占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫 え 2-8)

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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167366087

作品紹介・あらすじ

さきの大戦の終結後、日本はアメリカの軍隊によって占領された。そしてアメリカは、占領下日本での検閲を周到に準備し、実行した。それは日本の思想と文化とを殱滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖である。膨大な一次資料によって跡づけられる、秘匿された検閲の全貌。

感想・レビュー・書評

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  • 米国立公文書館で文献を集め、War Guilt Information Programの実態を曝露。

    ポツダムにより「軍」が無条件降伏したのであり、国家全体が無条件降伏したのではない。

    えとう・じゅん。

  • 本でしか知れない事実がある。事実は一つでも真実は複数。学校教育で育った私たちはアメリカの真実を教えられても日本の真実を知らないでいる。作者は今日いまだ自由はない、と締め括る。

  • 言論界で「反米保守」と言えば今でこそ決してめずらしくはないが、しばらく前までは進歩派と言えば「反米」、保守派と言えば「親米」というのが大方の相場だった。その中にあっていち早く「反米保守」の立場から鋭い論考を発表してきたのが江藤淳だ。本書はアメリカの対日占領政策における「War Guilt Information Program」(日本人に戦争の罪悪感を植え付けるための宣伝計画)として知られる言論弾圧・洗脳工作の実態を、アメリカ公文書館の一次資料にあたって丹念に検証した労作である。本書を読めば、「反米」と見えた進歩派も実はアメリカの手のひらの上で踊っていたに過ぎないことがよく分かる。この研究が一文芸評論家によって行われなければならなかったことを日米関係を専門とする歴史家は恥ずべきであろう。

    本書において江藤の批判の矛先は表面的にはGHQでありアメリカ政府である。それはまっとうな批判である。ただ忘れてならないのは、彼らは我々との熾烈な総力戦を戦い抜いた敵国だということだ。二度と自分達に挑戦できないよう、敵の徹底的な無力化を図るのはむしろ当然であろう。それは彼らがいかに日本人を恐れていたかを示すものでもある。ならばより根本的に問われるべきは、どれほど執拗かつ徹底的な洗脳であったにせよ、唯々諾々とそれを受け容れ、骨の髄まで奴隷根性の染み付いてしまった戦後日本とは一体何なのか、もっと言えば、たかが戦争に負けたくらいでプライドも矜恃も投げ捨てて、過去を全否定して平然とするこの国の精神風土の根源は何なのかということではないか。江藤が十分には問い得なかったこの問いこそ、我々が引き受けるべきではないだろうか。

  • 戦後以降しか知らない私にとっては違和感すら感じなかったことがこの本を、読み進むにつれて違和感を呼び覚まされ、なぜ「過ちを繰り返しません」と自戒しなかればならなくなったか少しわった気がする。

    しかも占領軍により秘密裏に行われ、日本のジャーナリストを支配したとある。
    占領軍による検閲は日本のジャーナリストと秘密を共有することで共犯意識を植え付け、言ったことを言わなかったことにした、言わなかったことは、言ってはいけないことにした、言っては行けないことは表現しては行けないことになりやがて考えては行けないことにエスカレートする。
    その後の教育を受けた僕らは違和感すら感じなくさせられる。
    これは人権蹂躙に等しい大罪である。

    この本は、現代の自由が根無しになり浮遊している時代だからこそ繰り返されるかもしれないと警鐘を鳴らしている。

    徳富蘆花の「謀叛論」のくだりは強烈な印象を残した。

  • 深く読み込めばしなかったのですが、アメリカ軍の検閲の実態(驚いたのが、検閲しましたシールがつくのはむしろ問題ないもので、問題あるものは検閲の記録を残さないんだ…)、そして、検閲のための翻訳(下訳?)した日本人が影響力強い立場になってたりして、今でもメディアの「自己検閲」で、日本人を洗脳し続けているのだと理解。

  •  ”あなたは騙されている、洗脳されている!!”
     そんなことを言われたら、大抵の人は白けてしまうのではないでしょうか。或いは胡散臭そうに感じてしまうのではないでしょうか。

     たしかに私の表現はちょっと言いすぎかもしれません。けれども筆者の主張は、日本人の思考は米国当局の意向を自主的に聞くようにコントロールされている、という事だと思います。ここまで直接的な表現はしていませんが、より洗練された言い方で彼はこれを『閉された言語空間』と表現したのだと思います。

     筆者がかく言う『閉された言語空間』の端緒は米国。第二次世界大戦中のメディア検閲にその起源を求められます。そもそも自由の国アメリカで、憲法で謳う自由と真っ向から反する検閲をどうやって並立させたのか。その答えは自主検閲という形に収斂しました。本書に掲載されている「米国新聞界に対する戦時遵則」の一部を引用させて頂きます。
    ―「幾つかの基本的事実を認識することが肝要である。その第一は、戦争の帰趨が個々の米国市民の未来にとって死活問題だという事実である。その第二は、わが軍の安全は言うまでもなく、われわれの家庭、我々の自由そのものの安全までが、利敵情報の公表時よって多少とも脅かされるという事実である。
     もし記者と寄稿者の一人一人が常にこの二つの事実を明記し、良識の命ずるところに従うならば、さもなければ処理困難な問題の多くに、おのずから回答を見出せるに違いない」(P.80)

