中国史の名君と宰相 (中公文庫 み 22-21)

著者 :
制作 : 礪波 護 
  • 中央公論新社
3.56
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本棚登録 : 117
感想 : 11
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122055704

作品紹介・あらすじ

古代の始皇帝・李斯から近世の雍正帝、近代の汪兆銘まで、中国史を語るのに欠かせない名君・宰相・文人等の生涯を、博学を生かした達意の文章で紹介しつつ、各時代の特質を浮き彫りにした人物伝。

感想・レビュー・書評

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  • [評価]
    ★★★★☆ 星4つ

    [感想]
    宮崎市定氏の著作物から中国の君主と宰相に関するものを集めた内容となっている。
    特に気になったのは孔子に関する文章で孔子の扱いが歴史が進むと政治家から教育者と移り変わっているということには興味を引いた。現代でも孔子学院と呼ばれる施設が世界各地の大学に設置されることがあるが、これは孔子が政治家ではなく、教育者という扱いだからなのだろうかと考えた。

  • 東洋史の大家、宮崎市定氏の、皇帝・宰相・儒家など、実に多くの人物に焦点を当てたエッセイや論文がまとめられている。

    有名な人物から、日本ではそれほど知られていない人物まで。資本家や地方官にまで及ぶので、その知見。見識はさすがというほかない。

    他の書評にもあるが、「南宋末の宰相賈似道」と「張溥とその時代」。これは実に読み応えがあるので、このためだけに読むのも一読の価値ありと言える。

  • 2011年刊行。東洋史の大家が、中国各王朝の特筆すべき宰相・臣下・助言者(ただし、孔子までも対象とするのでかなり広範囲)を軸としてその隠れた実像・歴史的意味を明らかにする。元の論文にはかなり古いものも含む。特に、南宋末の賈似道、五代における晋陽の李氏(軍閥資本家)は、大王朝の記述ではなく、戦乱期の一般にあまり描かれることが少ない時代のことなので、当該時代相を知るには有益であった。まぁ、記録が残存していないことや判らないことを何の衒いもなく素直に開陳できる著者には感服。機会があれば、再読したい。

  • 地域史

  • 清の康熙帝、雍正帝の名君ぶり業績、秦の李斯の史記列伝の語りが講談物を集めたような語りになっていること、乱世の五代十国で数々の国に仕えた馮道を後世の価値観で変節漢と称すのいかがなものかという指摘と、後世の王兆銘との類似点の指摘、南宋の賈似道について読む。賈似道は、敗者側として史書にはさんざんな書かれようだが、貴妃となった姉の引きで高い地位に登ったが、姉の死後も信頼を得てか皇帝に重用されたこと、財政政策などで一定の見るべきものがあったことなどが描かれる。

