集中講義! アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険 (NHKブックス)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (291ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140911204

作品紹介・あらすじ

格差社会から地域紛争まで、喫緊の課題をどう読み解くか。現実的な社会変革をめざす思想として、近年注目されるアメリカ発のリベラリズム。社会全体の「平等」と個人の「自由」の両立を構想することで、自由をめぐる現代的課題を考察したロールズの正義論からリバタリアニズムにコミュニタリアニズム、ネオコン思想まで。リベラリズムを中心とするアメリカ現代思想のあらましを、時代背景とともに明快に解説し、日本をはじめ現代の思想状況にリベラリズムが与えた影響を探る。

感想・レビュー・書評

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  • アメリカはナチスやソ連といった「自由の敵」がいたので、共産党や社会主義が根づかず、原理的に経済的な古典自由主義が憲法の原理と相まって基礎にあった。他方で、南北戦争以後も黒人差別があり、フェミニズムと結びついて弱者の文化的多様性における、もう一つの自由としてリベラルを名乗る政治家知識人が出てきた。そこから黒人革命などの国家転覆的ラディカル思想と、それに反発する古典自由主義を含めた右派保守派の間で、憲法体制内部での改革を目指すリベラルが理論的支柱としたのが、ロールズ『正義論』である。訳書の引用一覧を見ると、論敵であるミルやベンサムの功利主義に触れ、社会契約説の文脈でホッブズ、ロック、スミスに触れる一方、アリストテレス、ルソー、ヒューム、特にカントの引用が多い。たしかにルソー『社会契約論』の自由平等の議論や、それを引き継ぐと思われるカントの道徳概念に近しい部分がある。
    ロールズの福祉的再配分と政治経済的正義リベラリズムを受け、古典自由主義のように福祉国家を悪とするノージックらのリバタリアンや、建前の正義だけでは古代ギリシアから中世社会の道徳的共通善を見出せないとするサンデルらのコミュニタリアンが出てくる。リバタリアン的な新自由主義路線を英米が取り格差は広まる一方、リベラルから派生した差異の政治のポリティカルコレクトネスに、反発するキリスト教原理主義のような伝統回帰的な保守派が現れたりと、政治経済両面で深い対立が露呈する。
    ロールズは「公正としての正義」で、私的な信念を共有する必要はなく、政治的公的領域において、望ましい社会的秩序イメージが重なり合っていれば正義の原理について合意ができるとしている。ローティは、それを社会理論に哲学的道徳的基礎づけは不要とする、哲学に対する民主主義の優位として評価しており、分析哲学にポストモダンとプラグマティズムを繋ぎ、引き継いでいる。ネグリハート『帝国』で、ポストモダン左派差異の政治側からリベラリズムの議論に踏み込み共通基盤ができるかに見えたところで、9.11テロにより分断が進み、リベラリズム知識人も亡くなっていき、アメリカにおける議論は停滞する。しかし、哲学思想のグローバリゼーションにより政治社会思想はアメリカ基準となる。
    日本において、自由民主主義、九条-安保体制、大量消費文化は、アメリカ抜きで思考できない。マルクス主義、実存主義、フランス系現代思想によって隠蔽あるいは忘却されてきた。
    差異の政治など、日本のリベラルがアメリカ現代思想の影響を多大に受けながら、その実、ナイーヴに形骸化してしまっている現況に対して、その核となるアメリカ政治史を軸に、様々な思想家の著書の要約が影響関係で配置され、極めて明快な見通しを与えてくれる著作。コラムで日本思想史と対比されている面も非常に良い。
    ・序
    日本ヨーロッパから見ると、実用思考の新興国アメリカは実証実利的学問に強くても、抽象的理念的哲学思想には向かないように見えていた。トクヴィル『アメリカの民主政治』、アメリカは哲学に無関心だが、それは自分の頭で思考する知的自由、自分で見たものだけ信頼する合理的精神の現れ。ヨーロッパ哲学からは、浅はかに見えた。
    プラグマティカル、パースの認識における概念分類のための文脈で、カント実践理性的なプラクティカルに対比して、仮説や条件の絶対性に依拠しない行為。ジェイムズの真理観世界観に拡大され、既成概念抜きの経験主義的アメリカ哲学を指すようになった。デューイは行動に焦点を当てる。教科書的な意味でのプラグマティズムはデューイに則していて、概念は暫定的道具で、真偽の基準を有用性や機能性に求め、理論と実践は不可分とされる。アメリカでも1960以降フランクフルト学派、マルクス主義新左翼が台頭するとふるわなくなる。日本では西田幾多郎『善の研究』ジェイムズ純粋経験と仏教の無を結びつける。夏目漱石、大杉栄に影響。鶴見俊輔『思想の科学』、善玉ソ連悪玉アメリカ的な日本の硬直性を緩和させるためにプラグマティズムを紹介、市民派。清水幾太郎、民主主義を支えるプラグマティズム。1980後〜90初アメリカ発哲学が、フランスポスト構造主義、ドイツ観念論・現象学を傍流に追いやった。英語さえ読めれば研究者になれるようになった。アメリカへの哲学思想のグローバリゼーションの要因は、アメリカ版ポストモダン思想、分析哲学、リベラリズムの三つがある。
    ポストモダン思想の文芸批評は、パース記号学と結びついて独自の発展を遂げた。ポールドマン、デリダ脱構築を応用したヒリスミラー、ジョナサンカラー。ラディカルフェミニズム、ポストコロニアルと結びつき、ジェンダーや文化的差異を強調することで西欧近代の同化圧力から解放する差異の政治を展開。ガヤトリスピヴァク、植民地下の女性の物語論的テーマ化。ジュディスバトラー、文化的表象のジェンダー固定化に対し、政治的介入と身体パフォーマンスにより組み替える。エドワードサイード、オリエントの表象的恣意性。アメリカポストモダンは、さらに都市論、メディア論、カルチュラルスタディーズと領域を広げる。
    分析哲学は、オーストリアの論理実証主義ウィーン学団、ゴットロープラッセル・バートランドラッセル記号論理学、ウィトゲンシュタイン言語分析を総合的に継承する。内面ではなく、言語や概念の批判的分析。問題を明確でコンパクトに定式化し、文学的多義的な概念文言説の排除し、厳格な定義で曖昧な解釈の排除し、論理的首尾一貫性のある体系を目指す。ナチスからの亡命で、カルナップ、ゲーデル、タルスキーがアメリカ移住。ラッセル、ウィトゲンシュタインのケンブリッジ、オクスフォードの日常言語学派との英語圏としての交流がアメリカにはあった。ドイツフランスの新たな哲学者の不在に対し、クワインのネオプラグマティズム、ドナルドデイヴィドソン、ヒラリーパトナムの分析哲学。分析哲学は、認知科学、脳科学、言語学、コンピュータサイエンス、情報科学、生物学、理論物理学と結びつき拡張。ロック、ヒューム、カント、フッサール、ハイデガーを再解釈の過程で学べる強みもあった。黒田亘による紹介があったが日本には浸透しなかったが、90年代に最前線となった。
    リベラリズムは、1971年ロールズ『正義論』で自由主義の政治法哲学的再定義で、平等に近い公正と、自由と両立させる正義論。制約を排するリバタリアニズム自由至上主義、共同体の自由制約を認めるコミュニタリアニズム共同体主義へ発展した。分析哲学的に、自由平等公正を数学論理学のように厳密に定義して関連づけられる。リチャードローティのネオプラグマティズム、トマスネーゲルの心の哲学。責任、人格、自由も分析哲学の一分野。応用倫理学(生命倫理、環境倫理、情報倫理など)には、分析哲学とリベラリズムの議論が合わせて参照される。文化的不平等は共通するが、差異の政治の外的権力・言説へのラディカルな改革を標榜するのに対し、リベラリズム系は内面の介入不可能性を前提して制度面の平等に限定する。市民としての男女平等のリベラルフェミニズム、文化集団ごとの自治を認める多文化主義などがあり、それぞれ核家族解体のラディカルフェミニズム、文化アイデンティティ脱構築のポストコロニアル、カルチュラルとは対立する。89〜91年ソ連崩壊によりマルクス主義的ラディカル思想が非現実的となったため、自由主義資本主義を前提し、改善・公正確保の現実的社会変化思想としてリベラリズムが注目されるに至る。本講義の目的は、ポストモダンや分析哲学の包括的な流れではなく、自由(自己決定→自己責任)の再定義であるリベラリズムの議論至った理由に焦点を当て、戦後日本を規定してきたアメリカの思想的課題を明らかにすること。1ロールズ『正義論』のアメリカの社会的背景、『正義論』、2『正義論』に対するリバタリアンコミュニタリアンの批判、保守主義ポストモダン思想との遭遇による展開、3ポスト冷戦期、同時多発テロ、日本への影響。
    ・1
    前後すぐの自由の敵は全体主義だった。民主党フランクリンローズヴェルト、1941年の年頭教書演説「四つの人間の自由」表現、信仰、欠乏から、恐怖からの自由に基づく世界建設。イギリスのチャーチルと共同で自由貿易と経済協力、福祉増大、欠乏恐怖からの自由などを目指す大西洋憲章。冷戦により、ソ連が全体主義の権化、自由の敵となる。日独伊の民族共同体的全体主義は前近代的復古主義だったので、アメリカは近代的自由と進歩を強調しやすかった。しかし、ソ連のマルクスレーニン主義は、生産財を公有化する社会主義経由の普遍的進歩的な来たるべき共産主義なので、アメリカは相対的に保守的になる。アメリカでは共産系は勢力にならず、アメリカ労働総同盟AFL、産業別労働組合会議CIOか1930後半から協調路線によりマルクス主義も限定的。民主党トルーマンによる自由な人民支援トルーマンドクトリン=反共思想。西側自由諸国と北大西洋条約機構NATO、非米活動委員会による共産主義者取り締まり、共和党ジョセフマッカーシーによる国務省共産党員摘発マッカーシズム。あらゆる思想世界観を許容するはずの自由主義が、共産主義を許容しない全体主義的な様相を呈するという逆説。リベラリズム系の政治哲学や倫理学の問題の原点。自由の本質論二つ。両者に共通なのは、自由精神を守ることが困難、自由放棄で権力に委ねる楽を選ぶ傾向、すなわち内部に全体主義の脅威がある。
    アメリカへ亡命した社会心理学者フロム『自由からの逃走』、フランクフルト学派マルクス主義と精神分析による社会分析で、個人が責任を伴う自由を重荷に感じ、外的権威に従う権威主義的性格、すなわち意志や自己を持たず、他人の期待に応え自己同一性を確認する。そのために個人の自由と両立させる計画経済。
