二重言語国家・日本 (NHKブックス 859)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140018590

作品紹介・あらすじ

日本語は、語彙的に中国の漢語と孤島の和語に分裂し、構造的には漢語の詞を和語のテニヲハが支える二重言語である。また、音楽を発達させた西洋の声中心言語に対し、日本語は、漢字という表意「文字を聞く」書字=文字中心言語。この文字中心言語から盆栽など線の文化が、二重言語からは、日本人のもたれ合いの精神構造などが再生産されてくる-肉筆の現場で思索する鬼才が、思想の核ぬき漢語依存という日本語の特質と構造から日本文化の特異性を鮮やかに解明し、日本人であることの異和、その根元に迫って展望を探る力作。

感想・レビュー・書評

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  • 言語学的な考察については、それなりに論理の展開には無理が無いものの、それ以外の文化への波及要素については思い込みの域を出ない。箸の持ち方については与太話レベル。
    日本語は語彙を増やすべき方向に進む必要があることには同意。

  • ちょっと、この著者ムチャクチャ。日本語は「天」が不在、その「国語」の思想が日本人の甘えと馴れ合ってナショナリスティックな傲慢さを生んでいる、、????少し気がちがっているのではないか? とにかく自身の旧左翼的文脈に日本語論をミックスさせたいようだが、書道の先生がこれをいうのはやはり無理がある。寿司屋は日本的コメの伝統に寄りかかって甘えていると言っている寿司研究家と同じだ。英語の先生にでもなったらいいのに。

  • 他の日本文化の本で引用されていたので、読んでみた。

    日本語が、漢語と和語の二重言語であるというのはわかるし、
    西洋の声中心言語に対して、日本が文字中心言語というのもわかるが、
    その後の論理展開についていけない。
    私の理解力と知識の無さのせいだとは判っているが。

    日本人が、
    耳から入った音に漢字を無意識に当てはめているとしたら、
    視覚的イメージが伴わない英語が苦手なのは、
    そのせいなのか。

    そして、日本人の意識にとって「書」が大事だとしたら、
    もはや鉛筆で文字を書くことすら失われつつあるこのご時勢では、
    今後日本文化はどうなっていくのだろうか。

    などと、余計なことばかりが頭に浮かんだ。

  •  本書は、書家であり書道史家である著者による日本語論及び日本文化論である。

     著者は,「声と書字」の観点から,アルファベットという発音記号を開発した声中心言語と,一文字でひとつの意味を有す漢字を基盤に持つ書字中心言語の二種類に言語を区別する。西欧諸国の言語は声中心言語であり,日本語は書字中心言語である。そのうえで,日本語は,「漢字=漢語」と「ひらがな=和語」という二つの系統をひとつの言葉の中に併せ持つという二重複線性を備えた言語であり,日本語が備える二重複線性が,重層性を持つ特異な日本文化を構築していると著者は論じている。

     例えば英語と比較して,日本語が文字などの書き言葉に大きく依存した書字中心言語であることを,著者は「文字を聞き」「文字を話す」と表現している(18頁)。これは,普段の日常会話を思い浮かべても納得させられる。多くの場合には無意識であっても,耳から入る言葉を漢字に変換することで言葉の意味を了解しているからだ。また,日本語の熟語には,音読みと訓読みによってふたつの読み方が可能であることが多い。例えば「春雨」は「シュンウ」であり「はるさめ」である(108頁)。不思議なことに,「シュンウ」にはかたく冷たい印象を持つし,「はるさめ」にはやわらかく暖かい印象を持つ。ここには,著者のいうとおり,日本語の備える二重性が原因としてあるのだろう。

     本書の中で,著者は(中国語から独立した)「日本語」の成立と,その成立に至るまでの日本語の構造変化を,書体(書きぶり)の変化という視点から分析している。平安時代の頃に,中国文字としての漢字から日本文字としての和様漢字へという変化が起こった。和様漢字は楷書をモデルとした三折法を用いずに,日本独自の書きぶりを根底に持つのだという。この時期に,漢語から和語への変換も盛んに起こっており,それによって二重複線性を備える日本語が成立したのだという。このような分析は,長年の書の経験に裏打ちされた書家・書道史家である著者ならではのものであり非常に興味深い。
     
     しかしながら,いくつかの点で本書には納得できない点もある。
     第一に,本書では言葉が曖昧に使用されている。例えば,本書で中心的な役割を果たす日本語の「二重性」について,一方では「詞としての漢語に対する辞としての和語の主従関係」を二重複線性と言い,他方では「ひとつの言葉は表裏に持つ漢語と和語との関係」を二重複線性と言っている(108頁)。
     第二に,言語の二重性から日本文化の特異性を論じる際に,余りに突飛な議論を展開していることが多々ある。本書で論じられている天皇制に関する議論を例に挙げよう。本書によれば,二重複線言語・日本語の象徴たる和歌を始めることで天皇が日本を治めつづけてきたのであり,「歌会始」の終焉とともに天皇制も終焉するだろうという(138~139頁)。歴史的に,権力者が文字や言葉を支配することで権力を維持してきたことはそのとおりであろう。しかし,秦の始皇帝による文字統一は,同じ文字を使用する民族として支配の及ぶ範囲を確立したのであり,またキリスト教圏において聖職者のみが自分たちの権威を維持するためにラテン語を特権的に用いてきたのとは異なる。本書の議論には論理の飛躍があるように思える。

