うつつ・うつら

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (153ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163259307

感想・レビュー・書評

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  •  本書は、2004年「初子さん」で第99回文學界新人賞を受賞された「赤染晶子」さんが、2007年に発表された第一作品集、所謂、デビュー作であり、その「初子さん」と表題作「うつつ・うつら」の、二つの中編が収録されております。

     「初子さん」は、昭和50年代の京都を舞台にした、気の弱い店主と、そうでない妻の経営するパン屋に下宿する、若い洋裁の職人「初子さん」の物語で、序盤は、あんパンとクリームパンしか売っていないのに中身を間違える、のんきな夫婦や、洋裁のことしか頭にない初子さんの、町で自分の作った服を着ている人をしげしげと見てしまう(服が心配で)展開が面白く、京都人の赤染さんならではの、小説の中に関西の笑いをごく自然に含ませたその感じに、以前読んだエッセイ集『じゃむパンの日』を思い出したことによって、読み進めていくにつれ、次第に笑えない展開へと変わっていくのが、却って印象的だった。

     それまではミシンをやりたい、ただその一心で、気忙しく動いていた初子さんが、ある日、ふと毎日同じ事を繰り返している自分に虚しさや焦りを覚えだし、かつては仕立屋に、その根気の良さを褒められた彼女だったが、毎日がしんどいという。

     最初は、どこかのんびりとした、その周囲の環境にイライラしているような印象を受けて、それは、この町のどろりとした空気を、『水のように澄んでいた空気が歴史や伝統を背負ううちに、水が水銀になった』と思っている事からも窺えて、彼女には、その周囲と自分との間に立ちはだかる見えない壁のような物を感じており、そこには決して行き来することの出来ない疎外感のようなものがあるのではないかと私は思い、その疎外感は、彼女だけがまるで休む暇も無く、慌ただしく毎日を過ごしているような印象からも察せられた。

     そして、更にそれを強ませたのが、初子さんが中学生の時に父を亡くした母のエピソードであり、それ以降の、弟と妹含めた三人の子どもを彼女一人で育てている中での母の言葉、『考えることを知らない虫は不憫だと思っても、自分たちも蟻や蜂とさほど変わらない』には、その突然、崩壊してしまった日常を必死で生きなければならない、母の壮絶な人生を如実に表しており、そのあまりの過酷さに、時に泣いている姿を子どもに見られた時には思わず、「なんや、うちが泣いてどこぞの川でも氾濫したか!」と、これを私は最初、関西特有の笑いとして子どもに言っているのかと思ったら、マジギレであったことにハッとさせられて、関西人でない私には上手く伝えられないかもしれないが、もっと直接的で辛辣な言葉をぶつけられるよりも、却って痛々しく悲しいものを感じさせられて、心に焼き付けられたのが印象的だった。

     しかし、そうした初子さんの思いは、その後の母の、とある出来事をきっかけに変わっていくこととなり、そこには似たような思いに囚われて町を出て行く人がいる中でも、初子さんは・・といった点に感じさせられた安らぎのようなものに、私は、とても救われた思いがした。


     そして、もう一つの「うつつ・うつら」は、京都の劇場の舞台で、昭和42年から「法事でジュテーム」という笑えない漫談をしている、「マドモアゼル鶴子」を中心とした、これまた現状の変わらなさに苦しむ人間の姿が印象的だが、更に致命的な要素があった。

     それは、舞台の階下にある映画館で毎日上映している「糸三味線」から漏れ聞こえてくる、「あっれーぇーぇーぇー」という女の悲鳴が、ネタをしている芸人殺しとなっていることに加えて、観に来る数少ない客のリアクションの薄さもあり、逃げ出す芸人も多い中、それでも鶴子や、双子漫才師「夢うつつ・気もそぞろ」は留まり続ける。

     この話と「初子さん」との共通点のひとつとして、その場の空気感があり、ここでは『この街には昔からぬるま湯が張っている』と表現している点に、ダラダラと何も変わらない気怠い重さだけが、ひたすらその身に堪えるといった、客観的に見たら阿呆らしい話なのかもしれないが(設定自体がまるでお笑いのようで)、本人達はいたって真面目な様子に、読み手も何が彼らをそんなに必死な思いにさせるのか、思わず考えてしまうものがある。

     また、更に二作の共通点として思われたのが、「初子さん」でも書いた疎外感であり、ここでは舞台に立つ芸人の心境がまさにそうであるのに加えて、前述した空気感については、おそらく、その心理状態を具現化したものではないかと私には思われて、それはもしかしたら、こんな滑稽な設定でも人生の崖っぷちの状況を表しているのかもしれず、その辛さは滑稽であればある程、余計にやるせないものがあるからこそ、このような設定にしたのだと私には思えてくる。