    ロンドンスクールオブエコノミクス教授で著書がアメリカで注目された経済学者ハイエク『隷従への道』、自由主義を政治社会哲学的に擁護。計画経済こそ自由の放棄と隷従化で、ナチス国民社会主義同様、一元的決定の独裁であり全体主義への道である。人々は自由と引き換えに安全と保障を得ようとするが、選択の自由を保障する市場競争を国家が抑圧してはならない。
    ハンナアーレント『全体主義の起源』、19世紀反ユダヤ主義、帝国主義、ナチズム、そしてもう一つの全体主義としてスターリン主義ソ連を名指す。産業構造変容、階級解体、大衆社会化、国民的一体感喪失などによりアイデンティティを失い、孤立感が全体主義の起源。ナチスや共産党の統一のイデオロギーでわかりやすく説明する世界観政党が、アトム化した不安定な大衆を引きつける。自由の本質は、複数性あるいは人々の運動の空間。絶えず変化があり、多様性が生まれる状態。価値観やライフスタイルの多様性を許容する多元主義とも言えるが、アーレントが強調するのは、各人のパースペクティヴ(ものの見方)が異なることを前提に、多様なコミュニケーションが展開する「余地=空間」があること。『人間の条件』、アリストテレス以来の政治における、共通の物語を作る非暴力的討論の公的領域と、暴力と生物的欲求の裏の私的領域の二分法。近代では奴隷がいなくなったので、経済の問題が家から政治のテーマになり、物質的利害関係から自由な討論が難しくなった。ハーバマス『公共性の構造転換』、ブルジョワジーの市民的公共圏の政治的機能をポジティヴに評価。しかし、アーレントは各人が利益を主張すれば国家・市民社会の公共利益の討論は難しくなるという。複数的思考がなくなれば共産主義的になる。
    1956.2フルシチョフのスターリン批判、しかしハンガリー民衆運動弾圧、ベルリンの壁、大陸間弾道ミサイルICBM、スプートニク、キューバにミサイル基地。ケネディによる撤去要求。ソ連中国の国際共産主義主導権の対立。アジアアフリカ第三世界への、ソ連による社会主義型開発モデルでの援助。ソ連東欧第三世界の反帝国主義、反植民地主義。アメリカ、土地改革・民主化のラテンアメリカ「進歩のための同盟」。南ベトナム解放民族戦線、アメリカの自由に反抗する、もう一つの自由。アメリカの経済援助による権力維持は、帝国主義の傀儡、支配の正当化。アンドレグンダーフランク、サミールアミン従属理論。民主社会を求める学生同盟SDS、キューバベトナム民族自決を認めないアメリカへの批判。左の全体主義ソ連が薄れ、アメリカの自由が肯定できなくなった。
    アーレント『革命について』、liberation解放は、拘束抑圧からの解き放たれるだけで自由をもたらすわけではない。freedom自由は、討論し共通の理想を追求する状態。アメリカ革命(独立戦争)。共感→解放が暴力となったフランス革命、ロシア革命。アメリカ州ごとに法政治体制が異なり、連邦政治も変更可能性があり、地区郡郡区での住民討論自治がある。個人の幸福追求の自由よりも公的自由、共和主義。
    ハイエク『自由の条件』、デカルトルソーロベスピエールの合理主義的革命のフランス系自由に対し、ヒュームスミスバークの慣習伝統経験主義的道徳哲学のイギリス系自由が真の自由であり、アメリカはイギリスから継承している。合理主義は、人間の普遍的理性に基づくため設計主義。経験主義は、理性の限界と無知から各人の自由による試行錯誤の経験が進歩の条件。社会保障は最低限必要なものに留めるべきで、再配分の設計主義で経験知を妨げてはならない。労働意欲低下、インフレ、労組権力増大のイギリス批判。ニューディール政策からの設計主義傾向への連邦最高裁の抵抗は、アメリカの自由な憲法の評価としてアーレントとも共通。
    フリードマン『資本主義と自由』、貧困と紛争の解決は市場の自動調整機能に委ねるべき。公共事業の政府支出増加は民間支出を低下させる、政府は競争ルールの整備監視に限定されるべき。公共性の高い産業への政府参入は非効率、負の所得税のような最小限の保障に止めるべき。
    ・2
    自由の前提となる、市民としての平等を求める黒人公民権運動、フェミニズム運動。南北戦争後も、奴隷でなくとも差別は続いた。交通機関、レストラン、学校の分離、投票権制限。黒人の戦争参加、国防工場参加で要求が高まる。黒人分離の学校は不平等であるというブラウン判決に対し、南部の抵抗、学校閉鎖マッシヴレジスタンス、サザンマニフェスト。アイゼンハワー第101空挺師団による黒人生徒エスコート。アーレント「リトルロックについて考える」統合のみを解決策とするのはおかしい、子どもに重荷を背負わせる。リベラル派(人種性宗教差別反対)の猛反発。黒人女性がバスで白人への席を拒否し逮捕されたことへの抗議、キング牧師バスボイコット運動、南部キリスト教指導者会議SCLC、白人ランチサービスカウンターへの黒人学生のシットイン座り込み抗議。黒人が白人専用施設を利用したバス旅フリーダムライドへの白人団体と地元警察からの暴力。ケネディ公民権法案「法律上ではなく道徳的危機」、公民権団体集結のワシントン大行進におけるリンカーン記念堂のキング牧師演説。1964.7ジョンソン大統領下で差別違法化の公民権法成立するも、黒人有権者闘争激化、黒人解放革命ブラックパンサー、黒人独立新アフリカ共和国。
    フェミニズム、第一波女性参政権運動。第二波の転機は、ベティフリーダン『女という神話』、主婦アイデンティティによる選択制限。全米女性機構NOW、ウーマンリブ女性解放、男女平等憲法制定、職場平等、人工妊娠中絶合法化、保育所補助のリベラルフェミニズム。そこから別れたラディカルフェミニズムがさらに、男性中心主義の解体、ミスコン反対デモ、同性愛者運動へ。伝統的家族観倫理観から反発。アメリカの自由の根本的対立。
    女性や黒人などマイノリティ優遇措置アファーマティブアクション積極的是正措置、偉大な社会構想。ハイエクフリードマンの古典的自由主義(経済的自由)に代わり、欠乏からの自由という意味で福祉雇用対策の政治家知識人がリベラルと名乗り出した。アメリカは元々自由主義なので、社会(民主)主義に近い人々がリベラルと呼ばれ、財政政策のケインズ主義と相性がいい。さらにリベラルは、異文化に寛容で、差別や排除に反対する。変化に反対する人々が保守派、右派とみなされ、対立軸的にハイエクフリードマン的経済的自由主義も保守派扱いされるようになった。リベラルはあくまでアメリカ憲法内の改革であるため、黒人解放革命やラディカルフェミニズムなどは受け入れられない。ロールズらリベラリズムの議論は、リベラルのための思想。寛容なリベラルは、外交軍事で選択が困難になる矛盾を抱えている。ベトナム戦争では、社会主義の北ベトナムとその背後のソ連がいる中で、南ベトナム解放民族戦線を支持できない。アメリカ駆逐艦と北ベトナム艦艇の衝突トンキン湾事件、アメリカ報復攻撃、第二次世界大戦以上の兵士爆弾、枯葉剤、南ベトナム旧正月テト攻勢によりアメリカ大使館占拠。アメリカ国内で反戦的世論。SDSら新左翼、キング牧師公民権運動あわせて40万人のデモ。フォークソングロックフリーラブドラッグヒッピーのカウンターカルチャーの聖地カリフォルニア大学バークレー校が中心地となる。新左翼思想が市民運動に浸透。フランス西ドイツイギリスイタリアカナダ日本で新左翼系学生運動。社会哲学者ヘルベルトマルクーゼ、社会学者ライトミルズがアメリカ新左翼に理論的影響を与えた。
    マルクーゼ『エロス的文明』、文明は性抑圧によって成立し、資本主義の疎外などを取り除くには、性本能を解放し遊びと労働を一致させ、抑圧なき文明を示唆。『一次元的人間』、管理支配に順応していく一次的人間は、テクノロジー信仰大衆文化広告によって消費イデオロギー幻惑されているが、そこから排除されるマイノリティは抵抗し始めている。労組リベラルに頼らない新左翼の思想。
    ミルズ『ホワイトカラー』、ホワイトカラーが官僚主義的組織の中で現実を変化できないことに対する無力感と、政治的無関心になるメカニズム。『パワーエリート』、政府大企業軍幹部などの権力層パワーエリートが、既得権益のためメディアなどで大衆の意識操作をしている。『社会学的想像力』、タルコットパーソンズ機能主義的システム理論を多様性捨象だと批判し、歴史や個人の特性に配慮すべき。オルタナティブを目指すラディカル思想は、市民社会枠内のリベラルにとって脅威。共和党ニクソンがラディカルを嫌うサイレントマジョリティにアピールし、保守派が盛り返す。ニクソンドクトリンでベトナム戦争から手を引く。米中共同声明、弾道ミサイル制限条約ABM、戦略兵器制限交渉SALTI。国内ではマイノリティ雇用の改訂フィラデルフィアプラン、現金給付の補足的保障所得SSI、職業訓練、環境政策。連邦最高裁が中絶権を認める。保守が左に寄り、リベラルの立場がなくなった。
    リベラルの哲学としてロールズ『正義論』、マイノリティへの不平等と左派思想への不寛容を抱えた中で、アメリカ市民の政治的アイデンティティを再定義。
    ジョージエドワードムーア『倫理学原理』、メタ倫理学(分析倫理学)、善正義徳などの判断や意味の言語的分析。ドイツ観念論は、非現実的。功利主義は、最大多数に含まれない人への不正が正当化されてしまう。
    正義justiceを公正さfairnessで捉え直す、ルールを守ることの哲学的意味。
    「公正としての正義」、フェアであると合意した社会契約があるとみなせることが正義の条件。自他の行動が正義に適っているか判断し責務を課す正義感覚を擦り合わせて、正義の原理を導き出す。
    「憲法上の自由と正義の概念」、異なった人々が一緒にプレイできる枠組みを憲法が設定しているということが、自由の条件。アーレントが政治的平等のみに言及したのに対し、ロールズは経済的不平等(格差)も射程に入れた。正義の第一原理、自由であることに対する平等な権利。第二原理、社会的経済的不平等がどれだけ許容できるかを予め設定すること。「配分における正義」社会主義とは異なった、不平等是正政策についての簡単な見取り図。「市民的不服従の正当化」正義に反する法や命令には非暴力的抵抗と不同意をアピール。
    ヘンリーデイヴィドソロー「市民的不服従」1849、政府が公共利益の機能を果たしていれば暴力革命は必要ないが、不正な法には、罰せられたとしても不服従する、市民的不服従を思想的に裏付け。ガンジーイギリスのインド支配抵抗やキング牧師公民権運動に影響。ロールズは憲法に照らして不正義であれば不服従も正当化しうる。
    社会契約説的に正義の原理が採択される原初状態を想定する。歴史的始原の自然状態ではなく、あくまで仮説の原初状態。各自の正義感覚に基づいて正義の諸原理を採択し、諸原理に基づき憲法設定、憲法制約に基づき個々の立法とするが、各立法の手続きによる多数決など決定が正義とは限らないため、不服従の余地がある。行動と違い、判断は権威に服さない。多数者に服従することは憲法の要請ではない。
