浮世の画家 (ハヤカワepi文庫 イ 1-4)

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (319ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200397

作品紹介・あらすじ

戦時中、日本精神を鼓舞する作風で名をなした画家の小野。多くの弟子に囲まれ、大いに尊敬を集める地位にあったが、終戦を迎えたとたん周囲の目は冷たくなった。弟子や義理の息子からはそしりを受け、末娘の縁談は進まない。小野は引退し、屋敷に篭りがちに。自分の画業のせいなのか…。老画家は過去を回想しながら、みずからが貫いてきた信念と新しい価値観のはざまに揺れる-ウィットブレッド賞に輝く著者の出世作。

感想・レビュー・書評

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  • 革新的な作風で名を残した日本画家小野が、過去を回想する独白形式の小説。戦後大きく変化した価値観により筆を置いて余生を送る老画家が、自らの存在意義を問いつづける。イシグロの他の作品にはあまり見られない心情描写は、私にとっては新鮮に映った。ただ個人的には、そこまで深みを感じる作品ではなかったかな。

  • カズオ・イシグロの長編第2作目。
    幼少の頃から長らくイギリスに住み、イギリスの生活や文化に慣れ親しんできた作者が、生まれ故郷である日本の戦前・戦後の生活や文化を事細かく調査して書き上げた意欲作と思われる。

    主人公は広い日本家屋の屋敷に住む老画家で、末娘の結婚問題に心を痛めながらも孫と戯れたりするほのぼのとした情景から物語は始まる。
    物語の雰囲気は作者も思い入れがあるというまさに小津安次郎監督の世界であり、物語の出だしは情緒豊かに日本的な風情の中から展開していくことになる。
    さらに個々の登場人物にはそれぞれ独特の個性を持たせていて、割とほのぼの感のある主人公に対して、身内である娘2人と孫の性格はちょっと一捻りしている感じで、常にまわりくどくてはっきりとものを言わない姉に、クソ生意気な孫のガキ、そしてズケズケものを言う末娘という感じで、作者ならではの日本の家族観が出ていてなかなか面白かった。
    あと光の使い方がある意味日本的で、これも面白いところであった。
    主人公の少年時代の回想で暗がりの座敷の中で火の光がゆらゆらと揺れるようなイメージがあったり、広い日本庭園を思わせる中での陽光を浴びながらの庭仕事があったり、あるいは家族らとともにする夕食の食卓での電燈の光であったり、かと思えば戦前や戦後すぐの地方のバーの薄明かりや居酒屋での華やかな色光であったりと、日本的な光のイメージを大切に使っている作品であったように思う。
    そういう意味で、物語後半における主人公と師匠モリさんとの決別の理由の一端は、闇に浮かぶ日本的な光の幻想を洋画に活かそうという師匠の手法への主人公の反発にあったわけで、極彩色に違いない主人公の軍国主義礼賛の絵は主人公が入り浸った飲み屋街のネオンと共通するものとして対比されていたようにも思う。
    その彼が戦後老いて日本的な環境の中で生活するというのは、ある意味、皮肉なものであったのではないか。

    物語の前半は割と娘の結婚問題にそこそこ頭を悩ます父親といった風情だったものが、物語の後半に入り、突如として主人公の戦争責任とそれに先立つ師匠との出会いから別れの話に進展していったのには驚いたものの、なかなか読み応えのある展開であった。
    特に主人公が師匠との決別の道を選択し、戦時中に自分が行った仕事に対する数々の高評価に自尊心を満足させつつも、一転、敗戦後は自らの過去が末娘の縁談に差し障りがあると考え、そうした過去に対する責任感に満足するところなどは、これもある意味、皮肉であり、さらに周囲の者は逆にそのような責任など感じる必要などない「小物」だったと評価していることなどは、作者の作品にいつも滲み出ているお得意のユーモアと思われなかなか魅せてくれたと思う。

