がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)

制作 : Siddhartha Mukherjee 
  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150504670

作品紹介・あらすじ

古代エジプト人を悩まし、現在も年間700万の命を奪う「がん」。現役医師が患者や医学者らの苦闘を鮮烈に綴る名著。解説/仲野徹

感想・レビュー・書評

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  • がんは単一の疾患ではなく、非常に多様で複雑な疾患である。
    同じ乳がんや前立腺がんでも、ホルモン療法に反応するタイプもあれば、しないタイプもあるし、広範囲に広がる転移型のがんもあれば、限局型のがんもある。
    これほど多様な病なのであれば、治療にも多様性が要求されるはずなのに、これまでは同じ治療がすべての患者に無差別に適用されてきた。
    それはなぜか?
    書は、現役の腫瘍内科医が、日々の回診で患者から受けた質問に答える形で、がん治療を巡る紆余曲折の歴史を綴っている。
    ちょうど上巻は、35年にわたる国を挙げてのがんとの闘いが、国民のがんによる死亡率を減らすどころか逆に増やす結果に終わったことを明らかにし、治療偏重の取り組みから予防を含めたプログラムに発展させなければいけないといった所で終わっている。

    がんは何か近代以降の病のように思えるが、「4000年」とタイトルにあるように歴史は古い。
    現代的に感じるのは、この病が寿命の伸びと相関関係にあることと、検査技術の進歩によるところも大きいが、「がん」という名付けの力も見過ごせない。
    それまでは「膿み」だの「しこり」だのとバラバラで呼ばれる、陰で囁かれるだけの病だった。
    しかしやっかいな病であることは認識できた。
    悪性細胞の抑制のない異常増殖。
    体を過剰に細胞で満たすことで窒息死させる、過剰の病。
    そしてストップのかからない、成長しろというコマンドを消せなくなった制御不能の病。

    罹ったらおしまいの、それこそ座して死を待つだけの政治的沈黙の病だったので、これまでは国を挙げてというよりバラバラの個人的な戦いに終始していた。
    それではいつまでたっても勝てない、皆の力を結集して、大規模な資金を集めて当たるべきだという考えが盛り上がってきた時、「がんは“単一の原因と、単一のメカニズムと、単一の治療法〟を持つ病気だ」という思想はとても都合が良かった。
    がんは多様な疾患ではなく単一の疾患なのだ、一種類のがんを治せれば、必然的に、別の種類のがんも治すことができる、単一のハンマーが単一の病を叩きつぶすはずだという揺るぎない信念があったからこそ、医師や科学者やロビイストが手を取って結集できたのだし、エネルギーを注ぎ込むことができたのだ。
    そしてこうしたかがり火があったからこそ、国民も納得して、多額の予算をつぎ込むべき国の事業として承認したのだった。

    しかし、脳卒中から出血から痙攣にいたるまで何もかもひっくるめて「発作」と呼んだ中世の習慣と同じように、がんを一緒くたに扱う考え方はその後思わぬ弊害を生むのだった。
    がんと無差別に闘い、がんを全滅させる(「単一の理由、単一の治療法」)という隠喩的な力は、腫瘍医たちの自信とうぬぼれを増長させた。

    「手術可能かどうかは、“取り除けるかどうか"にかかっていて、“取り除いた結果、患者を完治させられるかどうか"は考慮されなかった」

    完治させるには患者を生死の境にまで追いやらねばならない、人間の身体をその限界にまで追いやることで体から悪性の内容物を除去できるという信仰は根強いものがあった。
    根治的乳房切除術のように、より多く切り取れば、より多くの患者を治せるという信念のもと、最小限の切除など論外だった。
    50年代の根治手術の大ブームの時は、患者の方から「思いきってやってください」と医師に切望までしていた。

    化学療法も同様だった。
    ちなみにこの化学療法の概念は、染色産業の製品開発の過程で生まれ、真の発展は第二次世界大戦中の連合軍による自分たちへのマスタードガス攻撃という自爆事故がキッカケだった。
    正常細胞に影響を与えることなく、がん細胞だけを取り除くよう完璧にデザインされた毒が必ずあるという信念のもと、がんを殺す化学物質探しが盛んになったが、国立がん研究所(NCI)はしだいに、毒工場へと変貌していった。
    投薬攻撃によってがんを撲滅させるという理論は、無差別の化学療法ががんへの攻撃の唯一の戦略だというふうに変転し、単剤よりも2剤のほうが、2剤よりも3剤のほうがと、高用量多剤併用化学療法が主流になっていく。
    「総合的治療」とは名ばかりの「総合的地獄」は、患者にとって筆舌に尽くしがたい苦しみをもたらした。
    投与回数を増せば薬の毒性も増すという事実は無視され、数値が正常値になるまで、どこまでも頑なに投薬を続けるべきという信念は、患者を癒しているのか、たんに数字を治療しているのかわからなくなってくる。

    「無差別な攻撃ではなく、弱点をつく攻撃を」、「がんの生物学的性質を解き明かすことが先決ではないか」という声には、「消化機能について理解していない私は、夕食を食べないでおいたほうがいいのだろうか?」と反発し、がんに総攻撃を仕掛けるのに、がんのメカニズムが解明されるのを待っている余裕も必要もないのだと開き直った。

    もうこの辺りから読むのが苦しくなってくるのだが、無慈悲で無軌道な医療処置はさながら実験場のようだった。
    卵巣と乳房の不可解な関係に強い興味を覚えた医師は、乳がん患者の卵巣を摘出してみたりする。
    卵巣と乳房のあいだのホルモン循環などまったく理解もされていなかった時代、とにかく「やっみよう」精神で切り取っちゃう。
    「脳の病変を治療するために肺を摘出するような」所業とあるが、ほんとそれだわ。

    「副作用は耐えられないほどのものではない、と医者が言うとき、彼らが問題にしているのはその副作用が命にかかわるかどうかという点だけだ。たとえ目の血管が切れるほど患者が激しく嘔吐したとしても‥‥そんなことはいちいち報告しなくてもいいと医者は考える」

    「もっとも重要な任務は一人一人の患者を救うことではなかった。確かに医師たちは、患者の命を救おうと、少なくともできるだけ長く患者の命を引き延ばそうと精いっぱい努力していたが、彼らの根本的な目的は、目の前の患者の命そのものを救うことではなく、別の患者の命を救う方法を見つけることだった」

  • 人類と癌との戦いの歴史がこんなにスペクタクルなものだなんて!ページを捲る手が止まらなかった。

    医者や研究者だけではない。
    古くは古代の女王から、現代に至ってはロビイストや政治家、そして当然市政の人々、まさしく人類総出となって挑む病との戦いの総力戦だ。

    医療という分野で人間の底力が発揮されるのはさもありなん、ということに気づかせてくれた本。
    人間の叡智や努力が連なり、積み上がり、個々からチームへと結合して難病を攻略していく様にとてつもないカタルシスを感じた。

  • 医学部分館2階書架:QZ201/MUK/1:https://opac.lib.kagawa-u.ac.jp/opac/search?barcode=3410163249

  • 人類と癌の戦いの歴史、こんなにいろんな事があって、読んでまだ半分(上巻)か!