    『正義論』、正義の第一原理、自由が平等、第二原理、社会的経済的不平等は、a合理的で、bすべての地位や職務に付随するように取り決めされるべき。
    第二原理の解釈は各二通り。
    a[最大多数最大幸福]効率性原理、[弱者効用最大化]格差原理
    b[親の財産・コネを含めた]才能によるキャリア平等、[偶然要素を除いた]公正な機会均等。
    いずれも後者が採用されるべき。民主的平等。競争力のある人間に社会を豊かにしてもらって、弱者に還元するシステム。社会主義的平等と異なり、自由選択の余地があり、平等と自由を両立させる。全面的な配分は能力のあるもののやる気を削ぎ、結果的に弱者も恩恵を受けない。自分の位置を知らないという前提の無知のヴェールを想定すれば、弱者の期待便益最大化に合意するだろう。立ち位置を忘れることで、全員が納得できる最適の原理を選ぶように努力すべき。合理的な人間であれば、平均的人間ではなく、最も不利な人の視点に立つ。最悪の事態のリスク回避。保険や年金に加入するときは無知のヴェール。「情けは人の為ならず」。しかし、無知のヴェールは現実には存在しない。
    正義は互いへの尊重の公共的表現、自身に価値があるという感覚を確保できる。偶然性を抑え、社会の構成において相互尊重を表明することは、合理的で自尊心を保証する。
    ロールズは、リベラリズムのテーマを体系化し、正義の原理に根差したリベラルな社会の見通しを与えた。
    →アメリカンヒーロー
    ・日本1960年代
    平和条約と同時に日米安保条約、西側自由主義陣営へ。55年体制、自民党、左右社会党、共産党平和主義。自民党の外交・安保政策を前提した経済・社会制度のアメリカ化に対し、左派がアメリカ資本主義化を止める構図。社会主義政権ではなく、9条護憲に基づく日米安保、自衛隊批判。2/3を占める保守は反共反ソなだけで、リベラルも含まれていた。アカデミズムは圧倒的左派優位で、現実政治とのギャップが特に顕著だった。マルクス主義だけでなく、丸山眞男、都留重人、鶴見俊輔、清水幾多郎ら市民派もいた。アメリカリベラルに近い。マルクス主義と共同し、護憲-反安保が左派のアイデンティティとなった。小田実、ベトナムに平和を!市民連合は、カウンターカルチャーを取り入れたアメリカスタイルの運動。
    ・3
    ロールズ『正義論』現代リベラリズムの最重要古典。アリストテレス、ホッブス、ロック、ルソー社会契約論、カント、功利主義などの歴史を踏まえて公正としての正義を再定義する体系的記述。イギリス厚生経済学の功利主義と対比して、配分的正義の格差原理を提示。現実的な問題に適用可能な実質的倫理。
    厚生経済学者ケネスアロー、各人の選好(選択肢・程度の価値観)を尊重する限り、全員一致で社会的正義概念を採択することは不可能。
    →社会契約は暫定的になされるもので、一般意志は初めには存在しない。暫定的な憲法を修正するより他ない。
    ジョンハーサニ、社会的選択(選好集計による政策の導出)は平均人にとって最も効用のある原理が選択される平均的効用最大化原理を予測、原初状態では格差原理=マクシミンルールではない。
    政治学者法学者へのロールズの影響は大きく、トマススキャンロン、ブルースアッカマン、ネーゲル、クリスティンコースガード、ジョシュアコーエン、トマスポッゲ。
    法哲学者ロナルドドゥウォーキン「正義と権利」、ロールズの方法論に注目。反省的均衡、倫理的信念から正義感覚を抽出し理論化した上で、具体的状況を反省的に検討しながら、信念と理論の方法を適宜修正する。反省を通して判断を均衡化させる。それによってロールズ第二原理に導かれる。機械的に法は適用できるという法実証主義に対し、判断が難しい場合は自ら法的原理(法を支える道徳的基準)を再構成しなければならず、そこには政治的道徳的判断が必要。司法裁判所は憲法的原理に基づいて法的正義の創造に役割がある。ロールズの憲法の根底的正義による法政治制度の再構築は同じ方向。
    平等は経済的公正さの第二原理に基づくが、第二の機会的平等は基礎的で、第一の相互尊重の道徳的義務に基づく。第一の平等を、政治制度の前提の人格あるいは権利主体として、平等の配慮と尊重への権利とみる。権利基底的リベラリズム。功利主義は基本的権利を否定する可能性がある。無知のヴェールは不特定であり、実質化した個人である必要がある。
    リバタリアン自由至上主義≒古典自由主義、自由に平等や正義を持ち込むべきではない。ハイエク、フリードマン、ルートヴィヒフォンミーゼスの古典的自由主義。アインランド『肩をすくめるアトラス』、社会主義的管理の中の創造性の抵抗。高い価値を目指し努力する美徳を志向する客観主義が推奨する、他者の干渉を受けず自己利益実現のための生産的理性的な合理的エゴイズム。リバタリアンは直観に情感的に訴えることが多く、人間本性に基づく自由を守る制度の理論がなかった。その役割を担ったのがロバートノージック。
    ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』1975、社会契約論同様の古典的な原始の自然状態から国家は必要か、アナーキーではなぜいけないのか問い、権利侵害の解決に報復を防ぐ相互保護協会が必要になり、複雑化により大きく支配的な保護協会が求められ、最終的に全ての案件・居住者についての裁定執行に責任を負う最小国家となる。最小国家を超えた財の再配分はかえって個人の権利を侵害する。正義は、物を処分する権利は誰にあるかという権原理論から導き出される、獲得、移転譲渡、匡正の三つに限られる。最小国家は、相互に尊厳を持った人々に援助されて、自分の生を選び、自分の目的と、自分自身についての観念を実現するユートピアを可能にする。
    ジェイムズブキャナン『自由の限界』、財の獲得保護の立憲契約によって成立した国家が、所有権の守護国家の司法、個人所有が不可能不合理な公共財の生産国家の立法。再配分は生産国家の逸脱。
    ノージックブキャナンの国家は必要悪だが、国家を認めないアナルコキャピタリズム無政府資本主義のマリーロスバード、デイヴィドフリードマン。Dフリードマン『自由のためのメカニズム』、私有財産権を最重視、警察裁判所国防も民間で可能。ロスバード『自由の倫理学』、国家は、経済と社会の独占的支配、課税という窃盗の犯罪者集団。自己所有権、財産権は物に限定されるべき。
    1980年代には、共同体の価値観を重視するコミュニタリアン共同体主義者が台頭。自由について、リバタリアンは選択の制度的自由(短期的)、コミュニタリアンは価値観の哲学的自由(長期的)。
    アラスデアマッキンタイア『美徳なき時代』、啓蒙主義の失敗により道徳が混沌している。アリストテレス倫理学、最高の善アガトンは、エウダイモニア至福幸福繁栄という十分恵まれ善い行為ができる状態であるが、そのために必要な徳は共同体ポリスの中で見出され、共通善に基づいた共同体の共通事業に貢献する徳が正義の徳。礼節と知的道徳的生活を支える共同体を建設すべき。
    →リバタリアンは古典自由主義、コミュニタリアンはギリシアルネサンス中世の前時代的社会への回帰にすぎない。
    マイケルサンデル『自由主義と正義の限界』1982、正義論と近代的自我の批判によって共通善を復活させる。カント-ロールズの近代自由主義は、共同体の共通善はないので、道徳的客観的な正義>個人の生における善となる。ただし、正義の二原理格差原理は、共通の正義を社会全体のために追求する点で、アリストテレスの善に近い。共通善よりも薄い共有のため、善の希薄理論と呼ぶ。個人の原理採択の必然性は無知のヴェールの想定では弱い。個人は、共同体の慣習や相互了解との関係において自己理解をしているので、共通善を考えざるを得ないとした。負荷なき自己ではなく、状況づけられた自己。
    コミュニタリアン左派マイケルウォルツァー『正義の領分』、歴史的闘争から生まれた配分的正義には様々な領域があり、文化的多様性や正義選択の余地がある。貴族制における土地、公職、名誉の独占。それに優越する資本制における富、権力、教育の独占。それに優越する国家の独占。愛情、家族、宗教、人格などの私的領域も含め、それぞれの社会の政治的文化的特性に基づいて各領域のバランスをとった複合的平等を目指すべき。闘争は重要だが共同体文脈があるというコミュニタリアン左派。
    多文化主義的コミュニタリアン、チャールズテイラー、近代的合理化による自己疎外から離脱するために、身体的共同体的存在としての自己を見直すべき。個人主義克服のための共通善は、マッキンタイアやサンデルのように単一的実体的ではなく、ウォルツァーのように多元的。カナダ憲法におけるケベックの言語・先住民の権利に基づいて、独立ではなく、ケベックの独自性とカナダの双方のアイデンティティを両立させる、多文化主義的コミュニタリアニズム。ケベックのフランス語系住民同様、アメリカの黒人、ネイティヴアメリカン、ヒスパニックの文脈。つまり、共通善が排他的超保守的なものではないということ。
    ロバートベラー『徳川時代の宗教』、アミタイエツィオーニなどの社会学は、家族学校教会の地域共同体コミュニティを国民ネーションや国家の善に応用する。
    ・4
    フォード大統領、南ベトナムサイゴン陥落、カンボジアポルポト派共産党がプノンペン制圧、アメリカ軍事的威信低下。カーター大統領当選、第三世界の軍事独裁を支持するアメリカへの不満を逆手に取り、「人権」を外交の中心に据え、政治犯釈放と少数派擁護を要求し、拒否なら援助を打ち切る。キッシンジャー国務長官が忌避していた内政干渉。
    →ドゥルーズ人権概念批判はここにあるか。
    パナマ運河返還、エジプトのサダトとイスラエルのぺギンを招いてワシントン和平条約。
    しかし、1979年、ニカラグア独裁の援助打切りで、サンディニスタ民族解放戦線FSLNの反米親ソ左派政権成立。イランのイスラム革命で新米パーレビ国王政権崩壊、アメリカ大使館占拠人質事件により、アメリカ威信低下決定的。アフガニスタン左派政権のソ連による軍事的支配。
    強いアメリカ、保守派レーガン大統領、カリブ海クーデター軍事介入で親米政権、ニカラグア反共ゲリラコントラ支援、エルサルバドル軍事独裁支援。国防予算増額し戦略防衛構想SDIスターウォーズ。イギリスサッチャーと共に市場干渉抑制・規制緩和の新自由主義、ハイエクの影響があった。レーガノミクス、規制緩和、政府支出削減、民間投資のための大幅減税、金融政策によるインフレ率低下により、金融業などの景気回復の一方、貧困層は減税なく社会保障削減により格差拡大。
