ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140911396

作品紹介・あらすじ

1990年代に何が起きたのか?思想は今や、大学からストリートへ飛び出した!ホームレスや外国人労働者の新しい支援運動がスタートした90年代。イラク戦争反対デモからフリーターの闘争までの、様々な運動が活発になったゼロ年代。音楽やダンスなどのサブカルチャーや「カルチュラル・スタディーズ」などの海外思想と結びついて成立した、新しい政治運動の淵源をさぐる。インディーズ文化など80年代の伏流が、90年代の「知の地殻変動」を経て、ゼロ年代に結実するまでの流れを追う異色の思想史。

感想・レビュー・書評

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  • このごろついてるぞ、というのは本からもらう刺激が連続的に良好で、ここでは小田マサノリだとか、ECDなんていうのはずいぶんヒントになりそうで、オタク文化の裏に十分ある政治と思想と文化の潮流がかなり整理されるし、やっぱりそこから自分の仕事を考えたい。
    リアルよりも活字世界が十分充実で刺激ありというのはそれは主体も対象も落ち着いているのでたっぷり思考しながら刺激受け入れができるという一事による。
    変化も回帰もまして定着など志向しないが、昨日までの自分を日々破壊創造し続けるための読書、毎朝今日読むものを安心できる朝を繰り返すこと。

  • 毛利氏の著作は初めて読む。いくつか、単発の論文は読んだことあると思うが、上野俊哉氏との共著の新書も含め、今まで読んだことはなかった。実際に本人を見たことはあるかないか、記憶は定かでないが、いつしかのカルチュラル・タイフーンで見たことがあるような気もする。
    毛利氏はカルチュラル・スタディーズを日本で牽引してきた一人ではあるが、なんとなく吉見俊哉氏や上野俊哉氏と違って読まず嫌いであった。吉見氏はかつて演劇青年であったにせよ、あくまでも現在は大学人としての理論派である。実のところは理論派といっても、難しい議論は得意ではなく、歴史的事実で根拠づける実証派と呼ぶべきか。現代の問題を扱うのは若干苦手だと勝手に解釈している。難解な議論はあまりしないが、かといって彼の文章は非常に真面目で本当の意味での大衆には難しいと思う。一方、上野氏は外見からしても実践派であり、しかしお硬い文章も書ける。お硬いのに題材は現代的で極めてポピュラー。この人もあまり難解な文章は書かないが、大衆に向けた文章も書ける人だと思う。どちらも、私にとってはある意味で憧れる存在である。
    その一方で、彼らよりも若干若く、どちらかというと上野氏にシンパシーを持っているようだが、毛利氏は人間としてではなく、同業者としてとっつきにくい印象を持っていた。しかし、今回私が下北沢のことを研究しようと思うようになって、彼の本書の中にSAVE the下北沢という、下北沢の再開発計画に反対する団体に関する記述があることを知って、急遽読むことにした。NHKブックスの一冊だし、軽く書かれたものだろうとたかをくくっていたが、意外としっかりと書かれていて読み応えがある。それと同時に、彼の立ち位置が良く分かるものであった。まず彼は、大学を卒業して西武系の広告会社に入社したらしい。しかも、世間は西武バブルで盛り上がってはいるものの、会社自体はその過渡期で業務は縮小傾向。そんななか、彼は退職し、ロンドンに留学する。学部は経済学部だったらしいが、広告業界にいたこともあって、文化やメディアを研究できる大学院に進んだことで、それがカルチュラル・スタディーズとの出会いになったという。日本ではまだその動向をきちんと紹介していなかった1990年代初めのころのこと。また、彼は若い頃から内外の音楽に精通していたらしい。
    そのこともあって、カルチュラル・スタディーズが扱いがちなカウンター・カルチャーやアンダーグラウンド・カルチャーにも強かったとのこと。かといって、正統派政治運動に参加するような若者ではなく、研究者になってからもかなりどっちつかずの立場を有していたようだ。まあ、そのことが私にはとらえどころがなく映っていたのかもしれない。まあ、ともかく本書ではそんな微妙な立場を正当化するというのが主たる目的になっていると思う。一方で、読者としての私はもちろん政治運動には参加しない傍観者だし、極めてポピュラーな文化に関する知識しかない。テレビも新聞も持たないので、同時代的な社会の動向にも疎い。大学人でもなければ理論派でもないし、自分の研究実践においてもアクチュアリティを有しない、ある意味では非常にオーソドックスな文化研究者だといえる。そんな私にとっては、本書は非常に魅力的なものであると同時に、私のような研究者の立場を全否定されているような気分にもさせられる。
    本書は文化的実践によるある意味での政治活動家たちを「ストリートの思想家」と呼び、賞賛する。具体的な個人を取り上げながらも、彼らの活動の意義を評価する際には、大きな視点に立つ。これも私にとっては読まず嫌いのネグリとハート『〈帝国〉』を根拠にし、日本で起こっている様々な問題を全てこの大きな理論によって解釈しようとする立場は非常にすっきりと分かりやすくありながらも、本当にそれでよいのかという疑問を拭いきれない。1995年というターニングポイントがあるのは分かるが、社会は、あるいは世界は時代によって決定されるのだろうか。そして、この時代の文化研究者は彼のようにあらねばならない、ある意味ではそんな押しつけがましさもなくはない。彼が取り上げる「ストリートの思想家」はネグリとハートによる「マルチチュード」にあたるようだが、その言葉の意味するところは多様性である。しかし、一方で彼が理想とする研究者の姿(しかし決して彼は彼自身をストリートの思想家の仲間であると自認しているかどうかは不明)はあまり多様ではないように思われる。はたして研究者は何をするべきなのか。彼のようにこの時代を変革へと導いていく「ストリートの思想家」を支援し、それを理論的に正当化していくことなのか。
    まあ、ともかくいろいろ考えさせられる一冊ではある。

