ザ・ロード (ハヤカワepi文庫 マ 1-4)

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (351ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200601

作品紹介・あらすじ

空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして-。世界は本当に終わってしまったのか?現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • 動植物は死に絶え、人が人を喰らう終末世界で続けられる父子の「火を運ぶ」旅。善とは何か、生きるとはどういうことか…。全く光の見えない絶望的な情況の中で「破滅後」しか知らない少年の純粋さが胸を打った。

  • 2007年ピュリッツァー賞受賞作。とりわけ作者コーマック・マッカーシーの想いが強い作品だと感じる。

    近未来のアメリカ、おそらく何かが勃発して、この星は厚い雲に覆われ灰が降る。わずかに生き残った人間は飢えに苦しみ、あたりは茫漠とした終末世界が広がっている。そのなかですこしでも生き延びるため、男は幼い息子とともに旅にでる。

    複雑なプロットはなく、ほぼ時系列的に物語は進む。主だった登場人物は初めから終わりまで父と息子。どうかすると冗漫になってしまうところを起伏に富むサバイバルストーリーに仕上げている。とにかく最後まで飽きさせないのはさすがだ。
    ふと日本の古い時代劇を思い浮かべた。『子連れ狼』というドラマを再放送で見たことがあって、落ちぶれた凄腕の浪人(武士)が、ぼろぼろの乳母車(ちなみにベビーカーなんてものではない)に幼い息子をのせて流浪の旅をするのだ! 本作はそのアメリカ版(笑)。

    若い男、そして5~6歳くらいの彼の息子。この二人の会話がすこぶる愛らしくて、思わずクスッと笑ってしまう。

    「少年は立ちあがり、ほうきを手にとって肩にかついだ。それから父親を見た。ぼくたちの長期目標ってなに?
    え?
    ぼくたちの長期目標。
    そんな言葉どこで聞いたんだ?
    わかんない。
    どこでなんだ?
    パパがいったんだよ。
    いつ?
    ずうっと前」

    ***

    「彼は服を着て少年と二人で戦利品の残りを持って砂浜を歩きだした。その人たちはどこへ行っちゃったんだと思う、パパ?
    船に乗っていた人たちかい?
    うん。
    さあな。
    死んだんだと思う?
    わからない。
    でも状況は彼らに不利だよね。
    彼はふっと笑った。状況は彼らに不利だって?
    うん。そうでしょ?
    ああ。そうだな」

    いや~映像のように浮かび上がってくる。あどけない少年の口から飛びだすひどく大人びた言葉。それに呆れたり、たじたじになる、そんな彼は頼りになるパパだ。洞察力にすぐれ、状況を適切、柔軟に判断し、誰も目もくれない残骸物を修理したり、改良したりするのだ。その生きる知恵はひどく鮮やかで、読みながら思わずほぉぉ~と唸ってしまう。ほんとうに賢くて頭がいいというのは、こういうことなんだよね~と憧れたりする。
    まるで無人島で生きる手立てを講じていくロビンソン・クルーソーや幼い娘とともに破天荒な逃避行をするジャン・バルジャン(『レ・ミゼラブル』)のようにハラハラする。もちろん物語の時も場所も経緯もまるで違うけれど、過酷で悲惨でどうにもならない泥沼にはまっている、のっぴきならないほどに。それでも生きる! それを諦めない、自ら思考し、想像する。そしてなんといっても彼らはいたって素朴だ。卑小な己の存在をじっとみつめ、人間の営みや運命を超越している大いなるものに謙虚なのだ。

    とはいえ、この世界に生き残った憐れでミゼラブルな父子、読みながらしくしくと胸は痛むし、喉まで渇いてくる。唯一の希望となるのは純粋で無垢な少年の存在。前作『血と暴力の国』から引き継がれるように、ここでも「火を運ぶ――carry the fire」という意味深長なキーワードがでてくる。はたして「火」とは? それを「運ぶ」とは? それらを探す楽しみが、この作品にはいっぱい詰まっている。