    リバタリアンは国防拡大反対しているので、一概にアメリカのリバタリアン化とはいえない。レーガンを支えた保守派は、反共バリーゴールドウォーター議員、共和党右派オールドライト、草の根大衆運動組織したニューライト、右転向した新保守主義ネオコンneo-conservatives(うち最も強力なのはキリスト教原理主義宗教右派≒福音主義)。
    キリスト教原理主義は、中絶同性愛反対、政教分離緩和、家族中心の価値観復活。テレビ伝道師ジェリーフォルウェル、道徳衰退の原因はヒューマニズム、元凶にリベラル、フェミニストとして男女平等反対と反家庭的テレビ規制の政治組織モラルマジョリティ、政治家道徳性採点の福音主義選挙人登録クリスチャンヴォイス。
    リベラルにとって、男女平等中絶同性愛は自由制約として批判しやすいが、地域共同体の伝統的価値観は信仰ないし内面の自由なので批判しにくい。ロールズドゥウォーキンは価値観アイデンティティの問題は回避している。
    →建前は正義の憲法でいけるが、本音は道徳的な共通善がないと収拾がつかない。
    近代自由主義は、政治経済の自由を確保するルール作りに専念(公私の問題)。保守派、宗教右派は政教分離に挑戦し、伝統的価値観を復活させる。価値中立性の限界。
    WASP(white Anglo-Saxon Protestant)白人アングロサクソン(男性)に対する、公民権運動、ベトナム反戦運動、フェミニズム。それにより伝統の解体が起こり、マジョリティの文化防衛論が出てきた。コミュニタリアンの共通善もアメリカの共同体対立が看過できなくなったことによる。
    新保守主義ロバートニスベット「新しい専制主義」、機会でなく結果の現代の平等主義は新しい専制主義で、中央集権的な考えはルソー『社会契約論』に始まり、現代版がロールズ『正義論』。無知のヴェールは、自然の差異を除去していく。基本財の平等、すなわち結果の平等は巨大な国家機構が必要になる。現代の専制は、平等や福祉を掲げ、組織、テクノロジー、ソーシャルワーク、心理学などの内面コントロールによるソフト化された権力であり、経済的政治的自由が大幅に削減されている。新左翼やフーコーの右ヴァージョン。『保守主義』、バーク、トクヴィル、クリストルの保守主義の反国家権力性は、自由民主主義近代国家の平等による専制に抗議し、家族血縁近隣共同体の絆を守る。善き共同体は保守主義もマルクス主義も共有。
    アランブルーム『アメリカンマインドの終焉』、古代政治哲学の人間の卓越性や政治道徳の見直しを強調するレオシュトラウスの影響があり、アメリカの人文主義的教養の衰退はリベラリズムの浸透。法家族労働憲法に愛着をもつ民主的人間が、リベラルなオープンさと引き換えに歴史的起源を軽視し、共通善が共有されなくなった。建国者への人種差別、ネイティヴアメリカン殺害、階級的利害代表者としての批判が、市民文化の無視が文化相対主義を生み、侮蔑差別忌避を強制するロールズ『正義論』はそれのパロディ。共通善の古典的テクストを学ぶ人文諸科学の教養が求められている。
    リベラルの反人種主義・差別は学校の統合など形式的平等を強調したが、ラディカル思想ではそのままで違ったあり方をする権利が求められ(アイデンティティポリティクス同一性の政治、あるいは差異の政治)、文化相対主義として主体の中の多様性フーコーデリダポストモダン思想の影響でエスニックスタディーズとなる。歴史教育で黒人奴隷のWASP的歴史だけでなく、80年代後半に黒人独自文化を学ぶアフリカ中心主義教育という多文化主義も現れた。ブルームが嘆いたのは、差異の政治のポリティカルコレクトネスによる、ヨーロッパ中心的人文主義の教養の解体で、教育全体をダメにしていること。差異の政治と保守派の文化戦争。共同体的価値観とアイデンティティの闘い。
    ・5
    公民権運動とフェミニズムの市民としての自由と平等は、ロールズらリベラリズムの自由と平等の法政治社会哲学と合致したが、その市民社会にマイノリティや弱者がそのまま入っても幸福になれないという問題があり、差異の政治が生じた。差異の政治は、リベラルの形式的な市民社会の平等を拒絶し、自己のアイデンティティを再構成するので、市民社会統治のための権力装置としての権利の付与に意味はなく、正義はもたらされない。近代的主体性を社会的権力とみなし解体ないし脱構築するフーコーデリダのポストモダン思想と相性が良い。精神病院や監獄による排除が、近代的理性の主体を構成したとするフーコー、同一性アイデンティティを前提する西欧中心主義(男根ロゴス中心主義)の形而上学から逃れる他者や差異を見出すデリダ。スピヴァクがデリダ『グラマトロジーについて』を英訳し政治的受容される。音声中心主義批判、ルソーレヴィストロースの捻った解釈はあるが、野生人未開人を称揚する西欧人の眼差しが、結果的に他者排除によって自己アイデンティティを確定する西欧的形而上学にすぎないという批判がある。スピヴァクは、インドのイギリス植民地と男性中心主義の二重抑圧された女性サバルタンに結びつける。
    サイード『オリエンタリズム』1978、ニーチェマルクスなどのテクストにおける西欧文明の他者としての東洋が一面的均一的に表象されている。
    西欧の他者が歪ませる、文化的差異がポストモダン思想のトレンドになる。ポストモダン左派。マルクス主義が限定的で、70年代からエスニックスタディーズ、ウィメンズスタディーズ、ジェンダーズスタディーズが大学講座にあった。法学でも、その背後の政治的社会的権力関係を暴く批判法学が、ジャックバルキン、ドゥルシラコーネルなどにより開拓。フランクフルト学派の批判理論は、ポストモダン思想と近代批判という問題を共有している。多文化主義アイデンティティではテイラーのコミュニタリアニズムと同じ。しかし、差異の政治は、共存より闘争、アイデンティティは固定より本来性を志向する点で異なる。
    テイラー、政治哲学者ウィリアムコノリーのフーコー論争。
    フーコー『監獄の誕生』『性の歴史1知への意志』、近代的権力は監視装置、医療制度、教育などの生のテクノロジーで正常な主体を内側からコントロールしている。
    テイラー、フーコーの批判は一面的であり、市民社会的自由には近代的解放のメリットがあり、自己アイデンティティのステップとすることができる。
    コノリー、異なったあり方、他者性が排除される近代的主体性の制約が問題なのであって、自明とされている自由、秩序、人格的アイデンティティを練り直す必要がある。『アイデンティティ/差異』、リベラリズムは正常な個人を前提するので差異を隠蔽し、弱者に優しい措置で、結果的に被保護者の蔑視偏見が強化される。コミュニタリアニズムは、共同体共通善の予定調和信仰に賛同できないものは排除抑圧される。アイデンティティの差異化を絶やさない戦闘的リベラリズムが必要。
    テイラー『ほんものという倫理』、アイデンティティは、共同体的文脈において親密な他者との相互承認で形成安定する。闘争、すなわち差別や偽善を糾弾するだけでは承認に至らず、かえって二級市民扱いされ、自民族中心主義を呼び起こす。尊厳の平等な承認は、アイデンティティを形成定義する潜在能力を尊重すること。ヨハンゴットフリートヘルダー、同一の神の無限の現れという原多文化主義。多様性の認識は、人類の普遍性の認識。
    ウォルツァー『アメリカ人であるとはどういうことか』、属する集団とアメリカ人であることは両立でき、〜系-アメリカ人というアイデンティティがあり、互いに共存できることがアメリカ人であることの証明。差異の政治の追求は、本来的多様性を再発見するので、アメリカ人の単一性を解体するどころかそんなものは存在しない。リベラリズムを補完する。
    リベラルな多文化主義、政治哲学者ウィルキムリッカ『リベラリズム、共同体、文化』『多文化時代の市民権』、価値中立性を前提に、文化的メンバーシップを基本財として、文化や言語の権利(自治権、エスニック文化権)を提案。
    リベラリズム価値両立性に関わる公私二分論とは、法政治の公的領域、個人身内の指摘領域に分け、前者は後者に関与すべきでない。ロールズドゥウォーキンは経済の公的領域。近代法は、家、親族、恋愛、友人関係は当事者の自治だった。宗教、エスニック、ジェンダーも私的領域。JSミル『自由論』、他人に危害のない私事は自己決定に委ねるべき。
    ラディカルフェミニズム、ケイトミレット『性の政治学』、公私二分論は夫あるいは家長の暴力的支配を正当化し、その境界線も都合よく定められている、すなわち私的なものは政治的である。核家族と正常=規範化された性のあり方の解体し社会構造変容を通して新たなジェンダーアイデンティティを産出する。
    セクハラDVの私的領域が裁判で争われるようになり、男女の同じ行動の解釈が異なる場合に想定される、通常人=合理的人間が、近代法の男性中心主義ではないかという問題意識が出てきた。
    キャサリンマッキノン『セクシャルハラスメントオブワーキングウィメン』、セクハラは男女不平等を再確認・強化する行為で、ポルノグラフィックも同様。ポルノグラフィティ全面禁止、検閲を主張。
    ドゥウォーキンは、黒人や女性、弱者が権利主張できた言論の自由に、逆に検閲などで大きな制約をかけるのは、平等を破壊する行為で本末転倒。
    私的領域への法の介入による平等実現の差異の政治と、価値観アイデンティティの自由を保障するために法の介入を避けるリベラリズムの違い。
    リベラルフェミニスト、スーザンモラーオーキン『正義、ジェンダー、家族』、広義のリベラリズムとラディカルフェミニズム双方を批判、家庭内労働の分業についてジェンダー的平等を論じるべき。女性は家事などの非賃金労働を引き受けるが、これを自由意志の選択とすると、賃金労働の夫が主導権を握り、女性は離婚後の収入見込みが少ないため、夫の横暴に耐えるしかない。無知のヴェールによる正義原理の選択と、領域ごとの複合的平等が有効。どちらのジェンダーかわからなければ家族制度の不正を修正でき、それに付随する職業や教育などの他の領域も是正できる。公的領域の不平等が私的領域への不平等が問題なのであって、公私の撤廃ではなく、公的領域の緊張から一時的にでも解放され、身近な他者と築く親密圏としての私的領域が重要。
    フランクフルト学派アドルノ、ホルクハイマー創設、フロム、マルクーゼ。理性的主体の画一性、虚偽意識イデオロギー生成、ネオマルクス主義的視点は、ポストモダン左派、差異の政治に影響。ハーバマス、それらは不毛。アーレントを取り入れ、市民的公共圏における民主的意志形成条件、コミュニケーション的行為論正義論。リベラリズムと重なる。トーマスマッカーシー、セイラベンハビブ、ナンシーフレイザー。ハーバマスはブルジョワ白人男性の市民的公共圏にすぎない。フレイザー、各種文化的ジェンダー的サブ公共圏含む、緩やかなネットワークとしての多元的公共圏。サブ公共圏があることによって、共通善をめぐる公共の光が当てられる。DVなど。公私の境界のズレが私的領域の問題を公共圏にのせる。絶えず境界線を流動化させる。リベラリズムが私的領域も論じるようになった。
