「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

著者 :
  • 文藝春秋
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感想 : 245
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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167306038

感想・レビュー・書評

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  • 至るところで、何かの最終的決定者は人でなく空気であるといっている
    空気の責任はだれにも追求できない
    空気なるものの正体を把握しておかないと、将来対処できない

    空気の研究
    23人工空気醸成法を調べて成立過程を明らかにする
    39第三者に感情移入しすぎるのは危険である
    41ギリシャ人は肉体を牢獄と見、そこに霊が閉じ込められていると見る
    45空気の1方向支配の例、2方向の例
    46正義の仁愛軍VS不義残虐集団
    51対立概念で対象を把握することが空気支配の一つ目の原則
    52対策として、臨在感を歴史館的に把握しなおすことが空気支配の2つ目の原則
    62空気支配を完成しようとする者にとって排除すべきものは対象を相対化するもの
    64対象を相対化することによって自己を対象から自由にできるのが大人
    69一神教モノティズムは神以外はすべて相対化して考える、空気に支配されにくく
    79聖書とアリストテレスで1千年鍛錬するとアングロサクソンができあがる

    水=通常性の研究
    91水とは通常、最も具体的な目前の障害を意味して、空気を崩壊させる
    104空気の拘束とは虚構の異常性だったと気づく
    108状況倫理、あの状況ではああするしかなかった...
    112状況倫理は自己意志の否定、行為の責任への否定
    127状況倫理は一人の絶対者と他の平等者となる、教師と生徒も同じ構図である
    130ひとはめいめい自分の罪で死ぬ
    137自由にしておけば自由を失う
    162演劇者は観客のために隠し、観客は演劇者のために隠す
    169脱却する唯一の道は、あらゆる拘束を自らの意志で断ち切った思考の自由とそれに基づく模索
    172空気と水なしに人間が生きていくことも精神が生きていくこともできない

    日本的根本主義
    200国民を拘束するのは神話であって事実ではない
    203一体これはデモクラシーなのかセオクラシーなのか
    207キリスト教伝統と西欧の憲法は分かちがたく結合している
    211教義の絶対化でなく日本では所属集団を絶対化するようになった
    212矛盾した教義や理論を併存できる社会はなにが問題か
    216人は論理的説得では心的態度をかえない
    217人は未来に触れられず、言葉でしか構成できないが構成してこなかった
    218空気に支配されることは、やがて自身の首をしめる
    219一度やけどしたほうがよいかもしれない

    以上

  • 20200411再読

  • みなさんは日常的に「空気」を読んで生活していることと思います。しかし、この「空気」というのはいったい何なのでしょうか? 様々な最終的決定を下しているこの「空気」を知ることは、自分の意思を取り戻すために不可欠である。

  • 空気の支配と水の効果
    これだけだと何を言ってるのかわからないと思いますが、「忖度」に始まるその場の「空気」の支配
    また、その支配に一石を投じる「水」を差すという行為。これらは、日本人独特の世界観である。
    令和の現代にも流れる日本人的感覚を解説している本。時代を超えて、楽しく読めた!

  • 2009.11.10開始〜2009.11.16読了断念

    内容というより文章表現があまりにも難解すぎて、2度3度読み返してもほとんど意味が理解できなかったため、1章の最後の直前で読了を断念。
    ここまで小難しい表現をしなくても、読者にもっと分かりやすい表現をすれば良かったのに、と思ってしまう。

    アプローチは良かったのだが、読み返したりする気にすらならなかったので評価は☆2つ。

  • NDC: 304

  • 日本人論の古典と言われていた本書をいつか読みたいと思っていて、ようやく購読。
    いわゆる「山本学」の典型と言われている作品だけに、客観的評価も高い作品である。

    本書は「日本的空気」における考察に加えて、客観論や現実論を、空気との対比で「水(=通常性)」として持論を展開し、最後に日本人的根本主義について述べている。

    本書に対する書評の中には、冒頭の日本人的空気における論考をさっと読んだだけの「そんなの当たり前すぎて論考するまでもない」というネガティブな意見も多いが、それは浅薄な書評と言わざるを得ない。

    著者は日本人的空気の特徴は「臨在感的把握」に依るものであるという。
    この言葉が直感的に分かり難く、かつ随所に現れるので読者としては少々混乱するところとなろうが、要は日本人はある事象に対してそこに実際にあること(臨在感的把握)として受け止めてしまう特性があるというのが著者の持論である。

