- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163900742
感想・レビュー・書評
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もともと好きな作品で、村上春樹のサイン本も持っている。何度か読み直したことあるけど、この度アカデミー賞にノミネートされ話題となっている映画を鑑賞したから、また読んでみた。やっぱり原作の方が好きだな〜。
初めて当書を読んだのは、若かりし頃職場の先輩と大恋愛・大喧嘩をして、結婚を諦めて仕事を辞め、その地をも去った直後だった。私は女性だけど登場人物と(若しくは去った女の方と)重なるところがあって、自分の中で特別な作品になった気がした。
いま落ち着いたサーになって再読すると、また違った気持ちで受け止められた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
それほど遠くない先に「女のいない男たち」になるのが決定的になったので手にとってみた。
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羽原にとって何より辛いのは、性行為そのものよりはむしろ、彼女たちと親密な時間を共有することができなくなってしまうことかもしれない。
女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちが提供してくれるものだった。
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この感覚。これが失われることの辛さが身に迫ってくるのだ。これからしばらく、この感覚を身に染み込ませる期間が続くことになるが、その感覚に襲われてもそれを転嫁して深みのある男に仕上げることもできるし、巷に溢れる「女のいない男たち」になってしまうこともできる。それは世間の眺め方と自分の見つめ方にかかってくる。
でも、この小説は「女のいない男たち」の行く末をこのように描く
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ひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深く染み込んでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれ落ちた赤ワインの染みのように。あなたがどれほど豊富に家政学の専門知識を持ち合わせていたとしても、その染みを落とすことはおそろしく困難な作業になる。時間とともに色は多少褪せるかもしれないが、その染みはおそらくあなたが息を引き取るまで、そこにあくまで染みとして留まっているだろう。
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この姿もリアルに想像できる。というより巷にあふれる「女のいない男たち」の姿のデフォルトはこういう状態なのだ。
だとしたら覚悟を決めるか。
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冒頭
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「ドライブ・マイ・カー」
これまで女性が運転する車に何度も乗ったが、家福の目からすれば、彼女たちの運転ぶりはおおむね二種類に分けられた。いささか乱暴すぎるか、いささか慎重すぎるか、どちらかだ。
「イエスタデイ」
僕の知っている限り、ビートルズのイエスタデイに日本語の(それも関西弁の)歌詞をつけた人間は、木樽という男一人しかいない。彼は風呂に入るとよく大声でその歌を歌った。
「独立器官」
内的な屈折や屈託があまりに乏しいせいで、そのぶん驚くほど技巧的な人生を歩まずにいられない種類の人々がいる。それほど多くではないが、ふとした折に見かけることがある。渡会医師もそんな一人だった。
「シェエラザード」
羽原と一度性交するたびに、彼女はひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた。『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードと同じように。
「木野」
その男はいつも同じ席に座った。カウンターのいちばん奥のスツールだ。もちろん塞がっていなければということだが、その席はほぼ例外なく空いていた。もともと店が混むことがない上、そこはもっとも目立たない、そして居心地が良いとは言えない席だったからだ。
「女のいない男たち」
夜中の一時過ぎに電話がかかってきて、僕を起こす。真夜中の電話のベルはいつも荒々しい。誰かが凶暴な金具を使って世界を壊そうとしているみたいに聞こえる。
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村上春樹作品のレビューを書くのはとても難しい。
というのも、僕にとって彼の作品は評価の範疇を超えているからだ。
読み終わったあと、面白かったか、そうでなかったかについては自分なりの基準で判断できるのだが、そこで、いざ何を書こうかと考えると頭がうまく回らなくなる。
何が面白かったか、どこがそうでなかったかを適切に抽出することができないのだ。
でも敢えて、というか無理矢理書くとするなら、この短編集は僕にとってかなり面白いものだった。
僕的には、特に「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「木野」の三編がお気に入りだ。
村上春樹はこういう短編を書くのか、ふーむと感じた次第である。
上手く表現できないけれど、男女の存在関係をどう捉えるかについて考えさせられる味わい深い話だった。
ハルキストでない僕にはよく分からないが、彼の小説の熱烈な愛読者たちは、こういう雰囲気がたまらないのだろう。
逆に村上春樹が嫌いな人たちは、その独特のスノッブ的というか、鼻持ちならない(と感じる)文章や表現を生理的に受け付けないのかもしれない。
タイトルは「女のいない男たち」だが、内容は“女を失った”或いは“女を失おうとしている”男たちの様々な生き方を描いた作品集である。
最後の表題作「女のいない男たち」は、「まえがき」に対する“ウケ”とも取れる「あとがき」的な内容の作品であると僕は読んだのだけれど。