    ガンとの戦いは総力戦、いろんな人が見つけた色んな薬や毒、治療を余す事なく総動員して戦うが、まだ勝ててない(上巻まででは)。

    薬の併用療法ではおぞましい数のガン患者が試されてきて、乳ガン根治術でもまたしかり。

    医者はずっと、よくわからない相手によくわからない治療を続けてきた。その根気と熱意は狂気とも言える。医者が病的に諦めが悪い事がよく分かる、だがそれでいい。

    私の両親は肺がんと白血病にかかり寛解している。この喜びには本書にある無数のガンに負けた人達のお陰でいて、それらの人たちは論文のn=1でしかない。

    歴史に埋もれた人の死で今の社会ができているとわかる。下巻で「人類が勝てている」と書かれている事に期待。

    あと、イムホテップって映画ハムナプトラでは悪役だよね。乳がんへの対処法無しってある意味「無知の知」ともとれる思想を持ってたすごい医者だったんだね。

  • オーディブルは、シッダールタ・ムカジー『がん 4000年の歴史 上巻』を今朝から聞き始める。改題前のKindle版『病の皇帝がんに挑む』はだいぶ前に読んだけど、同じ著者の新刊『細胞』が出たので、復習も兼ねて。よくよく聞いてみると、Audibleは改題後の文庫本を底本としているらしく、ところどころに訳の修正が見られるが、紙の文庫本はもっていないので、引用はすべてKindle版による。

    「私たちは今、がんというのは一個の細胞の無制御な増殖から始まる病気だと知っている。そのような増殖は、無限の細胞増殖を扇動するような遺伝子変異によって解き放たれる。正常細胞では、強力な制御装置が細胞分裂や細胞死をコントロールしているのに対し、がん細胞では、それらの装置が壊れてしまっているために、細胞は増殖を止められなくなっている。
     そんな一見単純なメカニズム――抑制のない細胞増殖――が、このグロテスクで多様な顔を持つ病気の中心にあるという事実は、細胞分裂の持つ計り知れない力を証明している。細胞が分裂するからこそ、われわれという生物は成長し、適応し、回復し、修復し、生きつづけることができるわけであり、ゆがめられた無制御の分裂はがん細胞をどこまでも成長させ、増殖させ、適応させ、回復させ、修復させ、われわれの生命を削り取りながら生きつづけさせる。さらに、がん細胞は正常細胞よりも速く増殖し、上手く適応する。つまり、われわれ自身のより完璧なバージョンといえるのだ。」

    「がんはまた、われわれの社会にも刷り込まれている。ヒトという種の寿命が延びるにつれて、悪性の細胞増殖が避けがたく解き放たれてしまうのだ(がん遺伝子の突然変異は老化とともに蓄積していく。すなわち、がんは本質的に老化と関係した病気なのだ)。われわれは不死を追い求めるが、皮肉なことに、がんもまた不死を追い求めている。」

    「がんというのは細胞が自発的な意志を獲得して分裂増殖する病的過形成である。この常軌を逸した無制御の細胞分裂はやがて組織の塊(腫瘍)をつくり出し、それが臓器に浸潤して正常組織を破壊していく。さらに腫瘍は、ある場所から別の場所へと広がる性質を持っていて、骨や、脳や、肺といった遠隔臓器にも病巣――転移巣――をつくる。がんには、乳がんや胃がんや皮膚がんや子宮頸がんや白血病やリンパ腫といったいくつもの種類があるが、どのがんも細胞レベルでは大変似通っている。つまり、どのがん細胞も無制御で病的な細胞分裂という共通の性質を獲得しているのだ。」

    「一九〇〇年代初めまでに、白血病にはいくつかの種類があることが明らかになった。ウィルヒョウの最初の症例のような、骨髄と脾臓を徐々に詰まらせていく慢性で進行の遅いタイプ(のちに慢性白血病と名づけられる)。ベネットの症例のような、それとはまったく異なる性質を持つ、異なる疾患のように見えるタイプ。つまり、発作的な発熱や出血、さらには恐ろしくスピードの速い細胞の過剰増殖を特徴とする、急性で激しいタイプだ。
     急性白血病と名づけられた後者はさらに、がん細胞の種類から二つのサブタイプに分類された。正常の白血球は大きく、骨髄系細胞とリンパ系細胞に分けられる。急性骨髄性白血病(AML)は骨髄系細胞のがんであり、急性リンパ性白血病(ALL)は未熟なリンパ系細胞のがんである(成熟したリンパ系細胞のがんはリンパ腫と呼ばれる。
     小児に一番多い白血病はALLだが、その病はほぼ例外なく、瞬く間に患者の命を奪った。」

    「健康な成人の血液には一マイクロリットルあたり平均約五千個の白血球が存在するが、カーラの血液には、九万個、すなわち正常の約二〇倍の白血球が存在していた。そしてそれらの白血球の九五パーセントが芽球、つまり、驚異的な速さで次々と産生されるものの、完全に成熟したリンパ球には文化できない悪性のリンパ系細胞だった。急性リンパ性白血病では、ほかのいくつかのがんと同じく、がん細胞の過剰産生が起こっているだけでなく、不思議なことに、細胞の正常な分化も停止してしまっている。過剰につくられたリンパ系細胞は成熟できず、そのため、微生物と闘うという本来の機能を果たすことができない。カーラは豊富さのなかにあって、免疫学的貧困にさらされていたのだ。」
    「カーラの骨髄では、そうした秩序が完全に破壊されていた。悪性の芽球の塊という塊が骨髄腔を埋めつくし、あらゆる構造を閉塞し、造血のためのスペースを完全に奪っていた。
     カーラは生理機能上の奈落の縁に立っていた。赤血球が著しく減少しているため血液が酸素を十分運べなくなっており(振り返ってみると、彼女の頭痛は酸欠の初期症状だったのだ)、地を止める働きをする血小板がかぎりなくゼロに近づいていたために、ちょっとしたことで痣ができやすかった。」

    「もし腫瘍が限局しているのなら(一つの臓器や部位のみに存在し、手術で取り除けるなら)、そのがんは治癒する可能性があった。いつしか「摘出術」と呼ばれるようになったその技術は、一九世紀の外科手術の劇的な進歩の遺産だった。」
    「しかし科学的な観点からは、がんは依然としてブラックボックスだった。なんらかの深い医学的洞察に基づいた治療を施すよりも、一塊で取り除いたほうがましだといったような、謎めいた存在のままだった。がんを治すには(もし治せるなら、ということだが)、医者にはたった二つの戦略しかなかった。腫瘍を外科的に摘出するか、放射線で焼くか――熱い放射線科か、冷たいナイフか。そのどちらかしかなかった。」

    「細胞が分裂する際にはDNA――細胞のすべての遺伝情報を担う物質――をコピーする必要がある。葉酸はDNA合成に必須の材料であり、したがって細胞分裂に欠かすことができない。血球はヒトの体内でもっとも速いスピードでおこなわれる細胞分裂(一日に三千億個以上)によってつくられるため、造血はとりわけ葉酸に依存している。葉酸が欠乏すると(ボンベイの例のように、野菜摂取不足によって)、骨髄での造血は停止してしまい吐き出された何百万という未熟な血球がまるで未完成の商品のように組み立てラインを詰まらせてしまう。骨髄は正常に機能しなくなった工場、ボンベイの繊維工場と不思議なほど似通った栄養失調の生物学的工場になってしまうのだ。」

