フランス革命史〈下〉 (中公文庫)

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制作 : Jules Michelet  桑原 武夫  樋口 謹一  多田 道太郎 
  • 中央公論新社 (2006年12月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (487ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122047891

フランス革命史〈下〉 (中公文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 現代の神話。ルイ16世と,ジロンド派と,ロベスピエールの処刑(処刑直前)の場面が個人的にはハイライト。でっちあげ裁判や自らが粛清される恐怖から敵を作り出す心性はロシア革命の展開と全く同じで笑ってしまった。

    (使えそうなところ)
    ◆王政の打倒につづくものは所有権への攻撃である,というのは反革命派のみならず,フイヤン派の繰り返し主張したところだった。もとからの所有者のみならず,新たに土地を所有した者も,これから土地を手に入れようとしている者も,そして彼らの代表,公会の中間派も不安でいっぱいだった。この不安をしずめるのが緊急の必要事だ。「万人が所有者となる」――これが革命の思想であった。(p35)

    ◆ジロンド派は,二度偉大な勇気を示し,二度みずからの思想に生命をささげた。彼らは十八世紀の哲学の子として,その論理を公会の議場に運び込んだ。一つの原理に動かされて,ジロンド派は王政をくつがえし,同じ原理に動かされて,国王の生命を助けてやろうとしたのだ。この原理とは,人民主権という国民的教義にほかならなかった。……ジロンド派は国王裁判においてもこの原理に忠実たらんとしたのだ。人民の意志にそむいてみずから主権をのっとるならば,宣言したばかりのあの教義に違反する。そうした不法で,共和国の第一歩を汚すことはできない。――それが(正しいにせよまちがっているにせよ)彼らの主張だった。モンターニュ派は少数派の権利を公然主張していた。人民主権を無視しても人民を救うべきだ,と言っていた。誠実で英雄的な愛国者なのだが,彼らは,にもかかわらず危険な道にふみこんだ。もし多数を無視していいのなら,もし“最善の人々”がその数の多少にかかわりなく支配すべきだというのなら,この最善の人々はきわめて少数,十人でもひとりでもいいことになる。(p76~77)

    ◆王は自分からすすんで役人たちと雑談した。彼らの身の上,彼らの仕事のことを話した。こういうことをしゃべらせると,王は教養あり,分別のある男だった。王はまた,相手の家族のこと,子どもらのことをたずねた。一方はヴェルサイユと王座から,他方は仕事場や店さきからと,それぞれかけへだったところからやってきたのだが,家族の話となると,おのずと心が通いあった。家族,それがルイ十六世の泣きどころであり,またすべての人が,この点で彼に同情して心をいためていたのである。十二月十一日,王がつぎのように言ったとき,感動せぬ者はなかった。「一時間も早く息子から引きはなすんだね」。王を家族からひきはなしたことは,まったくむだなことだった。こういう性質の裁判では,被告同士の連絡など,まず心配には及ばぬことであった。ああいう引き裂き方をしたために,いたましいかぎりの光景が生まれてしまい,世人の同情が王に集まったのである。十二月十九日,王は役人たちの目の前でクレリに言った。「きょうはわたしの娘が生まれた日だ。この誕生日に,娘に会えぬとは!……」いく粒かの涙が彼の目からこぼれた……。役人たちは黙り込み,王の父親らしい嘆きをそっとしておいた。彼らはおたがいに警戒しあい,涙はようみせなかった。(p81~82)

    ◆王は不幸のうちにあって,とてもうれしい償いを得た。それは,王妃の彼にたいする態度がすっかり変わったことである。王は,死を目前にして,生よりも貴く,死をなぐさめるになる巨大な贈り物を,ずいぶん遅まきではあるが獲得した。愛する人に愛されることになったのだ。王妃はひじょうにロマネスクな人だった。彼女はずっと以前からこう言っていた。「わたしたちは何ヶ月か塔にとじこめられてからでないと救われないでしょうよ……」精神的に,彼女は救われた。タンプル塔での幽閉生活は彼女の精神を浄化し,昂揚させ,苦悩のるつぼのなかにあって彼女は無限の勝利を得たのだ。彼女のうちにおこった最良の変化,それは清浄かつ神聖な家族愛にたちもどったことだ。八九年まで,いやそれ以後も,彼女はそんなものとは縁遠く暮らしていたのだが……。彼女は夫を軽蔑しきっていた。夫の愚鈍で俗悪な面しか見ていなかった。ヴァレンヌ逃亡や八月十日のさいの王の優柔不断をみると,勇気というものがまるで欠けているように彼女には思えたのだ。ところが事実はずいぶん彼に勇気のあることを,タンプル塔で彼女は知った。たとえば,なるほどこれは受身の勇気ではあるが,王は主として宗教的諦念のうちから勇気を汲みとったのである。かくも危急の時にのぞんで平静な態度を持し,侮辱にたいしては忍耐し,人々にやさしく接し,運命に抗して毅然としている。そんな王の姿をみて,王妃もほかのみなと同様,国王に同情するようになった。社交界の軽佻な女性につきものの冷ややかな態度は,夫の,一家の父の愛情,極度にこまやかな感情によって軟化し,やわらいだ。夫はあのようにふかい愛情をもっている。しかも,妻や子を愛するのに,もうわずかの時日しか残されていない! …王妃は王にたいして(やさしい感情という以上の)熱愛を感じるようになった。王が病気になったときには,終日看護した。そしてベッドの用意を手伝ったりした。ふたりがへだてられることになってからというもの,この新しい愛情はいよいよ高まり,法外な情熱となった。彼女はもう死んでしまいたいと言い,何も食べないと言った。(p82~84)

