- Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150116910
作品紹介・あらすじ
焚書官モンターグの仕事は、世界が禁じている"本"を見つけて焼き払うことだった。本は忌むべき禁制品とされていたのだ。人々は耳にはめた超小型ラジオや大画面テレビを通して与えられるものを無条件に受けいれ、本なしで満足に暮らしていた。だが、ふとした拍子に本を手にしたことから、モンターグの人生は大きく変わってゆく-SFの抒情詩人が、持てるかぎりの感受性と叡智をこめて現代文明を諷刺した不朽の名作。
感想・レビュー・書評
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書籍を持つことが禁じられた世界。書籍の一切を焼き払う「焚書官」という仕事に就くモンバーグは、近所に越してきた不思議な少女クラリスと出会い、また書籍とともに命を落とす老婆の存在を目の当たりにし、本を忌むこの世界に疑問を持ち始める。
思考すること・物事に疑問を持つことの重要性、思考の時間を奪われることの恐怖と弊害、さらには人間らしさとは何かを問う作品だと思う。
耳にはめた超小型ラジオや大画面テレビから、引っ切り無しに流れてくる情報の海。書籍から知識や思想を学び感じ取ることを禁じられ、物思いにふける時間すら悪とされる。
徹底的に思考を管理された世界は、確かに人と衝突することなく一見平和かもしれない。けれど刹那的で自身の意志を持たない「生」は、はたして「生きている」と言えるのか。
モンバーグの声に耳を貸そうとせずこの世界の規則に則ろうとする妻ミルドレッド、本に精通し知識にも長けながら本を真っ向から全否定する上司ビーティ、裏で本を肯定し冷静にモンバーグの想いに添う元大学教授フェイバーなど、モンバーグはそれぞれの意見に耳を傾け、自身の考えと立場に悩んでいく。
ある禁忌を犯してしまったモンバーグに降りかかる災難は、先が読めず一気読み必須です。
インターネットやスマートフォンが急速に普及し、溢れんばかりの膨大な情報が簡単に手に入る昨今。流れるように頭を駆け抜けていく情報にひとつひとつ向き合い、深く掘り下げる人はそう多くないはず。電車や歩道でスマートフォンに釘付けになっている人々の姿は、大画面テレビに没頭する妻ミルドレッドと重なる。
SFは苦手と読むのを後回しにしていたが、さすが巨匠ブラッド・ベリ、その中身は普遍的です。この作品のぞっとする怖さは現代に通じます。
~memo~
第一に大切なのは、われわれの知識がものの本質をつかむこと。
第二には、それを消化するだけの閑暇をもつこと。
第三には、最初の両者の相互作用から学び取ったものに基礎をおいて、正しい行動に出ることである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本の所持が禁止された世界を舞台に、見つかった本を焼き払う”焚書官”の仕事をするモンターグの姿を描いたディストピアSF。
以前NHKの「クローズアップ現代」で読書について取り上げられているのを見ました。その番組の中の実験で普段読書をする学生としない学生でレポート課題に取り組む際どのような違いが見られるか、ということが実験されていたのですが、それがこの本の内容とシンクロしているような気がします。
モンターグはふとしたきっかけから衝動的に一冊の本を持ち帰り、その本を読み自分の仕事に疑問を持ち始め元大学教授のフェイバーに話を聞きにいきます。
フェイバーが語る書籍のない社会に欠けているもの。一つはものの本質をつかむ力。二つ目はその本質を消化する閑暇。そして三つ目が先の二つから学び取ったものを基礎において行動する力だそうです。
本が禁止された世界は、この小説の中ではこんな風に書かれています。
まず重要な役割を演じているのはテレビです。テレビは映像や音響の力で人間の想像力を縛ります。
また徹底したカットや編集、あらすじや概要だけを伝える省略化によって、視聴者にその番組の細かいところを想像させないようにし、また次の番組に移るという情報の意味を考えさせない工夫がされています。
また余暇はスポーツを徹底させて組織論を身体に覚えこませ、また身体を動かすことでふと物思いにふける時間を取らせないようにしています。
こんな世界だからこそ、人々は何も考えず与えられた情報をただ消費するだけになってしまい結果的に支配しやすくなるというわけです。