    「マイノットとウィルスのそれぞれの発見が組み合わさって、一つの絵がぼんやりと浮かび上がってきた。そもそも骨髄というものが忙しく稼働する細胞工場だとしたら、白血病細胞に占拠された骨髄というのはその同じ工場が暴走した状態、すなわち、がん細胞を産生するようになった狂った製造工場ということになる。マイノットとウィルスは生体に栄養素を与えることで骨髄の生産ラインをオンにした。では、栄養素の供給を阻止することで悪性の造血をオフにできないだろうか? ボンベイの繊維工場の労働者の貧血を、ボストンの病院で治療的に再現できないだろうか?」

    「スバラオはレダリー研究所ですぐに馴染みの手法をアレンジし、栄養サプリメントとして使う目的で、それまでに彼が発見した天然の細胞内化学物質を人工的に合成する研究に着手した。悪性貧血患者で欠乏している栄養素、ビタミンB12を濃縮したサプリメントはすでに一九二〇年代に別の製薬会社〈イーライリリー〉が販売して多大な収益をあげていた。そこでスバラオは、別の貧血――これまで顧みられてこなかった葉酸欠乏が原因の貧血――の治療薬を開発しようと考えた。しかし豚の肝臓から葉酸を抽出するのに何度か失敗すると、一九四六年に方針転換し、科学者チームの助けを借りて葉酸をゼロから合成することに決めた。
     葉酸の合成は思いがけないボーナスをもたらした。葉酸の合成反応は途中にいくつかの段階を経ているため、スバラオのチームは、反応のレシピを少しずつ変えることによって、いくつもの葉酸類似体をつくり出すことに成功したのだ。それらの葉酸類似体――分子構造が本物と非常によく似ている偽物――は意外な声質を持っていた。細胞内の酵素や受容体は、さまざまな分子をその化学構造で見分けているが、天然の分子構造に酷似した「おとり」なら、そうした受容体や酵素に結びつくことができる。そして、あたかもまちがった鍵が錠を駄目にするように、それらの活動を阻害する。スバラオがつくり出した類似体はそんな葉酸拮抗薬としての働きを持っていた。」

    「一九四七年九月六日、ファーバーはロバートに、レダリー研究所が開発した初の葉酸拮抗薬、プテロイルアスパラギン酸(PPA)の投与を開始した(当時は新薬――たとえそれが副作用の強い薬物でも――の臨床試験への患者の同意は一般的には必要とされず、両親がときおりぞんざいな説明を受けるくらいのもので、子供が説明を受けたり意思を尋ねられたりすることはなかった、医学研究をおこなうまえに被験者の明白な自発的同意が必要であると定めたニュルンベルク綱領は、PAAの臨床試験の始まるほぼ一カ月前の一九四八年八月九日に立案されていたが、ボストンのファーバーはそのような綱領について聞いてすらいなかったと思われる)。
     PPAはほとんど効かなかった。その後の一カ月のあいだに、ロバートはますます元気が亡くなっていった。(中略)一二月には、もはやなんの望みもないように思えた。(中略)
     だが一二月二八日、ファーバーのもとに、レダリー研究所のスバラオとハリエット・キルティからPAAの構造をわずまに変化させた新しい葉酸拮抗薬、アミノプテリンが届けられた。ファーバーはすぐにその薬を取り出し、男の症状がせめて少しでもやわらぐことを願って、届いたばかりの新薬を投与しはじめた。
     効果はめざましかった。九月には一万、一一月には二万、一二月には七万近くと天文学的数値に向かってどこまでも増えつづけていた白血球数がいきなり上昇をやめ、一定になった。そしてさらに驚いたことに、白血球数は実際に減少しはじめ、末梢血から白血病細胞が消えていき、やがてほとんど消失した。大晦日には、白血球数はピーク時の六分の一まで下がり、ほぼ正常となった。完全に消えたわけではなかったが――顕微鏡下では、まだ悪性の白血球が見えた――がんは一時的に勢いを減じ、凍てつくようなボストンの冬のなかで、血液学的膠着状態のまま凍りついていた。」

    「その間に、小児白血病を対照としたファーバーの臨床試験のニュースは広がり、患者が徐々に集まりはじめた。症例が増えるにつれ、やがて信じがたいパターンが明らかになってきた。葉酸拮抗薬は白血病細胞の数を減少させ、ときに完全に――少なくともしばらくのあいだは――消失させることが確実になったのだ。ロバート・サンドラーと同じくらい劇的な寛解にいたった例もあった。(中略)
     だがいつも同じ落とし穴が待っていた。数カ月の寛解のあとで、がんは必ず再発し、最終的にはもっとも強力なスバラオの薬も効かなくなった。骨髄にはふたたび白血病細胞が出現して血中にどっと流れ込み、もはや葉酸拮抗薬ではその増殖を抑えられなくなった。一九四八年、数カ月の寛解のあとで、ロバート・サンドラーは亡くなった。」

    「結核が病理学的に「中身を取り除く」ことによって患者を殺したのだとしたら(結核菌はゆっくり肺に穴を開けていく)、がんは人間の身体を「過剰な細胞で満たす」ことによってわれわれを窒息死させる。がんもまた、結核とは反対の意味で、「消耗病」なのである。すなわち、「過剰の病」という意味で。がんは拡張主義者の病である。組織を侵略して敵のなかに植民地をつくり、ある臓器の「聖域」に逃げ込んだと思ったら、また別の臓器に移動する。その生き方は必死で、創意に富み、猛烈で、縄張り的習性を持ち、狡猾で、防衛的であり、ときに、あたかもわれわれに生き残り方を教示しているかのようにすら思える。がんに立ち向かうということは、われわれと類似の種に、ひょっとしたらわれわれ自身よりも適応能力の高い種に立ち向かうことなのだ。」

    「正常細胞と同じく、がん細胞の増殖も一個の細胞が二個に分裂するところから始まる。正常組織では、特異的なシグナルによって増殖が刺激され、また別のシグナルによって増殖が止まるといった具合に、そのプロセスは厳密に制御されている。それに対してがんでは、無制御の増殖が次々と新しい世代の細胞を生み出していく。遺伝的に共通の祖先を持つ細胞群を、生物学者はクローンと呼ぶが、がんは今日、クローン性の疾患だと判明している。現在知られているほぼすべてのがんが、一個の細胞――どこまでも分裂しつづけ、生きつづける能力を獲得した結果、かぎりない数の子孫を生み出せるようになった細胞――に由来する。つまりがんでは、ウィルヒョウが言うところの、「すべての細胞は細胞から(オムニス・ケッルラ・エ・ケッルラ)」が無限に繰り返されるのだ。
     しかしがんは単なるクローン性疾患ではない。クローン性に進化する疾患なのだ。もし進化しないなら、がん細胞は浸潤し、生き残り、移転するといういくつものすぐれた能力を身につけることはできない。どの世代のがん細胞も、親の世代とは遺伝学的に異なる細胞をわずかにつくり出す。抗がん剤や免疫システムががんを攻撃すると、その攻撃に耐えられる変異クローンだけが増殖し、その結果、環境にもっとも適応したがん細胞だけが生き残る。変異から淘汰、そして異常増殖という、この冷酷で気の滅入るようなサイクルが、より生存能力の高い、より増殖能力の高い細胞を生み出していくのだ。ときには、変異が別の変異の起きるスピードを加速させることもある。遺伝子の不安定さがあたかも完全な狂気のように、遺伝子変異をいっそう促進するのだ。このようにがんは、ほかのどんな病気とも異なる性質、つまり、進化の根本的原理を利用するという性質を持つ。われわれという種が、ダーウィンの進化論における自然選択の究極の産物だとしたら、われわれの内部にひそむこの驚くべき病もまた、その究極の産物なのだ。」