     そして、更なる共通点として、最初は面白く感じられた物語が次第に笑えなくなっていくところには、まるで、ずっとそのままでいることの根拠のない気楽さよりも、それが崩壊したらどうしようといった、日常が日常では無くなる不安感を強調しているようでもあり、まるでアイデンティティが失われようとしているような恐怖に抗っている必死さでもある、それは普段何気なく生きているように見える人間の中に潜まれた、誰もが時に抱く孤独で壮絶な思いなのではないかと私は思い、それが赤染さんのユーモラスな文体に散りばめられて表現されるからこそ、余計に感じさせられた人間の奥の深さと愛おしさの具現化なのだと思うと、エッセイで抱いた面白い人だという赤染さんのイメージの中にも、実はそうした複雑で必死なものを抱えながら生きていたのかもしれないと感じさせることで、改めて人間は多様で複雑な存在であることを意識させられたのが、私にはとても印象的だったし、それは『正気なさま』と『ぼんやりしたさま』が対等に並べられたタイトルからも同様に感じさせられた、ある種の人間讃歌である。

     ちなみに本書には、『じゃむパンの日』に書かれたエピソードを思わせる要素が多いのも特徴的で、例えば、洋裁の職人である初子さんに、赤染さんの祖母を思わせるものがあったり、他にも、初子さんの妹の名前が「晶子」であることや、金太郎の腹掛けの登場も印象的で、こうした赤染さんの実体験を小説に入れているのには、彼女自身の率直な思いが作品に投影されていたのではと思わせるものがあり、より胸に迫るものがありました。

  • おもしろーい!今までどうして読んでいなかったのか、後悔。こんな感じ、好きだなあ。

    「初子さん」時々挟まれる、大真面目なのかわざとなのかわからないとぼけた感じが何ともいえず、話自体は笑いが止められないような内容ではないのに、何回も吹き出してしまうところがあって、困った。あれ、ここは笑うところではないんじゃない、でも、笑っちゃうよ~と変に自問自答する始末。初子さんの母の心情が語られているところは、特によかった。迫るものがある。

    「うつつ・うつら」変!これ、すごい変!出だしはあんまりおかしくて、くすくす笑いが止まらなかったのに、あれっという間にどんどん話がおかしな、ちょっと怖い方向に進んでいってしまった。最初の方と、うつつの漫談が、下から聞こえてくる映画のセリフのせいで同じ所で止まってしまうところと、最後の部分が好きだった。思いがけない終わり方だったけど、鶴子、生きろ、頑張れ!と読み終わってから応援した。

  • 「初子さん」と「うつつ・うつら」の2作。

    どちらも時代は、少し遡ったちょっと昔の話。
    初子さんは、懐かしい匂いがする著者独特の面白い話かと思っていたが、後半は結構シビアな展開に。

    うつつ・うつらの方は、正直よくわからなかった。
    けど、純文学的であり、深層心理が見え隠れする。

    これで著者の作品はすべて読む。
    若く逝去した著者を悼む。

  • 表題作「うつつ・うつら」ではなく、文學界新人賞受賞作の「初子さん」を読みたくて、図書館から借りてきました。
    京都で暮らす主人公の初子さんは、妙齢の女性ですが、パン屋さんに下宿して、来る日も来る日もミシンの前に座って洋裁の仕事をしています。
    この初子さんが、とにかくとぼけた味があって、私の心を最初から最後まで捉えて離しませんでした。
    初子さんは、たまにパン屋の店番を頼まれる時があります。
    店の籠に小銭が足りないと、初子さんが自分のポケットから小銭を出します。
    ところが、客に手渡したのが、お金でなくボタンの時があるのです。
    「わしゃ、狐に騙されとんのか」
    と口に悪い客は云います。
    町で自分の作った服を着た人に会うと、しげしげと見てしまいます。
    見ているだけならまだしも、声を掛けることさえあります。
    服地屋を通して依頼を受けた客には、初子さんが分かりません。
    それでも、スカートの中心を少し横にずらしたまま穿いている人には
    「ずれてはりますやんか!」
    と駆け寄ってスカートを直す。
    自分の作った洋服を着た子が滑り台を滑っているのを見つけると
    「あかーん! 服が傷むやろー!」
    雨の日に自分の作った服を着て、かまわず大股で歩く人を見ると
    「泥、跳ねてますやん」
    と思わずハンカチを持って駆け寄ります。
    初子さんは、自他ともに認める「あほ」ですが、一途なところがあって、それがまた魅力的なんですね。
    東京弁のような言葉を使う鼻持ちならない婦人が初子さんに仕事を頼みに来ます。
    「私はねえ、華やかなあーのがいいの、ねっ」
    そんなふうに話す婦人を、初子さんは好きになれません。
    「夢だけ追っていてはだめよ」
    という婦人に、初子さんはこう思います。
    「こんな蒸し暑い夜に窓を開けただけの部屋で、体から湯気が出そうになりながら仕事をしている。これが現実以外の何であろうか。」
    こんなふうに感じる初子さんが、私は愛おしくてなりません。
    特にドラマチックな展開があるわけではありませんが、初子さんの一挙一動、心の動きを慈しむような気持ちで見守ってしまいます。
    私は朝倉かすみの「コマドリさんのこと」のコマドリさんや、古くは織田作之助の「六白金星」の楢雄を思い出しました。
    私の「ツボ」のキャラクターです。
    文章も独特の滑稽味があり、油断していると何度も吹き出すこと請け合い。
    場末の劇場で受けない漫談をしている「マドモアゼル鶴子」が主人公の表題作も愉快。
    ほかにもたくさん読んでみたい作家さんですが、寡作なのが不満です。