    際限ない暴力や紛争、貧困、自然の破壊や汚辱にまみれた現実世界に想いをはせれば、まだ幼いわが子を残して去っていくのであろう作者マッカーシーの底なしの悲嘆や寂寥感が伝わってくるようだ。ギリシャ悲劇さながら、それらの鬱積をカタルシスへと昇華していくなかで、少年は神秘的な光を放つ存在に見えてくる。なんとも不思議な小説、読む人によってさまざま感じることのできる懐の深い作品だと思う。
    いつもながら黒原氏の翻訳もみごとだ。新たな視点を提供してくれる解説は、明快で驚きにあふれている(2020.10.5)。

    ***
    「処分のしかたを遺言されないまま残され冷たくなってなお執拗に公転を続ける地球。情け容赦のない闇。太陽の盲目の犬たちが掛けまわる。宇宙の壊滅的な黒い真空部分。その中のとある場所で穴に逃げこんだ狐のように追いつめられ震えている二匹の動物。つかのま猶予された時間とつかのま猶予された世界とそれを悲しむつかのま猶予された眼」

  • 灰色の世界を生きる父と子の物語。
    作者の「息子に捧げる」という何とも心にズシンとくる計らい。
    父の子を守ろうとする強さと、子の父や(こんな状況でも)他人を思いやる純粋無垢さが、世界の荒廃、人間性の崩壊に対して、どう立ち向かい、導かれていくのか。
    星の光以外見えないような暗闇、静寂の中で読んだこともあり、世界、人間の行く末を、この本から見てしまったのか…?と深慮を巡らす。

  • ピュリッツァー賞を受賞した世界的ベストセラー、だそうです。
    自分には合わなかったな~。
     
    舞台は何らかの原因で死滅してゆく世界。
    空は暗く、寒く、食べ物がありません。
    とても深刻なマッドマックスの世界、といったところでしょうか。
    そこを父親と息子の2人連れが南を目指して歩きます。
    凍えながら、飢えながら、ただただ歩きます。
    親子が最も警戒するのは人間です。
    数少ない人間たちは、強奪しあったり、殺し合ったりしているのです。
    ときには文字通り食い物にされてしまうのです。
    雨に打たれ、食料を探して廃墟を探しながら、靴はボロボロ、人目につかぬよう慎重に進みます。
     
    言ってしまえば、ただそれだけの話です。
    最初から暗く、そのトーンは最後まで変わりません。
     
    文章も慣れるまで苦労します。
    この作者は、読点というものをほとんど使いません。
    そのため例えば

     遠い過去に彼はこのすぐ近くで一羽の隼が山の青い横長の壁を背景に急降下して鶴の群れの真ん中の一羽を胸骨の竜骨突起で一撃しぐったりしたひょろ長い獲物をつかんで川まで運び秋の静かな大気の中に飛び散る薄汚い羽毛の尾を引くのを見たことがあった。(本文抜粋)
     
    なんて長ったらしい分かりづらい文に出くわします。
    読点使えや~っ!!
    三回も読み返したわ。
    唯一読点を使うのは
     
     わかった、と少年はいった。(本文抜粋)
     
    このパターンのみです。
    記号が嫌いなのか「」も使いません。
    しかし、まあ、それは慣れます。
    地の文はザっと読んで、気になるとこだけをしっかり読めば良いわけですから。
     
    でもストーリーがな~……。
    過酷な状況での人間とは、という話しなんでしょうが、自分にはピンときませんでした。
    残念。
    自分には文学作品は合わないってのが分かってるくせに、どうしてときどき手を出してしまうんだろう?
    ピュリッツァー賞みたいなブランドに弱いのかなー。

    • hiromida2さん
      土瓶さん、こんばんは!
      随分前に、この映画版を観た気がする。
      映画は結構良かったですよ、、
      ただ歩くだけの内容ではあったとは思うけど…まさに...
      土瓶さん、こんばんは!
      随分前に、この映画版を観た気がする。
      映画は結構良かったですよ、、
      ただ歩くだけの内容ではあったとは思うけど…まさにタイトルに偽りなしの映画だったような…。
      2022/01/12
    • 土瓶さん
      hiromida2さん、こんばんはー。
      コメントありがとうございます。
      これ、映画化されていたんですね!
      教えていただいてありがとうご...
      hiromida2さん、こんばんはー。
      コメントありがとうございます。
      これ、映画化されていたんですね!
      教えていただいてありがとうございます。
      じゃあ……ラストもあんな感じで……でも、小説と映画が違うのって結構あるそうだし、今度見てみますね^^
      2022/01/12
  • はっきりと明示はされていないがおそらく核戦争後のアメリカだった国が舞台。植物は枯れ動物は生き絶え、死が全てを覆った世界。空は灰色の厚い雲に覆われ、どんどん寒冷化が進んでいる。そんな世界で生き残った父子が南を目指して彷徨い歩く。

