人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)
- NHK出版 (2004年8月31日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (300ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140910115
作品紹介・あらすじ
認知科学や進化心理学、脳科学などの最新知見によって、思考や感情に生得的なパターンが存在することが明らかになった。しかし、人間の本性をめぐる科学は、不平等や差別を正当化し、社会変革をつぶすのではないかという敵意や恐怖心が存在する。豊かな人間本性の発見が、平等・進歩・責任・人生の目的を損なうどころかむしろ向上させることを明らかにし、心を「空白の石版」とみなす相対主義的思考が、普遍的な人間性や生得的特性を否定することで、硬直した人間観・社会観につながることを明快に説く。
感想・レビュー・書評
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上巻で展開された「人間はブランクスレートでなく遺伝的な要素も大きい」となると決定論的な極論が生まれやすいが、むしろ遺伝的影響を正しく見据えることこそが、人間を正しく理解することに繋がり、その可能性を見出すことができると提言したチャプターを擁する中巻。
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認知科学や進化心理学、脳科学などの最新知見によって、思考や感情に生得的なパターンが存在することが明らかになった。しかし、人間の本性をめぐる科学は、不平等や差別を正当化し、社会変革をつぶすのではないかという敵意や恐怖心が存在する。豊かな人間本性の発見が、平等・進歩・責任・人生の目的を損なうどころかむしろ向上させることを明らかにし、心を「空白の石版」とみなす相対主義的思考が、普遍的な人間性や生得的特性を否定することで、硬直した人間観・社会観につながることを明快に説く。
上記は講評は本書の袖に書かれている。人間は生まれたときはまっさらの状態であって、人がどのように育つかは環境による、というのは今日の社会倫理のようになっている。ピンカーはこれを指して「人間は果たして空白の石版のようなものなのか?」と問う。人にはさまざまな先天的気質があるが、しかし必ずしもある血筋によって分かれるものではない。ある兄弟が、一方は保守的、他方は革新的な志向を持つということはふつうにある。長男の気質、次男以下の気質というのは家庭環境にあると考えがちだが、育つ環境を変えてもそのことは残るという。となると、短気、執着性、集中力などは(平均値に対して)それなりの振れ幅があるということになる。その上で、気質に添った生き方、性格の形成があるのであれば、それを優生論や差別主義と同義に語るべきではないということを、主に著者の立ち位置を明確にし、差別主義者であるという批判をかわすために論を展開しているのが、「中巻」の役割だと言える。 -
サイエンス
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上中下の中巻
中巻は、上巻で心が空白の石板でないのはわかったとして、
空白の石板仮説がくずれたら人間も社会もおかしくなっちゃうんじゃないの?いや、そんなことありませんよ。
というⅢ部と、
けっきょく空白の石板じゃない人間本性ってどうなってるの?
それをただしく認識するとどう変わるの?というⅣ部からなってます。
Ⅲ部は不安なひとが読むといいと思います。説得されるかどうかはべつですが。
基底にあるのは、科学によってあきらかになった事実をどう使うかは事実そのものとは関係ないよ、という話かと思います。
Ⅳ部は進化心理学を読むいやらしい面白さというか、みんなこう思ってるけどほんとはこうなんだぜ、というのが感じられて楽しいです。ただ、ピンカー先生はやさしいのであまり暗くならないように気を使ってくれますよ -
160430 中央図書館
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殊勝ぶった動物の章が、道徳の話でおもしろかった。
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2015.11.5
途中で断念。人間の生得的な本性の存在を否定する人らの言説を批判し、その存在の根拠を述べたのが上巻だったとして、この中巻ではさらに、Ⅲにおいてこの生得的人間本性説に対する懸念事項をすべて論駁し、Ⅳではその本性について述べている。Ⅲでは、生得的な本性が人間にあるならば、それは差別に繋がるのでは、それは性悪のまま変更不可なのでは、それは予め決定された行動を生み出し人間の自由はなくなるのでは、それは人生の意味を無化するのでは、という4つの懸念をあげ、それらを否定する。そもそも、問題を過度に広げて繋がらない部分を繋げているんだなと思った。生得的差異はある。しかしそれは例えば私と私の妹は違うということだし、その差異は上下の価値判断を含まない。人間本性は野蛮な野蛮人であるが、だからこそ教育の意味があり、そして人間は環境や文化から学び得る。人間の行動は予め決定されているのかという問いも、例えば今私がこうやって書いてるレビューも予め決定されているのか。逆にこれが機械の中の幽霊による行動なら、幽霊に決定されているとは言わないのか。そもそも自由とは何かという話になる。人生の意味についていえば、この生得的要因は、我々が狩猟採集民族だった頃のままであり、その時の環境に適応できるようになっている。しかし今や定住かつ超情報化社会である。生物学的な欲望は究極要因であり、我々が生きる意味を見出したりそこに向かって生きるという至近要因とは違う、混同してはならない。そしてⅣでは、人間のこの生得的な本性の実態に迫る。概念、言語、イメージに関する生得的認知能力や、直観物理学、直観生物学、直観工学、直観心理学、空間感覚、数の感覚、確率の感覚、直観経済学、心的データベースと論理、言語など。これだけの複雑さを兼ね備えた上に、教育によってさらに環境に適応できる人間の脳の複雑さと素晴らしさは驚嘆である。また教育に関しての見解が印象的だった。子どもは「特定の方法で推論や学習をするための仕掛けの入ったツールボックスを備えており、それらの仕掛けをうまく使って、本来の目的とはちがった問題を克服しなくてはならない」(p.162-163)。本来の目的と違うのは、前述のように我々の脳は狩猟採集生活に適応していて、そこから進化しきれてないからである。この進化的に適応した環境と実際の現実環境の差異が、人間の教育の必要であり、そして人間の不幸の原因とも言えるかもしれない。また、道徳感覚や自尊心も予めプログラムされているらしい。凄いな人間の脳みそ!ただちょっとこういう、言わば自我以前の人間学への興味は薄かったのでここで断念。また気が向いたら読みたい。 -
貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784140910115 -
なかなか難しい。
人を人たらしめるのは、はたしてその生物的要因(遺伝子)であるのか、経験であるのか。
結局のところ、それは「どちらの要因もある」と考えるのが妥当だと思うのだけれど。
そこに「道徳的に○○であらねばならない」等という概念を持ち込む人は、確かに多い。例えば、「人は生まれながらにしてその素養はある程度差が存在する」という事実に対して、平等論者はそれを不道徳として攻撃するし、機会平等や結果平等の区別もついてなかったりする人もいる。
この「道徳」の問題は、かならずしも人間性に関する研究だけじゃなくて、他の分野でも幅を利かせすぎている気がするんですよねぇ……
己の絶対的正義を信奉する人はいてもいいのだけれど、それを他人に押しつけるのはやめていただきたい、と思うのだけれどなぁ。脱線。