    「乳がんの手術では、乳房全体を細心の注意を払って摘出しなければならない」とムーアは結論づける。「術後の局所再発は、原発腫瘍のロチの腰が成長を続けた結果怒る」
     ムーアの仮説から次の考えが生まれた。もし初回手術での摘出が不十分なために乳がんが再発するなら、最初の手術でより多くの組織を取り除かなければならないということになる。「切除縁(マージン)」が問題なら、マージンをもっと広げてはどうだろう? ムーアは述べている。女性の外見を損ねないようにという、(しばしば命を危険にさらすような)手術を患者が受けずにすむようにという、外科医の心遣いは「まちがったやさしさ」であり、そのせいで、がんを優位に立たせているのだ、と。(中略I
     ハルステッドは必然的に、この理論を次の段階に押し進めた。フォルクマンが壁にぶちあたったのなら、私がそれに穴を開けて見せる、と。たいした働きをしていない薄い小胸筋だけでなく、胸腔をさらに深く掘り進んで、肩と手を動かしている重要な筋肉、大胸筋も切り取ればいいのだ。(中略)ハルステッドはこの手術を、ラテン語で「根」を意味する「ラディカル」を使って「根治的乳房切除術(ラディカル・マステクトミー)」と名づけた。彼はがんをまさにその根源から根こそぎにしようと考えたのだ。
     しかし、「まちがったやさしさ」をはっきりと軽蔑していたハルステッドは、大胸筋でやめたりはしなかった。根治的乳房切除術のあとでもやはりがんが再発することがわかると、彼は胸のさらに奥深くまで切除しはじめた。一八九八年までには、ハルステッドの乳房切除術は、彼が呼ぶところの「さらに根治的(ラディカル)な」変貌を遂げ、今では鎖骨も切除し、その直下の小さなリンパ節群をも郭清(かくせい)するようになっていた。」

    「一九〇七年夏、ワシントンDCで開かれたアメリカ外科学会でハルステッドはさらに別のデータを提示した。彼は、手術前の腋窩または頸部リンパ節の転移の有無によって、患者を三つのグループに分けていた。ハルステッドが生存率を示す表を提示すると、そこには一つのパラ―んがはっきりと現れていた。腋窩にも頸部にもリンパ節転移のなかった六〇人の患者のうち、四五人が五年後も再発なく生存していたのに対し、腋窩または頸部にリンパ節転移のあった四〇人では、わずか三人しか生存していなかったのだ。
     つまり、がんの最終的な生存率というのは、外科医が乳房をどれほど広く切り取ったかではなく、手術前にがんがどれほど広がっているかにかかっているということだった。根治術のもっとも熱心な反対論者の一人だったジョージ・クライルも、のちにこう述べている。「腫瘍を取り除くために筋肉までも取り除かなければならないほどがんが進行しているなら、がんはすでに全身に広がっているはずだ」――彼はそのことばで、手術をおこなうこと自体に疑問を呈したのだ。」

    「一八九一年から一九〇七年にかけて――根治的乳房切除術がボルティモアで細々と誕生してから、国じゅうの大きな外科学会の舞台の中央にのぼるまでの慌ただしい一六年のあいだに――がんの感知に向けた探求は大きく一歩、前方に跳び、そして同じくらい大きく一歩、交代した。ハルステッドは拡大的かつ徹底的な乳がん手術が技術的に可能なことを文句なしに証明したし、彼の手術はその怖ろしい病の局所再発率を劇的に下げた。しかし実際には、精力的な努力にもかかわらず彼が証明できなかった事実のほうが、ずっと意義深かった。二〇年近くにわたるデータの集積にもかかわらず、学会という学会でもてはやされ、賞賛され、分析と再分析を繰り返されたにもかかわらず、がんの「完治」という観点からは、根治手術の結性は依然として不明確なままだった。より広範囲の手術こそより効果的な手段である、と単純に言い換えることはできなかったのだ。
     しかし不明確だからといって、外科医たちが攻撃的な手術をためらうことはなかった。「ラディカリズム」はすでに心理的な強迫観念となって腫瘍外科の奥深くに染み込んでおり、「ラディカル(根治的)」ということばそのものが、概念上の魅惑的な罠となっていた。ハルステッドはそのことばを、地下深くに埋まったがんの根っこを掘り起こす水っからの手術を指して、ラテン語の「根」という意味で用いた。しかし「ラディカル」ということばには、「攻撃的」、「革新的」、「厚かましい」という意味もあり、患者の想像のなかに印象を残すのは、それらの意味のほうだった。がんに対峙しながら、「非攻撃的」で「控えめな」手術を進んで選ぶ患者が、いったいどこにいるだろうか?
     実際、ラディカリズムはがん治療に対する外科医の考え方だけでなく、彼ら自身のイメージの中心にもなった。ある歴史学者は書いている。「どの方面からの抗議の声もないままに、なんの抵抗もないままに、根治手術はまたたくまに一つの競技として固定化した」この英雄的な手術が期待どおりの結果を産まないとわかると、外科医たちは、がんを完治させるという責任自体を振り捨てるようになった。「正しい手術が施されれば、患者の病気はまちがいなく局所的には治癒するわけで、外科医が責任をもつべきなのは唯一、その点だけである」とハルステッドの弟子の一人は一九三一年、ボルティモアの学会でそう述べている。言い換えれば、外科医がめざすべきなのは技術的に完璧な手術をおこなうことであり、がんを完治させるのは、別の誰かが取り組むべきもんだいだということだった。

    オーディブルは、シッダールタ・ムカジー『がん 4000年の歴史 上巻』の続き。

    放射線治療の可能性と限界について。

    「ラジウムの放出する強力なX線には予期せぬ新たな能力があることがわかった。人体組織にエネルギーを透過させるだけでなく、組織深部にエネルギーを堆積させることができるのだ。レントゲンが妻の手の写真を撮れたのは、一番目の能力のおかげであり、X線が肉と骨を透過してフィルムに組織の陰影を残したためだった。一方で、マリ・キュリーの手には、二番目の能力の痛々しい異物が残った。よりいっそう純度の高い放射能を求め、ピッチブレンドを濾過し、そのなかに含まれる一〇〇万分の一の成分を何週間にもわたって分離する過程で、彼女の手はひりひりと痛み出し、まるで内部から火傷したように黒くなって、皮がむけた。ピエールのポケットのなかの小瓶にはいったままだった数ミリグラムのラジウムが、枯野ベストの分厚いツイードに穴を開け、その胸に生涯消えない瘢痕を残した。(中略)放射線はやがて、マリ・キュリーの骨髄を慢性の貧血状態に陥らせる。
     生物学者がこれらの現象の背後にあるメカニズムを完全に解明するまでには、その後何十年もの年月を要するが、障害を受けた組織の種類――皮膚、唇、血液、歯肉、爪――がすでに重要なヒントを与えていた。ラジウムはDNAを攻撃していたのだ。DNAは本来、用意には化学反応を起こさない不活性分子である。なぜならその役割は、遺伝情報の安定性を保持することだからだ。しかしX線には、DNAの鎖を切ったり、DNAを腐食する毒性の化学物質をつくり出したりする能力があり、X線によってDNAがダメージを受けると、細胞は死ぬか、分裂をやめるかする。したがってX線は、人体のなかでもっとも分裂のさかんな細胞、すなわち、皮膚や爪や歯肉や血液の細胞を優先的に殺すのだ。
     細胞分裂のさかんな細胞を選択的に殺すというX線の能力は研究者たち――とりわけがん専門の研究者たち――の注意を惹いた。レントゲンがX線を発見してからほぼ一年後の一八九六年に、シカゴの二一歳の医学生、エミール・グラッペはX線をがん治療に用いてはどうかと思いついた。」

