ディアスポラ

著者 :
  • 文藝春秋
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感想 : 20
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163807508

作品紹介・あらすじ

国土を失っても日本人は日本人たりえるのか?"あの事故"で居住不能となった日本。十年前に描かれていたポスト・フクシマの世界。

感想・レビュー・書評

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  • 東北沖地震による原発事故の10年前に書かれた小説。
    前半と後半が収録されており、前半の「日本人としてのグリップ」は
    何なのか?をユダヤの民と比較した部分は秀逸と感じました。
    原発事故を端として「日本人」としてや「日本に暮らすこと」を
    各々が身を切るように経験していくのですが、
    原発事故というモチーフが現実に起こった出来事と合致することで
    最近取りざたされているようですが、
    「日本」「日本人」「日本文化」とは何か、どういうことなのか、を
    意識的に取り組み言語化しようとするここ数年の動きの流れからみると、
    至極ほんわりとした結末ではあります。
    つまり、モチーフのどぎつさに対して、結論は声高に歌い上げていない
    というおとなしい印象が読後に残ります。

    原発事故に対してなにか示唆的な物語か?を期待すると
    肩透かしにあいますが、
    今後自分の生活から自分の答えを見つけようという人には、
    やさしいイメージ入門書のように感じました。
    それでも読んで損はない良作。

  • 原発事故によって国外へ逃げ出さざるを得なかった日本人が千年の後もそのアイデンティティを保ち続けてゆく事は可能か?可能であるとしたらその精神的支柱と成り得るものは何であろうか?それは寄る辺ない身の上を真に自覚した時に立ち現れてくるのではないだろうか。
    福島第一原発の事故がなかったとしても日本人として非常に興味深いテーマだった。

    「その後」も変わらずに季節の移ろいを見せる風景をバックに避難する事を拒み日本に残った人々を描いた『水のゆくえ』も印象的。
    個人的にはこちらが好みだ。

    昨年の震災以後、急速に現実味を増してきた事へ身震いがする。

  • 「アナタハ ナニジン デスカ?」

    所蔵情報
    https://keiai-media.opac.jp/opac/Holding_list/search?rgtn=078305

  • 原子力発電所の事故によって住めなくなった日本。日本人は難民として世界各国に離散する。本書には2編の小説が収録されている。最初のディアスポラは国外へ避難した日本人の物語。もう一方の、水のゆくえは、避難せずにそのまま村に残った日本人という対照的な設定である。両方の物語に接点は無い。

    先ずは、ディアスポラ。避難先を選ぶ事もできないまま、中国に受け入れられたグループはチベットの奥地に強制的に送られた。SFのような設定だが、実際には事故の詳細については全く触れられておらず、むしろ、場所がどこであっても、どんなに環境が変わっても日本人の集団に常につきまとう村社会のような性質が現れる様子が描かれている。描写が冗長で、展開が遅いので、短い小説ながらもだんだん飽きてしまった。結局クライマックスも無いまま、だらだらと後は想像にお任せします・・・とうような終わり方でスッキリしない。と思いきや、次編の水のゆくえを読んで、本編の意味が良くわかった。

    一方の、酒蔵を継いだ若い蔵元、放射能によって瀕死の状態のその母、ただひたすら酒造りに身を捧げる一人の杜氏、村のダム建設の反対急先鋒だった老人、そして蔵元の幼なじみで村の公共工事を一手に引き受けていた建設会社の跡取りとその妻子だけが村に残り、そして全ての登場人物である。

    皆が去り、また命を落とし、事故以前の全てが無となりながら、誰が飲む訳でもない酒造りに没頭する若い蔵元と杜氏。放射能の危険を顧みず、未完成となったダムを一人で完成させた幼なじみ。自らの存在の意義を確認するかの如く、自らの職業に没頭しながら命を削っていく人達。命の他に残ったのは使い物にもならない醜い日本人特有の社会性。本当に大切なのは何なのかということを考えさせられる小説。