    西南戦争、大東亜戦争における戦艦大和の出撃、高度経済成長期の公害問題等における、現代からみれば多少首をかしげたくなるような様々な事象や意思決定の背景には、それらの事象が臨在感的把握に把握された挙げ句に絶対化された故に生じたものとしている。

    また、昨今のKYという言葉に象徴されるような空気だけの論考に留まらず、「水を差す」という言葉に代表されるように、水を客観論や現実論として空気と不可分一体のものとして考察している点は深いといえよう。
    しかも、この通常性が、実は日本人的空気を生み出す温床であり、それが結果として日本人の「個人の自由を許さない社会」を創りあげていると結論づけている点は特筆に値する。

    ただ、他の多くの書評にも述べられているように、文体にクセがあり過ぎて読むのに骨が折れる。
    また、“研究”と謳っている割には論理性や客観的データに立脚した論旨展開に欠けている感は否めない。
    最終章の日本人的根本主義(ファンダメンタリズム)に関しての論考は、著者の専門である聖書をベースに展開されているものの、聖書の知識がない自分としては正直ほとんど腹に落ちなかった。
    また、これからの不確定な時代を日本人はどのように生きていけば良いのかという指南がないことも少々残念であった。

  • 山本七平氏が、「空気」=忖度や「水」について書いた本。
    「(差別の道徳)人間には知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりあいになるな、ということになる」p13
    「「戦艦大和」「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(小沢治三郎)大和の出撃を無謀とする人々にはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。最終的決定を下し「そうせざるを得なくしている」力を持っているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である」p15
    「「せざるを得なかった」とは「強制された」であって自らの意思ではない。そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任はだれも追及できないし、空気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探求の方法がない。だから「空気」としか言えないわけだが、この「空気」と「論理・データ」の対決として「空気の勝ち」の過程が、非常に興味深く出ている一例に、前述の「戦艦大和」がある」p17
    「(戦艦大和)そこに登場するのがみな、海も船も空も知り尽くした専門家だけであって素人の意見は介入していないこと。そして米軍という相手は、昭和16年以来戦い続けており、相手の実力も完全に知っていること。いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知・不見識・情報不足による錯誤は考えられないことである
    。(沖縄に無傷で到達できるという判断)その判断の基礎となりうる客観情勢の変化、それを裏付けるデータがない限り、大和出撃は論理的にはありえない」p17
    「「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。なにしろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行ったかを一言も説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから、スプーンが曲がるの比ではない」p19
    「ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々を現実に引き戻すことを意味している」p91
    「「いつまでもサラリーマンじゃつまらない」「独立して事業をやるか」ぐんぐんエスカレートし具体化していく。すべてがバラ色に見えてくる。そしてついに「やろう」となったときにだれかが「先立つものがネエなあ」一瞬でその場の空気が崩壊する」p92
    「(渡部昇一)自由主義とは資本主義のことだが、社会主義も国家社会主義も資本主義の矛盾が生み出したものである。資本主義も初期の資本主義とは違って、かなり自由ではなくなって社会主義化しているし、この趨勢は避けられない」p166
    「ストーブが5分後の未来において、人の体に触れたときどういう状態になるかをいくら説明しても、日本人はそれを信じないということである。臨在感的把握は、それが臨在しない限り把握できないから、これは当然のことと言わなければならない」p217
    「「ジュッと熱く感じない限り理解しない人たちだから、そんなことをすればどうなるかいかに論証したって耳は傾けない。だから一度やけどをすればよい」といった一種の諦めの発言であり、これは戦争中にもある。そしてそれが終わって空気が消失すれば、結局また同じことを言うわけである。「日米の生産力・軍事力の違い、石油・食料の予測、小学生でもわかる計算がなぜできなかったのか」人々は臨在感的把握に基づく直接的行動が自分に思わぬ結果を招来することを何となく知ったわけである」p218

