- Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167190057
作品紹介・あらすじ
2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた。経済の大停滞が続くなか彼らはネットビジネスを開始、情報戦略を駆使して日本の政界、経済界に衝撃を与える一大勢力に成長していく。その後、全世界の注目する中で、彼らのエクソダス(脱出)が始まった-。壮大な規模で現代日本の絶望と希望を描く傑作長編。
感想・レビュー・書評
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主人公の彼女が絶えず物語の外から読者に注釈を加えているようで不自然さは拭えないが、若年層の政治介入・市場席巻は2002年当時では先見の明もあり面白いテーマではあった。ただ、作者の勉強した内容が先走りすぎて、物語性との融合には限界を感じる。
エコノミックに読むか、“小説”として読むかで真っ二つに割れる作品とは思うが、作者の努力と日本という国への希望が詰まった力作である事は間違いない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「規範となるモデルが大人に見いだせない」と嘆いて、子どもが大人に失望するのはよくある話。でも人は、たかだか20年ほどで、いや死ぬまでの間に、模範となる生き方ができるようになるのか。物語の中の希望を作っていく中学生は、はたしてどんな大人となるのか、私には想像が出来ない。
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経済界や政界、国際情勢など様々な方面に対しての綿密な取材に裏打ちされた非常にボリューミーな作品。使われている経済用語や概念はある程度難解で理解に苦しむ点もあったがそれは由美子の説明を聞く、主人公だって同じことと考えれば全く苦痛にならず読み進めることができた。
中学生による日本という斜陽国家からの脱出を大枠として描きながらも2000年当時の日本を包む諦念、閉塞感がリアルに描かれている。
「何か得体の知れないものが日本という殻を突き破って侵入しようとしている。それは百二十年前の鉄製の黒船と違って、自分の目で確かめることができない。」
「正月のテレビに映るどうでもいい映像の方がリアリティがあった。(略)それに対してばかばかしいと文句を言う割には確かな事実としておれの脳のハードディスクにぴったりと収まる。それをおれはしっかりと想像することができる。だが、投機筋が円を狙い撃ちにするだろうと台湾の元スーパーテクノクラートが予測した、などと聞いても、そのことを実感をもって想像することができない」
「乾いていて、朝とか寒さがピンと張り詰めていて、青臭いことを言うようだけど自分のからだと世界の境界がはっきりするような気がするんです。自分がここにいて、からだの輪郭を包むようにして世界がその周囲にあるって当たり前のことですけどね、はっきりとしているんです。日本にいるととても過ごしやすいです。(略)自分のからだと、外側の世界の境界がはっきりしない。自分のからだが溶けてしまって自分のからだを確認できないような感じがするときがあるんです。」
戦争や核開発競争など目に見える暴力が国家を襲う日はとうにすぎていて、一般庶民には認識することの難しい脅威の形をしていない脅威が日本を襲っているとそう伝えたかったのではないかと思う。
実体を欠いた脅威として通貨アタックなどの少し難解な概念を取り扱ったのは妙手。 -
村上龍は「わからない」ことをわかろうと小説を書くのだろうな、と。
そういう点では「日本」という国の近未来を予想した上での作者の私小説なのではないか。 -
世の中って「然るべくしてそうなる」ということより、「なんでそうなったのかよくわからない」というほうになることのほうがはるかに多いように思う。本作で描かれる日本の凋落や再生のイメージに違和感を覚えるのは作者の考え方がおかしいのではなく、そんなに「腑におちる」ような結果に着地することってあるだろうか?という点だ。作者の理屈は納得がいっても、そんなに理屈どおりの現実ってないよな、という思いに終始した。
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希望とはなんだろうか、人それぞれが抱く感情のように、はっきりしているようで何もわからない。ただ、その人にとってワクワクすることが正しいことなのだろう。
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何層もあるレイヤーのどこを読むかで感じるものも変わるわけだけど、財政金融レイヤーだけはやっぱり理解が追いつかなくて充分に読めた感じがせず。国じゃなくてコングロよね。だから欲や無駄からは逃れられない。
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今後の日本を予言してるかのよう
勉強をしなくては -
2000年に出版されてすぐに読んだので、久しぶりの再読。
村上龍はSF小説家なのかもなと思いつつ読み返して、僕が新しいことに臆さずにいられるのは龍さんのお陰なのかもなとも思った。
今の時代なら、龍さんはどんな未来小説を書くんだろう?