    「ある種のがん患者にとってそれは、まぎれもない恩寵だった。手術と同じように放射線も、限局性のがんを驚くほど効果的に消滅させたのだ。乳がんはX線で粉砕され、リンパ腫は溶けて消えた。脳腫瘍のできたある女性は、一熱も続いた昏睡状態から目覚めて、病室でバスケットボールの試合を観戦した。
     しかし手術と同じく放射線も、本質的な限界に直面する。エミール・グラッペは初期の試験的治療ですでに一番目の限界、すなわち、X線は局所的にしか照射できないため、すでに転移したがんの治療としては適さない、という事実の壁に突き当たっていた。(中略)
     二番目の限界はさらに危険なものだった。放射線によって新たながんが発生したのだ。分裂のさかんな細胞を殺すという――DNAはにダメージを与えるという――X線のまさにその能力が、細胞のがん化につながるような遺伝子の突然変異を誘発したからだ。」

    「放射線とがんの複雑な交差――あるときはがんを治し、またあるときはがんを誘発するという性質――は、腫瘍学者の当初の熱意をそいだ。放射線は目見見えない強力なナイフだった――が、やはりナイフだった。そしてナイフというのは、どれほど鋭くて切れがよくても、がんとの闘いにおいては限界があった。とりわけ非限局性のがんに対しては、放射線よりもっと特異的にがんに作用する治療法が必要だった。」

    がん細胞と特異的に結びつく化学療法の開発について。

    「特異性というのは、標的とその宿主とを見分けられる薬の能力を指す。試験管のなかでがんを殺すのはそれほどむずかしくはないし、化学の世界にはごくわずかな量で数分のうちにがん細胞を殺してしまえる有毒物質がたくさんある。問題は、選択的な毒、すなわち、患者の命を奪うことなくがんだけを殺せる薬を見つけることにある。特異性のない全身療法は無差別爆弾のようなものだ。がんを殺す毒が有用な毒となるためには、その毒はすばらしく鋭敏なナイフでなくてはならない。マイヤーはそのことを知っていた。がんを殺せるほどに充分鋭く、それでいて患者に危害を加えないほどに充分選択的でなくてはならないのだ。」

    「綿布の製造ブームは染色ブームを呼び起こしたが、その二つの産業――布と色――は不思議なほど技術的な足並みがそろっていなかった。綿布の製造とちがって、染色という仕事はいまだに産業化以前のままであり、布の染料は、忍耐と経験、それに絶え間ない指示を必要とする昔ながらの作業をとおして、腐りやすい野菜から抽出しなければならなかった。占領で布地にプリントを施すのはさらに大変で、濃縮剤、媒染剤、溶剤を多くの工程で必要とし、完成までには何週間もかかることが多かった。それゆえに繊維産業は、漂白剤や洗剤を溶解したり、染料の抽出を監督したり、染料を布に固着させる方法を研究したりするための専門的な化学者を必要としており、ほどなく、ロンドンじゅうの工芸学校や研究所で、染料合成を専門とする新たな学問分野、実用化学が花開いた。
     一八五六年、そうした研究所のひとつで学んでいた一八歳の研究生、ウィリアム・パーキンが、「ほどなく染色産業の聖杯となる物質――まったくのゼロからつくることのできる安価な化学染料――の合成に成功した。(中略)パーキンは研究所からこっそり持ち帰ったガラスのフラスコを使って賞賛とベンゼンを加熱し、やがて、予期せぬ反応をまのあたりにする。フラスコのなかで、薄いスミレ色の化学物質が合成されたのだ。新しい染料づくりに躍起になっていたその時代には、色のある化学物質はどれも新たな染料候補と見なされた。パーキンが綿の布きれをフラスコのなかに浸すと、その新しい化学物質は綿を染色し、さらに、洗濯によっても布は色落ちしたり滲んだりしなかった。パーキンはその物質をアニリン・モーヴと名づける。
     パーキンの発見は繊維産業にとってまさに天からの授かりものだった。アニリン・モーヴは安価なうえに腐ることもなく、野菜染料に比べて製造や貯蔵がはるかに用意だった。パーキンはさらに、その親化合物かがほかの染料の基礎構造となることを発見し、その骨格にさまざまな側鎖をぶら下げることで、いくつもの鮮やかな色をつくり出した。一八六〇年代なかばまでには、ライラック、青、マゼンタ、アクアマリン、赤、紫といったたくさんの新しい合成染料がヨーロッパの繊維工場にあふれていた。(中略)
     アニリン・モーヴが発見されたのはイギリスだが、染料の製造がもっとも発展したのはドイツだ。一八五〇年代待末、休息に産業化を奨めていたドイツは、ヨーロッパとアメリカの繊維史上に参入したいと強く臨んでいた。しかしイギリスとちがってドイツには天然色素を手に入れる経路がなく、ドイツが植民地獲得競争に参加しrたことには世界は既すでに、もうそれ以上は分けられないほど細かく分割されていた。そこでドイツの繊維業者は、一度は無理だとあきらめた史上への参入をふたたびめざして、人工染料の開発に乗り出した。
    (中略)ドイツの化学者たちは先を争うように、よおり明るく、より鮮やかな、より安価な化学物質を次々とつくり出し、ヨーロッパじゅうの繊維工場に力ずくで押し入った。一八八〇年代半ばには、ドイツは化学の軍拡競争(より醜い軍事競争の前兆のような争い)における勝者として台頭し、ヨーロッパの「染料バスケット」となった。
     ドイツの繊維化学者は最初、染色産業の影に隠れるようにして暮らしていた。しかし自分たちの成功に勇気づけられると、今度は染料や溶剤だけでなく、フェノール類、アルコール類、臭化物、アルカロイド、アリザリン、アミドなど、自然界では決して遭遇することのない新しい分子の広大な宇宙をつくりはじめた。一八七〇年代末までには、使い途のわからない化学物質をいくつも合成しており、「実用化学」はすでに自らのカリカチュアに――あれほど先を争うようにしてつくった製品の、今では実用目的を探しているような産業に――なっていた。」

    「ベルリンの化学者、フリードリヒ・ヴェーラーは一八二八年、ごくありふれた無機化合物であるシアン化アンモニウムを加熱した結果、腎臓でつくられる尿素が合成されることを発見し、科学会に形而上学的な嵐を巻き起こした。この一見地味なヴェーラーの実験には、とてつもなく大きな意味があった。尿素はその先駆物質こそ無機化合物だが、まぎれもない「天然の」物質だった。生体の器官によって産生されるそんな有機化合物が、フラスコ内でいとも簡単に合成されるという事実は、生物についての概念を根本的にくつがえしかねなかった。何世紀にもわたって、生体の化学現象には動物生気と呼ばれる、実験室では合成できないなんらかの神秘的な物質がかかわっていると考えられていて、その理論は生気論と呼ばれていた。ヴェーラーの実験は、その生気論を粉砕したのだ。彼は有機化合物と無機化合物が相互に変換できることを証明した。生物学は化学だった。ひょっとしたら人体ですら、次々と反応を繰り返す化学物質の詰まった袋みたいなものなのではないだろうか――腕と脚と目と脳と魂のついた、ビーカーみたいなものなのでは。」