  • マルチチュード
    プレカリアート(プレカリオ+プロレタリアート)
    政治のスペクタクル(見せ物)化

    ストリートの思想は消費主義と対抗しうる
    ストリート⇔オタク
    (身体的営み)(文化)
    (政治的)(政治性なし)
    ロスジェネ的怒りだけではなく「楽しみ」「享楽」

    1
    イギリス 70年代パンクロック=シチュアシオニスト
    『スペクタクルの社会』

    2
    大学院重点化などの再編→〈大学の中で周縁化されがちだった現代思想や文化理論の研究者たちを中心的な場へ引き入れる役割を果たした。〉
    蓮實重彦が東大総長になったり表象文化論ができたり

    オウム→社会工学的な知
    新自由主義と親和性が高い

    クール・ブリタニア

    3


    4
    183
    〈「ストリート」とは、断片化し、流動化した身体が移動している場所である。新しい権力に抗するには、言語によって分節化された対抗的な言説だけでは十分ではない。それ以上に具体的な直接行動や、情動に訴える身体的なパフォーマンスや音楽が、動員される必要があるのだ。〉

    小田マサノリ
    文化人類学者になるためにアクティビストになった

    5

  • 左翼・社会運動を80年代から振り返って95年を転換点として、新しい潮流としての「ストリートの思想」を紹介している。
    30年間ほどの日本の現代史を通して左翼の変容がつかめるのは興味深い。
    しかし、震災前後でかなり評価が変わるんじゃないかな。本書が書かれたのは2009年だけど、なんだか牧歌的ですごく昔の話をしているように思う。ここで紹介されている活動家は今はほとんど名前を聞かない(そんな感じあったな、そんな人いたなとは思う。)。
    ストリートという方向性はいいけど、たった10年ほど前のことなのに、もうなんだか懐かしい。
    このスピードは何だ。

  •  ごりごりの左翼に対して、ストリートの運動のノリは保守化するメディアや論壇にたいして、「左翼」を敗北から取り戻す試みなのだ。

     現在のポストモダン的な状況では、どれほど強力なイデオロギー批判もやはり相対的なものでしかなく、けっして真実の言説にはなりえない。正しいかどうかではなく、おもしろいかどうかである。(左翼の敗北は、ダブルスタンダードを説明できないからではないか?)