     ちょっと古臭い訳です。要は、自由を守るためは検閲はやむを得ないというロジックです。そして、これに反すれば発行停止に追い込むという方法でプライス検閲局長官(元AP通信専務)は検閲体制を敷いたといいます。ここに米国大手メディアの死を見ることができます。

     そして、日本でも同様のやり方が取られたのは言うまでもありません。
     戦後の経済的に苦しい中で、GHQ当局のいう事を聞かねば商業的に成立を許されないのであれば、メディアは従わざるを得ない。そして、当局とマスコミは一種の「共犯関係」に陥り、好むと好まざるとにかかわらず阿諛追従的態度をとらざるを得ない。

     江藤氏はこのような検閲により、古来日本人の心に育まれてきた伝統的な価値体系が徹底的に組み替えられた(P.241)、と主張しています。その証拠に、後に江藤氏はドキュメンタリー映画製作にかかわり、その際、マスコミの自主規制によって表現の著しい変更を余儀なくされた経験を挙げています。連合国軍が去って数十年がたっても、自主規制という変容が残滓のごとく残ってしまったのだと主張したいのだと思います。

     しかし、私は思いました。こうした自己規制や自粛的集団行動、これをすべて検閲に原因を求めることはできるのか。
     確かに敗戦後の日本は戦前からガラリと変わったことでしょう。その変化について、GHQの果たした役割は決して小さくはなかったかと思います。
     ただ、日本という移動の限られた土地のなかで、社会の秩序は、自主規制や自粛ないしは雰囲気・同調圧力といった無形の圧力によって成し遂げてきたことも少なくなかったのではないでしょうか(ロジカルでなくてごめんなさい。肌感覚です)。そのように考えれば、筆者の言説はやや極端かもしれません。

    ・・・
     SNS大隆盛の時代に、マスコミの欺瞞や体制によるコントロールという視点はもはや古臭いかもしれません。みんな個々人が発信できる時代なのですから。
     しかし、権力のある者が物事を支配しようとする様は、常に巧妙に行われるのであり、そうした意味で本書の価値が今の時代に色褪せることはないと思います。米国でのTikTokやWechat禁止などの直接的な動きはある意味で素直です。国が本気で『検閲』をするとき、恐らくもっと巧妙に物事が進められるのでしょう。Googleなどの検索サイトがデータを収集する怖さは(怖いの私だけ?)検閲を構造的に可能にする(というかすでにされている!?)ことに原因のあるのかなあとぼんやり思いました。

  • EJ1a

  • 江藤氏が昭和54年から55年にかけての約半年間、ワシントンにおいて、日本占領中の米占領軍が行った新聞、雑誌等の検閲の実態を研究したもの。検閲を行ったのは占領軍の民間検閲支隊だが、その大部分は英語のできる日本人で、疑わしい文書を特定してはそれを英訳或いは要約して上司に提出していた。驚くべきはそのやり方で禁止事項のチェックリストの中に「検閲が行われていることを決して公式に認めてはならない」という項目が含まれていた。具体的には「全出版者は出版物の組立にあたり検閲の具体的証跡を現さないようにすること」という項目である。これは誰が考えても恐ろしいことだ。占領期間中一般人はどんなことがどのレベルで検閲されているのかはもちろんのこと、検閲されていること自体を知らないまま過ごしていたことになる。実質的にメディアは占領軍に都合のいい「真実」だけを流し続けることを強要された訳で、これは日本社会に大きな影響を与え、今もその遺産が残っているのではないかと私には思える。

  • う〜ん、思ったより批評性が削ぎ落とされていてびっくりした。「丹念に調べれば、消された真実が見えてくる」みたいな構造が最初から最後まで一貫しており、正直なところかなり右側に寄っている内容。確かに、大東亜戦争という言葉を太平洋戦争、と置き換えて使用することで消されるものや事柄はあるのかもしれない。し、確かにそこに奇妙なねじれがあり、戦後日本の自己認識を歪めているのかもしれない。しかし、それって占領下の検閲だけの問題なのだろうか?という根本の疑問が湧く。わたしが思う江藤淳の文章の面白いところは、戦後日本への奇妙な屈託の部分であり、彼自身が日本を信じながらどうにも日本を信じ切れていないところなのだけれど、論文調だからか、そこがバッサリ消えてしまっているのがどうにも気になる。こういう仕事もしていたのか。しかしながら、アメリカの図書館でここまで丹念に資料を解きほぐす執念みたいなもの、これは大変なものだとは思った。

  • 大東亜戦争後の米国駐留軍による検閲、日本人に悟られないように一種のマインドコントロールをかけたようなものだ。自虐的な戦後歴史観はすべてここから始まっている。もはや学校の歴史教科書は変えられないのだろうが、本当の事実は国民として知っておくべきだろう。

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著者プロフィール

江藤 淳(えとう・じゅん):文芸評論家。昭和7年12月‐平成11年7月。昭和31年、「夏目漱石」で評論家デビュー。32年、慶應大学文学部卒。37年、ロックフェラー財団研究員と してプリンストン大学留学。東工大教授、慶大教授などを歴任した。新潮社文学賞、菊池寛賞、日本芸術院賞、野間文芸賞など受賞多数。

「2024年 『なつかしい本の話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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