フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
- NHK出版 (2004年1月30日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (110ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140093115
作品紹介・あらすじ
心の中に所有できない現実世界が、それでもなお、意識にもたらされるのはなぜか?客観主義の常識をうち砕く、現象学の冒険。
感想・レビュー・書評
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これもフッサール哲学なのだろうが、自分にはいささか退屈だった。
ただ、真理、定立、信念などの言葉遣いは新鮮だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者はフッサール解釈を、3つの種類に分類する。第一は、基礎づけ主義者としてのフッサール解釈、第二は、生の哲学者としてのフッサール解釈である。現代的な観点からフッサールを読みなおす試みには、この第二の観点に立ったものが多い。そして第三が、反自然主義者としてのフッサール解釈である。著者が本書で語るのは、この第三のフッサール像にほかならない。
近代哲学は、表象の概念を哲学的問題の中心に据え、私たちが直接認知するものは外界の事物や抽象的真理ではなく、私たち自身の心のなかにある観念だという立場を採った。しかしこうした心の中の観念は、実在について正しいことを表現しているのだろうか。心の中の観念を中心に考察を続ける限り、表象の正しさを問う規範的な問題は哲学の埒外に取り残されてしまうことになる。
フレーゲは、真理値を持つ文を中心にみずからの思想を構築することによって、哲学の世界に言語論的展開をもたらし、近代哲学の表象中心主義から脱する道を示すことになった。そして著者によれば、フッサールもまた、志向性の概念をみずからの思想の中心に置くことで、私たちの意識が世界にどのような仕方でコミットしているのかという規範的な問いに踏み入ることになった。
本書では、フッサールの「志向性」を中心とする思想が、こうした規範的な問いにつながっていることを、できるだけシンプルに読者に伝えることがめざされている。著者は、フッサールがフレーゲのような文中心の発想を取らなかったにもかかわらず、信念の志向的性格について探求をおこなうことでフレーゲに始まる現代哲学と重なり合うような問題圏に踏み込んでいったことや、言語表現を獲得する以前の知覚の場面から志向性が立ち上がってくることへの鋭い分析をおこなっていたことを明らかにしている。 -
[ 内容 ]
心の中に所有できない現実世界が、それでもなお、意識にもたらされるのはなぜか?
客観主義の常識をうち砕く、現象学の冒険。
[ 目次 ]
第1章 フッサールの心の哲学―世界を表象することの転換(心は特別な存在;クオリアと志向性;志向性の二つの特徴 ほか)
第2章 言語表現とは何か(フレーゲの意味論;表現の抽出―「第1研究」の目指すもの;連想的な「動機づけ」の確立と排除 ほか)
第3章 真理へ向かう存在としての私たち―志向性の理論(表象主義2の完成へ;エマの概念;ドクサの概念―真理へ向かう存在 ほか)
前途瞥見―表象主義から表現主義へ(連続と断絶―知覚の位置をめぐって;表象主義から表現主義へ)
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[ 参考となる書評 ] -
目の前に広がっている世界は、確かに私にとっては私自信の意識においてしか接近できないものではあっても、私の意識の内部を超えでてしまっているもの、私が自分の体験の領域のうちに所有し尽くせないものとしてある。いわば世界は私を超越している。
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なんかいっつも同じとこでひっかかる。
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志向性とクオリア。世界はどうやって僕らに現れるか。
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心は難しい。