ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

著者 :
  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150106720

作品紹介・あらすじ

ケイスは、コンピュータ・カウボーイ能力を奪われた飢えた狼。だが、その能力を再生させる代償に、ヤバイ仕事をやらないかという話が舞いこんできた。きな臭さをかぎとりながらも、仕事を引き受けたケイスは、テクノロジーとバイオレンスの支配する世界へと否応なく引きずりこまれてゆく。話題のサイバーパンクSF登場!

感想・レビュー・書評

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  • SFへの興味に自覚的になったので意を決して読んでみた。

    世界設定のようなものはなんとか理解できたものの、電脳に関するものがあまり理解できなかった…あとは読んでいる最中、何が起こっているのかふわっとした説明を考えながら繋いでストーリーを作っていくので、忙しい時期に読むものではなかったなと思ってしまった。逆にいうと次に何が起きるのか本当に予想できないのでそこに対する面白みがあった。

    毒を含んだ銀色の空や自由界にある偽物の自然の描写が読んでて一番印象に残った。
    不自然な自然の模倣。公害によって自然が崩壊した世界。そこでは自然が何よりも高級調度となっており、日焼けのような自然との関わりがあるという証明がリッチであることを示している。その一方で、そのために作られた模造の自然は人にとって過ごしやすいような、いわば不自然な自然。ちょうど、青い薔薇のようなものばかり。そうしたものが格差の根拠とも視えるとかそこに対して人々は何をさらに見出すのかとか考えて読んでしまう自分は、アンドロイドは電気羊の夢を見るか?のが好きなんだなと思ってしまった。

    攻殻機動隊を観たあとのこれはあぁでこうなのかとかを長い月日をかけて考える問いがあまり見出だせなかった自分の読み込みの甘さを感じた。

  • 最高の体験だった。最初は戸惑ったが、読み進めていく内にまるで映画を観ているかのような映像が頭に思い浮かぶほど、スリリングで、ハラハラして、緊迫感があり、かっこよく……。どれをとっても文句ないジャック・イン体験だった。

  • 1984年、若手作家ウィリアム・ギブソンがとんでもないSF小説を出し、翌年のSF関連の賞を総ナメした。
    それがこの『ニューロマンサー』

    「Windows」はまだ無く「パソコン」という言葉もできていない、ましてや携帯電話もインターネットも普及していない時代だが、SF界は活気にあふれていた。

    そんな中でも、コイツは他とまったく違った。

    とにかく、読んで理解しようとするとサッパリわからないのに、200ページぐらいしてから感覚でわかったような気がしてくる。
    不思議なんだなぁ。

    この作品から「パンクSF」という言葉ができた。

    押井守や大友克洋(AKIRAは同年刊行)のアニメをイメージして読んでいくととても面白いものであることに気がつく。

    名作!(パチパチパチパチ……)

  • 知ってるのが前提になっている、分からない用語の氾濫。終始置いてきぼりにされてしまいましたが、読み勧めていくとメチャクチャ面白い作品だということがなんとなく理解できました。
    ちゃんとした知識武装をした上でもう一度読んでみたい。

  •  読み終わるのに二ヶ月余りかかった。面白ければ、普段は半日とかけず読み終わることもあるのに。つまりは、引き込まれなかったのだ。

     なぜ引き込まれなかったのか。それはきっと、造語、耳慣れない単語が非常に多く、それについての説明もほとんどないので、状況を理解するのに苦労するからだろう。しかもそれで以て情景を描写することも多いため、うっすらとしかシーンをイメージできず、読みながら情景を思い浮かべるタイプの読者としては、どこも印象に残りにくい。

     また、今進行している事柄についての説明(何を目的にしているか)もないか、最初に説明されたきりだったりするので、なんとなく把握したまま流れに流されて、ぼんやりと状況が進行していくのを傍観している気分。台詞もとっ散らかっていて、読み辛いのが、拍車をかける。

     とにかく、あらゆる説明が足りず、煩雑な印象を受けた。サイバーパンクの金字塔であること、高い人気は承知しているだけに、SF読みとしては認めたくないけど、敗北を感じた。

