神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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  • 早川書房 (2010年6月24日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (495ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150503680

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の感想・レビュー・書評

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  • ジョーゼフ・キャンベルは神話と科学を対立させていない。彼があらゆる神話を収集しそこに共通項を見つけるという仕事もまた科学であり、各時代の科学の臨界線のまわりに漂う気配が神話をなしてきたのだな、とこの知の巨人の発言を読んで思った。

  • キャンベル氏の本。内容が盛りだくさん。物語を書く上で、参考になるかと思い、読んでみた。

    これは、再読しないといけないなぁ。

  • 神話をモチーフにした物語が多いことがずっと気になっていて読んでみた。
    遠く離れた各文明の神話に多くの共通点があることは人類に多くの共通点があることの証明に他ならない。
    だとしたら神話を学ぶことは相互理解に繋がるはず。
    自身の至福を追求して生きることを良しとしてくれた。

  • 神話はどうやってできたか?この問いを考えると、人が肉体的にも精神的にも何か超越したものを言語でどうにか表すために、作られてきたことがわかるだろう。世界に神話は数あれど、似たような話が多数存在するのはなぜだろう。はたして神話は今現代に生きる人に何を教えてくれるのだろう。神話の話から人生の哲学の話に変わっていく。対話形式で分かりやすく説明された名著。

  • 付箋でいっぱいに。

    ・そして私がキャンベルに、私を生徒にしたことからどんな結果がしょうじてもそれに責任を取ってくださいよと言うと、彼は笑って古代ローマ人の言葉を引用した。「運命は、歩む意志ある者を先導し、意志なき者を力ずくで引き立てる」

    ・なぜ神話を、という疑問から始めましょう。いまどき、なぜ神話のことなど考える必要があるんでしょう。神話は私生活とどう関わっているのでしょうか。
    (キャンベル)答えとしてはまず、「どうぞそのままあなたの生活をお続けなさい。それは立派な人生です。あなたに神話の知識などいりません」と言いたいですね。どんなことでも、他人が重要だと言ってるから興味を向けるなんて、賢明なこととは思えません。ただ、どういう形であろうと、その問題のほうから私をとらえて放さない場合には、まともに受け止めるべきでしょう。

    ・トーマス・マンは、「作家は真理に対して忠実でなければならない」と言っています。だが、それは一種の殺し屋になることを意味します。なぜなら、ある人間を忠実に描く唯一の方法は、その欠点を並べ立てることだからです。完璧な人間なんて面白くありません。俗世間から離れてしまったブッダみたいなものです。生身の生活のいろいろな欠点こそ愛すべきものです。ですから、作家が真実の言葉という矢を放つとき、人は傷つきます。でもその矢は愛情をもって放たれるのです。トーマス・マンが「エロス的なアイロニー」と呼んだものの意味はそこにあります。それは、自分が冷酷で分析的な言葉によって殺す相手に対する愛情という意味です。

    ・ヘビは生命力のせいで脱皮をします―ちょうど月がその影を捨てるように。

    ・創造の物語を最初に語った人々は、そういう物語の寓話的な性格を意識していたと、そうお考えですか?
    (キャンベル)そうです。彼らは、あたかもそのようであった、と言ったのです。

    ・シェイクスピアは、芸術とは自然に向けて掲げられた鏡だといいましたが、神話もまさにそうです。ここでいう自然(nature)とはあなたの本性(nature)であり、神話のあのすばらしい詩的イメージはあなたの内のなにものかを映しているのです。もしあなたがそこにあるイメージにこだわりすぎて、それが自分自身を指していることに気づかなければ、あなたはそのイメージを読み損ねているわけです。
    内面的な世界というのは、外面的な世界と結びついたあなたの諸要求、あなたのエネルギー、あなたの構造、あなたの可能性などの世界です。そして、外界はあなたの肉体的な顕現の場です。そこにあなたは存在しています。あなたはその世界を二つとも働かせなければなりません。ノヴァーリスが言ったとおり、「魂の座は内面世界と外面世界とが合致したところにある」のです。