「愛と幻想のファシズム」「五分後の世界」みたいな、龍さんのSF的ニュアンスもある未来小説の新作を読んでみたい。 -
傑作。
この国には何でもある。だが、希望だけがない。
この言葉を目にしたくて、何度も読んでしまう。 -
面白くなった。中学生天才!
経済、社会問題など、この小説を理解出来れば、賢くなれると思った。
希望とはなんだろう?生きようとする欲だろうか?
1回目のほうがおもしろいと感じた。なぜだろう? -
約20年前に書かれた近未来小説と意識しながら十分楽しめた。一部表面的な理解にとどまっていると感じる部分もあったが、全体としては膨大な取材に裏付けられた描写に感心した。当時から日本社会の病巣と末路は予見できていたが、政治も経済も教育も有効な解決策を提示できていないのが悩ましい。
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言葉に無理がないというか、こう言われたらこうなっちゃうだろう、に非現実感がないというか
20年近く前のものだが、違和感はない
時代って変わらないんだ なのか 自分が知らないだけなのか
ありきたり感が拭えないことが不自然であることは大事かもしれない
自分の頭で考える、というか、
自分の頭で考えることを妨げているものを自覚するということ。
強制されているものをなくそうとしてみる。
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舞台は2002年の日本。2001年に日本を捨ててパキスタンに行った少年の報道を背景に、多くの中学生が学校を捨て、ほとんど授業が成立しなくなった中で、中学生たちがネットビジネスを立ち上げ、やがてはそれが日本や世界を動かしていく、という近未来の話。いわゆる「優秀な現代の若者」を、その感覚を理解しようとしつつも、完全には理解できない「凡人」である主人公が冷静に見つめるという構図で描かれている。
経済とか金融の話が半分以上を占めていて、おれには難しかった。この小説自体はミレニアムより前に執筆されたものだが、もはやどこまでがノンフィクションでどこからがフィクションなのかすら、よく分からなくなってくる。おれは仕事が仕事なだけに、日々中学生と接しているので、なんか腹が立ってくる小説だった。生意気な中学生がイヤ、というのではなくて、その生意気の描かれ方が気持ち悪くてイヤ、という意味で。「なかったす」とか「そうっすか」、「コミュニケーションできません」みたいな喋り方が何とも気持ち悪い。そして、凡人である主人公の凡人さに共感してしまうあたり、いかに読んでいるおれが凡人であるかが分かるというのが面白い。「子どものくせにわかったようなことを言うんじゃない。誰のおかげでここまで大きくなったと思っているんだ。大人の世界には大人にしかわからないことがあるんだ。そういう表現は、わかりやすく翻訳するとすべて『うるさい、黙れ』ということになる。」(p.157)なんて、言いえて妙だ。あとは「自主性のある子どもを育てる」というのが定義矛盾、という発想も面白い。「子どもは自主性に欠けるから子どもなんです。経済的に自立していない人間が自主性を持てるわけがないんです。そもそもあらゆる学校は子どもをスポイルするものなんです。」(p.192)だそうだ。あとはインターネットをレファレンスすることの恐ろしさというものを改めて感じる。「相互にニュース記事を掲載し合うサイトやメールマガジンは世界中に何万もある。」(p.344)ということで、結局はデマの発信源すら曖昧で特定できなくなるという話がリアルだった。(16/09/02) -
ポンちゃん達が起業した辺りから一気読み。この本の舞台は二千年初頭。13年前の作品だが現代はどう違うと言えるだろう。読んでいて日本経済の混迷とリーダー不在の政治は不安にさせられた。野幌市のその後を読んでみたい!いろいろと不満だらけの中学生には言いたいこともあった。日本でだめで、どうして外に出れば大丈夫と言えるのか?「この国にはなんでもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。」(314頁)がんと来るが、ちょっと待て。希望もそこら辺に用意されているものなのか?自分で見出すものじゃないのか?