  • 何が起きているかわからない圧倒的置いてきぼり感を強烈な疾走感で乗り越えられれば、いつの間にかサイバーパンクな小説世界へトリップだ。

    千葉シティへジャックイン。

  • もう好みすぎでやばかった。

    「この本について、スピーディーな展開、全篇をつらぬくサスペンスフルなストーリイ、きらびやかで刺激的なイメージの洪水、荘大で奥深い設定、キャラクターや世界のリアルで魅力的な描写……と、この手の常套句を並べてみても、みな正しくはあるのだけれど、なんとも間が抜けてみえてくる。それに、本当のスゴさ、おもしろさは、こうした表現におさまりきらないところにあるのだし。」

    という山岸真さんの解説の始めの部分で、だいたい自分の言いたいことは、自分以上に言われてしまった感がある。

    SF的な未来像と場面場面の圧倒的なかっこよさに、自分は餌をがつがつむさぼる犬のように、読みながらひたすら浸っていた。

    ただ、こうしたかっこよさもありつつ、自分が大好きだと思える部分は、ヒトの物語が中心にあり、それを設定を通してずっと描いていることだ。

    自身の身体性や感情というものに距離をとっているケイスという人間が主人公で、空虚さが彼の特徴のように見える。しかし、作中に登場する彼をとりまくさまざまな事象にこそ、ケイスという人間が描写されているように感じた。
    彼の「怒り」はどこにあったのか。
    このキャラクタの表現手法こそ、自分は本作で一番気になる点。


    浜辺で走るリンダの姿と、最後に見かけるケイスの姿がとても印象的だった。

  •  SFと一口に言っても、多くの下位分類があることに驚いた。
     例えば『一九八四』(オーウェル)は、ソーシャルフィクション(自分の造語)に近く、テレスクリーンなんかのオブジェクトは比率が少なく、社会の焦点がおかれている。
     次に、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(ディック)は、アンドロイドと人間がテーマで、第三次世界大戦があり、宇宙の生活圏が示唆されているけれど、作品におけるアンドロイド自体がかなり人間よりでアナログな存在として描かれていて、なんというかアナログの一部である機械をmachineと捉えると、MF=マシンフィクションとソーシャルフィクションの割合が強く感じられる。(MFも自分の造語)
     じゃあ『ニューロマンサー』(ギブスン)は?というと、こちらのSはサイバネティクスという色合いの強いことが分かった。初めて電脳世界に焦点を当てた小説を読んだことになる。
     例に挙げた三作は、アニメ『psychopass』に登場する「オーウェルより支配的でない、ギブスンよりワイルドでない…強いていうならディックが近い」というセリフを愚直に受け取って手に取った三冊で、恥ずかしい影響のされ方かもしれないけど、SFと呼ばれる作品を手に取ったのは初めてで、それぞれのテーマを観ていくと、同じSFというジャンルに括るには疑問符が付くほど、多様性があることに驚いている。
     この三冊は、自分史におけるSF入門書として位置づけられた。