    ・日本のポストモダン思想
    1983浅田彰『構造と力』ポストモダンブームだが、アメリカのように差異の政治と結びつかず、90年半までは非政治的なもの。マイノリティ運動からリベラルへ、差異の政治と保守派の対立により、アメリカ人という近代的主体のアイデンティティの分裂はポストモダン思想に対応していた。日本は全共闘終焉、連合赤軍への反発によりマルクス主義衰退、そもそも差別や福祉、環境問題も階級闘争の一環でしかなくマルクス主義がなくなると社会的正義の批判・哲学が不在となる。アメリカではマルクス主義が限定的で、自由平等権利正義の議論からリベラリズム、そして差異の政治あるいは(新)保守主義に向かった。日本はマルクス主義的概念の慣習がなくなると新たな議論も出なかった。ベトナム戦争におけるアメリカの自由、アイデンティティの危機に比して、日本人にはアクチュアルではなかった。そのため、近代批判のポストモダンはアイデンティティや政治社会問題ではなく、消費文化論にすぎなかった。文化的政治的「闘争」によるアイデンティティ分裂ではなく、浅田彰『逃走論』。中曽根内閣の新自由主義と防衛力強化は、レーガンの強いアメリカ的威信ではなく、たんにアメリカに沿って発言権を求めたにすぎない。90年代柄谷行人、高橋哲哉らがポストモダン左派化するが、文化戦争には程遠い、教科書や靖国の部分的な争点にとどまる。ベネディクトアンダーソン『想像の共同体』が参照されるが、植民地下でアイデンティティが形成されてきたインドネシアなどの第三世界のモデルを、沖縄アイヌ除く近代化以前にまとまっていた日本の「国民国家」「日本人」の虚構性に当てはめるのは無理がある。かつてのマルクス主義同様、差異の政治、カルチュラルスタディーズも日本には高尚すぎる。
    ・6
    言語哲学者・比較文学者ローティ、「言語論的転回」、主体の意識における対象の認識論から、言語体系における意味付与の言語論へのパラダイム転換。ローティは、分析哲学からクワイン、ウィルフリドセラーズの影響でネオプラグマティズムへ。分析哲学の文脈にあるが、概念や命題を世界把握の道具とする立場。ローティは、言語は社会的ゲームの規則にすぎないという後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の影響もあり、分析哲学に批判的。
    『哲学と自然の鏡』1979、哲学はデカルト以降、人間の心を、自然を映し出す鏡のように磨き上げたが、それは不毛。言語哲学も言語を鏡とすれば同じ。基礎づけ主義。哲学には、合意で真理を目指す基礎づけ特権化的な認識論と、不一致も生産的とする文脈多様化的な解釈学がある。同じものも、社会的、歴史文化の偶然的立場で真理は変わるので、解釈学的な会話の方が生産的。解釈学は、デューイジェイムズパースのプラグマティスト、形而上学批判のハイデガー、後期ウィトゲンシュタイン、ハンスゲオルクガダマー。基礎づけ主義解体としてフーコーデリダ。分析哲学のウィトゲンシュタイン-クワインの流れを、ポストモダン思想やプラグマティズムと繋ぐ、分析哲学の内部改革。
    「哲学に対する民主主義の優位」、自由主義的社会理論の二つのタイプ、ドゥウォーキン非歴史的絶対的人権、デューイロールズ特定共同体の合意の産物としての人権として、後者を支持。建国者ジェファソン、同じ価値観でなくとも民主社会は成立し、私的な宗教的信念を切り分ける宗教的寛容論。ロールズの正義に適った国家の寛容に通ずる。ロールズ「公正としての正義:形而上学的ではなく政治的な」、公正としての正義に合意するために、道徳的信念を共有する必要はない。共通善を限りなく薄く設定して、「人間本性の真理」に基づいて、正義原理の合意に導くようにも見えるが、合意はあくまでも政治的問題であって、信念が違っていても「望ましい社会的秩序」を共有していれば、寛容を哲学にも適用できる。共有した部分、重なり合う合意。リベラリズムを道徳的基礎として持ち出す必要はない。つまり、哲学的人間学が本性道徳人生などで民主的社会の理論を基礎づける必要はない。アメリカの民主主義の実験はジェファソンデューイの伝統に基づくが、それはコミュニタリアンのような歴史的回帰による前近代的共同体の復活ではない。民主主義の個人の自由な活動のために、公的領域の正義に人間の本質論を持ち込むべきでない。
    『偶然性・アイロニー・連帯』1989、リベラルな共同体は可能か?政治哲学者マイケルオークショットの概念を引用、共通目標の仲間集団の「統一体」の人間の魂の神的由来の道徳性、互いを保護するが同調はしない「社交体」の人間による時場所の偶然的実験的道徳性。ローティの理想のリベラルな共同体の市民は、言語、良心、共同体の道徳が偶然の産物であるという偶然性の感覚を身につけている。リベラルアイロニストは、自らの理想が偶然的と知っている。リベラリズムがリベラルな共同体の唯一の基礎づけではないし、リベラリズム以外を排除すべきでない。リベラリズム思想の選択はあくまでも偶然的で、他人に強制すべきではない。
    →ラディカルフェミニズムなど差異の政治、ポリティカルコレクトネス、Jリベラル、文化左翼への回答。
    近代的自由も偶然的で普遍性はないとする意味ではポストモダン的。アイロニストのフーコー、リベラリストのハーバマスを対置。人間本性から社会理論を構築するプラトン-カントを批判する点は共通だが、フーコーは近代リベラル社会の押し付ける文化的パターンや新たな抑圧を生み出す制度改革に警戒するという意味でアイロニストである。しかし、フーコーが暗に想定する、「抑圧されるべきでない人間本性」に対する拘りを捨て去ればリベラルな改革は可能。ハーバマスは、最終的に自ら疑わざるを得ない主体の理性ではなく、コミュニケーション的理性を重視したが、結局は近代の普遍的理性の代替したにすぎず、討議による合意も偶然の産物であるアイロニーを理解すべき。ローティは、アメリカ特有の基礎づけなきリベラリズム哲学としてのプラグマティズムにこだわり、具体的問題解決を示さないポストモダンの人間本性論批判に厳しい。
    『わが国を達成する』(アメリカ未完のプロジェクト)1998、プラグマティズムはアメリカ左派で、現代の左派はネイティヴアメリカンやベトナム戦争により愛国心に懐疑的だが、元々は経済的配分や機会平等の協同的連邦国家に対する愛国主義的左派が優勢だったのであり、労働者の権利や社会的公正、独占規制、ニューディールも支えていた。改良主義的左翼、ハーバートクローリー、ユージンデブズ、デューイ。しかし学生中心の新左翼が、改良主義を否定しラディカリズムへ突き進んだ結果、経済的不平等から文化闘争一辺倒で現実的な改革を見出さず、社会科学から文学部へ移ってしまった。この文化左翼は、差異の政治学、カルチュラルスタディーズを専門に、フーコー権力論やデリダ正義論に依拠して、差別背後の深層心理に固執するが、反アメリカになったところでいかなる現実の改良も生み出せない。口先だけの傍観者。
    ロールズ『政治的リベラリズム』、包括的哲学的道徳的教説は、政治的構想としての様々な領域を調停する「重なり合う合意」に導けない。無知のヴェールは、価値観の一致ではなく、調整のための思考の補助装置であり、政治的リベラリズムは、民主的制度の枠内で協力の条件を練り上げる。カント由来の公共的理性=理由づけpublic reasonは、民主的人民の特徴であり、公衆の善(正義の政治的構想)に基づく社会制度の構造・目的・目標を主題とする。公共的理性が理想とするのは、憲法の合意に適ったものとして、公に示すことが可能な状態。具体例は、連邦最高裁が法律の合憲性を審査するときで、公共的理性をガイドラインとして、自らの解釈が憲法の政治的構想に適っているか根拠=理由を公衆=市民に示し、正当化する責任がある。公共的理性は、同じカント由来のハーバマスのコミュニケーション的理性と同義。『事実性と妥当性』、公共的コミュニケーションは普遍的な人間本性の自然ではなく、制度による形式で条件づけられたもの。ロールズら主流派リベラルが民主的意思形成に重点を移し、特定の道徳的価値観世界観から遠ざかる一方、サンデルらコミュニタリアンは市民の徳性を培う公共的会話を活性化させる必要を説き、政治を道徳化する。
    ロールズの民主的討議への移行は、討議のルール、正当性、合意について問題を抱えた。それとは別に民主主義の本来意義を問い直すラディカルデモクラシーが出てきた。
    政治思想史家シェルドンウォリン『過去の現前性(アメリカ憲法の呪縛)』、アメリカは中央集権と参加平等の民主主義の緊張関係にあり、レーガン政権は操作的民主主義であると批判。それ以外に共和主義的な民主主義は、討議で共通善を探求し、共同体維持を権利かつ義務とする。アーレント公共性もその一種。討議(熟慮)的民主主義は、討議によって見解の変化や結論の正当性を得る。ハーバマス、ベンハビブ、ウィリアムレーグのアメリカフランクフルト学派、ロールズ政治的リベラリズム、ジョシュアコーエン、サイバーカスケード概念のネット法学者キャスサンスティン。逆に極端なラディカルデモクラシーは、差異を浮上させ、合意の装いの下に差異を隠蔽する民主主義を根底から批判する。シャンタルムフ、コノリー。シャンタルムフは、民主主義討論の設定がすでに合意不可能な他者を排除しているので、線引きを絶えず変更する闘技的多元主義が必要。
    個人の自由の自由主義と、集団的意思決定の民主主義は対立することが多い。戦後は特にそれが目立ち、個人が自由が公的範囲から制約受けることと、公的に保障された機会平等が実質的な個人の自由を生み出すことは、両立が難しい。合意形成に同一性を求めるか差異を際立たせるかも決定不可能。
    ・7
    冷戦崩壊後、紛争介入の大義名分を失ったアメリカは、世界の秩序を打ち出し、自己正当化する必要に迫られた。90-91湾岸戦争、イラクのクウェート侵攻に対し、ブッシュ父がここでの協調が新秩序のテストケースになるとし、多国籍軍を率い終結させた。次いで旧ユーゴスラヴィア、ソマリア、ルワンダ。
    国務省政策企画局次長・政治学者フランシスフクヤマ『歴史の終わり』1992、ヘーゲル歴史哲学に準え、自由民主主義が君主制ファシズム共産主義に勝利し、人類史は目的=終焉に到達しつつある。マルクス主義の結論が覆された。アレクサンドルコジェーヴを引いて、アメリカ平等主義はマルクスの階級なき社会=自由の王国を具現している。コジェーヴニーチェ的に、歴史の終焉が、労働と闘争を止め、主体性の喪失と動物化の恐れを示唆。自由民主主義の開きが共同体的価値観を解体し、人間の尊厳についての合意を形