    ◆とはいえ,この魂の浄化は完璧であったかどうか。…君主政そのものが彼の悪徳,唯一の悪徳であった。ということは,彼が絶対的権力の正当性を信じていたということであり,したがって,この権力を維持するためには暴力や詭計を用いて恥じないということであった。だからこそ,彼は死にのぞんでもなお,証拠歴然たる嘘を悔いはしなかったのである。その遺言書において,彼は息子に法にもとづき統治するよう強く勧めつつも,こう付け加えたのだ。「“国王たるものが善をなすのは,権威をもてばこそ可能なのであり,手足をしばられていなければこそ可能なのである”」(p86)

    ◆おりから世紀最大の犯罪,ポーランドの暗殺が行われようとしていた。フランスも同じ非運にさらされるのではないだろうか。…ポーランドが,マリ=アントワネットと同時に殺されたのだ。ポーランドの死刑を執行した連中は,ポーランドを片づけてしまい,行動の自由を獲得した。…オーストリアはこのたびポーランドでなにものも得なかったので,どうでもアルザスをとろうと思っている。オーストリアとプロシアとは,十月十三日,フランスの扉をこじあけようとおしよせるであろう。(p175,190)

    ◆低い声で『マルセイエーズ』の一節をうたい,葬列の階段を一歩一歩彼らはおりていった。われらに向かい圧制の 血なまぐさい刃がふりあげられた(p204~205)

    ◆夜が明けると十月三十日,どんよりとした雨の一日。冬空の暗鬱のため,救いとなるべき気力も威儀も失わせてしまう。そんな青ざめた日々の例しにもれない。じめじめしたいやな天候では神経も弱まる。多くは,ふだんよりも元気がない。それに念入りにも,死刑囚に気付薬のたぐいをあたえることは以後厳禁ということにきめられていた。すでに鉛色と化したヴァラゼ(事前に絶望し自殺していた)の死体は,同じ馬車の長椅子におかれ,頭だけがぶらぶらしている。人々の神経をかきむしり,死の恐怖をよびさますために,そこにおかれたかのような死体。舗石でがたがたゆれるたびに,それは惨めにもあちらにぶつかり,こちらにあたり,あたかもこう告げているかのごとくであった。「わたしはこんなざまになった。諸君もまもなくこうなるのだ」五台の馬車をつらねた死の行列が,コンシエルジュリの陰鬱なアーケードから出立せんとしたとき,はげしく大きな歌声が同時にわきおこってきた。二十人の男の声が一つとなって群集のざわめき,金でやとわれた男たちの野次り声を圧倒し,沈黙させた。彼らは聖なる国歌を歌ったのだ。「行け,祖国の子らよ!……」…彼らをささえるのは友情。大多数は手を組みながら歩む。…彼らは気がふれたように歌をうたった,惨めな馬車のなかで,広場におりたって,さらに断頭台にのぼりつつ。重い鉄の刃のみが,彼らの口をとじさせたのである。…いちばん涙に値しない犠牲者,デュバリ夫人の処刑の日に,人々の感動は最高潮に達した。彼女の絶望,悲鳴,恐怖,失神,はげしい生への執着は,人々の生理的琴線をかきならし,本能的感覚をよびさましたのだ。つまり人々は,死とはなにものかであるということを思いおこす。「このやさしい刑罰」ギロチンがほんとうにたいしたことではないのかどうか,人々は疑った。(p207~209)

    ◆彼女の死んだ8日は,11月の寒い日であった。花をぬいだ陰鬱な自然は,人々の心を象徴していた。大革命もまたこうしてその冬の季節に,幻想の死のなかに足をふみいれる。夜の落ちかかるころ〔5時半〕,木の葉を落とした二つの庭のあいだ,オベリスクのある広場に彼女はついた。断頭台のそばに巨大な自由の女神の像がある。彼女は軽やかに階段をのぼる。そして像のほうにふりむき,毅然としたやさしさをこめ,とがめる口調ではなく,こう言った。
    「おお,自由よ。汝の名においてなんと多くの罪が犯されたことか!」(p210)