  • 10年前なら単なる物語だったのかもしれない。
    しかし今読むと、この物語が現実になる可能性もあったと全くの絵空事として捉えることができない。
    普段なら場面場面で頭の中に音を感じるのだけれど、ほぼ無音で読み終えた。

  • 2001年と2002年に書かれた「ディアスポラ」と「水のゆくえ」。
    色々考えさせられて、消化しきれてない感じ。

    3:11の10年前に書かれていたということで、「予言していた」とか一時は話題になって、図書館の予約数もすごかったのだけど、今になってすんなり借りられて、ちょっと拍子抜け。
    あの3:11直後の思いも、みんな薄れていくんだろうな。だからこそこういう本はたくさんの人に読んで欲しいと思うのだけど。
    そして、3:11の後にこの内容の小説は書けなかっただろう、とも思う。

    まず「ディアスポラ」。
    原発の事故で日本中が汚染され、かろうじて海外に逃れた人は
    難民として各国に散らばる。
    これはチベットのキャンプに住む人たちと、その人たちを調査に訪れた人の話。

    「日本沈没」と「日本沈没第二部」を思い出した。
    海外移住と言っても、パリやニューヨークに住めるわけではなく、難民キャンプに集団で住まう。
    その国の人たちにとって環境が悪いから空いている土地なのだから、当然生活は厳しい。

    日本沈没第二部では、日本人の粘り強い勤勉さで、各国各地で開拓農民のような生活をしていたと思う。
    ディアスポラで描かれるキャンプでは、配給の食糧に頼って生きる。許可を得られれば、肉体労働につくこともできる。日本で会社の重役だった内田さんが、この地で日本とは別の意味の幸せを感じていたりする。

    日本人が祖国を無くして世界中に散らばった時、お互いに日本人だと証明できるものはあるのだろうか。ユダヤ人にはそれがある。自分はどうだろう・・・と考えてしまう。君が代?日本の歴史だって、ちゃんと勉強してない(もっと勉強すればよかった。これからします)。
    そして、また日本に戻りたい(日本沈没の場合は国土がなくなっちゃったけど、ディアスポラの場合は汚染されてはいるものの、国土は存在している)と思う人たちの求心力となる物は何だろう。皇室の存在?
    日本沈没の場合、事前に準備ができたけど、原発事故は突然やってきたから、皇族の方々が無事に国外に出られたのかどうか・・・。

    また、日本沈没の場合、文化財なども事前に避難させ、政府も存続(一応)してたけど、ディアスポラの場合はどうなんだろう・・・。

    このキャンプの人たちはお盆の行事を行うことを希望するけれど、亡くなった内田さんの奥さんは現地の風習である鳥葬にふされる。こうなるまでに小説の中でいろいろあるわけだけど、やはりこういう形で散らばってしまったら、独自の文化もいずれ消えてしまうのだろう。

    そして、一方で日本に残った人たちの物語「水のゆくえ」。
    数百万の死者。そしてもっと多い数の死を待つ人々。国外脱出できた人はどのくらいいて、どのくらいの人が取り残されたのかはわからない。実際問題として、取り残された人と死者(&死を待つ人たち)の方が多いのではないか?と思う。
    数日でインフラは途絶え、情報はない。そんな山あいの小さな村に残った人たちの物語。
    蔵があるから、事故の後も去年と同じように酒を仕込む若い蔵元とそれを支える老杜氏。電気も水道も使えなくなったけど、老杜氏は電気が無かった頃のやりかたを知っている。

    山の手入れを続ける老人。かつてこの村がダムに沈むことが決まった時も、木を植え続けた。いわく「100年に一度の水害に備えたダム」だけど、植林は100年単位の仕事(これはこの間読んだ「神去りなあなあ日常」にも書かれていた)。結局ダム建設は中止になったから、植えておいて良かったわけだけど、そうしたら今度は何万年に一度の確立でしか起こらないはずの原発事故が起こった。先のことはわからない、と。
    その老人の見事な逝き方。畏敬の念とはこういうことか。