    この作品は現在・過去が錯綜して回想される主人公の一人称の物語で、その主人公の記憶も曖昧なところがありなかなか読みにくい作品であったが、主人公が存在し会話し考え、時には過去へ行ったっきりになり、主人公がそこかしこであれこれと思いめぐらす思考の流れは、われわれ読者をも幻想的な感覚へと誘い、現実と過去の境界をも曖昧にする不思議な体験であった。
    その意味で、日本の過去と現在をごちゃまぜにして作者のイメージに作り変えて読者へ突き付けるという彼の目論みは大いに成功したといえるだろう。
    主人公の一人称の物語ゆえに、作者の客観的な日本評をみせつけられた作品であったとも言える。

  • 『日の名残り』と似たテーマ。

    戦時下、良かれと思って自分の仕事に邁進し、一定の評価を得たあと、戦後になって、戦争協力者として批判される立場に立つ者が、自責の念と自己弁護の狭間で、超然とした外見のまま苦しむ。

    作曲家古関裕而と似た人も出てきて、その人は作中、責任をとって自死する。

    主人公小野を戦後批判する弟子達は、軍人嫌いと同じメンタリティだろうか。苦しい時に権勢のあった人は、体制がひっくり返った時には逆恨みの対象となるが、本当に戦うべき相手はその人ではないだろう。


  • 戦前と戦後を生きた画家。
    戦争の前後で世間の価値観や己の評価が180度逆転し、そのことを諦めのように認めつつもやるせない思いを抱えている老人。
    現在の話をしながら過去の回想が入り乱れる。謙虚で誠実な自省の裏に潜んだ自尊心、自己欺瞞。
    手触りはノスタルジィ。どこか空虚で寂しい望郷の念。

  • 翻訳がとってもいい。洗練されていて、味わいもある。
    さて、作中人物、画家・小野益次は、孫が生まれて程ないので、60代くらいか。
    それまで自らが歩んできた人生を振り返る独白とともに、物語がつむがれてゆく。
    この回顧の感じ、独り語りの手ざわりが、翻訳のよさとあいまって、心地よい。
    わたし自身 初老の年代に近づきつつあることもあり、小野の独り語りの感じに、なんとも心地のよさを覚えたのだ。

    また、以下のような一節もあり、ある種のセンチメンタリズムをかすかに刺激された。

    後半生のふとしたときに、人は、自分が周囲から高い評価を得ていることに、気づかされることがある。
     …そんなことを述べた一節があった。
    また、
    自分の独自の言い回しや癖、と思っているものは、実はその多くが、自分が尊敬し師事した人物の言葉や癖を、
    知らぬ間に自分に映しこんで、受け継いでいることがある。
     という大意の一節もある。

    なるほど、そうかもしれない。自分もそうかもしれない…。などと、時おり自分の人生を振りかえった。
    読者として、主人公と年代が遠くないためか、かような読み方を味わえるのは、楽しいものであった。

    また、小野の師匠、画家のモリは、弟子たちを連れて花街にくりだし、連夜のように飲み明かす。
    夜の宴のはかない光と陰のなかにこそ、人生の真実があり、その「浮世」のすがたを描くことこそ、至高の芸術なのだ…、という主旨のことを言う。
    このくだりは、芸術のロマンを感じさせ、これまたいいものである。

    だが、しかし。 である。

    カズオ・イシグロ作品、3つめ。そして今回もまた、戸惑いのうちに読了したのであった。
    文章は平易であるし、さほど難解なテーマを扱っているとも思えない。
    だがしかし、
    「事実らしきもの」が、劇中で変転するので、そこで「解釈」に戸惑うのであった。
    ちなみ、「信頼できない語り手」の手法は、前2作で学習したつもりである。

    具体的には、下記のことである。
    中盤、小野は長女節子から、次女紀子の縁談が破談し、次もうまく行かない気配があるのは、父である小野の戦時中のふるまいが遠因だ、と遠まわしに言われる。