    ◆(サン=ジュスト)「革命を中途でやめる者は,けっきょくみずからの墓穴を掘っているのだ」(p213)

    ◆ジロンド派への同情を知られているダントン派は震えあがった。助かるには,危険を他にそらすしかない。それにはロベスピエールの敵をたたけばよい。(p219)

    ◆(ダントン)「わたしはロベスピエールをひきずってゆく。ロベスピエールはわたしのあとを追ってくる」(p259)

    ◆(最高存在の祭典において)ロベスピエールは,落ち着かない様子でせかせかと歩くのが常であった。国民公会の歩調とはまるで合わない。先頭を歩んでいた何人かは,おそらく意地悪な気持で,そしてみせかけだけの敬意でもって,彼のずっとあとを歩いていった。こうして彼を孤立させておいたのだ。ときおり,彼はうしろをふりかえる。彼は自分がひとりぼっちであるのを知った。(p296)

    ◆これほど楽しい期待をもたれた祭典はかつてない。これほど歓喜とともに祝われた祭典はかつてない。牧月(プレリアール)十九日の夜には,ギロチンは姿を消した。パリじゅうが花の海である(文字どおり。これは誇張の言ではない)。二十里四方からバラが,あらゆる種類の花が運ばれてきた。これで,人口七十万の町の家と人とを飾るのだ。窓という窓に花飾りの旗がかかげられねばならない。母親はみなバラを手にもち,娘らはさまざまの花をもつ。男たちは柏の枝をもち,老人らは青いぶどうの枝をもつ。右側に男,左側に女の蜿々とつづく列のあいだを,母親たちの誇り,十五歳か十六歳の子どもらが,小枝で飾った槍やサーベルをもち,嬉々として行進してきた。…彼(ロベスピエール)は,公安議員とともに階段をくだり,最初の泉水のところでたちどまる。ここには,一群の奇異な像,「無信仰」「エゴイズム」「虚無」などの像が立っている。彼はこれらに点火する。すると,焼けおちた灰のなかから,おおいをとりはらわれた「知恵」の像があらわれる。(p293,295)

    ◆「わたしが孤立していることはよくわかった。……わたしを滅ぼしにかかっている党派があるのだ……」そしてビヨをふりむいて荒々しい声で言う。「わたしはきみという男をよく知っている」「わたしも,きみという男をよく知っている。……きみは“反革命派”だ」(p300)

    ◆この夜,どの党派も予想しなかった異様な事態が明らかとなった。すなわちパリの中立。どちらの側につくにもせよ,とにかく行動をおこしているのは,この大都会の人口中,ごく小部分にすぎなかった。そういえば思いあたる節がないでもない。この町では,ここ五ヶ月来,公共の生活はなくなっていた。いたるところ,選挙は廃止されていた。各地区の総会は死に絶え,その全権力は革命委員会の手に移行していた。(p351)

    ◆ここでちょっと興味のある逸話をつけ加えておこう。エベール派の役人でカルノーの事務室で働いていた人が,この負傷者が苦しみに耐えつつ意識をしっかり保っているのに驚いた。ときおり,ロベスピエールがむりをして身をかがめ,ひかがみのあたりに手をもってゆくのに彼は気づいた。彼はロベスピエールのそばに近づき,長ズボンの靴下止めの環をはずし,靴下をすこし,ふくらはぎのところまでずらしてやった。ロベスピエールは,喜んで,なんとか礼を言おうとした。むりに口をひらき,やさしい声で言った。「ありがとう,“ムッシュ”」古い過去のことばにこんなふうに思いがけずもどること,それは過去のもろもろの形式を守ってきた人間にとっては,本能的なことなのであろうか。それとも,大革命は自分とともに終わったと思ったのか。自分とともに共和国は死んだと考えたのか。偉大な五年という歳月は,一場の夢のごとく,彼の心からむなしく消えさり,霧散してしまったのか。死にゆく者の予見力をもって,来たるべき反動を,フランスのころがすシジフォスの永遠の岩を,彼は苦く感じとっていたといえよう。そして,この日よりのち,人は“シトワイヤン”(市民)とはおたがいによびえなくなるのを感じとっていたのでもあろう。…テルミドールから数日もたたぬある日,当時十歳のある少年は(いまなおこの人は存命中だ),両親につれられて芝居にいった。その出口に,豪華な車が蜿々としてつづくのに驚きの目を見はった。生まれてはじめてみる光景だ。短衣を着た男が帽子をとり,帰り客にことばをかける。「“旦那さん”,馬車はいかがで?」子どもには,この耳なれぬ言葉がわからなかった。両親にその意味を問うた。両親はただ,ロベスピエールが死んで大変化がおこったのだと子どもに言った。(p376,p385)