    「一八七八年、ライプツィヒで卒業論文のテーマを探していた二四歳の医学生パウル・エールリヒは、布の染料――アニリンとその誘導体――を動物組織の染色に使ってはどうかと思いついた。染料によって組織が染色され、顕微鏡での観察が容易になればしめたものだと考えたのだ。しかし驚いたことに、アニリン誘導体は組織全体を黒っぽく染めるどころか、細胞のある部分だけを選択的に染め、その構造だけをくっきりと浮かび上がらせた。まるで染料には細胞のなかに隠れている化学物質を見分けることができるかのようだった。ある物質とは結合するが、それ以外の物質とは結合しないといったように。
     染料と細胞との反応によって視覚的に示されたこの分子間の特異的結合は、エールリヒの頭に取り憑いて離れなくなった。一八八二年、彼はロベルト・コッホとともに、コッホが発見した結核の原因菌――結核菌――を染め出す新たな化学染色を発見した。その数年後には、ある毒素を動物に注射するとその「抗毒素」がつくられることを発見し、その抗毒素が驚くべき特異性で毒素と結合して毒素を不活性化することを突き止めた(この抗毒素はのちに抗体であることが判明する)。さらにエールリヒは馬の血液からジフテリア毒素の抗血清を精製するのに成功すると、ベルリン郊外シュテグリッツの血清研究所に移ってその血清をガロン単位でつくりはじめ、その後、私設研究所を創設するためにフランクフルトに移った。
     しかし生物界をより広く探求すればするほど、エールリヒは最初の考えに引き戻されていった。生物界には、一種類の鍵しか合わぬように設計された精巧な錠のような分子――自らの相手を厳密に選ぶ分子――が充ちていた。抗毒素とぴたりと結合する毒素や、細胞内のある特定の部位だけを染める染料や、さまざまな微生物が混じり合うなかから一種類の微生物のみをすばやく見つけ出す化学染色が。もし生物学が化学物質をピースとする精巧なパズルゲームだとしたら、細菌細胞と動物細胞を見分け、宿主に触れることなく前者のみを殺せる化学物質も存在しうるのではないか?」
    「思いついたんだよ……病気の症状を緩和するだけの物質じゃなくて、病気を特異的に、根本的に治せる物質を人工的につくり出せるんじゃないかと……その治療的物質は――これは推測だけれど――病原菌を直接殺せるものでなくちゃならない。〝遠隔から作用する〟のではなく、微生物に直接結合してそれを破壊できるような物質でなければならないんだ。微生物とその物質とのあいだに特殊な関係性、すなわち、特異的親和性が存在する場合にのみ、その化学物質は標的の微生物を殺せるんだ」

    「彼がまず最初に探したのは、抗微生物剤として働く化学物質だった。なぜならすでに、化学染料が微生物の細胞に特異的に結合するという事実をつかんでいたからだ。彼はネズミとうさぎをトリパノソーマ(睡眠病という怖ろしい病を引き起こす微生物)に感染させたあと、化学物質を注射して、それが感染を抑えるかどうか調べた。数百の化学物質を試した結果、エールリヒと彼の共同研究者はついに最初の抗生物質を発見し、エールリヒはその明るいルビー染料の誘導体をトリパンレッドと名づけた。病原微生物の名前と染料の色を合わせたその名前はまさに、一世紀近くにわたるいがくの歴史を象徴していた。」

    「一九一〇年四月一九日、ヴィースバーデンの内科学会総会の満員の会場で、エールリヒは「特異的親和性」を持つ新たな分子を発見したと発表した。それは、大ブームとなるはずの薬物だった。化合物六〇六号という暗号めいた名で呼ばれたこの新薬は、梅毒の原因菌である梅毒トレポネーマに作用した。(中略)
     トリパンレッドと化合物六〇六号(エールリヒはそれを、サルベーション(救済)から取って、サルバルサンと名づけた)をめぐるエールリヒの成功は、病気というのは、正しい分子の鍵によって開けられるのを待っている病理学的な錠にすぎないことを証明した。彼の前には、治療できそうな病気の列がどこまでも続いていた。エールリヒは自分の薬を「魔法の弾丸」と呼んだ――相手を殺すことのできる能力が「弾丸」で、特異性が「魔法」だった。このどこか古めかしい、錬金術のような響きを持つことばは、腫瘍学の未来をとおして執拗に響きつづけることになる。」

    「エールリヒの魔法の弾丸には最後の標的が残っていた。そう、がんだ。(中略)一九〇四年から一九〇八年にかけて、彼は綿密な計画のもと、膨大な化学物質の兵器庫のなかに抗がん薬を探しつづけた。アミドも、アニリンも、サルファ剤も、ヒ素も、臭化物も、アルコール類も試してみたが、どれもうまくいかなかった。がん細胞にとって有害な物質は例外なく、正常細胞にとっても有害だったのだ。失望した彼はきわめて特殊な戦略を試してみることに決める。それは、肉腫細胞に代謝産物を与えない戦略、つまり、おとりの化学物質をつかってがん細胞を騙し、死にいたらしめるという戦略だった(五〇年後に種具現するスバラオの葉酸拮抗薬を予感させるような戦略だ)。だが、がん細胞だけを殺すことのできるそんな究極の抗がん剤は結局、見つからなかった。彼の薬理的な弾丸は魔法とは程遠く、あまりにも無差別であるか、あまりにも弱すぎるか、そのどちらかだった。」

    「エールリヒはことばを濁し、がん細胞は細菌細胞とは本質的に異なる標的だと説明した。特異的親和性というのは、逆説的にも「親和性」ではなく、その反対、つまり相違点に依存しているのです。私の開発した化学物質が細菌だけにうまく結合したのは、細菌の酵素がヒトの酵素と根本的に異なっていたからなのです。しかしながらがんの場合は、がん細胞と正常なヒトの細胞とがあまりにも似ているために、がん細胞だけを選択的に殺すのは不可能に近い。」

    「一六世紀の医師バラケルススは、あらゆる薬は毒が変装したものだと言った。がん細胞を跡形もなく消し去らねばならないという、焼けつくような強迫観念に取り憑かれていた腫瘍医たちは、その裏返しの理論のなかに、がんの化学療法のルーツを見いだした。すなわち、あらゆる毒は薬が変装したものなのかもしれない、と。」

