寛容論 (中公文庫 ウ 7-1)

  • 中央公論新社
3.49
  • (5)
  • (13)
  • (12)
  • (4)
  • (1)
本棚登録 : 318
感想 : 16
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122054240

作品紹介・あらすじ

新教徒が冤罪で処刑された「カラス事件」を契機に、宇宙の創造主として神の存在を認める理神論者の立場から、歴史的考察、聖書検討などにより、自然法と人定法が不寛容に対して法的根拠を与えないことを立証し、宗教や国境や民族の相異を超えて、「寛容(トレランス)」を賛美した不朽の名著。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 18世紀半ば、フランスのトゥルーズにて発生したある冤罪事件を口火に、ヴォルテールが人類の宗教への寛容について説いた作品。ここでいう「寛容」とは異なる宗教観の対立解消のために人を殺すな!ということである。
    口火となった冤罪事件は、キリスト教のカトリック教徒と新教徒の憎悪に満ちた対立を背景としていたが、ヴォルテールはそれから発展させて、宗教対立、党派対立の歴史を紐解き、古来より宗教の対立で虐殺が行われたことはないとした上で、いかにキリスト教の党派対立が非寛容で、多くの人々を異端として殺戮してきたか、またそのような殺戮の思想を醸成してきたかを白日の下にさらし、そうした殺戮の思想ではなく、異なる宗教観であっても結局暴力によって他者を変心させることはできないのだから、寛容の精神により国家発展の道を選ぶべきだと支配者層へ訴えかけている。
    ヴォルテールが示す宗教対立による殺戮の歴史は恐ろしいものばかりだが、だからこそ当時にも残る対立の根深さが鮮明となり、ヴォルテールの説く寛容論を誰もが身につまされる構成になっているように思われる。キリスト教以外の諸国、とりあわけ清国の寛容さや日本が全人類中もっとも寛容な国民として対比させているのは興味深い。
    対立する貴族ら(!)への舌鋒鋭い記述の反面、フランス王への媚に似た態度、そして、ユダヤやエジプトなどへの蔑視発言などは、当時ヴォルテールが置かれた立場や社会的意識などが見てとれる。
    アンシャン・レジーム下における先鋭的啓蒙文学者として、諸国から忌避される人生を辿ったというヴォルテール自身への「寛容」要求を裏に潜ませていると考えるのは穿ち過ぎであろうか。

    • mkt99さん
      18世紀半ばのフランスでは日本の事情はほとんどわからなかったと思いますので、ある意味、牧歌的な憧れに近いものがあると思います。(笑)日本では...
      18世紀半ばのフランスでは日本の事情はほとんどわからなかったと思いますので、ある意味、牧歌的な憧れに近いものがあると思います。(笑)日本では異質な他者(外国人など)に対しては排他的な面を表に出さず鷹揚にみせるところもありますしね。
      2013/07/07
    • ブリジットさん
      日本が寛容とされているのは、宗教に対してですか?

      キリスト教は宗教戦争ばっかりしているイメージがあります。日本だと宗教「戦争」というのはあ...
      日本が寛容とされているのは、宗教に対してですか?

      キリスト教は宗教戦争ばっかりしているイメージがあります。日本だと宗教「戦争」というのはあんまりないですよね。弾圧はあったし、小競り合いは常だったでしょうが。殺戮までしちゃうキリスト教よりはまだ日本のほうが平和といえるのかも知れませんね。

      これ、時代的にはまさにベルばら(こればっかりですみません笑)
      興味を持ちましたが難しすぎてきっと読めません(笑)
      mkt99さんのレビューで読んだような気持ちになれました!
      2013/09/19
    • mkt99さん
      そうなんです。宗教に対して寛容と思っていたようです。
      日本ではキリスト教世界ほどではないにせよ、一向一揆や島原の乱など一概に宗教「戦争」とは...
      そうなんです。宗教に対して寛容と思っていたようです。
      日本ではキリスト教世界ほどではないにせよ、一向一揆や島原の乱など一概に宗教「戦争」とはいえないものの、「宗教」を前面に押し立てた「戦争」もあるにはあったのですが、当時のフランスでは日本の歴史などわからなかったはずですし、キリスト教の宗教戦争に比べれば規模が小さいと思われて話が伝わっていなかったのかもしれませんね。