     トロード(電極)をつけて、マトリックス(電脳空間)にジャックイン(投入)する。この一連はVRが、もう実現している技術になってはいるものの、『ニューロマンサー』世界では、電脳空間へのアクセスが一般大衆化しているわけじゃない。
     『サマーウォーズ』のようなアバターを用いるパートイン型のメタバース、『マトリックス』みたいな現実と区別がつかないようなフルダイブ型のメタバース、ARなんかとも違う、工事中の現場の骨組み、足場がそのまま残っているような、コードの世界、映像化の舞台裏、剥き出しのコードが視覚的に共有される、まだまだ未整備の世界といった印象を受けた。
     その未整備なムードは、何というかより無機質でインターネット的なムード。
     今までに見たイメージでそれに近い雰囲気は、ポケモンのダイアモンド・パールの裏技で、地下坑道から辺り一面の真っ暗闇のステージで延々とコマンド入力する感覚に近かった。
     身体へのテクノロジーへの介入度合いは、格段に進化している。
     でも作中のそれは、美容整形手術でヒアルロン酸を注入する女性のそれと変わらず、手軽な感覚と程遠くないように感じた。
     〈肉の欲望〉と、ケイスが作中ひたすらに嫌悪し続ける〈肉〉への気持ち。それがよく分かった。
     肉体が受けている制約をすべて箇条書きにしていったら、読む気も起らないような六法全書的分厚さか、もしくは五十音順の百科事典的な膨大さになりそうだ。
     外部からの制約。重力が代表格。
     内部ー構造的な制約に、老化、制約、疲労……。ショウガのボンボンでお馴染みの、ディーン。
     ー“ジュリアス・ディーンは百三十五歳。毎週、大金を投じた血清やホルモン類によって、常に代謝を異常に保っている。加齢を防ぐ決め手は、年に一度、東京に行脚して、遺伝子外科医にDNA暗号を整復してもらうこと(P,28)”
     “模造翡翠の台に載ったヴァット(槽)培養の平たい菱形の肉片~娼婦の膚を想い出す。肉片には発光ディジタル・ディスプレイが刺繡され、それが皮下チップ(素子)に結線してある~なぜ、わざわざ外科手術までうけるんだろう。こんなもの、ポケットに持って歩けばすむのに。(P,32)”
     後半に出てくるティスエ=アシュプールは、冷凍睡眠と解凍を繰り返して肉体の延命を行い、妻マリイ・フランスがウインター・ミュートにティスエの精神の結晶体であるニューロマンサーを取り込もうとしたのは、平たく言えばセックスだったのかもしれない。
     肉体の所有物である、情欲、愛なしには、人間は生まれては来れず、肉体に属する精神の暴走と、精神の肉体を超越したいとする願望がすべてそのままニューロマンサーに体現されている。
     これは、ホログラムで肉体を変貌させ、たかのように見せることが出来るのに、わざわざ、肉体の一部にする女性の肉への欲求をケイスが理解し損ねたのと同じだ。
     『セロトニン』ウェルベックにあった、“西洋の人類は不幸にも生殖とセックスを分けて考えるようになったが、それは生殖を断罪するのみならずセックスをも同時に非難していて、返す刀で自分自身をも非難するのであり~(P,73)”
     そしてケイスが憎しみを感じ、それが自分への憎しみだったと後半にかけた明らかになっていくときには、このことを思い出した。
     ケイスが感じていた憎しみの正体は、肉体への欲求の裏返しかもしれない。
     愛する人、ここではセックス、肉体関係のある人間関係からしか得られることのできない充足が得られないこと。
     ただ、射精の快楽は本当に一瞬で、そこには満足というものがない。
     でも、不特定多数の人とのセックスは、交際者、配偶者がいれば不可能。
     男の性って、もしかすると、この現代の法律と道徳倫理のなかでは、詰んでいるのかもしれない。
     少し話がそれた。
     ケイスのバックボーンに特別なイベントが無かったことが、憎しみの正体の答え合わせなような気がする。特別な出来事のなかった彼が感じる憎しみということは、その他に大勢いるだろう、似通ってとりわけ特筆すべき環境にいない人々も、同じように、その憎しみを抱えるようにならないとは言い切れない。
     それがニューロマンサーの反映する環境の共通現象になっていると仮説することもできる。
     膚板を使えば、肉体の変容が可能。神経外科手術によっては寿命だって操れる。
     パンサーモダンズ、スプロールのスラムに住む、サイバー犯罪不良少年たちは、膚板を使って、奇形化した容貌。財閥が表を、ヤクザが裏を支配している。三年前にはパンデミックがあり、食料は槽で培養された、オキアミから作られた代用物を食べている。本当の動物の肉は高級品で、宇宙にある高軌道フリーサイド(自由界)で振る舞われている。
     明確な描写はないけれど、貧富の格差は今よりも更に拡大し、一部の富裕層が下界からの富を吸い上げる、奇声的構造物、ヴィラ迷光は、露骨な描かれた方をしている。
     技術は発展しても、大部分の人間にとっては、それら技術とその利権を掴んでいる連中に対して、多くの対価を払い続けなければならず、その階級闘争の枠外にいるケイスのような人々は、サイバー犯罪で食い扶持を稼ぐか、現行するシステムの下でただひたすら従属を強いられる。
     ケイスの憎しみは、こういった、人間社会全体に対するものかもしれない。
     ウインターミュートによって、毒嚢を植え付けられて、マトリックスへの復帰と従属を強いられるケイスは、まるで、資本主義下システムの拘束されながら、労働を強いられる労働者そのものと言った趣がある。
     「狂った社会ダーウィニズムの実験」の描写に代表される、汚らしくて、人の命が虫けら同然に扱われている乾いた感じは、絶望している人たちが不安を持ち寄って、ある種の安心感を醸し出しているといったイメージ。ラッツ、ゾーン、ディーン、ウェイジ。千葉の登場人物は、後にウインターミュートが人格模倣に使うだけあって、何というか作り物臭い感じが否めない。
     ケイスが作中を通してずっと想っていたリンダも、なんだかケイスがそこまで熱をあげる描写に不足している気がする。
     リンダ。ケイスは心の底から、自分の最も憐れな箇所を見るように救いがたいリンダを見ていたのだと思う、だから、裏切られてもそこに憎しみはない、はなから憎しみを持てるだけリンダに肩入れなんかしていない。自分の一部の延長のような存在。
     臓器が麻薬を受け付けないように移植されたケイスが、二部以降、素面で眺める世界と、一部で見る千葉市の情景はやっぱりどこか違う。狭くて、濃い瘴気に包まれていた千葉市から、だだっ広くどこか薄まったようなスプロール以降の都市は、ケイスの主観と大いにリンクしている。
     リンダはケイスに取りついていた千葉市での、絶望と薄皮一枚に感じる命の希薄さが醸し出すムードの象徴的なオブジェクトのひとつだった。だから、ムードへの執着は、まるで若い頃を思い出しているときに感じるような強烈な郷愁の念を帯びる。リンダへの執着はそれに近い感情だったのかなと察する。
     死から遠ざかると、そこでは相対的に生の希薄さが増してしまうのはなんでだろう。
     例えば、お年寄りがたくさん住んでいるよな一戸建ての多い住宅街では、時折、テレビの音が漏れて聞こえてきても、静まり返っている。活気にあふれているのはスーパーだけ。アドレナリンを促すような何かは何もない。
     そこにいるだけで何割も老けて見えるよな場所だ。
     反対に夜になればなるほど、得体の知れないエネルギーで熱気を帯びる繫華街では、そこを歩いているだけで何かがあるんじゃないかと勘繰るほど、アドレナリンの分泌を誘発させられる。それは、住宅街や田舎、オフィス街にはないものだ。
     汚らしくて、女も男も本能のまま、食い物を貪り、性を貪り、滅茶苦茶になろうとする。
     
