- Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163685304
作品紹介・あらすじ
藤原新也インド旅伝説に新たに衝撃の一章が加わる!青春の旅を記録した処女作『印度放浪』から34年-その長きにわたって著者が封印してきた衝撃の体験がついに明かされる!『メメント・モリ』の感動を再び甦らせる。藤原新也、インド紀行完結篇。
感想・レビュー・書評
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ネットで調べてみたところ、つい先日にはその文庫本が発売されたばかりであることを知る。初本の単行本発行が2006年10月であるから、3年2ヶ月ばかりを経ての文庫本化ということになる。それ自体は少しも驚くことなどない。早速、銀座コアという銀座5丁目に聳えるビル内の書店にて購入する。そして帰宅途中の電車内にて読み進めていたと言う訳である。
一読して、ぐいぐいと引き込まれるのである。テーマがオウム真理教に関わる類いのノンフィクション(というか、おいらが好きな言葉で云えば「ルポルタージュ」なり)であることに、二重の意外性を覚えつつページをめくった。第一章「メビウスの海」を読み進めつつ確信するに、これは紛うことなき一流のルポルタージュである。
冒頭のテーマがオウム真理教に関連するのであるから、作者も読者も、また間を取り持つ編集者たちも身構えているのだろうことは容易に察しがつく。さらには、麻原しょうこうの実兄へ、身一つでの突撃取材を試みたりするのだから、話題性も衝撃度も充分である。
思うに、我が国の現役ルポライター(これは和製英語であるからにして、おいらの好きな言葉なり)の誰が、この藤原新也の、ぐいぐい引き込んでいく筆致なりで感動を与える作品を書き得たであろうか? 例えてみれば、一時期は「ニュージャーナリズム」の旗手などとも持て囃されていた吉岡忍の作品のどこが、この一冊に匹敵するくらいのインパクトを与え得るものであったかを問えば、おいらの答えは決まっているのである。所詮、吉岡忍などの書いたものなど取るに足らないものであると。
余談であるがその昔、知ったかぶりの後輩が吉岡忍を称して「ニュージヤーナリズム」を云々した挙句に、「小林さんも読んだほうが良いですよ」と、アドバイスまでしてくれた。そして読んだらもう、その薄っぺらさに呆然としたことなど、蘇って思い出すなり。
という訳にて、今宵のおいらは、第一章「メビウスの海」(p87)までを読み終えると、文庫本を外套のポケットに仕舞い、いつもの行きつけの居酒屋に駆け込んだのでありました。そして酔っ払って帰ってから、本の表紙などスキャニングして、結構大儀な作業なのでありました。
第2章「黄泉の犬」からは、明日以降また気合を入れて読み進めていく覚悟なのです。
「薄っぺらい」と書いていたこと、本日は藤原新也さんの本を読んでいたら、「スカスカ」という言葉がえらい勢いで表現されている。こちらの方が妥当であると思い、これからは「スカスカ」という表記に変えようかと思ったのです。
閑話休題である。
藤原新也という凄い人を、おいらは過去に一度だけ、じかに触れたことがあった。それは確か「ノアノア」という、藤原さんのドローイングをまとめた書籍が出版された頃のことである。詳細はまたまた思い出せないのだが、90年代のある時期ということにてご勘弁願いたい。
「メメント・モリ」をはじめとする藤原さんの著書には事細かに目を通していた当時のおいらであった。そして、彼が個展を開くという情報を目にして、そのたしか銀座のある画廊へと足を運んでいたのでした。銀座の画廊はといえば、おしなべて広くない。すなわち作品やら作家やら、オーディエンスやらが、狭い空間に密集してしまうものなのであるが、そこに居た藤原さんの確固たる存在感には圧倒されたのだ。大きなキャンバスをその画廊に広げて、藤原さんは筆を走らせていたのです。じっくりとキャンバスを睨む彼の目線はその途中に入り込むことさえできないくらいにとても光っていた。おいらは大好きな藤原さんに交わす言葉もなく、その場を味わいつつ後にしたのであった。そんなことをある美術出版関係者に話したところ、「ああ、インスタレーションだね」という、あっけない答えが返ってきた。「うーむ」。おいらは次の句を継ぐことさえできなかったのである。
「黄泉の犬」の第2章を読み進めていくに連れ、そんな情景が頭を過ぎって離れなくなってしまったので、ついつい書き記してみたかったという次第なりなのです。今宵は「黄泉の犬」の細部には立ち入りたくないような、いささか個人的な気分にてキーボードを走らせているのです。
ところで全く別なブログに関する話題です。ブログの巨匠ことかもめさんが、オリンパスの一眼レフデジタルを買って、盛んに魅力的な作品アップをしていますので、紹介しておきますです。藤原さんがかつて愛用していたと同じ「オリンパス」のカメラを使い、その手さぐり的な手法が瓜二つなのではないかと思ったなり。
これまでに読んだ彼のどの書よりも能弁であり、饒舌である。ときに雄弁家の本だと感じさせる程の、滑らかで情熱的なスピーチを聴いている気分にさせてしまうくらいだ。
ときに彼の本はといえば、その韜晦な筆致によって、おいらを含めたファンによって支持されていたはずである。だが何なのだろう? この隔たりに感じる思いは?