  • 「理に働けば角が立つ。情に差を指せば流される。とかくこの世は生きにくい」漱石(草枕) 理に働く、つまり「水を差す」蟷螂之斧、一寸の虫にも五分の魂 と、流れに抗することを尊ぶ文化があった。しかし、「情に流される」体制に従う。まさしく「空気を読む」長いものには巻かれろ 無「理」するな 結局は「忖度」意を体して、上意下達 の 現代文化。異を唱え、水を差すものは KY と足を引っ張る。
    原子力発電の安全性。しかし、東北原発の事故で、突風が吹き、反原発の「空気」が吹き荒れた。官民挙げての「TPP反対の空気」 それらが鎮まると、いつの間にか、旧来の原発安全、再稼働、原発技術の輸出、TPPに反対した議員たちは、今は何食わぬ顔で変身、説明責任もない。いつの間にかTPPはできている。
    「空気」にも2種類あるようだ。マスコミの時事ネタの流行を追う「空気製造機」が噴き出すブーム的な空気。そして滞留し、上っ面の「空気」が去った後、変わらず残っている「空気」 建前と本音 といっていいのだろうか。反原発の時は、じっと台風一過を待つように耐え、去ったあと再び原発を推進する。事故前と何も変わらない無責任体質。19.2.8

  •  「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行なったかを一言も説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから、スプーンが曲がるの比ではない。(p.19)

     西南戦争は、いうまでもなく近代日本が行なった最初の近代的戦争であり、また官軍・賊軍という明確な概念がはじめて現実に出てきた戦争である。こういう見方は、戦国時代にはない。同時に、大西郷は、それまで全国民的信望を担っていた人物である。従って西郷危しとなれば、全国的騒乱になりかねない、否、少なくとも「なりかねないという危惧」を明治政府の当局がもっていた戦争である。ということは「世論」の動向が重要な問題だった最初の戦争であり、従ってこれに乗じてマスコミが本格的に活動し、政府のマスコミ利用もはじまった戦争である。(p.46)

    (吉田信美氏)いまでも考えつつけていることは、なぜこんなに「大過に充ちた」郊外行政が生まれてきたのかという根本問題である。結論的にいうと、どうも日本人の気性に根ざしているような気がしてならないのだ。36年に四日市にぜんそく患者が大量に発生し……(その後いろいろあって)……杉並区と世田谷区で光化学スモッグが発生すると瞬間的に自動車攻撃がはじまり、年末の国会では公害対策基本法が改正されて「経済の健全なる発展との調和」を図るという項目が削除されてしまった。なぜ、こんなにあわてて重要事項を削ってしまったのだろうか。熱しやすいにもほどがあるのだ。この……項目が削除されたことは、その後の環境行政の方向を誤らしめた重大過失だったと思う。(p.62)

     宗教的回心なら、心の展開により臨在監的把握の対象が一変し、「古き神々を捨てて新しき神々をとる」ことによって、「古き自分を捨て、新しき自分に生きる」という現象が起こっても不思議ではない。その場合、過去の臨在観的把握の対象は、消えるか、否定の対象として”悪魔化”され、その結果、自己を拘束していた過去の”空気”が一瞬にして消え、その呪縛から解放されたと感じても不思議ではない。たとえそれが新しい対象への呪縛に身を委ねることであっても。(p.155)

     臨在観的把握・空気の醸成・「父の子」の隠し合いの倫理、、以上に共通する内容を一言でのべれば、それは何なのか。言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配虚構」だということである。
     虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない。従ってそこに「何かの力」が作用して当然である。(p.161)

     戦後の一時期われわれが盛んに口にした「自由」とは何であったかを、すでに推察されたことと思う。それは「水を差す自由」の意味であり、これがなかったために、日本はあの破滅を招いたという反省である。従って今振り返れば、戦争直後「軍部に抵抗した人」として英雄視された多くの人は、勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」だったことに気づくであろう。(p.170)

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著者プロフィール

1921年、東京都に生まれる。1942年、青山学院高等商業学部を卒業。野砲少尉としてマニラで戦い、捕虜となる。戦後、山本書店を創設し、聖書学関係の出版に携わる。1970年、イザヤ・ベンダサン名で出版した『日本人とユダヤ人』が300万部のベストセラーに。
著書には『「空気」の研究』(文藝春秋)、『帝王学』(日本経済新聞社)、『論語の読み方』(祥伝社)、『なぜ日本は変われないのか』『日本人には何が欠けているのか』『日本はなぜ外交で負けるのか』『戦争責任と靖国問題』(以上、さくら舎)などがある。

「2020年 『日本型組織 存続の条件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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