- Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150102371
感想・レビュー・書評
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SOLARIS(1961年、ポーランド)。
スタニスワフ・レムの代表作。ジャンルとしては「ファースト・コンタクトもの」に属する。つまり、地球人と地球外生物の「初めての接触」について書いたもので、SF小説のテーマとしては至極オーソドックスなものである。にもかかわらず、『ソラリス』は数ある同種の作品の中で、ひときわ異彩を放つ作品としてSF史にその名をとどめている。
作者曰く、『ソラリス』以外の作品において、ファースト・コンタクトの結果は突きつめれば以下の3つのパターンに帰着するものであった。
1)地球人と地球外生物が共存的な関係を築くもの。
2)地球人と地球外生物が対立し、地球人が勝利するもの。
3)地球人と地球外生物が対立し、地球外生物が勝利するもの。
…多少の不正確さを承知で例を挙げると、映画『E.T』やホーガンの『星を継ぐもの』は1に、映画『エイリアン』やブラッドベリの『火星年代記』は2に、映画『猿の惑星』や光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』は3に、それぞれ分類されるだろう。異色のファースト・コンタクトものとして外せない作品にクラークの『幼年期の終り』があるが、これも1の変形バージョンと見なすことができるだろう。
バラエティ豊かにみえる上記の作品群は、しかし暗黙の了解のうちに1つの共通ルールを常識として採用している。「知的生命体同士は意思疎通が可能である」という常識である。意思疎通がとれなければ友好関係も敵対関係も結びようがなく、文字通りお話にならない。ゆえにSFでは自動翻訳機なりテレパシーなりを小道具として導入するわけだが、そこには「テクニカルな面さえクリアすれば知的生命体同士の意思疎通は可能なはず」という思い込みがある。
『ソラリス』において問題提起されるのは、まさにその点である。「知的生命体は人間との意思疎通が可能である」というなら、裏返せば「人間との意思疎通が不可能なら知的生命体ではない」ということになるが、それは真理だろうか。一体、私達人間の「意思」なるものは、宇宙に存在する全ての知性を評価する尺度として使用できるほど、普遍的なものなのだろうか。私達は無意識のうちに、またも無邪気な人間中心主義に陥っているのではないか。人間には原理的に認識不可能な知性というものも、この世には存在しうるのではないか。そもそも「知性」とは何か、また「意思」とは何か。
この問題は、哲学や脳科学、精神医学、生物学、そして神学にまで関係するものだろうが、きりがないのでここでは深入りしない。ひとつだけ確かなのは、「常識から飛躍して、どれだけ純粋に〈思考のための思考〉をすることができるか」をSFの醍醐味と考える読者に対して、『ソラリス』は間違いなく豊饒な時間を提供してくれるだろう、ということだ。発表から約半世紀たった今でも色褪せることのない傑作である。 -
20世紀SFを代表するポーランドの作家スタニスワフ・レム(1921-2006)の不朽の名作と云われる、1961年。アンドレイ・タルコフスキーによる映画『惑星ソラリス』(1972年)などの原作としても知られる。
人間は、人間的なるものの類比=アナロジーという方法論以外で以て「未知なる他者」を理解することは可能なのか。 そもそも「未知なる他者」を理解するとは如何なる情況を指すのか。更には「未知なる他者」との関係性は理解する・理解しようとするという機制以外に在り得ないのか。
『ソラリス』は数多ある既存のファーストコンタクトSFに見られるあらゆる人間中心主義(「擬人主義」)的な紋切型――「われわれは人間以外の誰も求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の地球だけで充分だ」「われわれは・・・・・・われわれはありふれた存在だ。・・・。そして自分の平凡さが非常に広く通用することを誇りにし、その平凡さのうつわの中に宇宙のすべてのものを収容できると思っている。・・・。しかし、別の世界とはいったいなんだろう? われわれがかれらを征服するか、かれらがわれわれを征服するかのどちらかで、それ以外のことは何も考えていなかった・・・」――を超越したと云われ、哲学的SFの傑作と評価されている。にも拘らず、本作に於いてなお残存しているドグマがある。それを一言で云うなら【出会われる未知なる存在は他者である】ということだ。