    「グッドマンとギルマンはマスタードガスの「皮膚をただれさせる」効果(皮膚と粘膜に火傷をつくる作用お)ではなく、クルムハール効果(白血球数を大幅に減少させる作用)のほうに強い興味を覚えた。この作用を、より毒性を弱めて、病院で利用することはできないだろうか? と彼らは考えた。医師の管理下で、ごくわずかの量を用いて、きちんと記録しながら、悪性の白血球を標的として用いることはできないだろうか?
    (中略)二人が選んだ疾患はリンパ節のがん、リンパ腫だった。一九四二年、彼らは胸部外科位のグスタフ・リンドスコーグを説得し、リンパ腫を患った四八歳のニューヨー〇区の銀細工師に一〇回連続でナイトロジェンマスタードを静注してもらった。それは一回かぎりの試験だったものの、明らかな効果が得られ、ネズミと同様にヒトでも奇跡的な寛解がもたらされた。患者のリンパ節の腫脹は消失dし、臨床医はその現象をがんの神秘的な「軟化」と呼んだ。(中略)
     しかし、やはり再発は興った。いったんやわらかくなった腫瘍はふたたび硬くなり、また大きくなった――ファーバーの白血病細胞が一度消えたあとで爆発的に増加したのと同じように。」

    オーディブルは、シッダールタ・ムカジー『がん 4000年の歴史 上巻』の続き。

    MIT出身、科学研究開発局(OSRD)局長ヴァネヴァー・ブッシュによる基礎研究と応用科学についての考察。

    「基礎研究は」「実用的目標を念頭に置くことなしにおこなわれ、その結果、自然やその法則についての普遍的な知識と理解がもただされることだろう。(中略)たとえ個々の実用問題に対する直接的な答とはならなくても(中略)基礎研究が新たな知識をもたらし、科学知識の資産をつくり出す。その資産から引き出された知識が実用に応用される(中略)すなわち基礎研究は技術発展のペースメーカーなのだ。(中略)どれほど技術力が高くとも、基礎研究を他国まかせにしているような国は、世界貿易競争で弱い立場に立たされる」
    「戦時中にもてはやされた目的思考型研究――「実用」科学――は、アメリカの科学の未来にとっての持続可能なモデルではない、とブッシュは主張したのだ。ブッシュが認めたように、広く褒め称えられたマンハッタン計画でさえ、基礎科学の価値を証明したにすぎなかった。事実、原子爆弾はアメリカ人の「発明の才」の産物だったが、その発明の才は、原子とそこに閉じ込められたエネルギーの性質に関する基礎的な発見――原爆の製造などまったく念頭におかずにおこなわれた研究――の土台の上に立っていた。原爆が実際に誕生したのはロスアラモス研究所だったが、その概念自体はヨーロッパに深く根ざした戦前の物理学と化学の産物だった。戦時中のアメリカの科学を象徴する自国製品も、少なくとも概念上は、輸入品だったのだ。
     これらすべてのことからブッシュが学んだのは、目的思考型戦略というのは戦時中こそ有益だが、平時にはほとんど役立たないということだった。「正面攻撃」は前線には有用だったが、戦後の科学研究は命令によって生み出されるべきではなかった。」

    ラスカライツ(「がん撲滅キャンペーン」を強力に推進したメアリ・ラスカー率いるロビー団体「アメリカがん協会(ACS)」のメンバーのこと)が求めていたのは、それとは真逆のことだった。

    「がんとの闘いが必要としていたのはまさしく、ロスアラモスできわめて効率的に達成された、目的を絞った集中的コミットメントだった。」

    「がんの研究者は、ただ単に〝興味深い〟という観点からだけではなく、がん問題を解決するのに役立つかもしれないという観点から目標を選び出し、その目標に向かって自分たちの仕事を組織化すべく全力をつくさなければならない」

    生物や生命は進化する。抗生物質にさらされた細菌がやがて薬剤耐性を手に入れ耐性菌となるように、白血病も一剤で治療した場合には必ず白血病細胞がその薬に耐性をもつようになる。結核菌やマラリアに対する抗生物質の無作為化臨床試験にヒントを得たズブロドとフライとフライライクは、二剤、三剤、四剤を併用するプロトコルを模索する。だが、がん細胞を殺す抗白血病薬は、必ず正常細胞も攻撃する(がん細胞は正常細胞とあまりに似すぎていて、がん細胞だけに特異的に結びつく物質はまだ発見されていなかった)。そのため併用療法は毒性が強すぎて、患者を死の淵まで追い込むことになる。

    「非常に毒性の強い薬を三剤も四剤も子供に投与するなんて残酷きわまりないと考えられた。常軌を逸しているとね」「ズブロドですら、コンソーシアムを説得できなかった。国立がん研究所(NCI)を〝国立肉屋〟にしたい人間など、どこにもいなかった」

    「ミン・チュウ・リを悩ませたのは、予定された化学療法がすべて終了した時点で、hCG値(彼が用いた腫瘍マーカーの値)はもうほとんど無視できるくらいに低下していたものの、完全には下がりきっていないという点だった。彼は毎週のように自分の研究室でhCGを測定したが、やはり正常値までは下がっておらず。ほんのわずかな数値がどうしても消えなかった。
     ミン・チュウ・リはしだいに数値に取り憑かれていく。血中のホルモンはがんの指紋であり、それがまだ残っているのなら、がんも残っているということだった。たとえ肉眼的には消えていても、体のどこかに隠れているはずだった。がんが消えたことを示すほかのすべての所見にもかかわらず、自分の患者じゃ完治してはいないと彼は結論づけた。そしてしだいに、患者ではなく、数字を治療しているかのようになっていく。投与回数を増やせば薬の毒性も増すという事実を無視して、hCGがついに正常になるまで、彼はどこまでも頑固に投薬を重ねていった。」

    「ミン・チュウ・リは人体実験をおこなっていると批判された」「だが言うまでもなく、みんな実験していた。トム(フライ)も、ズブロドも、ほかにも大勢――私たちはみんな、実験者だった。実験しないということは、古い法則に従うことだ――まったく何もしないということだ。椅子にゆったりと腰掛けて、何もせずにただ傍観しているなんてことは、彼にはできなかったんだ。つまり彼は、自分の信念に従って行動したかどで解雇されたというわけだ。行動を起こしたかどで」

    「しかしこの物語にはどんでん返しがある。(中略)早期に化学療法を終了した患者の場合は必ずがんが再発したのに対し、ミン・チュウ・リのプロトコールで治療された患者では、メトトレキサートの投与が終了してから何カ月も再発が見られなかったのだ。
     リは、腫瘍学の根底に横たわる原則を偶然発見した。がんの全身治療は、あらゆる肉眼所見が消えたあとも長期間にわたって続けなければばらない、という。hCG――絨毛がんによって分泌されるホルモン――は絨毛がんのまぎれもない指紋、すなわち腫瘍マーカーだった。その後数十年にわたっておこなわれたいくつもの臨床試験が、リのこの原則の正しさを証明することになる。しかし一九六〇年の腫瘍学には、まだその考えを受け容れる準備はできていなかった。数年後、あれほど大急ぎでリを解雇した委員会が一つの事実を知るまでは。リが長期的な維持療法をおこなった患者では、がんが一度も再発しなかったのだ。この治療法――ミン・チュウ・リに仕事を失わせた治療法――は、成人のがんを完治させた、初めての化学療法となった。」

    「ヒトの白血球がスキッパーのマウスの白血病ににているとしたら、子供たちへの治療には、一種類や二種類ではなく、多種類の抗がん剤を併用するプロトコールを用いなければならない。さらに、治療回数も一回であ足りなかった。「最大限かつ周期的かつ集中的かつ最前線の」化学療法をおこなわなければならない。無慈悲で冷酷なまでの執拗さで、何度も治療を重ね、患者が副作用に耐えうる限界を押し広げていかなければならない。白血業細胞が血中から帰依、子供が一見「完治した」ように見えても、治療をやめてはならない。」