    ストリートの思想とは何か
    ・常に過渡的な思想のあり方であって、その体系は事後的にしか把握できない。
    ・人を動かさない。動くことで思想が生まれる。人を動員しようとする指導的な思想とは対抗的関係にある。
    ・音楽、映像、マンガ、ダンスといった非言語的実践を通じて表現されることも多い。
    ・消費主義、メインストリームのカルチャーと対抗的である。対抗的なおもしろさや快楽を作り上げる。(プロの仕事から学んだドタマとか、メインストリームの仕事力は?)
    ・金銭に従属せずに、既存の資本の流れとは別の自律した場所で、いかにカッコよく、いかに魅力的な生活を作り出すことができるか。
    ・オタクとストリートは対立している。オタクは文化中心の営み。ストリートは身体的営みだ。(オタクの聖地巡礼はどうなのか)
    ・活字の中には回収できない息遣いやにおい、肌ざわりといったものだ。

     しかしそういう運動も、「古い左翼の「政治」の中に、いつのまにか回収されてしまっている。(これは正しい)

     発達した情報テクノロジーのネットワークに覆い尽くされ、切断と接続をたえず繰り返しているような都市は、「劇場」ではなくむしろ「工場」として捉えるべきだというような話だったと思う。(P53)

     新自由主義は、ポスト・フォーディズム生産様式に対応する政策である。(地元で大量生産、機械的に動くものよりも、柔軟にグローバルに動くポストフォーディズムは新自由主義とマッチしている)

    「スペクタクルの社会」を著した思想家ギー・ドゥボールをはじめとするシチュアシオニストたちは、商品経済とメディアによって徹底的に支配された現代社会を「スペクタクル(見世物)の社会」と名づけ、この社会では私たちの生が徹底的に受動的なものとして封じ込められていると考えた。

     みんなが好き勝手踊る対抗的ダンスカルチャーと、よさこいのように規律訓練の組織をもった反動的ダンスカルチャー。(ではライムダンスは?)P77

     P110 ディック・ヘブディジ「サブカルチャー」パンクロックやレゲエなど若者たちの文化の実践を、ロラン・バルトの記号論やアントニオ・グラムシのヘゲモニー論、ルイ・アルチュセールの構造主義的マルクス主義を理論的な枠組みとして、「抵抗」への契機として読み込んだ本(ずっとこんなことやってるんだな)

     生権力に対抗する公共圏とマルチチュード。

    P190 ECDに代表される初期の日本のヒップホップが、しばしばマスメディアで誤解されているように、単なるブロンクスの黒人文化のファッショナブルな輸入でも、六〇年代や七〇年代のソウルやディスコミュージックの延長にあったのでもなく、七〇年代末の日本のパンキッシュなインデペンデント文化の発展形であったということである。

    P214 ウィキペディアへの楽観的記述はあまりにも浅い。

    P240 本来多様な欲望をひとつの方向へとまとめあげ、動員しようという全体主義的な志向がまぎれ込んでいるのではないか。個人的な「怒り」を媒介とし、共通の「敵」を特定することによって、本当に「右と左は手を結ぶ」ことができるのか。そこで「手を結ぶこと」からこぼれおちてしまうものがあるのではないか。

     「怒り」を共有できる自分たちと他者との間に境界線ができてしまう。「怒り」が特定の集団によって特権的に占有されると、「内ゲバ」という救いのない出来事が生じる。「ストリートの思想」は徹底的に個人的でありながら、同時にそれを多種多様な人々に開いていく思考法である。「ストリートの思想」が戦うべき相手は、そうした開放性を脅かす存在である。

     安易な合意や意見の一本化に対してたえず懐疑的な目を向けることこそが、ストリートの作法なのだ。ストリートは開放的である。そして、このことはロスジェネ論壇ーーまさに再生産された「論壇」」ーーの中でしばしば見られる、拙速な決断主義とは正反対のものだ。(P241)

     二〇〇〇年代のストリートの叛乱は、名人芸を身につけたポストモダン・プロレタリアートが、名人芸や国家や資本に回収させずに、自分たちのために使いこなすことで起こった。(P248)

