仮面の解釈学 新装版

著者 :
  • 東京大学出版会
3.21
  • (2)
  • (4)
  • (5)
  • (1)
  • (2)
本棚登録 : 107
感想 : 6
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784130130912

作品紹介・あらすじ

いまや政治に“まつりごと”の面影なく,世界は一つの意味として,“書物”として読み解かれることをやめる.語源説,精神分析そして現象学の手法を駆使して,仮面と鬼面のたわむれの方向へ新たな言語思想をめざす著者の第一作が蘇る.【解題/熊野純彦】

「…ここには,西欧語による思考をじゅうぶんに潜りぬけ,理性の言語をたどったその果てに,この国のことばにあくまで寄りそい,つきしたがいながら,現実の可能性を枠どる「夢」がそこをめぐって到来する「通い路」をもとめて,一箇の普遍的な思考を築きあげようとするこころみがある.そこでは,文体それ自体こそがひとつの思想なのである.」(熊野純彦「解題」より)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 素顔が真実、仮面が偽りというイメージを偏見に過ぎないと断ずるあたりが痛快であり、
    日本的視点で以って西洋思想を自在に駆ける筆者の姿勢が清々しい。

  • 坂部恵の流麗な文体が際立つ。関係節を多く持ちながら、それでいてつかえることなく読み進める文体には脱帽。
    日本語、というよりやまとことばの意味を読み込み、哲学的意味を吹き込む。しかし、それだけで新しい哲学を組み上げられているのではなく、西洋の思想の写しになっているような気もする。だが、それでも、やまとことばが哲学的意味を持つ言葉にするという営みに価値はあろう。
    ごつごつした訳語を持込み言葉の秩序を壊すのではなく、肌理細やかに日本語に寄り添って哲学する。そうでもしないと、やまとことばは飲み込まれ、増殖する訳語に日本語自体が潰れてしまうという危機感があったのだろう。
    しかしながら、それを誰か継承していないのか。彼の語彙を使ってさらに新たな世界を切り広げられないのか。そうしないと、ある種二番煎じである限り、やまとことばごと彼の言葉は埋没してしまう。単なるお話にすぎなくなってしまう。

    まあそれはおいといて、何かを補給するために坂部恵の本はまた読みたい。

  • 自分のような浅学非才の身には、こういう本は「衒学的」とでも言うしかなく、なんとか最終章の前まではたどり着いたが、そこで力尽きた。何を解明しようとしたのか、さっぱり理解できなかった。やたらと括弧で括られた言葉ばかりが並んだ文章で、かてて加えて古文がなんの注釈もなく引用されるに至っては、書かれていることを理解しようという気さえ起こらなかった。

  • ポストモダンのフランス哲学の影響を受けながら、仮面をキーワードにして著者自身の哲学を試みたもの。同時期の『理性の不安』のカント論と対をなす。この本は著者が後年やるような日本語の語源探索を絡めた概念展開がなされる。しかし若書きであるからか、まだ論理的で読みやすい。とはいえ、デリダなどのフランス現代思想の影響がかなり大きくうかがえる。

    仮面、<おもて>と言われるものは最初の論考では、現前の形而上学が崩壊した後にあるものとされる(p.6)が、それ自身何のかはあまり展開されることがない。主語として立つことがなく、他を規定する述語としてしか現れないなど(p.8)。仮面は素顔に対する仮面であると通常捉えられる。仮面の背後世界としての、仮面がその意味の根拠を持つものとしての素顔の想定が現前の形而上学だということだろう。けれども、著者が例えば仮面としての人格(persona)の概念分析において何度も示すように、それは他者との差異によって成立する役割であって、それ自体として意味を持つものではない。仮面は他者性による自己性の述語的限定なのだ(p.83-87)。