  • 本書は、アメリカ現代思想を、ジョン・ロールズの1971年の「正義論」により打ち立てられたリベラルな政治哲学を中心にして、アメリカの政治状況と絡みつつ、各思想家、哲学者が、どのような必要にかられて自分の思想、哲学を構築していったのか、歴史的に述べている。そして、アメリカの哲学がいつのまにか、伝統的なフランス・ドイツ系の哲学から、哲学の主流を奪ってしまったことについての、納得いく記述、回答になっている。
    その哲学の主流の変化は、まずアメリカにおいて、文芸批評家ポール・ド・マン、ジョナサン・カラー等によりフランス・ドイツ系のポストモダンと言われた哲学が咀嚼、紹介され、盛んに研究された。一方、フランスでは、フーコー、デリダ等が亡くなって以降、哲学的に生産的な書き手がいなくなっていった。そこで、ポストモダン系の議論が、アメリカに吸収されてしまった。こういう吸収の過程がある。
    また、欧州の大きな哲学の流れである、ウィーン学派論理実証主義が、英米にて分析哲学として継承され、ラッセル、ヴィトゲンシュタインらが発展させる。それを、アメリカのハーヴァード大学のクワインが、伝統的なアメリカ発の哲学であるプログマティズムと総合し、ネオ・プラグマティズムとして打ち出す。
    上記のような2つの大きな流れで、英米の哲学が、哲学研究の中心となった。

