色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

著者 :
  • 文藝春秋 (2013年4月12日発売)
3.63
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  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163821108

感想・レビュー・書評

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  • 村上春樹の作品はほとんど読んでいるが、ハルキストを名乗るほどの熱狂的なファンでもない。
    それでもやはり新作が出ると聞きつけると心が浮き立つ。
    1Q84からの巷のお祭り騒ぎには辟易するけれど。
    頑張った甲斐あって図書館の予約が一番に回ってきた。
    図書館のお姉さんにもすごいですねと褒められ(?)、ちょっといい気になってみたり・・・(笑)

    さて、本作だが期待を裏切らない春樹らしい満足のいく作品だった。
    過去の作品と比較するのもどうかと思うが、繰り返し描かれてきた喪失と再生がテーマにはなっているがこれまでの中で一番ストレートでシンプルな分かりやすい物語になっていると思う。
    あらすじの説明は省くが、主人公がトラウマとなった自分の過去と対峙するきっかっけになったのは一人の女性との出会いで、彼女を手に入れたいと切望する様は何ともロマンチック。
    春樹の作品の中でこれほど主人公がストレートに愛を言葉にしたことがあったかな。的外れかもしれないけどじーんとしてしまった。

    隠喩めいたエピソードも少なかし、ファンタジー要素もない。
    三人称で書かれているせいか、客観的に物事が淡々と進む。
    無機質な春樹独特の文章の中にあっても、静謐で美しい喪失感があらゆるところに漂いうっとりとしてしまうほど。
    ノルウェイの森を彷彿とさせるがむしろこちらのほうが好み。

    物語の設定を現代に据え、具体的な地名、家族の描写、フェイスブックやiPodなどのいまどきツールなど今までには登場しなかったものが結構描かれていたり。
    このあたりも新鮮だった。
    春樹が苦手な人もすんなり入れるかも。

    やっぱり春樹はいいな。
    春樹好きの友人が言っていたけれど、年齢も年齢だしあと何作読めるんだろうと思う。
    春樹の主人公さながら、早寝早起きを心掛け水泳とランニングを日課に長生きして行く末はノーベル賞と取ってほしいと切に願う(笑)

    • だいさん
      >頑張った甲斐あって図書館の予約が一番に回ってきた。

      これは、すごいなぁ。
      >頑張った甲斐あって図書館の予約が一番に回ってきた。

      これは、すごいなぁ。
      2013/05/16
    • vilureefさん
      だいさん、こんにちは。

      田舎の図書館ですからね~(笑)
      残念ながら今月からネット予約が開始となり、競争も激化しそうです。
      でも都会...
      だいさん、こんにちは。

      田舎の図書館ですからね~(笑)
      残念ながら今月からネット予約が開始となり、競争も激化しそうです。
      でも都会の図書館に比べると依然恵まれてますよね(笑)
      2013/05/17
    • だいさん
      良く行く図書館の待ち人数を見たら600でした。
      東京では区ごとにいろいろな住民サービスがあります。(区民専用席とか)
      良く行く図書館の待ち人数を見たら600でした。
      東京では区ごとにいろいろな住民サービスがあります。(区民専用席とか)
      2013/05/17
  • 面白かった。
    色々と分からないままのこと、不思議な印象は残るけれど、それが村上春樹さんの良さですよね。

    こちら側に考える余地を残してくれる。

    人の物語だし、小説だけど、
    自分の生き方や考え方に響く言葉も出てきて、読んでいて気持ちが穏やかになる。


    人の心は夜の鳥なのだ。それは静かに何かを待ち受け、時が来れば一直線にそちらに向けて飛んでいく。(260p)

    生きている限りは個性は誰にでもある。それが表から見えやすい人と、見えにくい人がいるだけだよ。(315p)

  • 人生で2度目の村上春樹体験。他にも有名な作品もたくさんあり、読みたい本もたくさんあるのだがちょうどいい文量、そしてやけに目を引くやたら長ったらしいタイトルに興味を惹かれて読まずにはいられなかった。タイトルにも用いられているフランツ・リスト「巡礼の年第1年スイス ラマルデュペイ」を聴きながら読み進めた。心地いい言葉が流れ、穏やかな風景(主にフィンランドの)を想起しながら、同時に多崎つくるの心の動きに振り回されるような体験だった。