    ・で、そういう再生の理念(煉獄や輪廻)はなにを暗示しているのでしょう。
    (キャンベル)だれでも自分でそう思いこんでいる<自分>以上の存在だということを暗示しています。自己存在には、自分についての観念には含まれない次元がある、自己実現の可能性がある、意識の可能性があるんです。あなたの生(life)は、いま自分で見ているものよりも、はるかに深く、はるかに広い。いまあなたが生きているその生は、げんにあなたの内にあるもの、あなたに生命を、呼吸を、深さを与えているもののうち、ほんのわずかな影くらいに過ぎません。それでもあなたはその深みのおかげで生きられるのです。そして、もしあなたがその深みを経験できるならば、あらゆる宗教はそのことについて語っているという事実に突然目覚めるはずです。

    ・私の友人で、バンコックで開かれたローマ・カトリック黙想修道会国際会議に出席した人がいましてね。彼の言うには、カトリックの修道士は仏教の修行僧をなんの問題もなく理解できたのに、この二つの宗教の司祭や管長なんかは、おたがいに理解しあえなかったそうです。
    神秘的な体験をした人ならば、それの象徴的表現はすべて不完全だという事を知っています。シンボルは体験を説明するのではなく、それを暗示するのです。

    ・この私はなんだ?私は光を運ぶ電球なのか、それとも、電球を単なる道具として使っている光そのものか。
    老いに入るとき生じる心理的な問題の一つは、死に対する恐怖です。人々は死への扉をどうしても避けようとする。けれども、この肉体は意識を運ぶ手段に過ぎません。そして、もし人が自分をその意識と同一視したならば、この肉体が古い車みたいにだめになっていくのを見ることができます。今度はフェンダーがいかれた、次はタイヤ、そして次は、と続きますが、そうなることは予想できるのです。やがて、その全部が徐々に解体し、意識は意識の世界に戻る。それはもはやこの特定の環境には存在しない。

    ・われわれはただ英雄が開いた小道をたどりさえすればいい。そうすれば、かつては恐るべき怪物に会うと思っていたところで神に出会うだろう。そしてかつては他人を殺すべきだと思っていたところで自我を殺すことだろう。まだ遠くまで旅を続けなければと思っていたところで、われわれ自身の存在の中心に到達するだろう。そして、孤独だと思いこんでいたのに、実は全世界が自分と共にあることを知るだろう。

    ・あなたが自分で欲しがっているもの、あなたが信じようと思うもの、あなたが自分に可能だと思うもの、あなたが愛すると決めたもの、あなたが自分は絶対こういう人間なんだと思っているもの、それがあなたの自我です。あまりにもちっぽけな自我だと、それはあなたを釘づけにするでしょう。

    ・ニーチェは、「人間は病める動物である」と言っています。人間は、自分をどう扱ったらいいのかわからない動物です。その精神は多くの可能性をもっているけれども、私たちはただ一度しか生きられません。

    ・あなたの敵はあなたの運命が操る手段です。だからこそ、それを愛さなくてはいけない。

    ・苦しまなくても生きていける、と言っている神話には、一度も出会ったことがありませんね。神話は私たちに、苦しみにどう立ち向かい、どう耐えるか、また苦しみをどのように考えるべきかを語ります。しかし、苦しみがない人生がありうるとか、人生に苦しみはあるべきでないとか、そんなことは言っていません。

    ・でも、偶然はどうでしょうか。街角から飛び出してきた酔っ払い運転の車にはねられた。これは自分が悪いんじゃない。自分が自分にしたことではありませんね。
    (キャンベル)そういう見方から言えば、偶然に生じたのではないことが、あなたの人生にあるでしょうか。これは、偶然を受け入れることができるか否かの問題です。最終的には人生は偶然で成り立っている。例えば、あなたの両親が出会ったことも!偶然、あるいは偶然のように見えるものを通して、はじめて人生は理解できる。そこでの課題は、責任を追及したり説明したりすることではなくて、立ち現われてきた人生をどう扱うかということです。