  •  本書は、書家であり書道史家である著者による日本語論及び日本文化論である。

     著者は,「声と書字」の観点から,アルファベットという発音記号を開発した声中心言語と,一文字でひとつの意味を有す漢字を基盤に持つ書字中心言語の二種類に言語を区別する。西欧諸国の言語は声中心言語であり,日本語は書字中心言語である。そのうえで,日本語は,「漢字=漢語」と「ひらがな=和語」という二つの系統をひとつの言葉の中に併せ持つという二重複線性を備えた言語であり,日本語が備える二重複線性が,重層性を持つ特異な日本文化を構築していると著者は論じている。

     例えば英語と比較して,日本語が文字などの書き言葉に大きく依存した書字中心言語であることを,著者は「文字を聞き」「文字を話す」と表現している(18頁)。これは,普段の日常会話を思い浮かべても納得させられる。多くの場合には無意識であっても,耳から入る言葉を漢字に変換することで言葉の意味を了解しているからだ。また,日本語の熟語には,音読みと訓読みによってふたつの読み方が可能であることが多い。例えば「春雨」は「シュンウ」であり「はるさめ」である(108頁)。不思議なことに,「シュンウ」にはかたく冷たい印象を持つし,「はるさめ」にはやわらかく暖かい印象を持つ。ここには,著者のいうとおり,日本語の備える二重性が原因としてあるのだろう。

     本書の中で,著者は(中国語から独立した)「日本語」の成立と,その成立に至るまでの日本語の構造変化を,書体(書きぶり)の変化という視点から分析している。平安時代の頃に,中国文字としての漢字から日本文字としての和様漢字へという変化が起こった。和様漢字は楷書をモデルとした三折法を用いずに,日本独自の書きぶりを根底に持つのだという。この時期に,漢語から和語への変換も盛んに起こっており,それによって二重複線性を備える日本語が成立したのだという。このような分析は,長年の書の経験に裏打ちされた書家・書道史家である著者ならではのものであり非常に興味深い。
     
     しかしながら,いくつかの点で本書には納得できない点もある。
     第一に,本書では言葉が曖昧に使用されている。例えば,本書で中心的な役割を果たす日本語の「二重性」について,一方では「詞としての漢語に対する辞としての和語の主従関係」を二重複線性と言い,他方では「ひとつの言葉は表裏に持つ漢語と和語との関係」を二重複線性と言っている(108頁)。
     第二に,言語の二重性から日本文化の特異性を論じる際に,余りに突飛な議論を展開していることが多々ある。本書で論じられている天皇制に関する議論を例に挙げよう。本書によれば,二重複線言語・日本語の象徴たる和歌を始めることで天皇が日本を治めつづけてきたのであり,「歌会始」の終焉とともに天皇制も終焉するだろうという(138~139頁)。歴史的に,権力者が文字や言葉を支配することで権力を維持してきたことはそのとおりであろう。しかし,秦の始皇帝による文字統一は,同じ文字を使用する民族として支配の及ぶ範囲を確立したのであり,またキリスト教圏において聖職者のみが自分たちの権威を維持するためにラテン語を特権的に用いてきたのとは異なる。本書の議論には論理の飛躍があるように思える。

  • [ 内容 ]
    日本語は、語彙的に中国の漢語と孤島の和語に分裂し、構造的には漢語の詞を和語のテニヲハが支える二重言語である。
    また、音楽を発達させた西洋の声中心言語に対し、日本語は、漢字という表意「文字を聞く」書字=文字中心言語。
    この文字中心言語から盆栽など線の文化が、二重言語からは、日本人のもたれ合いの精神構造などが再生産されてくる―肉筆の現場で思索する鬼才が、思想の核ぬき漢語依存という日本語の特質と構造から日本文化の特異性を鮮やかに解明し、日本人であることの異和、その根元に迫って展望を探る力作。

    [ 目次 ]
    第1章 日本語は特異か(日本語は特異ではない;日本語は特異である)
    第2章 日本語は書字中心言語である(書字中心言語とは何か;書字中心言語はいかに生れたか;書字中心言語の文化の特質)
    第3章 日本語は二重言語である(二重複線言語とは何か;二重複線言語形成史;二重複線言語の文化;二重複線言語の美学)
    第4章 書字中心・二重言語の現在と未来(二重複線言語の近代・現代;二重複線言語の現在)

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    [ 参考となる書評 ]