    充実感を伴って心地よく読み終えたが、果たして自分がこの作品の何割を理解できているのかわからなかった。つまり表層の薄皮の部分しか味わえなかったという感覚、物語の中に大事なものを置き忘れてきたようなモヤモヤも同時に感じた。そう思うと、最近は物語の伏線を作者がきちんと回収して、読者に正解を提示してあげる優しい文章ばかりを読んできたなと感じた(どちらが良いかは別として)。どんなことにも意味を見出そうと思えば僕たちの周りは謹言に溢れているし、ただ受容すればそれはそれで穏やかな心で生きられるだろうと思う。ただ忘れないでおきたいのは、作品中で度々登場する「記憶に蓋をすることはできる。でも歴史を隠すことはできない」という言葉だ。自分の意識外でも世界は続いているのだ。

    自分にとっても気にしていないようで囚われ続けている過去があるかもしてないと思い返すようになった。つくるのような明確な過去の一点などはないが、なんとなく今の自分を過去の環境のせいにしている感覚がある。そういった面で見ると、参照する過去が明確であるつくるは幸せであろう。なんとなく過ごしてきただけなのに友達もいない、恋人もいない、内定先も決まっていない僕はどうすればいいのだ!いっそのことフィンランドにでも行きたい!僕だって陶芸の才能があるかもしれない!何か才能があるはずだ!

    とりあえず僕にとって二つ目の村上春樹作品は穏やかながら、読むたびに新たな勝手な印象を抱きそうな予感を感じさせられたものであった。彼の描く死生観がとても美しいと感じるので他の作品も読みたいと思った。

  • 色彩を持たないことに劣等感みたいなものを感じる彼の気持ちが少しわかる気がする。
    でも、多崎つくるにも、私にも色はある。

    • まいけるさん
      早速読み始めました!
      ブログも拝見しています。ブログも読み応え抜群!
      早速読み始めました!
      ブログも拝見しています。ブログも読み応え抜群!
      2024/01/29
    • ゆっきーさん
      ☆マイケルさま☆
      さっそく!行動力のすごさに尊敬です!!
      ブログまで見てくださって、お褒めの言葉までいただいて、とても嬉しいです☺︎
      ありが...
      ☆マイケルさま☆
      さっそく!行動力のすごさに尊敬です!!
      ブログまで見てくださって、お褒めの言葉までいただいて、とても嬉しいです☺︎
      ありがとうございます♪
      2024/01/29
    • まいけるさん
      乗車したら、降りることができませんでした。
      やっと終点です。
      フィンランドの風を感じてます。
      ありがとうございました!
      乗車したら、降りることができませんでした。
      やっと終点です。
      フィンランドの風を感じてます。
      ありがとうございました!
      2024/01/29
  •  高校時代には完璧な調和にあった4人の親友とのグループから、説明もなく一方的に関係を切られたことで心に傷を負った「多崎つくる」は、ある出来事をキッカケに、過去を見つめ直す巡礼の旅に出る。色彩。駅。6本目の指。『ル・マル・デュ・ペイ』。

     多崎つくるは自分のことを、人としての「色彩」を欠いた、中身のない空っぽの容器でしかないと表現しているが、誰しもそんな面があるのではなかろうか。つまり、個性だなんて言っても確固たる何かが存在しているわけではなく、実際にそこにあるのは、外部からの刺激に対する応答のある種のパターンに過ぎない。個性とは内在的なものではなく、外在的なものなのだ。もし何もない空間に人が一人で放り込まれたら、どんな「個性」を発揮できるというのだろう。その意味で、人はみな、外から中身を注がれるのを待っている容器である。

    “『たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない』とエリは言った。『もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰にもわかりはしない。そう思わない?それなら君は、どこまでも美しいかたちの容器になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に』”(p.323)

