現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140017883

作品紹介・あらすじ

社会を支えていたはずの政治・経済・教育・家庭といった基盤が、崩壊の危機に瀕している現代日本。アメリカが強く掲げ、戦後日本が導入した「デモクラシー」とは、壮大なるフィクションだったのであろうか。敗戦から半世紀、わたしたちは「戦後民主主義」の名のもとに、「自由」「平等」という言葉の内に潜む危うさを意識的に回避してきたのではなかったのか。社会に「共有の価値」が失われたとき、「自由なる個人」は、一体どこへ行くのか。経済思想、社会思想の研究から現代文明批判、社会批判へと展開を広げる著者が、現代日本の病理を描き、戦後民主主義五十年の大いなる錯誤を突く。

感想・レビュー・書評

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  • これも90年代です。あの時代は私にとってあらゆることが何と言うのか「峠」でした。
    落ち着いて遠くから眺めたい。自己嫌悪とともに苦笑しながら読むのはデフォと覚悟して。

  • 著者が雑誌などで発表した、時評的な性格の文章をまとめた本です。西洋近代の嫡出子であり、みずからの普遍性を他の文明圏にまで押し広げようとする「アメリカニズム」の性格について論じたものや、戦後最大の思想家とされる丸山眞男を批判したもの、大衆社会化が進む現代日本において民主主義と無責任が結びついていることを明らかにしたものなどがあります。

    著者の丸山批判の眼目は、丸山が西洋近代の普遍性を疑っていなかったというところに向けられています。ただ、丸山の議論は、本書で著者が鋭く指摘しているような、大衆社会の無責任体制に向けられていたところもあり、そうした側面も含めて丸山の思想をトータルに検討した上で批判をおこなうのでなければ、有効な批判となりえないのではないかという気がします。とくに著者は、ドイツの哲学者であるヤスパースの戦後責任論を参照しながら、個人を超えたものへのコミットメントによって個人を相対化する足場が与えられないと、そもそも「責任」という概念が成立しないと主張していますが、これこそまさに丸山が説いていたことにほかなりません。

    もっとも、大衆社会化の進行する現代日本の姿を目にした晩年の丸山が無力感を表白したというエピソードはよく知られており、著者が取り上げているような問題に対する回答を丸山が持ち合わせていたのか、という疑問はありますが、それにしても、著者の議論はいささか性急に丸山の否定に走っているような印象を受けます。

  • “個人の自由から出発する民主主義、つまり、リベラル・デモクラシーを支えている支柱を一言で言えば、価値相対主義と言ってよい。(中略)この主観主義、個人主義、相対主義から、ただちに次のことが帰結する。個々人の主観を超えた価値は存在しないということだ。”(p.232)

    “民主主義が、「公共的事項」に対して大多数の者が参与するという政治の空間を回復するためには、したがって、何よりもまずは、個人の主観を超えた共有価値が存在することを認めなければならない。個々人は、この共有価値にコミットし、またこの共有価値から行動の指針を受け取ることになる。(中略)ある種の価値の共有によって定義される、広い意味でのコミュニティや自生的秩序を見失ったところでは、民主主義は私的エゴによって食い荒らされ衰微するか、あるいは「人民の意志」を縦にした「全体意志」に転換する危険をもつことに注意しなければならないのだ。”(p.234)

  • 海外出張中の飛行機の中で読む。

    あまり集中できずに読んでしまったため頭に残ってない。気になったところに付箋を貼ったのでもう一度読むべし。

  • 要約を試みてみる。戦争への反省を背景に戦後日本ではデモクラシーの興隆をみる。それは全体主義に抗しようとするアメリカ的な個人主義的デモクラシーであった。丸山眞男は日本の後進性として官僚への依存、家やムラ的地域共同体への従属、天皇制、これらの結果としての無責任体制を指摘し、責任ある自立した主体としての個人の確立とこれらの個人によって担われたデモクラシーの確立の必要性を近代化のために唱えた。しかし佐伯はこうした流れに懐疑の念を持つことを忘れない。デモクラシーが上手くいく条件として古代ポリス的な社会規模であることと、市民が正確な情報とそれを解釈する力と時間を持ち、私利を超えた公共的見地に立つことが出来る必要があると考えるからだ。しかし個人主義的な民主主義の元では価値相対主義、悪くすればニヒリズムに陥る。個人の自由を至上に考えるならば、個々人の価値や判断はすべて主観的相対的なので個々人の主観を超えた価値は存在しないことになる。しかし個々人の主観とは個人の好き嫌いや個人の都合と何ら変わらない。とすればそれは価値とは呼べず、価値相対主義は一切の価値を失ってしまう。ここにリベラルデモクラシーが歯止めを持たない私的利害の乱立という赴きを呈する。民主主義が「公共的事項」に対して大多数のものが参与するという政治の空間を回復するためには、個人の主観を超えた共有価値が存在することを認めなければならない。イギリスの政治学者ラズはこのような共有された価値体系を「公共文化」と呼び、この「公共文化」に対する人々の敬意とそれを維持しようとする精神こそが自由や民主主義を支えると述べている。

  • 近代に欧米で発生した市民革命を源流とする現代民主主義にも、限界が見え始めているのではないかと感じた。古代ギリシアで執り行われていた民主制が見るも無惨な形で瓦解したように。

  • 細川選。
    うちの部活もビョーキですね。
    あなたたちが無理ならわれわれが手術します。ですが、手術ってものは、時々患者を死なせてしまう…

  • 内容はだいぶ忘れている。

  • ドイツの哲学者ヤスパース「責罪論」が戦後をどのように総括するかを「責任」の観点から論じている。(1)「刑法上の罪」(2)政治上の罪(3)道徳上の罪(4)形而上の罪、の四つである。佐伯啓思が、再度これついて論じている。ドイツ国家の名によって犯した犯罪行為に対して責任をまぬかれるものではない、これが「世治上の罪」。たとえ命令されたとしても、その命令に従ったのは自分であり、その自分の行為はに対してはあくまでも道義的な責任があある、これが「道義上の責任」。例えば、他人の殺害を阻止するための対応をせず傍観していたとき、社会から責められないにしても、やはり罪の意識は持つだろう、これが「形而上の罪」。道徳的な罪が、内面的であるとしても、社会や他者に対するものであるのに対して、形而上のものは、高度に個人的な使命感や倫理感に関わる。 但し、佐伯は、ヤスパースが「集団の罪」はあるのかという問いかけと自問には、この著書でも検討は避けている。
     ルソーの「一般意志」は飽くまで全員に共通する意志なのであり、個人の事情や利害の総体ではない。「一般意思は全部の人から生まれ、全部の人に適用されなければならない。そして一般意思は何らかの特定の対象に向かうときは、その本来の正しさを失ってしまう。そうした場合にはわれわれは自分に関係のないものについて判断するので、われわれを導く公平についての原理をなんら持っていないからである。」あらゆる近代社会の根底に一種の共同体が、われと他者を、個別と全体を区別する必要のない共同性の場が存在するということ、これを全体意志とは違う「一般意志」とすると、佐伯は述べる。「一般意志」が通用するところのみで、社会は形成される。「共通の利害」は、社会を共同で防衛し秩序を保つということである。デモクラシーが成立するのは、「一般意志」が明らかな状況のみだということである。
    以上、覚書。

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著者プロフィール

経済学者、京都大学大学院教授

「2011年 『大澤真幸THINKING「O」第9号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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