  • 新書文庫

  • 『フランス革命史』抄訳の第二分冊。ルイ16世の処刑から、ロベスピエールの処刑(テルミドールのクーデタ)までを扱う。革命の指導者たちが、革命裁判や暗殺によって次々に命を落としていくさまが克明に描かれてゆく。マラーやダントン亡きあと、一時的に全権力をロベスピエールが掌握したが、それも1年と持たない。ミシュレはテロルを対外情勢や国内情勢が要請した不可避のものとして描き出す――これはのちにフュレが「状況の論理」と呼んだものだろう――が、それでもロベスピエールの負の側面を描き出すことを忘れなかった。しかし、ミシュレが「フランス革命」の歴史をテルミドールのクーデタ、したがってロベスピエールの処刑によって閉じていることは印象的である。テロルという負の側面はあったにせよ、テロルのあとに来るのが軍人政治の時代、ナポレオンの時代であることを示唆しながら、ミシュレは「革命」の歴史を閉じた。ここに、革命の主役は人民であるというミシュレの基本的な理念が反映されている。

  • 2013年11冊目

    本書はフランス革命の歴史を叙述したもので、ロビスピエールの死で幕を閉じる。さて、フランス革命の歴史書としてはどこで始まり、どこで終わるのかは非常に重要である。筆者がどこまでを革命ととらえているかが如実に反映されているからである。本書ではロビスピエールの死、すなわち共和制の崩壊を意味するところで幕を閉じる。本書が共和制史と呼ばれる所以である。

    さて、本書は厳密に事実のみを提示した歴史書ではない。そのため、純粋に歴史的事実を理解したものにとっては良書ではないかもしれない。しかし、本書の評価をする前に、歴史書とは何か、を吟味する必要がある。

    ミシュレによれば、歴史とは「全体としての生命の復活」と表現される。なぜか。歴史書は単純に事実を提示すればいいというわけではない。その歴史の価値を現代に復活させ、読者に新たな視点とともに理解してもらうこと、それが歴史書の目的である。ミシュレ以前、古典主義が勃興していた時期、歴史は「道徳と政治の学校」であった。歴史は過去から教訓を引き出すことで価値があるとされていた。しかし、フランス革命はこの考えを一変させる。今まで歴史とは繰り返される反復するもので、だからこそ教訓を引き出す価値があるとされていたのだ。しかし、革命は歴史を展開し、今まで予想だにしなかった結果を生み出した。歴史は反復されるだけのものではなかったのだ。未来に変化していく歴史を考える時、私たちは歴史をどのように理解すればいいのか。歴史の意味と方向性を理解しなければならない。それこそ歴史書の役割である。(この流れこそロマン主義の流れといえる。)

    だからこそ、本書はまるで冒険歴史小説のような印象を受ける。これは、筆者ミシュレがフランス革命をそのように理解していた証拠になるであろう。人民(peuple)が立ちあがったことこそフランス革命の意義であり、上巻では、人民が立ち上がる立ち上がる姿が、革命が輝かしい未来へ向かっていく様子で描かれる。文学的な印象を受けるだろう。もちろんそれは本書が歴史的事実に依拠していないことを意味しない。前述したように、歴史とは「全体としての生命の復活」である以上、歴史に価値を付与する必要性があったのである。

    そして彼にとってフランス革命は新たな社会の到来を予感させた出来事なのである。彼の理想は友愛に基づく共和制であった。彼が理想とする共和制はあくまで民衆によるものである。そのため、民主的な議会でさせも、遅々と革命の進行を遅らせた議会には批判的になる。

    とにもかくにも、歴史書の意義は事実に対する価値の提示であり、ミシュレは「人民」の立場から叙述した。そのいみで、本書は非常にフランス革命をよく理解させていく。当時の人々が理想に燃えていた様をありありと見せつけてくれるのである。

  • 全体のレビューについては上巻を参照のこと。

    下巻は1792年の国民公会の招集・王政廃止・共和国宣言から94年のロベスピエールらの処刑まで。

    外国勢力だけでなくヴァンデ(王党派)との戦いなど情勢は複雑を極め、出来事が次から次へと起こり展開が分かりづらい。筆者のせいではないので、この点は仕方がないのですが。革命政府内での骨肉相食む泥沼の内訌が凄まじくて読んでいて震え上がるほど。ミシュレが特定の人物、とりわけ女性を描く時の筆致は何かが取り憑いているとしか思えない。尋常じゃなくスリリングな歴史読み物。

  • 革命も疲弊するんだなぁ。ミシュレさんも上巻にくらべて悲しげな筆致。

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