    そして、若い蔵元とかつてわだかまりのあった幼馴染は、蔵が汚染されていないことを知っていて、蔵を守るために自らの身を犠牲にして山崩れを防ぐ工事をたった一人で行う。

    家族が亡くなれば自分たちの手で土に葬る。だんだん死者と生きている人との境界があいまいになる。

    物語の終わる時点で残った徹、杜氏、雪子、彩はどうなるのだろう。「ディアスポラ」の方で帰国が話題になったように、いつか除染された故国に人が帰って、新たに国づくりが始まるのか。それがいつなのか。未来が見えなくても、この人たちは「やるべきこと」をやって、終わりの日まで生きていくのだろうな。
    もちろん、残されて自堕落の限りをつくす人も大勢いるだろうけど。

    そして、消化しきれない思いはやはり、原発の存在に向う・・・。

  • (おそらく)原子力施設の事故により多くのの日本人が死に絶え、残る日本人も日本を捨て世界中に散り散りバラバラに避難した、という設定の小説。前半は日本を捨ててチベット自治区でギリギリの生活を行う人を描き、後半では日本に残り、ほぼすべての都市機能が死に絶えた中で酒造りに打ち込む人のお話。
    原発の怖さとか教訓、がこの本のテーマではなく、この壮絶な世界において人がどのように考え、生きていくのかが淡々と描かれている、不思議な話だった。この作家の他の作品も読んでみたいな。

    追記:
    ディアスポラ、前半のチベット自治区の話について思ったこと(ネタバレあり)。
    主人公はチベット外部の組織から派遣され、チベット自治区の日本人を「観察」しており、インマルサットという通信機を使って「外とつながって」いる。
    自治区で現実を生きているなっちゃんが、日本で暮らしていた頃の携帯電話についてのよもやま話をした時にも、主人公は従来の常識的な見方でその話を解釈するのだが、なっちゃんに「諏訪さん、いいひとね。いつも、そうやってちゃんとしていたころのような考え方をまだするるのね。(中略)でもね、ちゃんとした場所からまだ見ている人には、見えないもんがあるのよ。」と笑われる。
    これはつまり、主人公の様にこの非情な世界の中ではなく外にいる人には、中にいる人のことを理屈でしか解釈することができず、それは決して実感を伴った、真に迫ったものには成り得ない、つまり観察は上手く行かないことを暗に示している、という残念な解釈につながるのではないか。そしてラストシーンで主人公が見たなっちゃんの姿によって、主人公自身がそれを思い知らされているのではないだろうか。

  • とても3.11の10年前に書かれた作品とは思えない設定。
    事故後、日本の風土とかけ離れた海外で、冠婚葬祭さえも変化させ暮らそうとする人々の姿は逞しかった。
    だが、表題作より山村に残って暮らす幼馴染み達を描いた「水の流れ」のほうが感銘を受けました。傑作です。

  • 「事故」により、日本から逃げる人、日本に残る人といるだろうが、日本人は日本人として生きようとするのだ。

  • 「デイアスポラ」とはまき散らされたもの、難民を意味している。
    まさに二千年を故国なくさまよったユダヤ人・・。

    原発で国外に逃げた日本人難民の姿はまさに予言小説。
    10数年前に書かれた小説が、3.11の後「絵空事ではないぞ!」と警告する。
    シニカルなタッチが臨場感を紡ぎだす。

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著者プロフィール

コラムニスト。写真家。1960年兵庫県生まれ。
「SPA!」の巻頭コラムをはじめ、雑誌に多数連載を持ち、TV番組にも出演。
2013年10月よりサンテレビ「カツヤマサヒコSHOW」でメイン司会を務める。
対談「怒れるおっさん会議 in ひみつ基地」(西日本出版社)、「日本人の『正義』の話をしよう」(アスコム)のほか、「ディアスポラ」(文藝春秋)「平壌で朝食を。」(光文社)などの小説、評論「バカが隣りに住んでいる」(扶桑社)など、著書多数。
365日毎朝10時までに400字詰め原稿用紙で12枚以上を送る有料配信メール「勝谷誠彦の××な日々。」は多くの熱狂的読者を持つ。

「2015年 『カツヤマサヒコSHOW 酔談3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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