     視覚的なものだけでは満たされない。
     繫華街には、焼肉やニンニク、豚骨、吐しゃ物、アルコール、香水やフェロモン、汗、生ごみの匂いが混ざり合って、嗅覚を刺激する。
     人々のざわめきや、パチンコ屋やゲームセンター、周囲を囲む店店がそれぞれに流す音楽、巨大な広告塔、信号、サイレン、歓声、嬌声に刺激される聴覚。
     クリームやアイス、糖質を過剰に使った食べ物、塩気や油、家庭ではまず出てこないようなものが味覚を。
     ネオンや、様々なファッション、看板、立ちんぼ、ビル群のように住宅街にはない高さスクランブル交差点のような開けた空間、人込み。視覚的には、もう火の海か、戦場を見ているのと変わらないくらいの刺激があるのかもしれない。
     そしてウィンターミュートが蜂の巣を理想の構造物としてケイスに提示したとき、蜂よりもよほど意思をもって鉢にその巣の、構造を形成させる遺伝子の存在を想った。AIか、またはインターネットを作った人間もまた、それは人間よりもよほど意思をもった構造物に見えるのは、それがインターネットとして表出した遺伝子の意志だったのではと、安直に感じる。
     初めてAIやインターネットという概念、存在を記号の他、ストーリーとして想像することができた。
     SNSこそ、人が人と繋がろうち渇望する欲求の、最も先鋭化したものに見える。そこにある評価や注目のシステム、ユーザーのなかで満たされたかのように思える孤独や不安は、その裏で指数関数的に増大して行き、その限界は留まるところを知らない。
     欲望という飽くなきエネルギーを、遺伝子はその肉体が修復不可能になるまで送り続ける。
     肉の欲求とは、つまり最も強い権限を持つ、人間にプログラムされた遺伝子コードという認識が持てる。AIをゴーストと呼んで疑似人格化したのは、その遺伝子コードが何かの複製ミスか何かで産み落としたウイルス的存在。肉の欲求に従わないコードのことかもしれない。
     肉の欲求、本能のままに生きていくと人間は次第に機械めいてくる。
     多様性は失われて、戦争、支配、交尾、自己保存へと赴く。
     本能と聞くと、よほど動物らしい、自然なものを感じるけれど、それが逆に、人間らしさを剝奪していくという想像がここではしっくりくる。
     肉の欲求は個人の幸せなどそもそもが計算外においていることはもう明らかだ。
     貧乏子だくさん。個人の幸せを考えるのなら、資源に合わせた扶養を考える筈なのに。明らかに自己犠牲的で、(子供をt他者と呼ぶなら)利他的な行為に走る。当人はあくまでも個人の欲求を満たしているつもりなのだろが、瞬間的にはそうでも、持続的には異なる。リスクはベネフィットを遥かに上回る。姥捨て山があり、子どもは自分を扶養してくれる存在だとは限らない。
     友達や仲間はどうだろう。
     これも遺伝子レベルの幻想で、意識レベルのそれよりはずっと効力が高い。
     連帯の必要がなくなってきた都市構造物と連帯の渇望が表面化しているSNSテクノロジーは、ウインターミュートとニューロマンサーの対決を思わせるような、遺伝子のコード同士による対決構造を思わせる。
     