    ・先生はご本のなかで、「出エジプト記」を引用しながら道徳的な矛盾を指摘されましたね。「殺してはならない。隣人の妻を欲してはならない」しかし、外国は別で、「あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たなければならない。ただし、女はすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる」それが堂々と旧約聖書に書いてある。それは女性について何を教えているのでしょう?
    (キャンベル)教えられるのは、女性についてというよりは、「申命記」の思想です。ヘブライ人は隣人に関しえては一切情け容赦を知りませんでした。だがこの一節は、社会性の強い神話の大半に本来存在するものを極端な言葉で述べたものに過ぎません。要するに、愛と慈悲はイン・グループのためにあり、ほかの物には攻撃と虐待が行われる。同族のメンバーだけが同情され、寛容に扱われる。アウト・グループは「申命記」に買いてあるとおりの扱いを受ける。
    ところで今日、この地球上に、もはやアウト・グループというものはありません。そこで、現代の宗教の課題は、そういう慈悲や思いやりを全人類のために働かせることです。では、攻撃の方はどうなるか。それは世界が直面しなければならない問題です。なぜなら、攻撃は同情と同じくらい自然で、そしてそれよりもいっそう直接的な本能で、いつでも見られるからです。それは生物的な事実です。

    ・それ以前の愛は単なるエロスでした。エロスは生物学的な強い衝動です。器官がおたがいを求めて燃えているのです。人格的な要素は関係ありません。アガペーは、あなた自身を愛するように隣人を愛しなさいという意味での愛、つまり、精神的な愛です。隣人が誰であろうと変わりはありません。
    …しかし、アモールの場合、私たちは純粋に個人的な理想を抱きます。吟遊詩人たちがその伝統的な詩のなかで表現しているように、目と目が合うことから生じる一種の発作は、個人対個人の経験です。

    こうして愛は目と目を通して心に至る、
    目は心の斥候だから、
    心が捕えて喜ぶものを捜して回る。
    そして二つの目と心と、その三つが和解し、
    しっかりとひとつの決心を固めるとき、
    そのとき、目が心のために喜び迎えたものから、
    完全な愛が生まれる。
    愛はそうやってしか生まれないし、
    本心から動かされぬかぎり、愛が始まることもない。

    これら三つの恵みと命令とによって、
    またその喜びから、愛は生まれ、
    その楽しい希望が友達を慰めに行く。
    ほんとうに愛し合っている人ならみんな知っているように、
    愛は限りない親切だからだ。そして
    それは―疑いもなく―心と二つの目から生まれる。
    目は愛の花を咲かせ、心は愛を養い育てる。
    自らの種から生まれた実にほかならぬ愛を。

    …心によってではなく、社会によって取り決められた結婚は、すべて精神的な結合を侵すものです。そこに、中世の騎士による宮廷風恋愛の意味があります。それは教会の思想に真っ向から反するものでした。アモール(AMOR)という語を逆に綴るとROMAに、つまりローマ・カトリック教会になる。その教会は単に政治的、社会的な性格を持った結婚だけを正当と認めていました。
    (近松門左衛門の忠をばらしてひっくり返して心中にした、のと同じだ!!)