    「北斗の拳」や「ウォーキングデッド」のような終末後の世界を描いた作品だけど、動植物がほぼ完全に生き絶えてて食物生産ができない状況な分こっちの方がずっと条件がキツい。今ある保存食が無くなったら人間は何を食べるのか?読み進めると地獄のような答えがそこに待ち受けている。淡々とした冷静でリアリズムに徹した描写が、その地獄を現実味を帯びた説得力のあるものにしている。

    地の文は主観を排した写実的な情景描写がほとんどで、「老人と海」を思い出した。乾いた質感の文体が世界観にマッチしてる。
    ただし読点がほぼなく一文が長いため、ちょっと集中力が途切れると状況の把握がしにくい。映画で言うとずっとワンカットで回し撮りしているような文章。会話文もカギカッコが無くわかりづらい。また急に(世界崩壊前の)過去の話が出てきたり夢の話が出てきたりして少し混乱する。章立ても無いので、区切りがつきづらい。
    総じて散文のような小説。この父子の旅を実際にワンカットのカメラで追い回しているような感覚になる。

    子どもがいる身としては尚更読んでいて辛い、ページをめくる指を止めたくなることが多々ある作品だったけど、この本に出会えて良かったと思う。今後ディストピア小説を読む中でこれを超えるような衝撃作は、ちょっとなかなか出会えないんじゃないか。

  • 核戦争か環境破壊のような天変地異が起こり、文明が崩壊した終末世界を描いた作品。

    主人公の父親と少年は、冬を越すために南へ向かう。わずかな食料と生活用具を乗せたショッピングカートと残り2発の弾丸が入ったリボルバーだけが父子を守る唯一の所持品。

    父子は廃墟になった家屋から食べられそうな物を物色し、彼らと同じように生き残った者達から身を隠す。彼らに捕まれば、殺されて食われるか。
    運が良ければ逃げ切れるかもしれない。

    父子は何度も餓死しそうになりながらも南へ向かう。しかし、父は病を患い、長くは生きられないだろう。その時が来たら少年には手順を伝えてある。拳銃を口に咥え、思いっきり引き金を引くのだと。

    動植物のほとんどは死に絶え、地上には緑はなく、灰が降り積もる色の死んだ土地が続くばかり。川は涸れ、黒く変色した液体がわずかに流れる。

    わずかに残った人間は、お互いの所持品を奪い合い、負けた者は殺されその場で食べられるか、奴隷にされ、生きる食料となる。

    父子は、自らを『火を運ぶ、善き者』と自認し、相手の所持品は奪っても、決して殺して人肉は食べない。しかし、父の命はまさに尽きようとしている。

    まさに『マッドマックス2』や『北斗の拳』を地で行く小説である。いや、さらに悪い状況かも知れない。これほど酷い状況で生きる人間達を描いた小説は読んだことがなかった。

    それでも父子は希望を捨てず、最後まで生きようとする。
    自分ならば、ここまでできただろうか、たぶん一人では無理だろう。守るべき家族がいたからこそ、ここまでできるのだ。

    ただ、このような世界で生きたいとは思わないし、このような世界に決してこの世界をしてはいけないのだと改めて思う。

    この小説はあらゆる人に、特に世界のリーダー達に是非読んでもらいたい。自分の子供や孫にこのような経験をさせたくないのならば。

    それにしても、目を覆うようなあまりにも酷い状況を美しい文体で表現するこの文章。さすがアメリカ現代文学の巨匠が、世界の終わりを放浪する父子の姿を描きあげた長篇。ピュリッツァー賞受賞作である。