    そこで、ロールズである。ロールズの正義論とは、リベラルの再定義。公正と自由の両立、つまりは民主的手続きと自由主義的価値の統合を図っている。なぜ、リベラルの再定義が必要にされたかといえば、1930年代、世界恐慌の解決策として、民主党のフランクリン・ローズヴェルト大統領によるニューディール政策(イギリスの経済学者ケインズの考えを援用し福祉や雇用政策に政府が積極的介入を行なっていく)、この政策が実施され、実際に成果も上がったと言える。

    だが、第二次大戦後1947年、トルーマン・ドクトリンにより共産主義封じ込め政策が、実施され、共産主義を許容しない自由主義国家という矛盾した状態に、アメリカは陥った。そして、その理論的支柱として、計画経済、ソヴィエトを全体主義へ至る道とし、同時にドイツのナチスも全体主義として批判する、ユダヤ系でドイツから亡命した思想家ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」が、古典的自由主義の立場から、アメリカ哲学界、思想界をリードした。また、ウィーン大学のオーストリア学派として出発し、ロンドンのLSEを経て、アメリカのシカゴ大学に移ったフリードリヒ・ハイエクもまた、古典的自由主義の論陣を張った。古典的自由主義によって立つ勢力は強力な論陣を張っている、このような状況下でリベラル勢力は、ローズヴェルト政権のリベラルな政策の実施とその処方箋であるケインズ経済学以外に、強力な哲学的な基礎を欠いていた。


    そこでハーヴァード大学で、倫理学を研究、分析哲学のムーアによるメタ倫理学に飽き足らなかったロールズが、社会的な正義についての議論を深めたいとの意図から、アメリカの憲法制定における理念に立ち返り、公正と正義が、両立すべき条件を探ったのが、『正義論』である。この本の一番のハイライトが、このロールズの、憲法典の根本に立ち返り、憲法を生きているものとして、不断に解釈を改めねばならないとする姿の描写にある。1971年にあっても、第三代大統領ジェファーソンと同じ臨場感、緊張感を持って、憲法典を再解釈し、市民に訴えていく、その態度が、全く今まで知らなかったアメリカの一面である。


    日本においては、明治憲法、日本国憲法、どちらにせよ、憲法起草者と同じように、不断に解釈を行い、世に問うという精神の動きは無いと、言っていい。比べて、アメリカの生きている憲法という理念と、それを実際に生かすロールズの姿勢に驚きを持った。そのロールズの精神を再確認したいと感じさせる本である。

    また、リベラル、コミュニタリアン、リバタリアンの3つの思想潮流が切磋琢磨する様子など、アメリカ思想界のダイナミクスと歴史の流れをコンパクトに描いた良書であり、得られるものは大きい。お勧めである。

  • アメリカ発、思想のグローバリゼーション
    1 リベラルの危機とロールズ(「自由の敵」を許容できるか―戦後アメリカのジレンマ;自由と平等を両立せよ!―「正義論」の衝撃)
    2 リベラリズムの現代的展開(リバタリアニズムとコミュニタリアニズム―リベラルをめぐる三つ巴;共同体かアイデンティティか―文化をめぐる左右の戦争;ポストモダンとの遭遇―リベラルは価値中立から脱却できるか)
    3 ポスト冷戦期のリベラリズム(政治的リベラリズムへの戦略転換―流動化する「自由」;“帝国”の自由―「歴史の終焉」と「九・一一」;リベラリズムから何を汲み取るべきか)

    著者:仲正昌樹

  • 全体の流れは『自由は定義できるか』と似ていて、リベラルという切り口から『自由は定義できるか』を書き下ろした印象が強い。

    アメリカの現代思想ということで、個人的にはプラグマティズムとプロテスタンティズムに絡めて書かれているのかなと期待していたので、この点では方向性が元々違っていたので期待ハズレではあったのだけど、入門教科書としてはこういうものなのでしょうか。

    不足は他の本を読むか、自分で考えれば良いという感じで、殺伐とした教科書的なところがスッキリとまとまっていてけっこう好きです。

  • アメリカの哲学の今がどういう風になっているのか見通すことが出来る。おおよそを見渡すのにはいい一冊。ここから細かいところへ入っていくいい入門書になっていると思う。

  • リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムの対立を中心に、アメリカの政治思想を分かりやすく紹介している本です。

    上記の3つの立場だけでなく、ポストモダン左派の文化闘争や、『アメリカン・マインドの終焉』のアラン・ブルーム、「文明の衝突」のハンティントンや『歴史の終わり』のフランシス・フクヤマといった広い意味での思想にまで目配りをおこない、さらに現実の政治状況にも言及していますが、極めてクリアな見通しを与えてくれる本で、優れた入門書だと思います。

    同時に、マルクス主義や市民主義の伝統の強い日本では、「自由」や「平等」、「正義」といった基礎的な概念についての突っ込んだ哲学的考察がおこなわれず、浅田彰に代表されるポストモダン需要も消費社会論という形で流通することになったという見解が示されています。

  • 【目次】
    目次 [003-008]

    序 アメリカ発、思想のグローバリゼーシ 009
    「アメリカの思想」の一般的イメージ
    プラグマティズムの特徴
    プラグマティズムとマルクス主義
    日本におけるプラグマティズム受容
    哲学・思想のアメリカ化傾向
    第一の経路:アメリカ版ポストモダン思想
    第二の経路:分析哲学の潮流
    第三の経路:リベラリズムをめぐる議論
    リベラリズムの多様な展開
    本講義のねらいと構成

    I リベラルの危機とロールズ
    第一講 「自由の敵」を許容できるか――戦後アメリカのジレンマ 032
    「自由」の目標転換
    自由主義の逆説
    全体主義への誘惑
    「自由ゆえの孤独」をいかに克服するか
    市場の純粋性か、計画経済か
    アーレントの「自由」擁護論
    自由と複数性
    公的領域と私的領域――複数性を担保する二分法
    第三世界をめぐる米ソ攻防
    解放の論理――もう一つの「自由」
    「リバティー」と「フリーダム」
    フランス革命とアメリカ革命の違い
    「自由」の二つの伝統
    ハイエクによる設計主義批判

    第二講 自由と平等を両立せよ!――「正義論」の衝撃 064
    揺らぐ「平等」のイメージ
    黒人の権利拡張への反発
    公民権運動のクライマックス
    ウーマン・リブの登場
    アメリカ的な「リベラル」とは何か
    「古典的自由主義」vs.「弱者に優しいリベラル」
    ベトナム戦争と新左翼
    マルクーゼとミルズ――「リベラル」への挑戦
    リベラルのアイデンティティ危機
    「リベラルな政治哲学」登場!
    規範倫理学とメタ倫理学
    アメリカの「正義感覚」を再定義する
    ロールズ的な「正義」の射程
    「市民的不服従」正当化の論理
    「正義」の二つの原理
    格差原理――弱者の効用を最大化する
    「無知のヴェール」の効力
    「正義の原理」を定着きせる戦略