  • 赤染さん、「乙女の密告」を読んだときも奇妙な世界を作る人だなあと思ったけど(人にクセがありすぎる)、デビュー作の「初子さん」からしてそういう感じだったのね。その奇妙さというのもどこか懐かしいわかりやすい奇妙さで、町に一人はいそうだよねっていう可愛らしさもあったりする。「初子さん」と「うつつ・うつら」の2編入りで、「初子さん」は小さいころから洋裁が好きで、洋裁のことしか考えず、今期を逃そうとしている初子さんをはじめ、初子の母や初子にスカートを頼みに来る客などのそれぞれの女の生活や生き様が描かれている。お母さんしんどすぎ。
    「うつつ・うつら」はマドモワゼル鶴子という漫談をやる芸人が主人公。場末の劇場で客もほとんど入らず、鶴子のファンは一人だけ。鶴子はもう若い芸人からみたら何考えてるのかわからない不気味なばばあ。それでもいつか自分はスカウトされて女優になれるんだみたいなよくわかんない夢を描いている痛い人。こちらは階下でかかっている時代劇映画の音、客が忘れて行った九官鳥、ちょっと足りない小夜子というお茶子(「ほっちっちー」とかしかほとんど言わない)など、それぞれの発する音や言葉について、音の呪詛って恐ろしいなと思わせる作品。ソシュールなんかをちょっと思い出す。

  •  初子さん と 表題作の うつつ・うつらの二つのお話が書かれています。 『初子さん』 縫い子さんの初子さんが住む町は昭和50年代の京都 ゆうるりゆうるりとした人々が暮らす町。 どうしようもない焦燥感のようなものが じんわり伝わってきました。 『うつつ・うつら』  どういえばよいのか・・・言葉にされることによって消され言葉にされることによって生まれそこから世界が構成されてゆくことの不思議・こわさのようなものを感じました。 

  • 洋服の仕立て仕事をする初子さん。
    下宿先のアンパンとクリームパンの中身を入れ間違えてしまうパン屋夫婦とアホの娘の弥生。

    早くに父を亡くし、女手一つで子供を育て上げた初子さんの母。

    京都の寂れた劇場で一人漫才をする鶴子の日。
    客足の少ない劇場や、鶴子とコンビを組んだことでおかしくなってしまったうつつと、その妹。
    劇場の下の階から聞こえてくる映画の音と、いつかは女優になりたいという鶴子の執念。

    初子さんの話はまだわかる。
    鶴子の話はもう私が理解できる領域を超えてた。

    著者の赤染さんがもうお亡くなりになっていることが、残念。もっと他の作品も読みたい。

  • 赤染先生は京都府宇治市出身の方。
    登場人物の会話は関西弁でテンポ良く読めた。
    内容はシビアと表現するのは違う気もするが、繰り返される日常生活の中で感じる、何かに対する執着心、他人の目、自分の中の葛藤を記していた。
    「初子さん」も「マドモアゼル鶴子」も自分の譲れない物を持っていて、自問自答しながら日常生活を繰り返す。誰もがそうであると思うのに、読んでいて苦しかった。苦しかったけれど、彼女達が次はどう決断するのか気になって読み進めた。

  • 『初子さん』は昭和ののんびりした空気の中、すこしとぼけたように書かれる初子とその周りの人々の様子が書かれていました。生活に追われてきりきりとした母が気持ち的に再生するところは良かったです。
    表題作はそこにしか生きる道が無い主人公とその他の芸人のずぶずぶと沈んで行く姿が読んでいて息苦しくなりました。
    名前が自分から剥がれ落ちる瞬間…想像するだけで恐ろしいです。
    最後の金太郎を抱えて逃げる鶴子に希望が持てましたが彼女の長年の夢は赤子一人の生命力の前では無に等しかったのだろうか、と考えてしまいました。

  • 壊されてはならない。
    大切な言葉を、本当の名前を。
    彼女の名は「マドモアゼル鶴子」、場末の劇場で受けない漫談を演っている。
    外から流れこむ映画のセリフが漫才を損ない、九官鳥がくりかえす言葉は意味を失い、芸人たちは壊れていくが、鶴子は…。
    (アマゾンより引用)

    意味が分からん…

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著者プロフィール

1974年京都府生まれ。京都外国語大学卒業後、北海道大学大学院博士課程中退。2004年「初子さん」で第99回文學界新人賞を受賞。2010年、外国語大学を舞台に「アンネの日記」を題材にしたスピーチコンテストをめぐる「乙女の密告」で第143回芥川賞を受賞。著書に『うつつ うつら』『乙女の密告』『WANTED!! かい人 21 面相』がある。2017 年急性肺炎により永眠。エッセイの名手としても知られ、本書が初のエッセイ集となる。

「2022年 『じゃむパンの日』 で使われていた紹介文から引用しています。」

赤染晶子の作品

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