  • 「張溥とその時代ーー明末における一郷紳の生涯」(1974年)が入っていたので買っておいた。以前、全集で読んだ気がするが、たぶん身を入れて読まなかったから、ほとんど初めて読む感じだった。張溥(ちょう・ふ)は崇禎年間、つまり、明の滅亡がせまる時代、「復社」という文人のサークルをつくった蘇州の郷紳である。「はるかに朝柄をとる」と言われ、中央の人事にも容喙するほど影響力があった。「郷紳」というのは、要するに地方地主で読書人である。地主として郷里で横暴もするが、同時に地方官にも圧力を加え、弱きを助けることもずいぶんした。明末の結社といえば万暦・天啓のころに宦官と対立した「東林党」が有名だ。こうした宦官と官僚のというのは、どっちもどっちなのである。官僚は分別があって優秀な反面、プライドが高く議論百出でなかなか事が運ばない。宦官は皇帝の家内奴隷であるがゆえに動きが機敏で良し悪しもわきまえず大胆に行動した。ついでにしっかり自分の懐を肥やす。いまでこそ「政党」の結成を高らかに記者発表などするが、中国の旧体制では「党」というのは悪人につけるレッテルだった。臣下が徒党を組んで、皇帝を強いるなんてのは許されないことで、「党人」というのは「アカ」とか「国家転覆罪」と同じ扱いである。「東林党」は顧憲成という人が、「東林書院」(宋の楊時が無錫に建てた学校)を復興し、学問のついでに政治的言論をやったサロンである。いわば、一種の「世論」だったが、やったことは皇帝をめぐる陰謀の弾劾とか、宰相の弾劾とかで、要するに庶民に関係ないことを議論し、社会改善には役に立たないものだった。それで、自派の派閥の利益を追求し、なんといっても口うるさいから、皇帝の威を借りる宦官に攻撃される。しかし、「東林党」は高官がメンバーであっただけに横の連帯もよわく、組織の体をなしていなかった。一方、宦官は秘密警察を掌握して地方にまで手下がおり、組織としては断然機能的だった。官僚のお友達サークルなんて敵じゃないのである。「東林党」の弾圧では投獄され死ぬ者もでた。だが、「東林党」のあとにでた「復社」はちがった。「復社」は古学復興をめざす、科挙浪人たちの文社で、表向きは学問のサロン、試験にうかる文章の書き方を勉強していた。なんだが冴えない予備校生の集団だと思うかもしれないが、そんなにおとなしい人々ではない。張溥は文章がうまく、各地にあった「幾社」、「応社」などの文社を糾合、数千人規模の「大会」をやって文章をあつめ、文集を出版してデモンストレーション、試験官に無言の圧力をかけた。また、復社のリーダーたちは個人的に高官と密談・贈賄し、めぼしい「社員」の文集を試験官に渡して、及第工作も行った。さらに各地に「社長」をおき、民間の「報房」(郵便局)をつかったり、禁制の「私駅」を作ったりし、独自の情報網をもった。商人・俳優・無頼の徒とも連携し、実働部隊ももっていた。こうした情報網は高官の足をひっぱるのに使われ、地方官の頃にやった不正を暴いて中央のシンパに弾劾させたり、抜擢人事があると身元を調査して欠点をあばきたてたりした。現在のネット右翼やブロガーに近い。実働部隊には敵対派閥の地方官をボイコットさせたりした。高官たちも攻撃されたらたまらないし、復社出身の有能な若手を敵にまわすとまずいから、おもねって協力した者も多かった。子孫を科挙に受からせたい家からも献金があり、批判されたら自派の官僚を大学士にして、もみ消すこともできた。張溥は、宮崎氏によれば、年齢をごまかしていたらしいが、なんとか進士になり庶吉士(国家ブレーンの候補)になる。しかし、生意気な言動がめだち、さっそく大学士(宰相)の温体仁と対立、さっさと帰郷し民間から朝廷をコントロールした。嫡出子ではなかったらしく、幼いころ自分をないがしろにした使用人を権力掌握後に抹殺させている。下にも上にも厳しく、権力指向がつよい男だった。張溥は明滅以前に死んでおり、生涯3000巻の本を書いたとされるが、ほとんどは切り貼りの編集・監修で、後世に必要とされる著作はほとんどない。ただ、祝允明にはじまる清朝考証学の理念は張溥にもみられる。学者というより、明末という時代が生んだ「ジャーナリスト」(アジテーター?)であった。張溥や復社がこんなことをやっていられたのも、江南が平和だったからで、北辺では清が勢力を伸張、明の国家財政は破綻寸前、いやすでに200万両も歳出が出ていて、すでに破綻していた。歳出の多くは軍事費で、軍糧を納入していた商人の利益は最終的には地主である「郷紳」に落ちていたはずだが、郷紳たちは国家危急の際に財を投げ出し、国家を守るようなことはせず、彼らに借金しようと上申する官僚を「郷紳の財は民の頼るところだ」と郷紳出身の官僚が反対し、引きずり下ろしている。つまり、郷紳たちは明の滅亡を傍観したのだ。明末の軍事にも宮崎氏の筆は及んでいて、袁崇煥が帝の意をうけて対清和平工作に動いていたことも述べている。袁崇煥は敵をわざと活躍させ、和平に落ちつかせようとしているのではないかと高官に疑われ、猜疑心にかられた皇帝の命で処刑された。清も袁崇煥とつながっていることをほのめかし離間策もとっていた。防衛の生命線である火薬の製造が、工部ではなく宦官の所管であり、しばしば宮中で誤爆があったことも書いてある。清の皇帝は平等条約を認めれば休戦しようと、頻繁に国書を送ってきた。「皇帝」ではなく「汗」でもいいと譲歩もした。しかし、プライドだけ高い明の皇帝や官僚たちは検討しなかった。休戦して内政を立て直す機会は何度もあったが無視しつづけた。徹底抗戦しつづけたらどうなるかということを真剣に考えなかったのだ。要するに明末の朝廷は猜疑心と無責任にみちていた。宮崎氏は「絶望の時代」と言っている。張溥はそうした明朝の猜疑心を醸成したし、公益も考えず、自らの属する階級の利益をまもりつづけた。庶民みたいな身分だが、マスコミを把握していた彼にも明の滅亡に責任があるのである。