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「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。ただ、希望だけがない」p314
エクソダス(脱出)。
スーパーミラクルファンタジーな物語だったけど、笑っていられる内容じゃないな。おそろしいわ。
「失われた10年」を越え、2002年。ナマムギ、の出現を契機に、中学生たちが全国で集団不登校を始める。
希望がない国、ゆっくりと死んでいくこの国の絶望的な状況を見て見ぬふりし続ける大人たちから、彼らは脱出しようとした。
ちなみにナマムギははっきりと死んだ国だと言ってたねえ
物があふれる現代において、希望などもたなくても何となくで生きていけるから。
希望を持つのにはエネルギーがいる。それを実現するために動くのにはもっともっとエネルギーがいる。そんなことしなくてもなんとなく楽しく生きていけるし、むしろはみ出さずに大人しくしてた方が上手く生きていける。
しかし中途半端な年代に読んでしまった。学生時代に読むべきだった。
というか世の中にあふれる本の多くは若いうちに読むもんなんだろうね。こればかりは怠惰な学生時代を悔やんでも仕方ないので。
ていうか2002年って私自身ちょうど中学上がった頃だ
私も戦後の物がない時代を知らない。生まれた頃からプラスでスタートしてる。希望って欲望ってなんだろうね。
今の日本がいいとは全く思えないけど、結局口だけだ。
希望がない国に生まれ育った中学生たちにとって希望とは何だったんだろう。
いわゆる意識高い系の人達みたいに大袈裟にガツガツしてなくて、淡々としてるんだけど本質の賢さみたいなのを見せて着実に考えを行動に移してくる彼らがとても怖かった。
彼らは社会に対して不平不満を言わない。社会を無理矢理変えようともしない。ただ自分たちが変わろうとする。脱出する。
そうやってゆっくりとダメになっていく日本を彼らは変えようとしたのかな
彼らはただ脱出を試みていただけのようにも見えるけど。
彼らにそのつもりがなかったとしても、彼らの希望が世界に何らかの影響を与えたのは確かなのかな
要所要所のポンちゃんや中村くんの発言にハッとさせられる。
自分がどれだけ日本的な空気の中で何も考えずに生きているのか思い知らされる。
敬語の話、ボキャブラリーの話など。目新しい話ではないけど彼らの口から語られると改めて実感。
日本人はほんとに横並びだいすきだよね。でも楽なんだよね集団の中で自分の位置を守っている限りは自分の無能さから目を背けていられるから。
あと由美子の懐石の話も良かった。
ひとつひとつの料理を短い時間で食べられて、順序や盛り付けも洗練されている。
懐石の美しさは決して人を疲れさせない。安心してパッシブでいられる。
そうやってパッシブになって自分を解放する時間も必要かもしれない。日本の伝統全てが悪いわけではない。いいものは守り、わるいものは捨てる。簡単にできることじゃないけど。
「物語」としてはラストのあっさりぶりに肩透かしをくらった気持ちになったけど、この失望がだめなんだなと思った。選択、そして行動は私自身の手に委ねられているのだ。
ポンちゃんたちが淡々と示した希望の形を目の当たりにして、さて。
最近脳みそ腐ってたので、2014年の終わりにいい本読めました。
今年は冊数少なかったけど当たりが多かった気がするな。
やっぱりよしもとばななかな。
来年はもうちょっと読みたい。脱脳みそぐずぐず。
以下引用〜↓
付箋貼りすぎてぼわぼわなってた。
「普通という概念は一定のものじゃないとぼくは思います」p44
マスコミは何も探していないじゃないですか。明らかにとんでもないことが起きているのに、どうってことない他人事のような記事ばかり作っているじゃないですか。p71
少しずつですがぼくらは現実が複雑だということを学んでいます。p83
「別にかまわないけど時間の無駄ですよ。この人たちは自分で話せないっつうか。自分の頭でものを考えないから」p84
「呼び方は自由にすべきですよ。本当は敬語を無くしたいんだけど、急に敬語を止めると会話が暴力的になるから。」「その人がどういう人かわからないと、日本語では、話し始めることができないでしょう。」p95
労働力が不足し、何のスキルもないバカだけが細々と年金で生活する、そういう国になってしまう。p102
「でも、もうこの国の大人はダメかも知れない。」p105
「そして当たり前ですが、12歳の少年が撃った弾でも人は死ぬんです」p114
こいつらはきっと無駄な会議とか訓示とか朝のラジオ体操とか万歳三唱とか死んでもやらないだろうな、と思った。p133
単に、潰れていない、というだけだ。
ゆっくりと死んでるような気分かな。p175
懐石はパッシブにしてくれるp200
そういうのはサービスとは言わないんだ。おせっかいと言うんだ。p225