そして自分がNHKの番組とシンクロしていると感じたのはフェイバーが語る3つ目の理由。学び取ったものを基礎において行動する力です。
NHKの読書をする学生としない学生のレポート課題の取り組み方を調べる実験によって明らかになった違い。前者はネットで調べた後、本からさらに課題について知識を得、独自の観点を見つけそこから自分の意見を展開していったことに対し、
後者はネットで調べた多様なテーマをコピー貼り付けし、最終的にその多様なテーマを意見や考察に結びつけることなく簡単に数行で終わらせてしまう結果に終わったそうです。
こうしたところに学び取ったものを基礎において行動する力の限界が見えたように思いました。
ネットやSNSで簡略化された情報が次々と現れては消えていくようになった現代において、60年以上前に書かれたこの小説は今もなお警鐘を鳴らし続けているように思います。
警句的な意味でも名作ですが、ところどころに見られるブラッドベリらしい詩的なイメージや文章もさすが、と思いました。
そして徐々に本の重要性を知っていき、本を守るために命を懸けるモンターグの姿は本好きとして応援せずにいられなくなりました。そういう意味でとても共感しやすかったと思います。 -
米国のSF・幻想文学作家のレイ・ブラッドベリによる1953年発表の作品。
ジョージ・オーウェルの『1984年』などと並び、代表的なディストピア小説のひとつと言われる。ディストピア小説とは、SFなどで空想的な未来として、理想郷(=ユートピア)の正反対の社会(=ディストピア)を描いた小説で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い。
華氏451度とは、摂氏では233度にあたり、紙が自然発火する温度というが、本作品は本の所有や読書が禁じられた近未来の物語である。
主人公は「焚書官」として、人類の叡智の結晶である本を焼き尽くす仕事をしているが、その一方で人々は超小型ラジオや家の大型テレビで絶え間なく娯楽を提供されている。彼らが生きている社会では、ホイットマンもフォークナーも聖書も禁書とされ、人々は権力者の都合のいい刹那的な娯楽により飼いならされ、自ら考えることを自然に奪い取られている。
主人公は、その後、謎の少女クラリス、元大学教授フェイバーと知り合い、自分の仕事に疑問を持つようになり、書物の重要性に目覚めて、自分の上官を焼き殺して逃走する。そして、最後に、書物を自分の頭に焼き付けて未来へ伝承しようとしている老人の一団に出会う。
現代の世の中は(少なくとも日本は)、体制側の明示的な意図によって、個々人が自らの考える材料や機会を制限されることは殆どない。しかし、TVをつければ大多数のチャンネルでお笑い番組が流れ、ネットを見れば多くの人がアクセスしたサイトや、過去の自分のアクセス・購入履歴に基づいたサイトが自動的に表示される。。。体制側の焚書官がわざわざ書物を焼かなくても、自らが考えることを放棄するような状況を作り出しているのではあるまいか。。。
まさに現代において考えるべき、重いテーマを扱った作品である。
(2013年1月了) -
モンターグはFiremanだ。消防士ではない。本を“殺す”仕事だ。
本自体が禁制であり、見つけしだい(密告が多い)焼却する。
自分の仕事に疑問を持っていなかったが、ある少女と出会い言葉を交わしてから、考えはじめる。
・人々は与えられたものを批判なく受けいれるようになっている。
〇今のリアルと重なるような所もあり、怖い。
〇主人公よりも、上司の叫びに揺さぶられる。実は本や知識をすごく愛しているから、引き裂かれるように仕事をしていたんだろうなあ。
〇新訳は雰囲気が違うのかな?ちょっと読んでみたい。 -
昨年末から今年始めにかけて『図書館戦争』シリーズを読んでいたので、海外の作家さんが書いた禁書やメディア規制に関する本を読みたくて手に取りました。
海外小説の心理描写が若干読みにくかったけど、本を読んでそこから得た知識で考えることの大切さを訴えているのがすごく解ります。
本は財産だなと思う。
今年映画版(リメイク?)の同作品が DVDで発売されていたので、今度は映画版も見てみようと思います。 -
久しぶりのレイブラッドベリ。しかも長編。
叙情的な文体はそのままだが、展開が明瞭で読み易かった。
本が手離せない私としては“焚書”は本を読む意味を改めて教えてくれるテーマだった。(ただ楽しい、だけでも充分なのだけど!)