    したがって仮面の背後に素顔を仮定したところで、そうした現前の根拠そのものは決して現前しない。現前の根拠として措定されるのは根源的な差異化の作用であり、生き生きとした現在(著者は生きた現在と書いているle présent vivantはフッサールのDas lebendige Gegenwartのことだ)との対比で言えば「空虚な死の静寂の世界」(p.32)ということになろう。こうして仮面の背後には何もない。仮面そのものが世界の現れであって、そこで初めて意味が成立する(p.21)。仮面とは何ものもないところでの世界の現れ、つまり現実の世界とは別種の構成原理をもった世界が現れてくることとなる(p.204f)。

    こうした二重性、というより現実ならざるものと現実の媒介概念としての仮面は、しるしやうつつといった日本語においても確認される。しるしは、記号として捉えれば何らかのものを象徴する記号である。だが著者は同時に、しるしのなかに明らかにする(著す)といった意味や、知らしめるといった意味を読み込む。かくしてしるしは、何かを象徴すると同時に、それによって初めて意味が開かれる差異化の現象を担うものとされている(p.165-167)。さらにうつつについては、それは原義として現実の意味を持つが、それは西洋語の永遠の現前する現在の意味合いではない。うつつは移す、映すという意味をも持つことによって、不在から現在への移りつき、その境界面(おもて)を含意する。かくしてうつつは、現実でないものと現実であるものの二義性を持つ。うつつが夢現として転用されるのも、故無きことではない(p.192-196)。

    さて、こうした論じ方は私にはあまり馴染みがないし、いくつか著者の論考を読んでもまったく馴染めない。こうした方法論には著者も自覚的だ。

    「ここで総体的な現実の一局面を抽象の相のもとにおいて切りとり、抽象化という特性と引きかえに確実性を手に入れる学問的・科学的認識への上向の軸をたどるか、あるいは具体的なイマージュの中に一気に世界の総体の多義的なひびき合いと反映をメタフォルの相においてとらえる詩的想像力による夢想と無意識の領域への下降の方向をとるかということは、それぞれに固有の意味をもちうるくわだてであり、一方を他方よりア・プリオリにより高い価値をもつものとみたり、<現実>により近い距離にあるものとみたりすることは、歴史的に制約された見解という以上の根拠をもたない。」(p.40)

    確かに詩的想像力による議論を認めないわけではない。単純にそうした想像力のない私にはよく分からないだけだ。確かに<現実>に対するアプローチとして科学的認識を重視するのは、歴史的に制約された見解だ。でも、著者は誰に語っているのだろう。我々はまさに歴史的に制約された中で議論をしているのではないだろうか。

    人間中心的になってしまった文化がもたらす、<理性>や主体中心的な論理から想像力を解放すること(p.97)。著者は何度も、近代的な科学的合理性の発展の中で見えなくなった、詩的想像力の世界を懐かしみ、その復権を訴える。ときには、地下の霊を喚び起こせとも言い、こうなると半分オカルトである。

    「伝統的な共同体と、それを<言挙げ>せず、いわず語らずのうちに支えてきた規範との、かつて例をみないほどに急速な解体を目のあたりにしているわたしたちにとって、もう一度、従来はひとつの傍流として比較的軽視されがちだった御杖【富士谷御杖(1768-1823)】にまでたちもどって、心底深く忘れられ、あるいは奇妙にゆがめられてきた地下の<あらたま>たちを喚び起し、異霊を言霊のうちへと鎮魂する道をさぐってみることは、緊急の必要事なのではないだろうか。」(p.239)

    こうした詩的想像力がもたらす世界は、同時に混沌と混乱に満ちた世界でもある。そうしたものが科学的に制御可能になったことで、現代の我々は安全や安心を手に入れた。それを捨てることではないが、緩めることを著者は主張する。それによって何が起こるのだろうか。

  • 世阿弥などのテキストをポストモダンの目から読みなおすことによって「日本語による哲学」を実現した名著の復刊である。(池田信夫氏 http://j.mp/bY6CfJ

全6件中 1 - 6件を表示

坂部恵の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×