      日本の場合は、古代中世以来、宗教には「寛容」というか異なる宗派が乱立しても逆に当然と思われていて、親鸞や日蓮や南蛮人のカトリックのように他宗を排撃・排除するような動きをとると、それが理由で弾圧を加えられることになったようです。ですので、他宗教にも「寛容」と思われるのはある意味当たっているのですが、1宗教に固執し他宗の存在を否定した場合は弾圧されるという、実は逆転の「不寛容」なんですね。(笑)まあ結局同じことなんですが・・・。現在にも通じますが、宗教的には押しつけがましくない社会だったのかもしれませんね。
      2013/09/19
  • 18世紀後半に、フランスはトゥールズで起こった「カラス事件」に触発されて書かれた著作。事件そのものに関しては、最初と最後で取り上げられるのみである。
    18,19世紀のヨーロッパにおいて、これだけ理性的に――現代の視点からすれば不十分だとしても――キリスト教を、その起源から教会の在り方まで見詰めた人がいた、というのはさすが啓蒙の時代、と言うべきか。例え、それが上から目線だとしても。まあ啓蒙って上から下にするものだし。
    ちょっと苦笑してしまったのが、キリスト教をこき下ろすのはともかく、清朝や日本、オスマンといったアジアの宗教政策を理想化し過ぎるきらいがあったところ。どこぞのユートピアかと。まあたぶん、地理的、心理的な距離があったからだろうと思うが。

    寛容の精神が、国家的、あるいは経済的利益に直結する(だから大切にしなさい)というのはなかなかに分かりやすく受け入れやすい、と思えるが、現世利益より死後の世界が気になる宗教者は納得できないのだろう。たかだか数章節の文句のために、投獄したり人殺しをしたり自殺したりするのが、死後の世界的にどうかというのはこの際別として。

    ところで、どこかで誰かが言っていたのだが、「寛容」とはあくまで強者が弱者に対して示すものだそうだ。決して、対等に仲良くやって行こうぜ、ということではない。そう言われれば、なるほど、この『寛容論』というタイトルはなかなかに秀逸である。

  • モンテスキュー『ペルシア人の手紙』
    モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』

    あなたの意見には反対だ。しかし、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。▼一般常識は決してそれほど一般的ではない。▼人間はその人が出した答えではなく、その人が発する問いによって判断される。▼独創は思慮深い模倣である。ヴォルテール
    ※理性への信頼。英経験哲学から影響。
    ※哲学書簡1734、寛容書簡1763

    恋よりも虚栄心のほうがより多くの女を堕落させる。デファン夫人『ヴォルテールへの書簡』

    ※モンテスキュー(1689生まれ)、ヴォルテール(1694生まれ)、ルソー(1712生まれ)。

    犯罪者への拷問や死刑ではなく、教育により犯罪を防止すべき。チェーザレ・ベッカリーアBeccaria『犯罪と刑罰』1764

  • とてもいい本だった。現代にも通じる理性に触れた。
    背景を知るために解説から読んだところ、おおよそ問題なく読むことができた。

    1761年、フランス・トゥルーズの布地職人ジャン・カラス家で起こった長男マルク=アントワーヌの変死事件が、カトリックと新宗教の対立構図に巻き込まれた結果、証拠もないままにジャン・カラスはトゥルーズ高等法院により処刑されるに至る。これを受けてヴォルテールは一家の名誉回復を目的としたキャンペーンとして本書を執筆し、最終的にパリで国王顧問会議による再審と一家の無罪を勝ち取る。
    ジャン・カラス一家が新教徒だったのに対し、ヴォルテールは自然科学を重んじつつも万物の創造主としての神を認める「理神論者」のカトリック教徒だった。

    ヴォルテールは、他宗教に働きかけるよう勧める聖書の恣意的な解釈や、各修道会派が持ち出す聖人や聖遺物の奇蹟(「迷信」)に対しては冷ややかなまなざしを向け、信仰の手段の違いなど万物の創造主からすれば取るに足らないもの、という立場を取った。キリスト教に対してかなり手厳しい印象で、キリスト教の迫害の歴史については、キリスト教自身が他宗教を認めてこなかったことにより招いた反発か、宗教以外の理由で社会から追放されたのだと指摘する。