    小野は、言っている意味がわからない、とか、そんなはずはない、という立場を貫く。

    だが、終盤、次の章では、紀子は無事に結婚。長女節子と紀子らが揃う親子水いらずの夕食の場面である。
    小野は、戦時中の自身の考えや行動を自己批判する。すると、長女節子は、(以前、次女の破談の恐れを理由に)父に言ったことを完全に否定する場面が続くのである。記憶違いではないか、とまで言うのだ。
    これは、読み手は、いったいどう解釈すればよいのだろうか。

    終盤、かつて小野が描いた絵について明らかにされる。戦意高揚に与するための絵で、醜悪な絵である。となれば、小野の弟子たちが、かつて小野の芸術的才能を礼賛したことは、幻想あるいは嘘だったことになる。
    さらには、後半、小野が弟子黒田の家を訪ねたときの、ある陰惨な場面が明らかにされる。
    黒田の家には、特高警察らしき者たちがいて、黒田は連行された後だった。内庭では、黒田の絵が焼かれ、母が厳しく尋問されすすり泣きをしている。(その後、黒田は警察で苛烈な拷問を受ける)。 
    ここで、小野は警察の行動に驚き、黒田への捜査を止めようとする。そして自身が「内務省文化審議委員」の一員であり、「非国民活動統制委員会」の顧問でもある、と告げる。そして小野はその数日前 “黒田に注意してくれたら、本人のためになる” と発言したと言う。

    小野は、そうは言ったもの、黒田を官憲に売ったつもりはなかったし、黒田がここまで過酷な運命に落ちる、とは想像していなかったのだ、という。(あるいは、この「弁明」もまた、偽りかもしれない。)

    小説の前半、小野は、戦中の自身の行動、価値観に、過ちはなかった、とする言葉をくりかえしていた。
    また、当時の自分の行動や価値観は、その頃は、国のため社会のために正しいことと信じていた、とし、それを正当化する言い方を繰りかえす。
    だがしかし、作品の終盤で初めて詳らかになる、小野による「仕打ち」は陰惨なものだ。 読者である私は驚かされた。 

    そして、前述のように、これに隣接した直前の章では、小野の長女は、それまでの、戦中の父を「責める」態度から転じ、小野に、自身をせめないでくださいね、という姿勢である。(その一節で、戦時体制を賛美する唱歌をつくった音楽家が、その責を負って戦後自殺したことが書かれる。小野の娘らは父の自殺を恐れ、父へ「批判」をやめたのだろうか。) 

    かような次第で、小説の前後で、つじつまが合わない、というか、奇妙な変転があり、戸惑う。

    人の記憶のあいまいさ、それが主題のひとつなのか。あるいは、ひとは事実を隠蔽し、記憶を書き換えること。その卑怯さ、哀しさを 描いたのか。

    わたしの、読解力に問題があるのかもしれないが、困惑のまま、読了したのであった。
    語り手の物語ることに虚偽や隠蔽がある。そのことも含めて、作品をまるごと読みとかなくてはならない。いやはや、やはりイシグロ文学は難しい。

  • 最初の家の話ぶりから現役を退いた画家が戦前・中を穏やかに振り返る内容なのかとざっと予想しながら読み進んだけれどどうやら違うっぽい、怪しい、と思ってから面白く感じた。
    その「どうやら」が手法なのだと気付いて感嘆。
    語りから、見えない部分を無意識に想像させながら話は過去を行きつ現在に戻りつ、主人公の姿を浮き上がらせる。
    小説に対して私は舞台背景や人物設定、言葉のセンス、形容対象への美意識などに魅かれがちなのだけれど、そういうのは小手先の魅力なんじゃないかと思うくらいの読書体験でした。文学って奥深いな~と改めて。
    主人公小野の娘達の名前や話しぶりから小津安二郎を思い浮かべたけれど、作者は影響されてるんですね(検索した)。
    たまにしか外文は読まないし理解力にも自信がないのでえらそうに言えないけれど、翻訳の力も凄いのでは。