ボキャブラリーの話p231
確認の儀式p330
今の日本の社会にはリスクが特定されないという致命的な欠陥があります。p331
このままではぼくらはぼくらが憎んだ大人とちっとも変わらない大人にしかなれないと思ったp364
上司に気に入られた人が勝ちなんです。一回気に入られれば、もうそれでずっとその評価が付いて回るんです。そういうことってすごく疲れるんだってp406
そういう醜いメンタリティp421
からだの中の欲望がゼロになってしまって、それでからだのどこか、まあたいてい脳だけど、栄養を摂取するのを拒否したのかも知れないp422 -
村上龍はいつも流行の世相に飛びつく周回遅れのランナーだって、新刊時は確かにそうかも知れないけど、こう時が過ぎてから読むと良いな。その時の現実から類推できる近未来を描くのはあざといと思われても、それを作品として残し続ける事が、未来への警鐘になるんだって思う。
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「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
記憶に残った一言である。
本作は、村上氏が、「今すぐにでもできる教育改革の方法は?」とネット上で質問した際に、氏が用意した結論。
「今すぐに数十万人を超える集団不登校が起きること」
をきっかけに作られている。
現在の社会に「希望」を見いだせなくなった中学生たちが、ただ社会に反抗するのではなく、自分たちで「サバイバル(どう生き抜くか考え、行動)」していく物語だ。
ヒトが「希望」や「欲望」を糧に生きているとしたら、どちらも失いつつある、私たちはどう生きていけばいいのか。
希望の国のエクソダス(脱出) 。本作で、語られる問題は、未だ僕らを苦しめている。 -
とにかく、映像化を切望したいんだけど生半可な作品になるくらいなら永遠に“映像化不可能”作品として語り継がれていって欲しい、という矛盾(ジレンマ?)を、読む度に感じる傑作♪
経済の話の件(くだり)が分かりづらい?
結局何の話だったのかよく分からない?
それは自分も一緒なんだけど(程度の差です きっとw)、でも面白いものはどうしたって面白いんだから仕方ない♪
確かに普通は、『物語ラストに向けて盛り上がっていって最後には劣勢を逆転し痛快なクライマックスを迎えて大団円!』 、、、というのが一般的な娯楽小説でありストーリー展開なんだろうけども、これは全然そんな話ではなく まるきり逆といってもいい不思議な余韻を残したままこの物語は終わってしまう。でも、小説として作者が描写するのは残念ながらここまでだけど、この先もまだまだ波乱含みの彼らの物語は続くんだよ どうなっていくと思うかい? と問いかけられているような気もしてくる♪
実に何度も読み返したくなる魅力がある♪ -
『希望の国のエクソダス』は1998年から2000年にかけて雑誌『文藝春秋』で連載され、2000年7月に文藝春秋から刊行された。近未来小説なのだ。2005年に幻冬舎から刊行された『半島を出よ』に通じるものがあるとしたら、それは希望がない日本の将来を背景にしていること。戦後の日本が焼け野原から目覚しい発展を遂げることが出来たのは、明日へ生きようとする希望があったからなのだ。この本に描かれる近未来の日本は緩やかに死んでいくのだった。
この流れでいくと、次は講談社から1987年に出版された『愛と幻想のファシズム』は外せない。村上龍の政治経済小説は面白い。途中、幻冬舎から1994年3月に刊行された『五分後の世界』もお奨めだ。 -
作中の2000年代の日本、約20年後の現代も大きく状況は変わらない。GDPは中国に抜かれ、やがてドイツにも...経済だけではないが、この国のそして子供たちの希望はまだ見つかっていない気がする。
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2002年以前からネット社会の構想をしていたことに感銘を受ける
印象に残ったところは冒頭、中村くんが「普通」ってなに?と聞くところ
確かに今の日本の普通や常識も
場所、年代などの違う視点で見れば全然普通じゃないし、正しいとも思わない。
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ここまで未来を見通せる作家はやっぱり凄い
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希望のない日本の中で中学生が画期的な発想で日本を変えていく物語
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日本の長らく抱えてる問題を、中学生をメインの登場人物とする意外性を軸に据えて、ものごとの本質の追求や今後の日本への提言をして行く小説。