  • <blockquote style="background-color:silver; padding:0.5em;">「ストリートの思想」と「オタク的な思想」は、二つの点で対立している。ひとつは、同じく文化を参照軸にしながら、そもそも見ている「文化」が決定的に異なっている点だ。「オタク的な思想」が、アニメやライトノベル、ゲームを「文化」の中心にしているとすれば、「ストリートの思想」は、音楽やファッション、そして、日常生活の経験 ― 人としゃべったり、料理をしたり、歩いたりと言った身体的な営みをもとにしている。(P.25)</blockquote>

  • 「おい、おまえ、そこのおまえだ!」

  • ロスジェネとか、フリーターズフリーとかの話。80年代の話が興味深かった。

  • 90年代を前景として変化した日本の社会運動のスタイルを「ストリートの思想」として説明した本。
    ストリートの思想が生まれる前提としてあるのは、政治のスペクタクル化、大学と資本主義(新自由主義)の接近、ポストフォーディズム的社会システムの拡大、「旧式の」左翼・大学的知識人(論壇)の低迷などなど。

    この本は出版された当時にすぐ買って、興奮しながら読んだ記憶があるのだけど、久しぶりの読み返してみたら、色々と気になってしまったので、イマイチ納得がいかない部分があるのをいくつか指摘したい(内容のまとめについては他の方のレビューを参考にされたし)。

    まず大学について。
    著者によれば、現在の大学は、新自由主義的な論理が介入することによって、もはや外部の社会から独立した場所ではなくなっている。そこは、かつての運動や社会のコンセンサスを生み出す要素ともなった、知的権威が保たれた場所ではなく、運動を中心的に生み出す機能は持ち得ないという。

    実際に大学の中にいて、今の大学がどのような論理で動いているのかを見るにつけ、そのような視点は妥当性が高い、とも思う。また、大学という空間において活動するものは(大学生にせよ教員にせよ)、一定の既得権益を得た特権階級のような立場であるということが批判されているというのももっともだと思う。

    (というのは、「労働者」、「学生」、「国民」、あるいは「(ヘテロ)男性」「(名誉)白人」といった主体を無批判に前提とした従来の運動や思想のあり方が徹底的に批判の対象となったのはフェミニズム、クィア・スタディーズ、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアリズムその他の動向が大きく注目された90年代だったのだから、それらを素朴に「復権」させるようなスタイルが通じるとも思えないのだ)

    しかし、一方で疑問なのは、それでもやはり著者が述べるストリートの思想を生み出す機能を果たした大きな揺籃は、やはり大学であったのではないかと思われるからである。「素人の乱」の松本哉であっても、「RLL」の∞+∞=∞にしても、大学という空間において体験した自由な活動(それは政治活動に限らない)からインパクトを受けたことが、後の活動への伏線のように機能しているということは指摘できる。
    あるいはイルコモンズ(小田マサノリ)や、著者の毛利自身も(常勤、非常勤の違いはあれど)大学教員としての仕事から収入を得ているのは事実だろう。他にも、大学教員の仕事をしながら運動にコミットメントしているものの影響力は、やはり否定できないのではないかと思われる。

    だから、以前ほどの影響力は持ち得ないにせよ、大学の持つ社会的な機能が重要であるということは間違いないし、それを放棄して「もはや大学はそういう場ではない」と突き放してしまうのは、いささか無責任なのではないか。

    それから別の点。
    個人的に札幌という地方都市に住む学生としての視点で言わせてもらうならば、ストリートを中心とした活動の芽生える土壌が各地域で共有できているとは(当然ながら)限らない、ということである。
    たとえば、この手の本でよく取り上げられる「あたらしい運動」としてのサウンドデモについても「2003年のイラク反戦デモを契機として広がった」と説明されることが多いのだが、それは東京中心の記述にすぎないのではないか、などと感じてしまうことが少なくない。札幌で「サウンドデモらしいサウンドデモ」が行われることなど、年に一度あるかないか、というレベルなのだから。

    そして、(毛利は必ずしも「ストリート=路上」としているわけではないが)路上という場所の可能性についても、札幌の冬季(この期間が長い)では見出しようがない。新しく作られた地下歩行空間は、監視カメラだらけの管理空間であり、企業の広報空間にしか見えない。人と人とが出会えるストリートは、このような街でどのようにして見つければよいのか。そのヒントとなるようなことはここには書かれていない。大学が居心地の悪い管理空間になるのと同時に、街も窮屈な場所になってしまっているようで、息苦しい。