ソラリスの海は【他者】たり得るか。然り、ソラリスの海は【他者】である。なんとなれば、「・・・ソラリスの海は一種の数学的言語のようなものによって話をしているらしい・・・」則ち、ソラリスの海は【言語(個物の概念化作用)】を有しているのだ、ひいては【理性】を有していることになる。たとえその形態が人類のそれと如何に隔たったものであろうとも。作中に於いてソラリスの海はしばしば生命体に擬えられてもいる。全ての【他者】は"人間同士と同程度の相互理解"の可能性に開かれている。そうであればこそ、「理解不可能である」ということも可能なのである。
しかし、【非-他者】に対しては「理解不可能である」という機制自体が不可能なのであろうか。他者/非‐他者とは何か、そしてそれが理解可能であるとはそもそも如何なる事態なのか。問いはまだまだ広がりをみせるのか。或いはこれが【他者】とのコンタクトの極北・論理的限界なのか。
地球から遠く離れた惑星ソラリスの海が映し出してみたものが、実は人間自身の内部にある深淵そのものだった。これは、他者理解の可能性の問題について、極めて示唆的だ。 -
和モノを中心に読んでいるわたしですが、一番好きな本を挙げろと言われたら間違いなくこれを挙げます。それまでの色んな概念が覆される。人間の発想は、おしなべて自分自身の置かれている社会から飛び出すことは出来ず、多くの場合、産まれてからこれまでに見聞きしたもの・取り入れた概念の中でしか、ものを考えることは出来ないんですね。
翻訳も非常に好きです。なんてったって邦題から素晴らしすぎるよ。 -
スタニスワフ・レム、1961年の作品。映画「惑星ソラリス」と「ソラリス」の原作である。ハヤカワ版が1977年刊行(訳は飯田規和)なのに対し、国書刊行会版(コチラのタイトルは「ソラリス」。訳は沼野充義)は2004年。国書版はポーランド語原典からの新訳版で、ハヤカワ版はロシア語版を原典としたので、少々内容が異なるらしい。が、特に結末に大きく影響を及ぼすようなことはなく、冗長すぎるきらいのある部分がカットされてるのがロシア語版という情報だった。どちらを手にするべきか少々迷ったが、長く読まれているハヤカワ版を手にした。
長い物語であるし、ソラリスの「海」についての描写や研究書については相当ページを割いているが、登場人物たちがソラリスにやってきた経緯などは深くは語られていない。この曖昧さが却って50年近く昔の物語の劣化を防いでいるのかもしれない。そして、描写が非常に美しい。「海」の描写のなんと美しいことだろう。恋人・ハリーの描写のなんと儚いことだろう。
読み始めのとき、わたしは「地球的な価値観で」ソラリスを当てはめて、ひとつ謎解きでもしてやろうといった気持ちでいた。しかし、そもそもそれが大きな間違いだった。ラスト、ソラリスの海での体験の描写は、圧倒的な美しさだと思う。それから、恋する人にもオススメの小説。泣けます。
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最近ハリウッドでリメイクされ、新訳も出版されたが、そんなものは★ひとつです。やはり旧版をオススメします。
通称「ソラリス3部作」の表題作。
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おもしろさA級クラス!(『SFはこれを読め!』谷岡一郎著 より)
「すみれ色の霞におおわれ、ものうげにたゆたう惑星ソラリスの海。だが、一見何の変哲もなく見える海も、その内部では、一種の数学的会話が交わされ、
自らの複雑な軌道を自己修正する能力さえ持つ、驚くべき高等生命だった!(出版社解説文より)
ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが1961年に発表したSF小説です。1972年にアンドレイ・タルコフスキーによって映画化。」 -
高尚
惑星ソラリスのステーションに、ケルビンがやってくる。中の研究員たちは様子が奇妙で、いないはずの人物が現れる。ケルビンにもハリーが現れ。
スタニスワフ・レム原作でソ連時代のタルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」。約40年前に鑑賞し、とてつもない衝撃を受けました。後にスティーブン・ソダーバーグ監督ジョージ・クルーニー主演でリメイクされましたが、それほどの衝撃はありませんでした。
原作は生き物であるソラリスの海に対する人間側の解釈に、より深く焦点が当たっているように感じました。タルコフスキーの映画はラストが違い、ハリーとの関係を永遠とする。ソダーバーグ版は、愛情面がより前面にだされた感じです。 -
理解は出来ないし意味はないかもしれない。という事はひしひしと感じました。
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難しかった。
面白いか面白くないかすらも分からんけど、完全に「未知のもの」に圧倒された
映画はまだ未見ですが、いつか見たいです!
判っている筈。と言う前提があるのかも、、、
判っている筈。と言う前提があるのかも、、、