    「VAMP(四剤併用療法)を初めた週の終わりには、多くの子供たちが治療前よりもずっと具合が悪くなっていた。まさに災厄そのものだった」四剤併用療法は子供たちの体で猛威をふるい、正常細胞を一掃した。ほぼ昏睡状態となって人工呼吸器につながれる子供もいた。是が非でも患者の命を救おうと、フライライクは取り憑かれたように病室に足を運んだ。「どんなにピリピリしていたか」「〝だから言ったじゃないか、子供たちはみんな死んでしまうって〟と人々が声をそろえて言うのが今にも聞こえるようだった」

    苦痛に満ちた3週間が終わる頃、患者に劇的な変化が訪れる。白血病細胞が消え、正常な白血球と赤血球、血小板がいっせいに芽吹き始めていたのだ。寛解だ。「小児がん専門医を包んでいた気分は事実上、一晩でがらりと変わった。〝情け深い文明論〟から〝攻撃的な楽観主義〟へと」だが、その楽観主義も長続きはしなかった。2年後、VAMPで寛解したはずの子供たちが次々と戻ってきた。

    「科学にまつわる民間伝承のなかには、偉大な発見の瞬間についての物語がある。脈が速くなり、ごくあたりまえの事実がスペクトルのように分光する。さまざまな観察結果が結晶化して、万華鏡のピースのように一つのパターンを形づくるときの、過熱したような、時が止まったような感覚。リンゴが木から落ちる。男がバスタブから飛び出る。不安定な方程式が自らの均衡を見つける――。
     しかし、科学の歴史には、めったに記録されることのないもう一つの発見の瞬間――前者のアンチテーゼ――がある。失敗の発見だ。たいていの場合、科学者はたった一人でその瞬間を迎える。ある患者のCT画像が示す、リンパ腫の再発。薬で殺したはずのがん細胞の再増殖。頭痛を訴えてNCIに戻ってくる子供。
     髄液の所見はフライとフライライクの背筋を凍らせた。髄液中で白血病細胞が何百万という単位で爆発的に増えており、脳のなかでコロニーをつくっていたのだ。頭痛やしびれは、やがて現れる深刻な症状の前触れだった。その後の数カ月のあいだに、すべての患者がさまざまな神経症状――頭痛、しびれ、光点が見える、など――を訴えて戻ってきて、やがて昏睡状態に陥った。骨髄生検に異常はなく、体内にがんは見つからなかった。だが、白血病細胞はすでに中枢神経に浸潤しており、あっというまに予期せぬ死をもたらした。
     それは、がん治療をくつがえす生体の防御機能の結果だった。脳と脊髄は、外部の化学物質が脳に容易にはいり込んでしまうのを防ぐ、血液脳関門と呼ばれる厳密な細胞のシールによって守られている。それは脳に毒を到達させないために進化した、太古からの生物学的な昨日なのだが、その機能のせいでVAMPは中枢神経に達することができず、結果として、脳はがんにとっての体内の「聖域」になってしまったのだ。白血病細胞はそんな抗がん剤の到達できない聖域で増殖し、コロニーをつくった。一人、また一人と、子供たちは亡くなった――彼らを守るための機能のせいで。

  • すばらしい人体とゆう本で紹介されていたから読んでみた。

    すごく内容の濃い本であることはわかったけど、私には難しすぎてほとんどを理解できなかった。

    ただ、がんの治療の技術が現代に至るまで試行錯誤があったことはよくわかった。

    下巻もあるけど、しばらくはよいかなとゆうかんじ。

  • 2016年時点では、癌に関する最も興味深く啓蒙的な本の一つだったのではないでしょうか。とても面白かったです。

  • 日本人の死因のトップになっている、がん。
    この病気については、「怖い」という印象ばかりが強く、現在の治療法などについてこれまで、ほとんど学んできていませんでした。

    Audibleのラインアップを見ていたら、がんへの取り組みの歴史をまとめた本があることを知りました。
    「この機会に勉強しよう」と思い、聴くことにしました。

    上下巻構成で、上巻は3部に分かれています。

    第1部は、古代から20世紀前半にかけての、がんに対する科学的アプローチの歴史が書かれています。

    紀元前のエジプトですでに、がんの存在は知られていた。
    しかし、がんが原因で亡くなる人は少なく、近代まで有効な治療は行われてこなかった。
    ・・・これらの記述には、「意外だな」と感じました。

    がんに対して本格的に治療方法が模索され始めたのは、解剖学の知見が蓄積され、麻酔の技術が実際に使えるようになった、19世紀後半以降なのですね。
    外科手術が必要だったこと、そしてがん以外の死因が多かったことが、主な理由だったと理解しました。

    第2部は20世紀半ば、おおよそ1940年代から60年代にかけて。
    メインで取り上げられているのは、化学療法の開発、臨床試験の歴史です。

    患者の体が耐えられる範囲で、がん細胞を殺す薬を投与する。
    がん細胞の性質上、残ってしまうとふたたび増殖してしまう。
    非常に難しいことに、医師たちは取り組んできたのですね。

    また、技術的なアプローチをスピーディーに進めていくには、資金集めが必要であること。
    効果の得られる方法を早期に見出すためにも、臨床試験は計画的に進めていく必要があること。
    これらの理由から、大きな組織で取り組んでいく必要があったのだとも、理解しました。

    第3部は、20世紀終盤、1970年以降の取り組みについて。
    20世紀半ばからの、がんとの戦いは効果があったのか?
    治療の効果というものを統計的に評価するのは難しいmものなのだ、と理解しました。

    引き続き、下巻もAudiblで聴きます。
    .

  • 本書は、がんという病が人類の歴史においてどのように捉えられ、研究されてきたかについて、古代エジプトから現代までを多角的かつ網羅的に描いた壮大なノンフィクションです。上下巻合わせて1000ページを超える極めて読み応えのある大作です。

    植沢芳広

    https://kensaku.my-pharm.ac.jp/opac/volume/273163

  • 男性の3人に2人、女性の2人に1人が罹患する病。そして、たとえ初期に発見されても、必ず死を意識せざるを得ない病。

    そんながんと人類との壮絶な4000年の戦いの歴史。
    ボリュームが多目だけど、文章は平易で臨場感があり、理解しやすい。

    オーディブルにて。

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著者プロフィール

シッダールタ・ムカジー(Siddhartha Mukherjee)
がん専門の内科医、研究者。著書は本書のほかに『病の皇帝「がん」に挑む——人類4000年の苦闘』(田中文訳、早川書房)がある。同書は2011年にピュリツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞。
コロンビア大学助教授(医学)で、同メディカルセンターにがん専門内科医として勤務している。
ローズ奨学金を得て、スタンフォード大学、オックスフォード大学、ハーバード・メディカルスクールを卒業・修了。
『ネイチャー』『Cell』『The New England Journal of Medicine』『ニューヨーク・タイムズ』などに論文や記事を発表している。
2015年にはケン・バーンズと協力して、がんのこれまでの歴史と将来の見通しをテーマに、アメリカPBSで全3回6時間にわたるドキュメンタリーを制作した。
ムカジーの研究はがんと幹細胞に関するもので、彼の研究室は幹細胞研究の新局面を開く発見(骨や軟骨を形成する幹細胞の分離など)で知られている。
ニューヨークで妻と2人の娘とともに暮らしている。

「2018年 『不確かな医学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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