  • 直視できない現実の辛さを見せないように肩代わりする父親。しかし、泣くしかできなかった子供が現実をしっかり受け止め出し、ついには父親を支えるようになり、父親の遺した言葉を胸に、この終末世界の中を生き抜いていく──。

    あまりにも辛い、けれど詩的な表現の美しさに魅了されるSF小説の傑作。子育てをしている今だからこそ響く言葉が多く、最後は辛過ぎて泣きそうになってしまいました。

  • 『信号弾はしゅーっと長く音を立てながら暗黒の中へ弧を描き海面よりも上のどこかで煙混じりの光にはじけてしばらく宙に懸かった。マグネシウムの熱い巻きひげが数条ゆっくりと闇の中をくだり渚の波が仄白く光って徐々に消えた。彼は少年のあおむいた顔を見おろした。
     あまり遠くからだと見えないよね、パパ。
     誰に?
     誰でもいいけど。
     そうだな。遠くからは無理だ。
     こっちの居場所を教えたくてもね。
     善い者の人たちにかい?
     うん。ていうかとにかく居場所を教えたい人に。
     たとえば誰?
     わかんないけど。
     神さまとか?
     うん。そういうような人かな。』

    目の前の本を読みながらどうしても他の本のことが頭の中を過ってゆく。読み始める前に想像していたのは、書名からの連想で、空想科学小説風の「オン・ザ・ロード」(ジャック・ケルアック)のような話だったのだけれども、実際に連想されたのはデイヴィッド・マークソンの「ウィントゲンシュタインの愛人」とジョゼ・サマラーゴの「白い闇」。翻訳者の解説にもある通り、確かに本書コーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」もロードノベルではあるのだろうけれど、本書はそれら二冊同様にいわゆる反理想郷を描いた小説と分類されるのが適切なように思う。ここで描かれているのはいわゆる「核の冬」の時代のようであり、自然も徹底的に破壊され人類以外の生物の痕跡もほぼ無い。

    「ウィトゲンシュタインの愛人」は本書と同じように何らかの理由で人類がほぼ滅亡してしまった近未来的な世界に残された女性が主人公の小説(そう呼んでよければ)だが、一人残されていく過程の描写はなく、世界はどこか形而上学的(ウィトゲンシュタインの名が付く位なので当然だが)で、滅んでゆく人類たちの修羅場のような状況は描かれることがない。かつ、自然そのものは何も汚染されていないかのような雰囲気が漂う。一方の「白い闇」はある日突然人類が盲目になるという伝染病が蔓延し社会が機能しなくなっていく世界の中、一人目が見えるまま「取り残された」女性が主人公の小説で、こちらは「目が見えること」を前提として成り立っていた社会通念が倫理観も含めて覆されていく様が、少々糞尿愛好過多気味に描かれている。何らかの理由で人間社会が機能しなくなりやがてほぼ滅亡した状態になるというのがこの類型の空想科学小説の一つの時間の流れだとすると、本書は「白い闇」(未読ながら、続編では疫病は自然と克服されるらしいのだが)と「ウィトゲンシュタインの愛人」の中間の時代を描いており、ひとり取り残されてしまった状況より、その前にこういう時代が来ることの方がもっと過酷だということを改めて認識させる。言わずもがなだが一番凶暴なのは人類なのだ。だから映画「マッドマックス」が描くように、そこに「正義の味方」的な主人公を置きたがる聴衆や読者が多いだろうとも容易に想像できるのだけれど、本書の主人公たちはメル・ギブソンとは違ってタフでもなければ特別な才能に恵まれている訳でもない。ただ温暖な土地、そして残された食料を求めて彷徨い歩くだけだ。道々出会う困難を何とか紙一重でかわしながら進む親子の物語を描くこの小説の終着点は一体どこなのだろうと訝しく思うほどに、終盤に至るまで救いらしい救いの光明は見えてこない。旅を続けながら父親はじわじわと弱っていく。ロードノベルの定番である成長譚という視点から見ても、破壊され尽くした世界に生まれてきて「前の時代」を知らない息子が成長しているようでもない。悲惨さだけがずんずんと降り積もっていく。