作中で語られる本を読む意味は次の3つ。
①知の核心、ものの本質をつかむこと。
②それを消化するだけの閑暇をもつこと。
③両者の相互作用から学びとったものに基礎をおいて、正しい行動に出ること。
特に②は、遅読の私には有難かった。正確には、読後でなく読みながらあれこれ考えるので、人よりかなり時間がかかる。速読法とかノウハウ本も出ているが、時間節約しても、
②の時間は必要ということ。納得。
そして、直接的、刺激的、享楽的なメディア(この当時だとテレビ、近未来に派生した四方壁面立体テレビ←発想が面白い。ホログラムとかじゃないのね)に対するレイブラッドベリの嫌悪感が描かれている。大戦後10年経ってない頃に書かれてるので、致し方無いとは思う。
とはいえ、ナマケモノ(動物)には生きる価値無しとか、軍事兵器の威力を信じられなかった島国の蛮人(文脈的に日本かと、、)とか、少々ヒステリックにも思える箇所もあった。
モンターグの心理描写も心に刺さる。
クラリスとの出会い、ミリーへの想い(純粋な愛情で始まったはずなのに、関心が無くなったことを自覚した驚愕)、署長ビーティ(皮肉にも誰よりも読書家、博識)が死にたがっていたことに気付かされた場面。
人は死んでしまっても相手の記憶に留まる行為をしていれば良い、何か思い出せるものが遺れば良いのだと、グレンジャーの祖父の話。
おまえはあの街に何を与えたのだ?モンターグ。灰だ。
キツイなぁ。本は何となく選んでいて自分が今直面していることと符合することが良くある。今の私にとってはここが一番キツかった。
モンターグにとって、クラリスはまさにそういう存在だったな。
物語の最後は、本質を見ぬままに惰性で生き、そんな虚しいものを守るための残虐な体制が、たったの数秒で消失してしまう。なんとも残酷。
タイトル、華氏451度の意味は今後考え続けていける深いテーマ。そう、まさにこの本で語られてる本の役割をきちんと果たしている。解釈は色々あるのだろうけど、私は、自分自身、内面から輝かせられる灯りがあれば、いつか時機を得て、今の局面を燃やして再生できる、打開することができるとポジティブに考えた。
他にも一言一言刺さる言葉、金言とも言える箇所が沢山あった。図書館に返すのが惜しくなってきたので購入しようと思う。
最後、あとがきのフレーズも良かったので記録しておく。
、、、読書とは、無数の星のなかから好きな星を選び取って自分だけの星座をつくる行為に似ている。 -
華氏451度!摂氏だと233度!!あっつ!!!
冗談はさておき、焚書もビビるがそれ以上に部屋の3方向をスクリーンに覆われた部屋とか海の貝の方が数倍ビビった。「破壊の恐怖」より「無知の恐怖」。しかもこれ、認めたくないが現在進行形だろうし、現に今イヤホンを耳に突っ込んでPCに収められたお気に入りの音楽を聴きながらネサフしてる私はすでにブラッドベリ・ワールドの住人なのでは(強制終了) -
考えるためには時間と機会が必要で、その大きな契機を与える本を奪われることの恐ろしさを思い知らされた。考えること、感じることを放棄させられてしまった人たち。せざるを得なくなってしまった人たち。本質に触れずにいることは、なんと享楽的で、生きるのが楽なことか。悲しみを感じずにすむから。想像しなくてすむから。でもそれって幸福?
人それぞれ感じ方は違うのかもしれない。強すぎる感受性を恨んだことも度々ある。でも、それでもやっぱり私は、考えることと、自分の手で世界を味わう豊かさを失いたくない。
ものを考えるとき、言葉で人は考えるしかないのだという。ことばに触れるということは、良書に出会うということは、それだけでもう自分という人間を広げ、深めることになるのでしょう。 -
Fahrenheit 451(1953年、米)。
蔵書家の老婆が、焚書に抗議して、屋敷ごと焼身自殺を遂げる場面が印象的。これは作り話だが、実際これに近い出来事も、過去にはあっただろうし、今も国によってはあるのだろうなと、ぼんやり考える。逃げきった主人公たちが、彼の地に「二度と火の消えることのないろうそく」を灯せますように、と願って本を閉じた。