     表現に関して言えば、比喩に村上春樹さん独特のセンスがある。例えば、
    “言葉はそこでは力を持たなかった。動くことをやめてしまった踊り手たちのように、彼らはただひっそりと抱き合い、時間の流れに身を委ねた。(p.309)”
    比喩によって喚起されるイメージによって、作品がふんわりと豊かになっている気がした。本作では、『1Q84』におけるリトル・ピープルのようなメタファーの要素は少なく、現実世界に近い。
     結局、すべての伏線が回収されることはないまま、言ってしまえば中途半端な形でラストを迎えるが、ここまで大胆に読者に想像の余地を残してくれているのが新鮮に感じた。

  •  よくもまあ、ここまでこねくり回した文章を散りばめられるもんです。すごい。ある程度の覚悟と自覚がないと、村上春樹は、読了できないかも、と改めて思いました。テレビや新聞で、「村上春樹の新刊出ますっ!!」て話題に上がって、ノーベル文学賞受賞に一番近い日本人作家って言われている人で、この人の新作を読まないとは、本読みの名折れでしょう、と思って読みましたが、それにしても、メタファー多っ!!もっとシンプルでもいいのでは?と、凡人の私は思ってしまいました。

     赤松、青海、白根、黒埜。アカ、アオ、シロ、クロとそれぞれ名前に色を持つ4人と友人になった多崎つくるは「乱れなく調和する親密な場所」を5人で築き上げる。可能な限り5人で一緒に行動し、そこに色恋を持ち込まない。乱れなく調和する共同体を存在させ、それを存続させるために。彼らの間に生じた特別なケミストリーを護っていくために。風の中でマッチの火を消さないみたいに。
     すべてが隠喩に彩られた、世界。
     なぜに、つくるだけが放り出されたのか。あの完璧な調和から。
     一人、夜の冷たい海に船から放り出されたかのように。

     私のレビューまで、村上さんに染まってしまう。これが、村上マジックですか。
     
     いやいや、なぜ、灰田も、突然つくるの前から消えたのかが疑問。灰田のお話に出てきた緑川はファンタジーだったにしても。

     国語のテストに出てきそうなくらい、読み手を惑わすこの文章。けど、読み終わった後の、この達成感は、何なんでしょうか?

    • bandit250fさん
      やっと読みました。やっと図書館から来ました。ayakooさんの2ヶ月遅れです。皆さん、難しいレビューを書いていらっしゃる。「1Q84」しか読...
      やっと読みました。やっと図書館から来ました。ayakooさんの2ヶ月遅れです。皆さん、難しいレビューを書いていらっしゃる。「1Q84」しか読んでいない私には付いていけない世界です。単純に「読み易かった、面白かった」ではいけませんか?余韻を感じさせるこの終わり方は好きですよ。

      2013/08/15
  • ヒトはそれぞれ必死に生きている。色彩のないヒトはいない。きっと私も。

  • 2013年4月発行の作品。
    2009年の話題作「1Q84」の次の長篇小説。
    ファンタジーではなく、1冊にまとまっている長さなので、読みやすいと思います。

    多崎つくるは、36歳、独身、東京で勤めている。
    名古屋出身で、高校の頃には課外活動のボランティアで知り合った5人のグループにいた。
    赤松、青海という名の男子と、白根、黒埜という名の女子。
    つくる以外は、色の付いた名前で、そのまま色の名を呼び名にしていた。
    自分だけ特色がなく平凡だと、かすかなコンプレックスを感じていたつくる。
    一人だけ大学で東京に出たが、名古屋に帰って友達に会うのを楽しみにしていた。
    ところが、大学2年の夏、突然4人全員からの絶交を申し渡される。
    ハッキリした理由も聞かされないまま‥

    しばらくはショックで死を考えたつくるだが、徐々に立ち直る。
    しかし、ほとんど友人は出来ず、2歳下の友人・灰田もまた理由を告げずに去った。
    何度か女性とは付き合ったが、恋人ともどこか本気にならないまま別れ、年月が過ぎた。

    二つ年上の木元沙羅という女性と知り合い、本気で付き合いたいと願う。
    沙羅に、4人に会って事情を確かめたほうがいい、でなければこれ以上深くは付き合えないと言われてしまう。