  •  新聞にコンピューターの文字コードに関連した書き物があり、その中でこの本の事が触れてありました。一寸興味を引く紹介だったので読んでみました。内容は文字(特に書字)を切り口にして日本文化(日本のありよう)を談(断?)じたモノです。この様なことにまで書字の影響があるのか(あると考えられるのか)と驚かされました。私が最も印象に残った箇所を紹介します。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    「声と文字」という誤謬

     話し言葉と書き言葉を、声(音声)言語と文字言語というように表記することがある。ひとまずそれで意味は了解されるものの、厳密には、声と文字(印刷文字)とは対応する位置関係にはない。にもかかわらず、これらを対応するものとして措定するがゆえに、書き言葉(実際には書かれた言葉)に対する初歩的な誤解が生じ、また、ワープロという機械に隷属した詩人や作家が生れ、小中学生にワープロ作文を教えるという文部省の愚民政策が生じてくる。
     たとえば、二十一世紀の初頭に人工音声発生機という機械が開発され、やがてこれが小型化して携帯可能になったとする。この携帯用人工音声発生機は「アメリカでは七十五%の人が持ち歩いている」「きたない声を出さずに済むようになった」「喉が疲れない」「速く話せる」とかの理由で、爆発的に流行し、喫茶店で向かい合って座った男女が、人工音声発生機のキイを押して、人工合成音声で、「コンニチワ」「ヤアゴブサタ」などと会話しているというような場面を想定できるだろうか。おそらく、そんなばかなと一笑に付すに違いない。声が出るのだから、直接相手に話しかければよいからだ。
     しかし、我々はこのような作り話を笑えない。なぜなら、ワープロは、この人工音声発生機の書き言葉版に他ならないからだ。
     手もあり、紙もあり、筆記具もあるのだから、自らの手で書けばよい。それで済む。それなのに、わざわざ機械の前に座ってキイをたたいて、人工合成文字を並べている。これは前述の人工音声発生機で会話するがごとき奇怪な現象ではないだろうか。
     人工音声発生機は、声を失った人には福音であろう。同様にワープロもまた手の不自由な人には役立つ機械である。むろん浄書機や事務機としては有効で役立つ。上手につきあい、うまく使いこなせばよい。だが、それら以上のものではない。ところが、文学表現や初等中等教育、私信などにまでワープロが使用され、文部省や学校はこれを積極的に推進している。これは、前述の人工音声発生機による会話を進めるがごとき愚かな施策である。
     なぜ、このような愚かしい事態が蔓延するのか、それは、声と文字(印刷文字)とが対応するという錯覚に陥っているからである。
     声に対して文字(印刷文字)は対応することはない。肉声にほかならない声に対しては肉筆が対応し、人工合成音声(印刷文字との対応で「印刷音声」とも言える)が印刷文字(人工合成文字)に対応する。
     ところが、肉筆の文字も印刷文字も、ともに文字であるという錯覚、それどころか、印刷文字こそ文字の典型であると考えるような倒錯が、肉声ではない人工音声発生機を噴いつつ、肉筆ではないワープロのキイをせっせとたたくという、奇怪な事態を生んでいるのである。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     GEのジャック・ウエルチ氏の直筆の手紙に通じるところがあるようにも思います。私の下手な文字でも、このような電子メールより良い場合もあるのかもしれません。

     なお、著者は京大法学部出身の書家です。(でもなんで法学部なんだろう?)

  •  ある種の手品を見ているような気にさせられる本である。出るはずのない場所から鳩が現れたり、こちらが持っている札をピタリと当てられた瞬間に立ち上がって来る驚愕を随所で感じてしまう。手品に使われる道具は――漢字のみである。

     <a href="http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20010228/p1" target="_blank">http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20010228/p1</a>

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著者プロフィール

書家。京都精華大学客員教授。1945年福井県生まれ。京都大学法学部卒業。1990年『書の終焉 近代書史論』(同朋舎出版)でサントリー学芸賞、2004年『日本書史』(名古屋大学出版会)で毎日出版文化賞、同年日本文化デザイン賞、2009年『近代書史』で大佛次郎賞を受賞。2017年東京上野の森美術館にて『書だ!石川九楊展』を開催。『石川九楊著作集』全十二巻(ミネルヴァ書房)、『石川九楊自伝図録 わが書を語る』のほか、主な著書に『中國書史』(京都大学学術出版会)、『二重言語国家・日本』(中公文庫)、『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫)、『説き語り 日本書史』(新潮選書)、『説き語り 中国書史』(新潮選書)、『書く 言葉・文字・書』(中公新書)、『筆蝕の構造』(ちくま学芸文庫)、『九楊先生の文字学入門』(左右社)、『河東碧梧桐 表現の永続革命』(文藝春秋)、編著書に『書の宇宙』全二十四冊(二玄社)、『蒼海 副島種臣書』(二玄社)、『書家』(新書館)、作品集に『自選自註 石川九楊作品集』(新潮社)、『石川九楊源氏物語書巻五十五帖』(求龍堂)などがある。

「2022年 『石川九楊作品集 俳句の臨界 河東碧梧桐一〇九句選』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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