  • 東洋史の泰斗宮崎市定氏の、皇帝、宰相、資本家、儒家など、人物に焦点を当てたエッセイや論文がまとめられている。人物事典の記述であったり、本格的な論文であったり、毛色の違うものが集められているので、全体として散漫な印象も受けるが、どれも軽妙洒脱な名文ばかりである。本書は、もちろん内容も興味深いが、硬軟様々なタイプの文章が集められているので、宮崎氏の名文を味わうという点でも楽しめる。以下、いくつか興味をひいた項目を書き連ねてみる。
    「清の雍正帝」は、人物事典の抜粋であるが、名著『雍正帝』のエッセンスが凝縮されている。「南宋末の宰相賈似道」は、宮崎氏の卒業論文をもとにした論文であり、その水準の高さに驚く。「宋江は二人いたか」は、史料批判をしながら問いに対する答えを探っていくという歴史学論文の手本のような論文。「藍鼎元(鹿洲公案 発端)」は、史料の現代語訳かと思われるが、小説のようで仕立てで面白い。「孔子」は、孔子自身についてよりも、孔子が後世にどう評価されてきたかを中心に書かれているが、「政治家」としての孔子、「教育者」としての孔子という二つの見方の相克がわかって興味深かった。

  • 秦から清まで(少しだけ汪兆銘にも触れられているが)、タイトルにある皇帝と宰相にとどまらず資本家や地方官、文人も含んだ人物伝。それぞれ別の機会に発表された論文のまとめであり、皇帝から一般にはマイナーな人物まで含むので一冊としてのまとまりは感じにくいが、興味のあるところだけつまみ食いしてもいい。興味深かった点は以下のとおり。

    ・雍正帝の治世は16年とその前後に比べて短いが、筆者は単著も出しており、好んでいるようだ。この時代は、満州族本来の「素朴な戦士」と中国化した「文明人」両者の気質を併せ持ち、また雍正帝自身は地方官に公式報告書とは別に個人として上級官庁を経由せずに皇帝宛文書を提出させ、また皇帝自身もコメントを入れて返すことで地方の実態把握に努めたこと。
    ・五代の宰相馮道は六世十二君に仕え、次の宋代では不忠だと批判されたが、自身は「国に忠」だと言い実際に人民によく尽くしていたとのこと。国民党軍が退却した後に日本軍と中国人民の間を取り持った汪兆銘も同様ではないか。

  • 漢文の書き下し文にも似た文体、その調べに流し読みを許さぬ格調がある。
    少し長編の「南宋末の宰相賈似道」と「張溥とその時代」がさすがに興味深く読ませる。
    最後の「石濤小伝」、揚州八怪の源流ともなったという石濤という画僧に関心が惹かれた。
    以前に読んだ「アジア史論」を再読してみたくなった‥。

  • 2011/11/28:取り上げられている人の順番や文章の書き方にばらつき(例として引用の書き下し文が脚注になっていたり、本文に多用されていたりなど)があり、また私が不勉強なこともありますが知らない人も多く、非常に読み進みにくかったです。

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著者プロフィール

1901-95年。長野県生まれ。京都帝国大学文学部史学科卒業。京都大学名誉教授。文学博士(京都大学)。文化功労者。専門は,東洋史学。主な著書に『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』(1940年)、『アジア史概説』全2巻(1947-48年)、『雍正帝』(1950年)、『九品官人法の研究』(1956年、日本学士院賞)、『科挙』(1963年)、『水滸伝』(1972年)、『論語の新研究』(1974年)、『中国史』全2巻(1983年)ほか多数。『宮崎市定全集』全24巻+別巻1(1991-94年)がある。

「2021年 『素朴と文明の歴史学 精選・東洋史論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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