     AI、インターネット、サイバネティクス的な考察はし足りないので引き続き再読しながら考えていきたい。
     ここまで初読の感想を書いてみて、アーミテージやモリイ、フィンにリヴィエラ、3ジェイン、マエルクムについて言及してないことを考えてみる。
     モリイの髪型を勝手にアフロだと思い込み、肌の色を褐色だと思っていた。モリイが任務に加担していた動機は、ケイスやリヴィエラよりもずっと薄く感じられてしまう。モリイはなんだか働き蜂みたいだ。驚異の身体能力を持っている。人並みな性欲や食欲もある、でも、ジョニーのことで、それが失われてしまってから、この方ずっと、欲求に従っているみたいだ。ケイスよりも、自己破壊的かもしれない。
     アーミテージに関してはあまり思うところが無い。
     リヴィエラ、彼に関しても道化と視覚的な映像描写の提供のロール以外に感じるところは少なかった。

  • ・文体と世界観に圧倒される強烈な読書体験。ただ、物語の内容はほとんど理解不能。
    ・第1部『千葉市憂鬱』まではなんとか話を追えたけれど...。第2部以降は、誰がどこで何をしてるのか、ほぼ把握できなかった。文体の難解さと、用語の膨大さがえぐい。でも、そこが魅力でもある。
    ・独特な文章と設定を流し読みするだけでも楽しめた。千葉シティ! クローン忍者! ラスタファリアンのスペースコロニー!

  • 『ニューロマンサー』を読んでいると言ったら、「あの表紙のかっこいいやつね」と言われました。現在のハヤカワ文庫版の表紙は木山健司によるもの。
    ちなみに2016年に発売されたイギリスの出版社ゴランツ版のカバー・デザインもめっちゃかっこいいです。
    どちらもデジタルなパッチワークみたいで、ひと目見ただけでは何を表現しているのかわからない。それはそのままこの作品世界のようです。

    「サイバーパンクの代名詞的作品」と言われるように、『ブレイドランナー』的な暗い空に覆われた千葉シティから始まり、体にぴったりと沿う黒い衣装に身を包んだ草薙素子のようなヒロイン、電脳世界に没入(ジャックイン)する主人公、光を帯びた恒温ファームのベッドなどなど、サイバーワールドな世界観にしびれます。
    といってもそれは『攻殻機動隊』とか『マトリックス』とか、『ニューロマンサー』に影響を受けた映像作品を見ているからある程度頭の中で映像化できるのであって、インターネットでさえまだ概念のみだった1984年にこの作品が書かれていることに驚きます。
    (ギブスンが未来を予言したというより、現実がSFの世界観を模倣したようなところもありますね。)