    ・恋は重い病であると感じることこそ肝心な点の一つだったからです。人が経験しかけている相手との一体化、それをこの世で成就させることは不可能なのです。

    ・これは偉大な瞬間ですよ、ビル。私たちがなんとか努力しているのは、私たちの主題である原存在を、人間に許されている部分的な表現法を通して見せることです。

    ・ショーペンハウエルは、夢がその人自身の―自分では意識できない―ある一面によって作られるのと同じように、人の一生もその人の内なる意志によって作られるのではないかと言っています。ちょうど、偶然としか思われない形で出会った人が、のちに私の人生を構成する主要な働きをすることがあるように、私が知らずのうちに他人の人生を動かしたり、それに意味を与えたりすることもあるのでしょう。
    …そしてショーペンハウエルは結論として、われわれの人生は、たったひとりの人間が見ているひとつの巨大な夢のさまざまな様相のようなものであり、その夢の中に登場するものもすべてまた夢を見るから、あらゆるものは他のあらゆるものと結びついており、それらが一つの生命の意志、すなわり、自然の内なる宇宙意志によって動かされているのだ、と言っています。
    これは壮大な思想であり、インドで<インドラの網>の神話的イメージによって象徴されている思想です。インドラの網というのは宝石の網でしてね、縦糸と横糸が交わるところにはすべて宝石があり、その宝石のひとつひとつが他のすべての宝石の輝きを反映しています。
    (モイヤース)それでいて、私たちはだれでもある目的を持った生を営んできた。そう信じておられますか。
    (キャンベル)私は生に目的があるとは信じません。生とは自己増殖と生存持続の強い欲求を持った多くのプロトプラズムにほかなりません。
    (モイヤース)まさか…まさか、そんな。
    (キャンベル)ちょっと待ってください。純粋な生は、一つの目的を持っているとは言えません。…しかし、あらゆる生命体は、ある潜在能力を持っており、生の使命はその潜在能力を生きることだ、とは言えるかも知れません。そのためにはどうすればいいか。私の答えは、「あなたの至福を追求しなさい」です。あなたの無上の喜びに従うこと。あなたのなかには、自分が中心にいることを知る能力があります。自分が正しい軌道に乗っているか、そこからはずれているかを知る能力が。

    ・「アーウーム」誕生、生きること、そして循環を終わって解体すること。「アウム」は四元素の音節だと言われています。「アーウーム」、そして四つめの元素はなんでしょう。「アウム」がそこから出て、そこに戻る、「アウム」の底にある沈黙です。私の生は「アーウーム」です。そこの底流にも沈黙があります。それは不滅性と呼べるものでしょう。有限の生があり、その底に不滅の生がある。そして不滅なものがなければ死すべきものもないのでしょう。
    (モイヤーズ)その意味は、本質的に言葉を超越している。
    (キャンベル)そう。言葉はいつも限定であり、制約です。
    (モイヤーズ)それはそうですが、先生、しがない私たち人間に残されているのは、このみじめったらしい言語だけです。それは美しいけれども不十分なものだから、なにかを表現しようと思っても…
    (キャンベル)そのとおりですね。だからこそ、すべての言葉を超越することが絶頂体験なのです。折にふれてあらゆる言語を超えて悟る…「おお…ああ…」

  • アメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルが、世界各地の神話の意味を現代の生活に当てはめつつ示した対談本。
    神話の成り立ちや機能をベースに、当時の人たちの自分、幸福、成長といった世界観、宗教観、哲学などについて、たぶんジョーゼフ・キャンベルの私案も交えつつ、どんどん語られます。

    テレビの対談番組がもとになっているということで、一冊の著作としては情報がじゅうぶん整理されておらず、はなしがとりとめなくあっちゃこっちゃ飛びますが、エピソードがいちいち面白くて飽きません。
    また、論文などにおいてはムダだとカットされそうなたくさんの余談が、それはそれでお話として楽しいし、語り合うふたりの人柄やその場の興奮した空気感をも感じさせてくれるよう、です。

    自分は神話に興味を持ちはじめたばかりで難しい部分も多々ありましたが、翻訳は(会話としては硬いかもしれませんが)きちんとした日本語で、がんばりつつ楽しく読みました。
    ちょっと大げさかもですが、世界は自分が考えているよりももっともっと面白いものだと思いましたね。

  • 対話形式の本のお手本のような出来。

    他の神話物語でもそうだが、旧約聖書の記述は世界がどう作られたかを寓話的に説明しているにすぎない、という記述には驚いた。だとすれば聖書の記述は文字通りの真実だとする原理主義者は…。

    日本のイザナギとイザナミの物語も、世界がどうできたかを説明する寓話であって真実そのものではないことを疑う人はいないだろうが、世界的に力を持っているキリスト教に関してはそうではないと考える人が多くて。真実っぽく感じてしまうのかな。物語・ストーリーの説明もある。小説家志望の人も読んでみたら参考になるのではないか。