これまで、彼の作品は処女作「風の歌を聴け」から、代表的な作品を何作か読んではいるけれど、個人的にはのめりこむほど面白いと思ったことはなかった。
でも、この短編集は結構楽しく読めた。
こういう雰囲気の短編は好きだ。
あらためて、彼の作品を再読してみたいと思った。
この作品のレビューを深く味わいたいと思う方は、「文學界」六月号に
評論家三名による興味深い書評が掲載されているので、読んでみてください。 -
『木野』が好き。『独立器官』が衝撃的。
面白かった。 -
全ての男性の、純愛が詰まってる。
どれだけ賢く器用でも、恋に深く落ちると、一途に愚直に女性と向き合う。というか、そうするしかなくなる。滑稽でありながら、人間の美しさを感じさせられた。
「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。」
村上春樹は長編だと途中から置いていかれるけれど、短編は程よく深さがあって、序盤から引き込まれて、すごく好きだと気づいた。 -
自身の心に直面するということ、とりわけ喪失感に直面すること。読んでいて心の深くに沈んでいるような感じがした。押し殺していた感情に気づかされたり、失うことの恐れを抱いたり、またはそのような誰かの感情を想うこと。様々な視点からそれらが絡み合って、失うことの哀しさが描かれていた。
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村上春樹のつく嘘は、それが本当のことであるとうっかり勘違いしてしまうような巧妙な仕掛けが施されているわけではないので、ある意味、騙されたような気になることはないのだか、逆に、これを単なる虚構として受け取ってしまってはならないという気にさせられるのが、いつも決まって少々厄介だ。
『そこでは現実と夢想が分かちがたく入り乱れているらしかった。だから羽原はその真偽をいちいち気にかけることなく、ただ無心に彼女の話に耳を傾けることにした。本当であれ、嘘であれ、あるいはそのややこしい斑であれ、その違いが今の自分にどれほどの意味を持つというのだ?』ー『シェエラザード』
それを暗喩と言ったらよいのか、明喩と言ったらよいのか、自分には分からない。そもそも、その二つの言葉の違いもよく解らない。
『もちろん僕はそのときもう十四歳ではなくなっている。僕はより日焼けし、よりタフになっている。髭も濃くなり、暗喩と明喩の違いも見分けられるようになっている。でも僕のある部分は、まだ変わることなく十四歳だ』ー『女のいない男たち』
例えば、十四歳という歳が十七歳でないことの意味を考えて立ち止まる。それは、村上春樹の小説がフェミニストからはクレームが付きそうなくらい、性的な、しかも、基本的に男性からの目線で描かれたメタファーに満ちていることと、繋がっているだろう、などと考えてしまう。経験済みか済みかでないか。十七歳では曖昧で、十四歳には大抵の人が同じ意味を見出だす。もちろん、かつて十四歳を経験した人には、という前提付きで。つまり暗喩の意図することが解るには、自らのために経験値が必要となる。だからといって全てを経験だけから学んでいたのでは、世の中の流れに付いていゆくことができない。そもそも付いてゆくべき世の中の流れなどというものが存在するのかどうかすら分からない。本質を読み解かなければ、という思いが募る。
『自分がここでいったい何を言おうとしているのか、僕自身にもよくわからない。僕はたぶん事実でない本質を書こうとしているのだろう。でも事実でない本質を書くのは、月の裏側で誰かと待ち合わせをするようなものだ』ー『女のいない男たち』
ああ、でもそういうことなのだ。村上春樹が小説を書くということは、まさにそういうことなのだろうと理解する。そしてそれを読むものには、それが如何に難しいことであろうとも、準備がしっかりと整っていなくてとも、取り敢えず月の裏側に行ってみなければならないということだけは明らかなのだ。そこで出会う誰かが、自分にとって何を意味するのかが分からなくても、ひょっとしたら自分自身の奥底にある黒いものを目の当たりにすることになるのだとしても、月の裏側には行ってみなければならない。何故かと言えば、逆説的になってしまうけれど、そこで出会う誰かが問題なのではなくて、その覚悟を持つことが問われているのだから。
そう思うと村上春樹の短篇が、いつも未解決で終わることの意味が沁みてくる。その答えはいつでも、どのようにでもしてよいと、読者に預けられている。もちろん、予定調和的大団円を夢想することもできるだろう。それは、村上春樹の意図したものとは異なるだろうけれど。そこにどんな「その後」を自分が付け加えるのか、そのことが問われているのだと思えてならない。 -
『多崎つくる』から一変、今作は素晴らしかった。これでもかという春樹節。80年代後半から90年代前半(つまり、『世界の終り』、『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥』あたり)の一番好きな村上春樹のカラーがとても出ていると思う。独身者であったりDINKSであったり、扱うテーマは至って都会的であって、言葉一つ一つの置き方もすごく丁寧で適切。
シェラザードがMONKEYに掲載されたときはん?って感じだったけど、こうして一つのテーマを軸とした短編として見ると完璧に一つのピースとして収まっている。
それぞれ素晴らしいが、『イエスタデイ』は『ノルウェイの森』の雰囲気にかなり近い。そしてなんといっても『木野』。『ねじまき鳥』かと思うぐらい完成された素材であって、次第に回転率を上げて行って最後は高速回転のまま一気に弾けて終わる。短編がそのまま膨らんで長編になることがよくあることを考えると、このままでは終わらないだろう感じ。自作に繋がるであろう気配がすごくする。 -
女のいない男と言っても非モテの短編集ではなく村上春樹文学でしばしばメインテーマとして扱われる「喪失」がこの短編集の根底にもまた流れている。そんな短編集。
しかし不思議と今作は暗いとか重いというネガティブな読後感を覚えなかった。テーマからしてももちろん明るくはないのだけれど、暗くない。この差は登場人物、主人公達の成熟にあるのだろうと思いながら私は読み終えました。つまり作品の終わりが再びはじまりに戻っていくようなループを繰り返すノルウェイ等と違い、悲しみのやり場、逃げ場を獲得しつつあるような成熟を感じましたが、どうでしょう。