    500ページという長編なのに加えて、この世界観を咀嚼していくのがなかなか難しく読むのに苦労しました。
    たとえば「〝フラットライン〟は、アーミテジがこっちのホサカを消したと言っていた」というセリフ。
    フラットラインは伝説的ハッカーの呼び名であり、故人であるが彼の思考は「構造物」としてデータ化されており、主人公とともにハッキングを行なう。
    アーミテジは主人公の雇主であるがその正体は元軍人コートで、冬寂(ウィンターミュート)というAIに操られている。
    ホサカはメーカー名でホサカ製コンピューターのこと。
    というのを理解してないと何言ってるのかわかんないんですが、こんな感じで固有名詞がバンバン出てきます。

    後半では、主人公ケイスとフラットラインの会話、モリイの視覚映像、冬寂(ウィンターミュート)が送り込んでくる映像、ケイスの実体が存在するコンピューターの前と目まぐるしく場面が転換(フリップ)するので、今読んでいるのがいったい誰の映像なのか混乱してきます。

    抽象的で哲学的なところもあり、結局何がどうなったのかよくわからないままに読み終わったのですが、流れるようなサイバーワールドのイメージは圧巻でした。

    故人の思考がデータ化されているといってもまだインターネットのない時代なので、「構造物」はおそらくHDD的なものに収納されていて、1980年代だからそうとう重いはずのそれをハッキングする場所まで抱えて移動していたり、ソニーのモニターとか、サンヨーとか富士通などの名称がでてきたり、日本人の忍者が目をやられても「禅で」弓を射ることができたり、いろいろ笑える日本観があったりもします。

    『マトリックス』は直接『ニューロマンサー』の影響を受けているので(もともとは『ニューロマンサー』の映画化企画だったとか)、アーミテジはローレンス・フィッシュバーンのイメージで読みました。


    以下、引用。

    「恐怖に耳を傾けな。それこそお友だちかもしれない」

    「冬寂(ウィンターミュート)は、AIの認識記号なんだ。ここにチューリング登録番号も持っている。人工知能(AI)なんだよ」

    小柄な男。日本人で、とんでもなく礼儀正しく、明らかに槽(ヴァット)培養の忍者暗殺者(ニンジャ・アサシン)の特徴を帯びている。

    代書屋がニ、三人、戸口で雨やどりしていて、古い音声プリンタを透明プラスティックにくるんでいる。ここではまだ書き文字に権威があると見える。停滞した国なのだ。

    「自由世界(フリーサイド)まで、どのくらいかかるのさ……」
    「長くないがや、ほんと」
    「あんたたち、何時間、とは考えないの……」
    「姉さん(シスター)、時間つうんは時間、わかんねえかな。ドレッドがよーー」
    と髪の房(ドレッドロック)を振って見せ、
    「ーー操縦してんだが。わしぃら、自由世界(フリーサイド)に着くときには着くてばーー」

    別のテーブルでは、広島木綿に身を包んだ日本人妻三人が、〝さらりまん〟の夫たちを待っている。

    「あんた、自分自身を憎んでるのかもよ、ケイス」

    「例の木の話と同じさ。森の中で倒れても、それを聞きつける人間がいない」

    「心は〝読む〟もんじゃない。いいか、あんたですら活字のパラダイムに毒されてる。読むのがやっとのあんたですら、な。おれは記憶に〝出入り(アクセス)〟することはできるけど、記憶は心と同じじゃない」

    《ハニワ》はドルニエ富士通造船所の産物であり、内装に垣間見えるデザイン哲学には、イスタンブールを連れ回してくれたメルセデスと一脈通じるところがある。

    一世一代の名演。格闘技テープーーそれもケイスが観てきたのと同じ、安いやつーーを生涯、観察してきたことの結晶だ。しばらくの間、モリイは、あらゆる汚れたヒーローーー昔のショウ・ヴィデオのソニー・マオ、ミッキー・チバ、遡ればリーやイーストウッドにつらなっていく。

    スクリーンの下にはソケットが四ヵ所あったが、日立の調整(アダプタ)プラグに合うのは、ひとつきり。

    「ヒデオは真暗闇でも射るのよ。禅ね。そうやって練習しているんだもの」

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