    以下、特に印象に残った箇所を引用。

    理性は緩慢ではあるが、間違いなしに人間の蒙を啓いてくれる。この理性は柔和で、人間味に富み、寛容へと人を向かわせ、不和を解消させ、徳をゆるぎないものにするのである。法が強権によって維持されるにもまして、法への服従が好ましいとして受け入れられるのは、この理性の力によるのである。(p48)

    そしてこの二つの法の大原理、普遍的原理は地球のどこであろうと、「自分にしてほしくないことは自分もしてはならない」ということである。(p51)

    「神々ニ加エラレシ侮辱ヲ憂慮シ給フハ、タダ神々ノ務メナリ。」これが元老院ならびにローマ市民が堅持した大方針であった。(p58)

    われわれフランス人は、ほかの国民が採用している穏健な見解をいつもいちばん遅れてしか受け入れぬのであろうか。(p82)

    侮辱的言辞を弄することさえあってはならない。(デュ・ベレー司教、『教書』のなかで)(p126)

    あらゆる迷信のなかでもいちばん危険なのは、自分の見解のため隣人を憎悪する迷信ではなかろうか。(p153)

    われわれの本性の悲惨が許容する範囲で、この世で幸せであるには、何が必要か。寛容であることである。
    形而上学について、あらゆる人間に画一的な考えを持たせようと欲するのは、この上なく愚かというものであろう。(p154)

    われわれの偽らざる姿である、はかない生命の原子にとって、このように創造主の神慮を先回りするのは、あまりふさわしい行為とは言えぬように私には思える。…(中略)…でも本当にわれわれは神のあらゆる摂理とその慈悲の及ぶかぎりとを知っているのであろうか。(p161)

    われわれの目には違いがあるように思えても、あなたの目から見ればなんら変わるところない、われわれ各人の状態、それらのあいだにあるささやかな相違が、また「人間」と呼ばれる微小な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差(p164-165)

    もし戦火の災禍が避けがたいにせよ、平和のさなかにあってわれわれがお互い同士をいがみ合い、中傷しあうのはやめようではないか。そしてわれわれに許された一瞬の生を利用して、この瞬間をわれわれにお授けになったあなたの御好意に、シャムからカルフォルニアに至るまで、ありとあらゆるさまざまな言葉を用いて等しく感謝しようではないか。(p166)


    訳者の中川信氏による解説も名文。ヴォルテールの小説「カンディード」の結語「だが、庭を耕さねばならない」を引き、現代日本の裁判制度とその公平さに無関心であることに「まだわが庭は耕されていない」と警鐘を鳴らしている。

  • 受け入れるということが、どれほど過去においても、現在においてもできていないか、に思い巡らさずにはいられない本。
    ある些細な言葉から、一気に大勢がそちらに傾倒し、悲劇を生むというのは、事の大小あるにせよ、洋の東西も時代も関係無く人間の在るところには在るんだと思うが、その点を的確について、そういうのではない捉え方を説いている。

    ヴォルテールの時代に、ヴォルテールの思想は危険だったろうと思うけど、そこを表明した彼は素晴らしいと思った。



  • 中公文庫
    ヴォルテール 寛容論


    信仰の自由や思想の自由が保たれ、少数派の思想が多数派に圧殺されないことを 寛容 と定義して、キリスト教の寛容を論じた本。キリスト教にとどまらず、宗教全般、思想全体に寛容を求めている。異なる宗教や思想を黙認することも 寛容としている



    考えを同じくしない人々を迫害したカラス事件における不寛容を 迷信に基づく虚弱の精神として批判している


    キリスト教や宗教の本質から、不寛容の害を示した論考は 秀逸

    *一切の宗教は人間がつくり出したもの〜キリスト教が神聖であるほど、それを管理するのは人間であってはならない〜不寛容は偽善者か反逆者しか作り出さない

    *寛容は内乱を招いたためしはまったくなく、不寛容は地球を殺戮の修羅場と化した

    *イエスキリストのすべての言行は平安と忍耐と寛容を説いており、聖書は 神があらゆる民族に寛容を示している〜われわれが不寛容な態度を固執している


    *美徳は学問にまさる
    宗教があるのは 現世とあの世で われわれが 幸せになるためである
    この世で幸せであるには 寛容であること
    形而上学について、あらゆる人間に画一的な考えを持たせようとするのは 愚か