    それから、企業の活動において要請されるようになったポストフォーディズム的な能力(創造力、独自性、コミュニケーション能力)が、社会運動において利用可能となった、という点についても疑問がある。
    著者によれば、これは一見、反抗のための道具を持たないように見える人々が、実は転用可能な能力を身に付けている(=「だから反抗は可能だ」)、という話であるが、個人的な実感としては、そうした能力を持っていない者はどうすればよいのか、という事になってしまう。
    すなわち、企業で活用できるポストフォーディズム的な能力を持たず、居場所がない者は、社会運動の場においても能力が活用できず、居場所が得られない、ということになりかねない。
    たとえば、現在の就活(就職活動)においては、「コミュ力(コミュニケーション能力)」が過剰に求められる傾向があるが、そこへのアンチ(あるいはオルタナティブ)を求める抵抗運動の現場にあっても、結局は「コミュ力」を求められる、という逆説が起きてしまうのである。これでは、結局、どこにも居場所を見つけることが出来ず排除されてしまう者が出てしまう可能性は否めないだろう。

    このような疑問にどう答えるのか、その辺りの著者の詰めの甘さ(あるいは楽観性)は否定できないだろう、と思ってしまった。

    (この本の内容は基本的に評価しながら、あえて批判を書いてみた。あしからず)

  •  まずは、著者の専攻であるカルチュアルスタディーについて。これは60年代にイギリスで始まった文化に対する研究であり、これはイギリスでは階級制度と文化が密接な関係であることが重要な要因となっている。21世紀においても英国人の二人に一人が「自らは労働者階級であり、その事に誇りを持っている」との回答が象徴的なように、労働者の文化というものが単に下位のものとして位置づけられてるのではなく、権力や上位階級との社会関係の中で自明性を見出した独立性を有しているのが特徴的であり、それゆえこのような文化研究が学問として注目を浴びている。
     ここでポイントとなるのが、文化というものは公私二元論で位置づけられるものではなく、その外側にあるものだということ。そして著者は、90年代以降のグローバリゼーションの躍進に伴い、資本主義的な価値観が蔓延する中において、このようなカルチュアルスタディをその抵抗手段としてい位置づけているのが大きな主張。資本主義は私的所有を原則とするが故に、高度化するに伴いその影響はより不可視的に人々の内面を規定しようとする。そのため、文化というものを対象にすることで、人々の趣味や生活といった問題を単に私的領域に閉じ込めるのではなく、理論と実践の理論的統一を図ることで政治的抵抗の手段として位置づけようとするのだ。
     そして、日本の場合はその源泉を80年代以降のDIY的インディーズ文化に求め、そこからの系譜を消費社会的バブル文化や全共闘的?ニューアカ的なアカデミズムの失墜とは異なる、第三の道として考えている。そして、それが90年代以降、「場」を通じて立ち上がってきた文化が発生してきているのだと様々な具体例を提示する。
     何か色々とややこしい事を書いたけど、個人的にこのような主張は学問的正当性があるかは別にして可能性というのを強く感じている。ゼロ年代以降の高度情報化に伴い、あらゆる趣味が細分化・島宇宙化してしまったこの時代において、自分が好む趣味というものを捉えなおし、それを他者との関係性において拡張していき横断しようとする姿勢というものは、個人化を反転させる有効な手段なのだから。

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著者プロフィール

毛利嘉孝
毛利嘉孝
社会学者。1963年生まれ。専門は文化研究/メディア研究。東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジPh.D.(Sociology)。九州大学大学院比較社会文化研究科助教授等を経て現職。特に現代美術や音楽、メディアなど現代文化と都市空間の編成や社会運動をテーマに批評活動を行う。主著に『バンクシー』(光文社新書、2019)、『増補 ポピュラー音楽と資本主義』(せりか書房、2012)、『ストリートの思想』(NHK出版、2009)、『文化=政治』(月曜社、2003)、編著に『アフターミュージッキング』(東京藝術大学出版会、2017)等。

「2023年 『朝露』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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