    恵まれた育ちで、望んだ仕事についていて、良い場所に所有している部屋に住んでいる男性。
    はたから見ればこれ以上ないぐらい気楽な暮らしで、いまどき共感できる人は少ないんじゃと思うぐらいだだけど。
    友達からの切られ方というのは酷くて、これは‥
    16年もたって知った真実は、驚くべきもの。
    つくるが必ずしも悪く思われていなかったこと、再会した人に非難されるわけではないことは、救いですが。

    封印した過去と向き合うことを励まし、次へ進もうという内容が中心にありますね。
    死とは何かという答えの出ない問い。
    繰り返し見る生々しい夢。
    英語からの直訳のような文章。淡々と記録するように語られるセックス。
    スタイリッシュな暮らしの断片や、雰囲気に合う音楽の力を借りつつ、かっての悲劇がよみがえってきます。
    事件物というわけではないので、その辺の事実は謎のままですが。

    高校の頃には、特徴のある5人が補い合い、調和していた。
    そのときは、何よりもこの調和を壊したくないと切に思うほどに。
    でも時はとどまっていない‥
    成績がよかった赤松は銀行を辞めて、社員教育セミナーを請け負う会社を興している。
    スポーツマンだった青海は、車の販売員に。
    黒埜恵理は大学の工芸科に入りなおして、今はフィンランドに。
    フィンランドか‥ちょっと「ノルウェイの森」を思い出す要素もありますね。ノルウェイの話だったわけじゃないけど。

    一番感受性の強い内気なシロ(白根柚木)には、大人になるのは乗り越えられないほどの壁だったのか‥
    予想外の出来事に対応しきれずあがいたのは、つくるだけでなく5人ともだった。
    それぞれの大人への変貌は苦さも伴うけれど、中年へ向かうパワフルさがあるというか、なかなか意外性もあって面白く、力強く感じました。
    フィンランドまでも出向いて直接話を聞く勇気。
    その甲斐あって、黒埜との会話は良かったですね。

    つくるは、正しい痛みだと感じ、過去を違うふうに捉えられるようになるのです。
    挫折感を引きずり、ふだんはそこには蓋をしているというのは、誰しも共感できることかと。
    そこから人とあまり関わり合わない、やや草食系になるのは、いまどき?

    沙羅という女性がつくりものめいているのがちょっと、これで、つくるの生きる希望になるのかどうか。
    知り合ってまもなく、まだカッコつけてる時期だからかも知れませんが。
    つくるがこれまで人に話さずに来たことと向き合わせ、真実を受け入れさせたのは運命の女性だったからなのか?
    心の一部が死んだようになっていた主人公に、だんだん素直なはげしい感情が戻ってきている、と読めます。
    しかし、これでふられたとしても、そのぐらいでまた死にたいと思っちゃいかんよ、つくる君! 年上の女性より(笑)

  • 乱れなく調和する共同体。
    高校のときに知り合った5人組は、5本の指のようにそれぞれがそれぞれの役割を持つグループだった。
    アカ、アオ、シロ、クロ。
    つくる以外の4人はそれぞれ名前に色を持ち、それぞれが鮮やかな個性と特徴を持っていた。
    そんなグループはつくるが東京の大学に進学したことで転機を迎える。
    大学二年生の夏休み、つくるは突然グループから弾き出された。

    喪失と孤独。
    かつてのハルキワールド復活?を期待して読み進めるけれど、ありゃー。
    なんだろ、けっこう安易に喪失感が埋められてしまう。うーん。
    私が年をとってしまったのか。
    あまり深みのない印象。
    誰もが抱えてるような不安をぼんやりと残して終わる。

    ミスター・グレーとミスター・グリーンの話が良かった。この空気こそハルキ!
    人の鮮やかさには山があり、やがて色褪せる。かつて美と感じていたものが16年経つと毒を含み汚れが交じるよう。三島の世界観とついつい重ねた。
    「巡礼の年」読みながら聞き、読み終わって聞く。
    音楽の時間に曲のイメージで絵を描いたり、物語を作る課題があったな。
    ハルキの本は読み終わって咀嚼して読み返してジンワリとくることが多いからこれからジックリ思い返して見る、
    と思う。
    それにしてもプールで4本くらい流してきたくなる。あの匂いを無性に嗅ぎたくなった。