  • 「寛容論」ヴォルテール著・中川信訳、中公文庫、2011.01.25
    252p ¥761 C1110 (2020.07.27読了)( 2017.10.27購入)(2016.01.18/5刷)
    100分de名著別冊「「平和」について考えよう」で高橋源一郎さんが紹介していた本です。
    やっと読めました。
    フランスで信仰の自由が明示されるのは、1789年のフランス革命後の人権宣言によって、だったんですね。

    【目次】
    第一章 ジャン・カラスが死に至った概要
    第二章 ジャン・カラス処刑の結果
    第三章 一六世紀における宗教改革の概要
    第四章 寛容は危険であるか、・・・
    第五章 寛容はどうすれば許されるか
    第六章 不寛容は自然法と人定法とに含まれているか
    第七章 不寛容はギリシア人によって知られていたであろうか
    第八章 ローマ人は寛容であったか
    第九章 殉教者たち
    第一〇章 誤った伝説の危険と迫害とについて
    第一一章 不寛容の害
    第一二章 不寛容はユダヤ教では神授法であったのか、・・・
    第一三章 ユダヤ人の極度な寛容
    第一四章 不寛容はイエス・キリストが教えたものであるか
    第一五章 不寛容に不利な証言
    第一六章 瀕死な人と元気な人との対話
    第一七章 一聖職祿所有者より、イエズス会士ル・テリエに書かれた書簡
    第一八章 不寛容が人権として認められる唯一の場合
    第一九章 シナでの教義論争の報告
    第二〇章 国民に迷信を信じ込ませておくことは有益であるかどうか
    第二一章 美徳は学問にまさる
    第二二章 あまねき寛容について
    第二三章 神への祈り
    第二四章 追録
    第二五章 結着と結語
    カラス一家の無罪最終判決報告のため新たに加筆された一章
    訳注
    解説  訳者
     一 ヴォルテールの生涯
     二 カラス事件
     三 『寛容論』

    ☆関連図書(既読)
    「「平和」について考えよう」斎藤環・水野和夫・田中優子・高橋源一郎著、NHK出版、2016.05.30
    「ヒトはなぜ戦争をするのか?」アインシュタイン/フロイト著・浅見昇吾訳、花風社、2000.12.31
    「日本永代蔵 現代語訳西鶴全集(九)」井原西鶴著・暉峻康隆訳、小学館、1977.01.31
    「ミシェル城館の人 第一部」堀田善衛著、集英社文庫、2004.10.25
    「ミシェル城館の人 第二部」堀田善衛著、集英社文庫、2004.11.25
    「ミシェル城館の人 第三部」堀田善衛著、集英社文庫、2004.12.20
    「モンテーニュ」原二郎著、岩波新書、1980.05.20
    「モンテーニュ」宮下志朗著、岩波新書、2019.07.19
    「王妃マルゴ」アレクサンドル・デュマ著・鹿島茂訳、文芸春秋、1994.12.20
    「王妃マルゴ(1)」萩尾望都著、集英社、2013.01.30
    (「BOOK」データベースより)amazon
    新教徒が冤罪で処刑された「カラス事件」を契機に、宇宙の創造主として神の存在を認める理神論者の立場から、歴史的考察、聖書検討などにより、自然法と人定法が不寛容に対して法的根拠を与えないことを立証し、宗教や国境や民族の相異を超えて、「寛容(トレランス)」を賛美した不朽の名著。

  • 有名な一フレーズが見つからなかった。
    信教の自由の大元に寛容がある。
    一家の裁判の話ではなく、この話は現代の宗教にも当てはまる。
    キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、同じ親から生まれた兄弟といえるのに、なにゆえここまで争うのであろうか。

  • 信仰の自由とは理性とは何かを書いた本。読むと人間社会は同じことを繰り返すのはしょうがないね的な運命論は避けたい。

全16件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1694年にパリで公証人の息子として生まれ、20歳を過ぎた頃から83歳(1778年)で没するまで、詩、韻文戯曲、散文の物語、思想書など多岐にわたる著述により、ヨーロッパ中で栄光に包まれたり、ひどく嫌われたりした文人哲学者。著書に『エディップ(オイディプス)』『哲学書簡』『寛容論』『哲学辞典』などがある。

「2016年 『カンディード』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ヴォルテールの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×