    【間奏曲I】日本にとっての一九六○年代 103

    II リベラリズムの現代的展開

    第三講 リバタリアニズムとコミュニタリアニズム――リベラルをめぐる三つ巴 110
    功利主義からの反論
    政治学・法学へのインパクト
    「反省的均衡」とは何か
    「法」から「正義」へ――ドゥウォーキンの歩み
    全ての基本は「平等への権利」
    リバタリアンのリベラル批判
    「最小国家」の役割
    「守護国家」と「生産国家」
    アナルコ・キャピタリズムの発想
    国家は犯罪者集団である!
    コミュニタリアンのリベラル批判
    「共通善」の喪失
    「負荷なき自己」批判
    ウォルツァーの多元論的前提
    多文化主義的コミュニタリアニズム

    第四講 共同体かアイデンティティか――文化をめぐる左右の戦争 146
    カーター政権の「人権」外交
    レーガン政権の「反動」政策
    ネオコンから宗教右派まで――保守派の台頭
    「価値中立性」というジレンマ
    主流派の危機意識
    保守派による「リベラルな専制」批判
    「伝統的教養」擁護論
    「保守主義」vs.「差異の政治」

    第五講 ポストモダンとの遭遇――リベラルは価値中立から脱却できるか 165
    「市民社会の論理」を拒絶する
    ポストモダン左派の隆盛
    「差異の政治」と「コミュニタリアニズム」の相違点
    フーコーをめぐる論争
    闘争か承認か――コノリーとテイラー
    アメリカ人であるとはどういうことか
    「公/私」二分論とリベラリズム
    「私的なものは政治的である」――ラディカル・フェミニズム
    噛み合わない議論
    ポルノグラフィをめぐるすれ違い
    私的領域における「正義」
    「公/私」境界線の再編に向けて

    【間奏曲II】日本のポストモダン思想 190

    III ポスト冷戦期のリベラリズム
    第六講 講政治的リベラリズムへの戦略転換――流動化する「自由」 198
    ローティの挑戦
    重なり合う合意
    ローティのロールズ解釈――基礎付け主義からの脱却
    リベラル・アイロニストの特性
    「文化左翼」批判
    ロールズの戦略転換
    「公共的理性」はいかに発動するか
    コミュニケーション的理性と公共的理性
    民主主義の問い直し――ラディカル・デモクラシーと共和主義的民主主義論
    討議か闘技か
    「リベラリズム」と「デモクラシー」の相性

    第七講 〈帝国〉の自由――「歴史の終焉」と「九・一一」 224
    自由民主主義の勝利?
    「西欧」の限界
    「衝突」をいかに回避するか
    「万民の法」――“グローバルな正義論”の試み
    「良識ある階層社会」カザニスタン
    正戦論の導入
    〈帝国〉とは何か
    「マルチチュード」の可能性
    〈帝国〉論とロールズの接点
    「九・一一」後の言論状況
    リベラル左派の右転回
    「リベラリズム」の黄昏

    第八講 リベラリズムから何を汲み取るべきか 252
    グローバル・スタンダードとしてのリベラリズム
    センの「潜在能力」アプローチ
    思想業界を圧倒する「アメリカの影」
    戦後日本の「ねじれ」とアメリカ
    「アメリカの影」を払拭できるか
    「自由の逆説」から学ぶべきこと

    あとがき(二〇〇八年七月七日 金沢大学角間キャンパスにて 仲正昌樹) [266-270]
    関連年表 [271-281]
    あらまし [282-283]
    索引 [1-9]

  • アメリカの民主党と共和党は思想的にどう違うのか?
    保守、革新、右派、左派、民主主義、自由主義…政治関係のニュースに限らず、日常会話にも出てくるこれらの言葉を、私は今まで適当に使ってきた。しかしISILや集団的自衛権など、日本は安全だからと悠長なことを言ってられない状況になり、自分の考えをちゃんと整理したくなった。

    日本の民主主義は、欧米のように自分たちで試行錯誤して作り上げたものではなく、所詮は英国の真似か米国の押しつけで、思想的中身がない、と誰かの講演で聞いたことがある。そこでまずは、アメリカのリベラリズムについて、初歩的なところから勉強したいと思ったのがこの本を手にした理由である。

    内容は期待以上で、当初は奴隷の人権なんて考えなかった国が、男女平等、黒人差別の撤廃へと変わってきた流れを、分かりやすく説明されている。とても分かりやすいのだが、そもそもがややこしいので、一度読んだくらいでは覚えられない。買って手元に置いておくべきかもしれない。

  • 第二次世界大戦前後から9.11以降の現在に至るアメリカの政治思想の歴史を、その時々の政治的状況を顧みながら概観する。「アメリカ現代思想」と言っても、アメリカに拠点を移したヨーロッパや非西欧圏出身の思想家なども含まれるので、本書がカバーする範囲は広い。

    第一講ではロールズ以前のアメリカの思想状況として、全体主義を批判し自由を擁護したフロム、ハイエク、アーレントなどが紹介される。

    第二講以降は、ロールズの正義論と、それに対するリアクションとして展開された種々の思想が時代を追って紹介される。

    ロールズに対する種々の批判や応用、広義のリベラリズムとポストモダニズムの関係などを解説した第三講〜第五講が本書の最大の見所だと思う。
    厚生経済学者のアローやハーサニは、格差原理と同等の考え方は功利主義の理論の中にも含まれていると批判した(マクシミン・ルールや平均的効用最大化原理など)。
    ドゥウォーキンは、ロールズの議論を法哲学に応用し、「平等の配慮と尊重」を原初状態において既にある自然権として明確に位置付けた(【権利基底的リベラリズム】)。
    ノージック、ブキャナンらの【リバタリアン】、マッキンタイア、サンデルらの【コミュニタリアン】からのロールズ批判は周知のとおり。

    ほかにも:
    ウォルツァー、テイラーなどのコミュニタリアン左派による【多文化主義】と、ポストモダニズムから影響を受けた【差異の政治】(多文化の“共生”は多数派の勝利を意味するとして退ける)との対立。
    画一的な正義は新たな抑圧を生むとして主流のリベラリズムを批判したコノリー(【戦闘的リベラリズム】)と、個人のアイデンティティーの確立には【他者による承認】が不可欠と主張するテイラーとの対立。
    私的領域の問題として政治的課題から外されていた「家庭内」の問題には、職業やジェンダー分業といった“公的”な問題が入り込んでいるとして“公的領域”の拡大を図った【ラディカル・フェミニズム】、etc。
    ポストモダニズムからの影響を受けたこれらの思想は、伝統的/西欧中心的/男性中心的な“多数派”の土俵で相撲を取ることを拒否するものと言えるだろう。そして彼らの主張は簡単に退けられるものでもない。

    第六講で紹介されるローティは、ポストモダニズム的な視座から前期ロールズ的なリベラリズムを批判する思想の最たるものだ。ローティは、リベラルな道徳観は人間本性から出る必然的なものではなく、偶然的なものに過ぎないと主張する(【リベラル・アイロニスト】)。
    『正義論』では“人間本性”的なものを想定せざるを得なかったロールズも、後年にいたって「正義に関する合意」は哲学的なものではなく、あくまで政治的なものであるとして、自身の主張をやや後退させており、ローティはこれを評価している。

    第七講〜第八講では、ハーバーマスに代表されるフランクフルト学派や、インターネット社会の“サイバーカスケード”現象を危惧したサンスティンらの【討議民主主義】、アメリカの自由民主主義が孕む矛盾(共同体的価値観の喪失)を指摘したフランシス・フクヤマの【歴史の終焉論】、非西欧文明の脱西欧化を指摘したハンチントンの【文明の衝突論】、市民社会の拡大によるグローバル民主主義が【ジハード対マックワールド】(非西欧vs西欧、伝統文化vsグローバリズム)の対立の深刻化を救うとしたバーバー、異なる価値観をもつ者同士の緊張・対立・連帯を含む相互作用を重視したネグリ=ハートの【マルチチュード論】、ロールズの正義論は途上国には適用できないと批判したアマルティア・センの【潜在能力向上論】など、正義や民主主義を巡る議論及び思想家が紹介される。

    自由や民主主義といった、西欧的(とされる)価値観をとことん相対化しようとする試みの歴史はスリリングで読み応えがあった。
    ロールズの正義論に関して疑問に思っていた部分(人は原初状態で本当に同じ選択をするか?)への批判を知ることができて有益であった。

    個人的には、相対主義的なローティよりは、ドゥウォーキンの自然法論や、ウォルツァーやテイラーなどのコミュニタリアン左派の議論に共感を覚える。

  • 131102 中央図書館
    少し読みにくい印象であった。最近十数年のうちに、ドイツ語、フランス語の地位が低下したために、ヨーロッパベースの古典哲学やフランスの現代哲学を原語で読めるプロの哲学者が日本では少なくなっているという記述が、気になる。アメリカ流思想が日本のみならず世界で中心的なものとなっているのであろう。

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著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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