古今東西、芸術家は誰しもが多面的な資質を持ち合わせているものである。新也さんの場合もこれにもれないケースのひとつなのだろう。そにしても、これほどオープンな、過去の彼自身の著作の裏側をもあらわにしてしまうような潔さ。
彼はこのレポートを、大手出版社の大衆雑誌「週刊プレイボーイ」に選んだのだという。大衆的な読者に対して、彼の云いたかった、メッセージしたかったことは、ほとんど漏らすことなきく表現されていると云ってよいのだろう。まだまだ藤原新也は変わり続ける。そして成長し続けているのである。天晴れ!詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
若い時にインドを放浪した作者が独特の視点で宗教やオウム真理教などについて語る。
なぜ麻原彰晃が優秀な若者をも引きつけ暴走したのか?それを紐解くヒントが書かれている。
説得力のある文章で描かれるインドの姿、モノクロだが背筋が寒くなるような写真が心に残る一冊 -
若い頃にインドを放浪し、その風土や宗教に詳しい著者が、インドに根を持つオウム真理教と現在の社会状況について記す。麻原彰晃に関する重要な事実が初めて明かされる。
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藤原新也さんの本を初めて読みました。
ハマりそうです。 -
2018/3/6
よく喋る。 -
もっとたくさんの人に読まれるべき。けど観念的な部分が多くて気になったとこだけ読んだ。
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作者が体験した宗教を軸にした回想録?!
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第一章、メビウスの海のみオウム・麻原彰晃について。連載当時は麻原彰晃の実兄である満弘との約でその言を公に出来ないため中途半端に筆をおくこととなったが、彼の死によりそれが公開できることとなったという内容。松本智津夫は水俣病により視野狭窄に陥ったのでは、という著者の問いを兄が頷いていた。申請はしたが被害者認定されなかった。それにより天皇や国家に対し彼は怒り、恨みをもったという理由付けは納得できる。アイマスクをし部屋に外界から遮断する修行を信者にさせたことや、サリンと言う視野狭窄に陥る毒を用いたのもその理由からくるというのも頷ける。
第二章、黄泉の犬は疑似オウム信者と名乗る、今の社会に希望を見いだせない若者のインタビューに答える形のものだが、まあ筆者がべらべらと自分語りをする内容である。インドで野良犬に襲われかけた体験からリアルに命を感じられた、と言うがしかし‥‥、表紙の犬が食んでいる写真は人の屍体だったんですねうわあちょっと衝撃でした。
第三章、ある聖衣の漂白は着る物について。インドの女性はカラフルな衣をまとう。インドの層は太陽の色の衣をまとう。普通の男は白色をまとう。それぞれを着るタイミングに気付いて、それを知ること。
第四章、ヒマラヤのハリウッドは日本人やら白人やらなんだかインドに夢を見て自分たちの行き詰まりを解消できる神秘主義という幻影を夢見て勘違いしてやってくる奴らが増えてきたときのことを書いている。そんな外人をカモる僧のことも。薬でハイになりながらいかさまの空中遊泳を行いそれをしたと言い張る歪な若者達と触れながら、突き放して分析する冷静さはすごいな。
第五章、地獄基調音は日本からやってきて薬をやりながら瞑想するうち強迫性にかられ狂いかける男の話。一糸纏わぬ姿になり帰れと叫び続ける男と対峙しながら、自分の状況を話すことで自分も狂気に取りつかれないようとどまる。何をここへ求めてきたのか?スーパーマンか?神か?違うだろ。「中庸」という言葉が響く。 -
本人が後書きで述べている通り、この原稿は
「インド体験が宗教に反映するか表現活動に反映するかの違いこそあれ、私と彼らは同根の樹に生る異なる果実のようにも感じられ」
「しかし同根の果実でありながら、(中略)決定的な違いが」あることを若い人達に伝えようという意図で書かれたものだ。
そういう意味では麻原が水俣病であったかいなかという記述はたいして意味のあるものとは思えず、
単行本発刊にあたり掲載したのは何らか圧力に屈したのではないことを証明する証としか感じられなかった。
それを抜きにしても十分に内容の濃いものだった。
興味深かったのは2章と5章で一方では一人の若者をインドへ送り出し、もう一方では一人の若者を狂気の世界から連れ戻している。
インドを目指す若者には現実世界への絶望がある。本当に信じられるものを求めて彼らは旅に出る。
しかし、信じられるものを他に求めている限り結局同じなのだということを藤原氏は氏の圧倒的な体験を通じて述べている。
自分探しなんて言葉は好きではないが、文字通り自分と徹底的に向き合うしかないんだと思う。
おそらくインドはそれをするのに大変適した場所なんだろうが、私たちが今いる場所でだってそれはできるはずだ。例えどんなに困難だとしても。
中国の兵隊が、と老僧は言った。「・・・中国の兵隊がやってきて寺の仏像をたたきこわしはじめたとき、
ある小さな町寺の若い僧は最後に残った小さな仏像を握りしめて決してそれを離そうとはしなかった。
そこで中国兵は若い僧の右の腕を切り落とし、河に投げ捨てた。
切り落とされた右腕はなおも仏像を握りしめたまま河の表を浮き沈みしながら流れていった。
それから十年を経て片手の若い僧が私のもとにやってきたとき、彼はときおり夢をみた。眠っている時も、そして目覚めて起きているときでさえ、
彼はすでに失われて久しい右腕がそこにはっきりと実在しているのを感じるのだ。
(中略)若い僧はそのたびに、そこに仏像がないことに失望し、うちひがれ、あるとき旅に出たいと言い出した。仏像を探しにだ。
私はその必要はないと応えた。仏像はお前の失われた片腕があった場所に実存しているのだ、と。
若い僧は私には見えないと言った。私は応えた。お前がそれを感じたその時に、その仏像は存在しているのだ、と。お前が失ったものはただの鉄屑にすぎない、と」
http://ameblo.jp/use04246/entry-10022749071.html
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