節が挿入されるのも面白いです。詩の持つ凝縮性と開放性が作品世界に合うのでしょうかね。

  • 「"ふつう"って何?」みたいな翠くんの中にうずまいている居心地の悪さに我々が向き合うにはとうに歳をとりすぎていて、だからそのことを語ろうとしても口から出るのは自分というものを世界から切り離して俯瞰のつもりで語る空想にすぎなくなるのだから、それを自覚できているだけいくぶんかましだとおしだまるのが吉。
     川上弘美という作家は私を含めた川上弘美ファン全員にとって自分の生活/思考様式の中で大きな位置を占めてしまう、いうなれば病のようなところがある、だろう。あるだろう。私の周りには何人か、好きな作家を尋ねたときに「川上弘美」と答える人たちがおり、そしてその人たちの書く文章というのは川上弘美のレプリカントであることが、本当に多い。川上弘美の書く文章というのは、かくも読者の中に侵入し、居座り、お茶なんか飲みつつ寝転がり、釜の飯を食い、そうやって、気づけば帰らなくなってしまう。影響下の文章というのはむしろ川上弘美の類稀なる独自性を強めるだけの効果しかなく、平易な言葉を(気づかずに)自分たちにも書けるぞと嬉しくなるそのヤバさ。私だって多分そう。
    一人だけ川上弘美風の文章を書きながらにしてムカつかないというか、同時にその人自身の個性もあるから天才やんけと思う人がいるが、それは稀有な例であって、だから、川上弘美を熱中して読むのは、あやうい。←この「、」打つ感じが罹患のあらわれである。

     以上のように、川上弘美の作品を最高!と思いながら読むのは、最高!と思えば思うほど感想書くに危険な予感が孕むけれども、最高!と思ってしまっている自分を止められない。抵抗の余地をさがすとすれば、小説が描き出している「青春」だとか「ティーンネイジャーの不安定さ」を避けた、あんまり内容に関係ない、読書時間の中での私の心の躍動を書きつけることにしかないか。翠くんと花田くんのモヤモヤというのは対比されていて〜〜みたいなことを書きたくないのだ。書いてあるのも読みたくない。

     とにかく平山水絵!平山水絵!平山水絵!なのである。平山水絵が出てくるたびに、キターーーと思うのである。
     私はここ最近、「デート」っていう営みそのものについてかなり真剣に考えていて、たとえば友人と酒を呑みながら「デートっていいよね」「してみたいよね」「どこへいけばたのしいかな?」「なにをするのかな?」というようなことをダベっているのが楽しい。なんの予定もなくても、相手がいようといまいと、やはり何かについて真剣に考えてみることは楽しい。それがウキウキしたニュアンスのことであるなら尚更。そんな最近の私、いや俺、俺だから、平山水絵が出てくるたびに心のずっと奥の方が躍動をはじめ、ひらたくいえばキュンキュンし、頭の中のデートに唯一ぽっかり空いた空白である"相手"の欄に、その名を代入して愉快な気分なのだ。
     とはいえ、平山水絵は高校一年であるわけで、私が平山水絵とデートしたらそれは限りなく犯罪で、ていうか私は女子高生とデートしたいとは思わなくて、そういう嗜好にも嫌悪感があって、ていうか平山水絵は架空のキャラクターであるので、むしろだからこそこうやって楽しい気分に後ろめたさもなく、夢想のデートに男としての責任感も伴わずにいられるのだ。
    いいな、いいな、私、いや俺、俺も放課後にコンビニで「アイス買ってきたよ、君の苦手なやつ」って言われたい。だけどちゃんと俺の好きなやつ手渡されて「そんな意地悪しないよ」って言われたいよ。
    ずっと忘れないだろうな。相手が忘れちゃっても、俺は絶対忘れないよ。ステンドグラスの部屋で泣くとき、隣にいるよ。一人になりたかったら隣の部屋にいるし。たくさん手紙書くよ。たくさん手紙書いてよ。全部捨てないでとっておくに決まってるだろ。喫茶店で、俺はコーヒーでいい、俺に構わずホットサンドを食べてくれよ。好きな短編小説教えてよ。返す時に「すっごくよかったでしょ」なんて言われたら、屋上で、おれ、泣くよ。
    好きな詩を朗読してくれたら、周りに誰がいても、一緒に暮らそうってその場で言っちゃうかもしれないよ。どうしたらいいんだ。俺たちも朝に見つけた透明な蜘蛛の巣なんだぜ。

  • 「若さ」とは何かを教えてくれる。まぶしいねぇ。「ふつう」っていったいどういうことなのか。自分の普通と他人の普通は決して同じではない。自由でありながら不自由だったりする。このあたりを大人は「あきらめ」と「分別」で対応していくのだけど。
    高校生のころ、分別くさい大人にだけはなりたくなかったもんね。でもあきらめきった老人になっちまったけど。

  • とても瑞々しい16歳の感性がありありと伝わってくる。連作短編と長編の違いは確実にあるが、未だ言語化ができない…

  • まさかの結末。でも、なんだか、羨ましい。

  • なんだかつかみどころのない話ですね。
    本棚に眠っていたので、多分以前にいちど読んだことがあると思うのですが全く記憶にございませんでした。今回再読してみて改めてつかみどころのない話なんだなと思いました。登場人物はそれぞれに魅力的な人たちですが、実際には存在し得ないと思います。

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著者プロフィール

作家。
1958年東京生まれ。1994年「神様」で第1回パスカル短編文学新人賞を受賞しデビュー。この文学賞に応募したパソコン通信仲間に誘われ俳句をつくり始める。句集に『機嫌のいい犬』。小説「蛇を踏む」(芥川賞)『神様』(紫式部文学賞、Bunkamuraドゥマゴ文学賞)『溺レる』(伊藤整文学賞、女流文学賞)『センセイの鞄』(谷崎潤一郎賞)『真鶴』(芸術選奨文部科学大臣賞)『水声』(読売文学賞)『大きな鳥にさらわれないよう』(泉鏡花賞)などのほか著書多数。2019年紫綬褒章を受章。

「2020年 『わたしの好きな季語』 で使われていた紹介文から引用しています。」

川上弘美の作品

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