    「限定して興味を持てる対象がこの人生でひとつでも見つかれば、それはもう立派な達成じゃないですか」

    「自由を奪われた人間は必ず誰かを憎むようになります。」

  • 2013年(平成25年)。
    この作品は、私にとって3作目の村上作品にあたる。読了後、私が一番に受けた印象は「この作品は過去の村上作品との共通点も多いが、今までの作品とは全く違う点がある」ということだ。それは根拠のない勝手な思い込みかもしれないが、作者と同時代に生きリアルタイムで作品を読んだ日本人として、本作を読んで感じたことを率直に記しておきたいと思い、この場を借りた次第である。

    まず、過去の村上作品との共通点として挙げられるのは、翻訳小説のような文体、BGMのように物語に寄り添う音楽、セックスシーンのストレートな描写など。ついでにいうと、淡白なくせに何故か女にモテてセックスの機会には不自由しないことも、村上作品の主人公に共通の特徴だ。何より「現代人の孤独」というテーマが、過去の作品との共通点のように思える。「共同体からの疎外」「異端者の孤独」「人生は生きるに価するか」というテーマは、漱石以降、日本の主要な小説家に継承されてきた共通命題であり、そういう意味では本作もその系譜に連なるオーソドックスな作品だと思う。

    だが、その比較的わかりやすいテーマとは別に、この作品には今までの村上作品にはない、というより過去の日本文学には存在しえない、異質なテーマが潜んでいるように思われる。それは直截的には語られていないが、登場人物のセリフの端々や設定の随所に、作者のある思いが仮託されている。私にはそんな気がしてならない。

    「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」

    「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ」

    「あの子は本当にいろんなところに生き続けているのよ。(略)私たちのまわりのありとあらゆる響きの中に、光の中に…」

    「私たちはこうして生き残ったんだよ。私も君も。そして生き残った人間には、生き残った人間が果たさなくちゃならない責務がある。それはね、できるだけこのまましっかりここに生き残り続けることだよ。たとえいろんなことが不完全にしかできないとしても」。

    これらの言葉を、東日本大震災後の日本人に対する作者渾身のメッセージと受け取るのは飛躍だろうか。作中、震災に関する記述はどこにもなく、東北に関する記述もほとんどない。でも、これはあの震災後に「世界のムラカミ」が書き下ろした初の長編なのだ。3.11後、多くの作家が震災をテーマにした作品を次々と発表したことは記憶に新しい。「このように圧倒的な現実を前に、小説家に何ができるのか」と、多くの作家が自問自答したという。まして日本文学界をリードする作者が、この問題に無関心でいられたはずがない。むしろ 3.11後初の長編において、かくも周到に震災に関する記述を避けているのは、「半端な記述は許されない」という緊張感の裏返しとみるべきではないか?

    でなかったら、なぜシロが奏でる曲が〈ル・マル・デュ・ペイ〉なのだろう。ほかに有名な曲はいくらでもあるものを、お世辞にも印象的とは言い難いこの曲を選んだのはなぜか。Le Mal du Pays, 〈郷愁〉と訳される、ホームシックあるいはメランコリー、正確には「田園風景が人の心に呼び起こす、理由のない哀しみ」を意味する言葉。まさに、曲名がもつその重みゆえに、この曲は選ばれたのではないか。

    また、巡礼の終わりがフィンランドというのもひっかかる。主人公の魂の再生をかけた希望の地を、遠く北欧に設定した理由は何か。 単に北欧ブームだからということでもあるまい。3.11以前ならともかく、このタイミングでフィンランドといえば、オンカロ――地上でただひとつの核廃棄物最終処分場――を連想せずにいられないではないか…。

    もちろん、すべては憶測である。作者に「俺はそんなこと考えてない」と否定されたらそれまでだ。だが、物語は読者に読まれたとき、作者の意図を超えて想定外の意味を見出されることがある。現に私は「この小説は、3.11後に多くの日本人が抱えることになった癒しがたい痛みを、あえてフィクションに徹することによって詩的に昇華させようと試みた、作者なりの鎮魂歌だ」という印象を抱いた。それが正しいかどうかはともかく、この作品を読んだ日本人の中にそういう感想を抱いた読者がいたことを、時代の証言としてここに記しておきたい。

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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