  • 漸く出会えたという喜びが、読み終わる頃には冷めている一冊。


    てっきり物語の系譜というものを人類の歴史に密接な神話になぞらえて分析している作品なのだと思っていた。しかし本書の内容は、神話というかまんま宗教の話がメイン。
    それが悪い訳ではない。宗教が大好物な私としては願ったり叶ったりの話である。
    しかし、なんだ。
    本書は間接的に私に色々なことを考えさせてくれた。


    まずはプロローグの文章が非常によかった。
    そして前半部分も、私が長年宗教について考えてきたものに符合する部分を多く記してくれていた。

    【神話は人間の内に潜んでいる精神的な可能性の隠喩です。】

    この言葉は気に入った。他にも神話における一元的な世界からの脱却、そして二元性への関与、もしくは認識の開始。これも一つの説としてはなかなか面白い神話の読み解き方だと思った。
    とはじめはよかったのだが、途中からじわじわとやってきた違和感。
    学問に論理は欠かせない。むしろそれがあって成り立っているとも言える。
    だが本書は後半に進むにつれてどんどんファンタジー、いやスピリチュアルな方面にと進んでゆく。
    根本的に本書の形式が対話形式を取っているために、文章としての論理的な成り立ちがうまく行われていない、というのもある。キャンベルとモイヤーズのやりとりで所々に設問と回答の不一致が見られた。口頭ではありがちなそれだが、紙の上で再現されてもこちらは講演会に参加しているようにそれを聞き流すことなんてできない。
    モイヤーズがおそらく切り込みたいことを、キャンベルは意地悪でかわしているのではなく、彼の頭の中では成立している結論へと誘う答えでかえす。気持ちはわかるが、直接的な回答としてはそれではまったく問答が成り立たない。
    確かに、キャンベルが達観しているのだろうと言うことは彼の年齢を考えれば察しがつく。すばらしいことだが、それ故に彼は学者ではなくてある種の伝道師然としてしまっている。だからこその言葉、だ。言いたいことはわかるのだが、そうじゃない。
    はっきり言ってしまうと”話を逸らしすぎ”なのだ。
    わからんな。
    正直言って、キャンベル入門に本書を選んでしまった私が悪かったとも言える。
    キャンベルの主張を知っていてこの本を読むのには新しい発見があるかもしれないが、入門編としては、随一の宗教学者に聞いた信仰の意義についての”主観”の書物と写る。学説よりももっと私的な会話、それも人と成りに即した、ということだ。だからこそ出る、『幸福の追求』なる言葉。どうやら主張の要のようだが、そうじゃない。そこを聞きたいのではないのだ。



    この本を読んで私は意識・無意識は別として特定の宗教影響が強い場所で人格形成を行ったものに宗教を学問として平等に扱うのは不可能なのではないか、と痛感した。
    ひとつの宗教の教義の元に生活を送れば、社会全体に形は違うともその教義は必ずや根付いている。だから、信仰のあるなしは別としてもその人格形成にはおのずと宗教に影響された部分が見られる。
    それが良い・悪いというわけではない。ただ今回のキャンベルのように、様々な宗教を横断して見ると言うことをするには、社会的環境が影響を受けた宗教教義がどうやっても邪魔をするように思う。
    キャンベルも自分がキリスト教徒として教育を受けたことを確かに認めているが、それで免除される問題でもない。3大宗教を「キリスト・イスラム・ユダヤ」といわれて随分なアメリカ目線だなっと思わず笑ってしまった。本書を”アメリカナイズされたお手軽宗教入門本”なんて揶揄した人もいたが、うなずけないこともない。