    しかし、やはり最後はそうなるしかないというエピローグが待っている。ご都合主義的と言ってもいいその終結はハリウッド映画的な世界観と相性がいい。それがいいとも悪いとも思わないのだけれど、ドン・デリーロと並び称されるという作家の作品に何を読めばいいのかを判らなくもさせるように思えてならない。自分の中での置き所が上手く見つからない小説である。

  • 男はまだ幼い少年をショッピングカートに乗せて灰に覆われた世界で南を目指し歩いた。少年が生まれる少し前に何らかの人災あるいは天災により世界は死に絶え、太陽は分厚いスモッグの向こうに姿を潜め木々は枯れ果て、生き残った人びとはお互いから奪い合い貪るほかなくなった。それでも父の語る〈善い者〉〈火を運ぶ者〉の物語を信じ、道で行きあう人びとに手を差し伸べようとする少年と、かつてあった世界の幻影に悩まされながら息子と共に〈明日〉に辿り着こうとする父の姿を描いたポストアポカリプスSF。


    翻訳もので文体の話をするのって原文を見たわけじゃないから気が引けるんだけど、この小説はまずこの文体抜きにして語れない。句点がほとんどなく、会話文はカギカッコなし。一文が何行にも渡ることもあるが、日本語として意味が取りづらいと感じる箇所はひとつもなかった。この訳は偉業だと思う。
    とにかくこの文体がすこぶるかっこいい。すぐに真似したくなる。ハードボイルド調の硬質な文体だが深層にはキリスト教神秘主義的世界観が息づいていて、闇のなかに微かな光を放って白く浮かびあがるバロック彫刻めいた美しさがある。凋落し腐乱したものが崩壊の一歩手前で奇跡的にまだ形をとどめているかのような頽廃的な美の表現は、文章自体が灰に覆われた世界のメタファーのようだ。アンナ・カヴァンの『氷』の世界を白黒反転したようなヴィジョン。物語終盤に描かれる被曝したような人びとの阿鼻叫喚図はロダンの「地獄の門」を連想させる。
    SFなのだが主としてキャンプ小説というかサバイバル小説でもあって、このお父さんは防水シートと毛布を使って雪用のブーツを作ったり、エンジンオイルとガソリンでランプを作ったりできる。家捜しや悪漢と行きあったときにも頼りになるし、捨て置かれた船から使える資源のサルベージもしてくれる。固く締まった瓶の蓋をドアに挟んで開ける方法は覚えておこうと思った、壁の塗装めっちゃ剥がれるらしいけど(笑)。
    それから、飢餓状態を散々描写されてからでてくる食べ物の美味しそうなこと。墓から掘り出されたかのように干からびて見えながら、切ってみるとなかに肉の豊かな風味を残していたハム。焚き火で温めた缶詰のポーク&ビーンズ、生のアミガサタケ(調べたら生食厳禁らしい)。そして白昼夢のような地下シェルターでの豪勢な食事。父がコーヒーミルで豆を挽く音で息子が目を覚ますところなど、それまでとの激しいギャップで泣き出しそうになる。
    技術を操り子に伝える父性といざとなれば子のために死をも恐れぬヒロイズムの結びつきは、本書にうっすらと危険な匂いを纏わせている。母親はこの世界で子どもを育てることに絶望し姿を消した、という設定にはじめは〈男の世界〉を書くため?と少し警戒したが、物語が進むにつれこの世界では真っ先に子どもと女が襲われ、あるいは武器を持った男に捨て置かれるのだということが描かれたので納得できた。男が女を蹂躙し尽くしたあとで、相対的に弱い男たちに矛先が向いた世界なのだ。秩序が崩壊したら男が女を狩り尽くすだろうというヴィジョンにはリアリティがある。単なるマチズモではない。
    一方でこの父親のヒロイズムは息子を神格化することで成り立っている。それがまたもうひとつの危うさなのだが、彼が自死も掠奪も選ばなかったのは子がいたからなのは事実だ。はじめは純粋に庇護対象だった息子に「善き者であれ」と諭され、少しずつ親子の立場が反転していく。何もない世界でも子は育ち、父が教えていないはずの言葉を話し出す。だんだんと父を包む死の影が濃くなると、「いろんな心配をしなくちゃいけないのはお前じゃないからな」「ぼくだよ、それはぼくなんだよ」という印象深い言葉が交わされる。灰色の世界に生まれ落ち、父亡き後もここで生き続けなければならない子どものどうしようもない不安。父が子を守ろうとするのと同じかそれ以上の気持ちで、子が父の死を思い案じていたことに気がつく。そして父の力強さと対比になるような彼の優しさが、ずっと父を守ってきたことも。
    父の死後、子は知らない神の代わりに父に祈る。私はここに至ってやっとこの物語が徹頭徹尾宗教の話をしていたことに思いあたった。元々ポストアポカリプスSFは世界の存在意義と倫理を問い直すものであるために宗教色が強くなりやすいと思うが、『ザ・ロード』はおそらく世界崩壊前から宗教的に暮らしていた人間が、神を信じられなくなった世界で息子をキリストのように崇めながらなんとか再び信仰へコミットしようと巡礼する物語を意図的に書いている。解説で66歳のときに生まれた息子との体験から書き出されたことを知ると、父と子で完結する信仰の描き方は少しナルシスティックにも思えるけれど、読んでいるあいだはとにかく夢中で文章にのめりこんでしまう、終末SFの傑作だった。