  • 主人公が本当に権威ある画家(だった)なのか、最後の方でわからなくなってしまった。ある一部の分野ではそうだったのかもしれないが、主人公が自分で思っているほどは世間に名を知られている訳ではなかったのかもしれない。
    自分が正しいと信じてきたものが、後に間違った思想だとされたとき、私だったらいったい何をやっていたんだろうかって途方に暮れてしまうと思う。もし自分が戦争中に国民を扇動する側だったら、本に出てきた社長のように罪の意識で自殺していたかもしれない。その点、主人公は自殺せずに自分の過ちを認めて堂々としていてすごいなと思った。少し図々しいのではとすら思ってしまったけど、だからって死ぬべき人間だ!とは考えられないし……と、現代に生きる私ですら思うんだから、当時戦争から帰ってきた若者とかは折り合いをつけるのが難しかっただろうなと思った。
    ただ、主人公が思ってるほど、娘たちは主人公が戦争に加担したとは考えていないということが終盤で書かれていて、じゃあ主人公が思っていた権威や功績ってなんだったんだ…とか、2番目の娘が結婚する時に節子が言ってきた気をつけることってなんだったんだとか、その時、要所要所での話の見え方が変わった。かといって、全部主人公の妄想か?と言えば違うし、その自己評価と他者評価のズレの塩梅が絶妙にリアルだった。。面白かった。

  • 主人公の小野益次は、色街の女性たちを描く師匠と決別することで、浮世を描く画家ではなくなった。しかし、戦前・戦中・戦後における世間の変化に翻弄されることになった。その意味で、彼は浮世(はかない世)にいる画家である。タイトルはそういう意味ではないか。

  • 2016.3記。

    戦前、戦意高揚目的の絵を描いて名を成した老画家が、戦後の根本的な価値観の転換の中で内省を深めていく。娘の縁談が進まないのはじぶんのせいなのか・・・それだけの筋書で物語は淡々と進む。

    主人公は時流に媚びたわけではない。むしろ社会不安、貧困の増大、無策な政治家、そうしたものに憤りを感じ、少しでも人々の役に立てば、と絵筆をふるっていた。しかし、戦後、若い世代は「国民を煽っておきながらのうのうと生き永らえた連中」という容赦ない視線を浴びせ、当時親しくした同世代の仲間たちも背を向けていく。

    当時の愛弟子が、就職のために「私は先生と対立していた、と証言してくれ」と訪ねてきたときの屈辱と寂寥感。同時に、嫁いでいった娘たち、その家族が戦前よりも明らかに希望のある未来に向かっていくことを嬉しく思う気持ち。そういうものがしずかに積み重なっていく様がなんとも切ない。

    脱線するが、この曲のテーマ曲を勝手に選定するとすれば武満徹「波の盆」を推したい。ハワイに渡った日系人で、第二次大戦において息子が米兵として日本と戦うことになる主人公を笠智衆が演じていた。ただただ名曲です。

  • 昭和の作家が書いた小説を読んでいるような感覚になったり、翻訳ものだということを忘れたり、孫や娘との会話が白黒映画の脚本読んでるみたいな感じになったりで、不思議な小説だった。

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著者プロフィール

カズオ・イシグロ
1954年11月8日、長崎県長崎市生まれ。5歳のときに父の仕事の関係で日本を離れて帰化、現在は日系イギリス人としてロンドンに住む(日本語は聴き取ることはある程度可能だが、ほとんど話すことができない)。
ケント大学卒業後、イースト・アングリア大学大学院創作学科に進学。批評家・作家のマルカム・ブラッドリの指導を受ける。
1982年のデビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年『浮世の画家』でウィットブレッド賞、1989年『日の名残り』でブッカー賞を受賞し、これが代表作に挙げられる。映画化もされたもう一つの代表作、2005年『わたしを離さないで』は、Time誌において文学史上のオールタイムベスト100に選ばれ、日本では「キノベス!」1位を受賞。2015年発行の『忘れられた巨人』が最新作。
2017年、ノーベル文学賞を受賞。受賞理由は、「偉大な感情の力をもつ諸小説作において、世界と繋がっているわたしたちの感覚が幻想的なものでしかないという、その奥底を明らかにした」。

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