    しかし、少し冷静に眺めてみる。私は宗教が生み出す副産物にも、神の存在の是が非にも正直あまり興味がない。私は冷静な宗教の解明を期待している。宗教というものと人間の精神の関連を、だ。しかしそれは日本人が信仰に疎い存在であるがゆえにとれるスタンツだともいえる。私は本書を読んで、その特徴をして、日本人こそ様々な宗教を横断した比較宗教学にふさわしい存在になれるのではないかとも思った。
    しかしどうだろう。日本人から見たときと、キャンベルをはじめとした宗教影響の強い国とはスタンツが違う。神の存在に揺るぎがなく、長らく強い影響を受けた歴史を抱えている国の人々と、宗派をごちゃ混ぜにしたよろずの神を抱える私たちでは宗教の置き場所が違うのだ。
    そう考えれば簡単なくくりで言うが西欧の保守的ではないクリスチャンには本書は非常に革新的に見えるのだろうな。


    とはいえ比較宗教学にはかなり興味が向いた。
    まだ初心者なので、キャンベルだけで判断するのは惜しい。私が望んだとおりの冷静な比較宗教学も探せばあるかもしれない。時期を見てその辺を掘り起こすのも一興かもしれない。
    くさしたけれども様々な神話を載せてくれているのは非常に良かった。
    特にガーター勲章の話はかなり気に入った。

  • 面白くて読みやすいのに、この本ほどレビューが難しいと思ったことはありません。まだまだ私自身が学びの途中だからかも(笑)。今回で3度目なのに読めば読むほど酌みつくせなくなる底なし沼のような本、パワフルです!

    アメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルとジャーナリストのビル・モイヤーズの対談形式の本。博識なモイヤーズの的を射た、ちょっぴり挑発的な質問にも、キャンベルは懐の深~い態度でわかりやすく説明しています。なんだか微笑ましい。

    比較神話学(ギリシャ・ローマ、ケルト、北欧、アメリカ大陸インディオ、インドなど)や比較宗教学(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、インド宗教、先住民のもつ宗教観など)、さらにユング心理学、芸術、文学、(おそらく)レヴィ=ストロースをはじめとする人類学や民俗学なども踏まえたキャンベルの膨大な知性に感激します。しかも彼は現代科学に信頼をおきながらこれらの学問と調和をとる……まさに学問のクレオール! ふかい叡智を感じます。

    オデッセウスやアエネーアスの冒険などにみられる叙事詩、神話の英雄譚の基本構造――主人公は非日常世界の旅に出て、苦難やイニシエーション(通過儀礼)を経て、元の世界に帰還する(その際、多くの人々にとって利益や幸福をもたらすものが多い)――の説明から、そもそも世界に散らばる神話とはなんなのだ? という素朴な疑問にも答えています。

    神話や古典的叙事詩を読んでいると、わたしはいつも不思議な力にとらわれます。キャンベル曰く、神話は人の内面に存在している詩であり隠喩である。なるほどメタファーであるために言葉を超えて言葉にならないのかもしれません。それゆえに神話は音楽や絵画や文学といった芸術、宗教の源になっているのだろうと思えますし、世界各地に広がる神話は類似している部分が多いのも、宇宙や自然と人間との繋がりの中で、人類がもっている大きな思考の枠組みでもあるように思えてなりません。ほんとにふしぎ~♪

    それぞれの神話本や叙事詩に登場する人物たちは、それはそれは悲憤慷慨、気の毒なほどいそがしく立ち回っているのですが、読み進めているうちに、そんな物語をよそに深層の別の窓が開くよう……そこから森閑とした湖面をひとり眺めているような、満天の星空を悠然と見上げているような静かで穏やかな心持ちになるのはなんとも不思議。これって私にとっての神話の力??

    いろいろな神話の話(力)を通して、キャンベルはこの世界の中で生きること、わたしたちが至福を追求しながら生きていくことをつよく提唱していて、とても心に沁みます。哀しく混沌としたこの世界を理解するのはひどく骨が折れることですが、すこし目線を変えてみれば、意外にも世界はもっともっと面白いものかもしれませんね♪

  • アイゼンハワー大統領がコンピューターでいっぱいの部屋に入り、並んでいる機械に向かって「神は存在するかね」と質問した。
    するとあらゆる機械が動き出し、ライトが点滅し、歯車が回り始め、しばらくすると声が聞こえたーー
    "Now there is." (今いる)と。

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