    余談。私がこの小説を知ったのは東山彰良が『ブラックライダー』のインスパイア元として挙げていたからなんだけど、本書を読むと悪い意味じゃなく『ブラックライダー』は二次創作だったんだなと腑に落ちた。『ザ・ロード』では描かれない人肉を食べる側の視点、そして少年が辿り着くカルト教団側の視点に想像力を注いで書いたのだと思う。文体はウェットな『ブラックライダー』より、ルポルタージュ設定でドライな印象の『罪の終わり』のほうが近いかな。
    アメリカの未来絵図という意味ではジョン・クロウリーの『エンジン・サマー』も思い出す。そういえば本書にかち割った自販機からコカコーラを取り出して飲むシーンがあるけど、『エンジン・サマー』にもたしかゴミの山でコーラ缶を見つけるシーンがあったような。『ブラックライダー』では人名になってるし。アメリカにとってのコカコーラって何なんだろう。

  • 荒廃した世界を、南へと歩む父と子。

    満足な食料も、安心して眠る場所もない中で、父は生きることを諦めようとはしなかった。

    力ある者が女や奴隷を引き連れ行進する様、身体の不自由な老人、丸焦げになった赤ん坊など、終末期の世界にかろうじて生きるって、こういうことなのかな、と衝撃を感じた。

    ふと、『少女終末旅行』という漫画を思い出した。
    その作品も、チトとユーリという二人の少女が、ほとんど人気のない、文明の終わってしまった世界をひたすら「旅する」話だ。

    うーん、旅ってなんなんだろう。

    私の中で旅は、自分の家を出て、自分の家に戻ってくることがベースにある。
    でも、この二つの作品に自分の家や故郷というものは、もしかすると概念さえ、ない。
    生きるために歩み、止まることは死を意味する。

    そんな極限状態でいて、食べ物が見つかったり、お風呂に入れることに、この上なく喜びを感じる。
    やむなく人を見捨てたり、命を奪うしかないという選択肢の少なさに、憤り、やるせなくなる。

    日々を咀嚼して、子は成長するのだった。

    決して希望のある終わりではないけれど、「火を運ぶ」という使命を帯びた時、人が生きるという質に変化が現れるのだな、と感動。
    ただ生きるのではなく、より善く生きること。
    旅のもつ意味に、そんな学びを見出した。

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著者プロフィール

【著者略歴】
コーマック・マッカーシー(Cormac McCarthy)
1933年、ロードアイランド州プロヴィデンス生まれ。 現代アメリカ文学を代表する作家のひとり。代表作に『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』から成る「国境三部作」、『ブラッド・メリディアン』、『ザ・ロード』、『チャイルド・オブ・ゴッド』(いずれも早川書房より黒原敏行訳で刊行)など。

「2022年 『果樹園の守り手』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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