神かくし (文春文庫 な 26-12)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (213ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167545123

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  • 南木さんの作品と付き合ってきたが、2005年刊行のこの作品では、病気から立ち直り、まだ不安を残しながらも、診察を続けられるようになった生活が語られている。
    身の回りの暮らしや、人との交わり、過去の出来事に繋がる思いなどが深く静かに、それが生活のリズムの背後で過ぎていく。秋に読む本にはぴったりだった。
    ただ、山や川の呼吸が聞こえるような環境を知っているか、一山越えたかのような人生の境地にあっても、まだ迷いがふっきれない思いを共有できなければ、この作家の歩みについていくのは難しいかもしれない。

    新進気鋭の医師だった頃から、挫折を繰り返しながらたどり着いた今の生活が、私小説とでもいうような味のある文章で綴られている。

    <strong>
    「神かくし」</strong>
    まだ病気からしっかり治りきってない秋、二人の老婆と、なぜかキノコ採りに行くことになる。体調を心配しながら付いていき、山姥のような姉妹と雑木林を徘徊する。姉は外来患者で顔見知りだが、人工的な治療を固辞して、自然にまかせて生きている。
    川のほとりで採ったキノコでうどんを煮てくれた。アケビも採って食べてみた。
    <font color="cc9933">濡れた服を着替えてベッドにもぐりこんでいたらかえって来た妻が
    「山って、きのうそうやって寝てたのに、朝起きたらいなくなってて、私が帰ってきたらまたそうやって寝てて、そのあいだに山に行ってたなんて、それじゃあまるで神かくしじゃないのよ」
     うつを発病して以来の夫の行動半径の極端な狭まりを知りつくしている妻には、一日中山にいたとの証言が信用できないのは当然だった。
    「神かくしかあ。それだよ、それ」</font>

    <strong>「濃霧」</strong>
    叔父さんの叙勲祝賀会が鄙びた山奥の旅館で開かれた。濃霧に閉ざされた会場は世間から離れた秘境のようなところだった。何かしらつながりがある人たちだろうが、人間関係を説明されてもさっぱり理解できなかった。
    一族が集まった中で、隣に座った老人が、祖母と異父弟だと知ったり、叔父からは早く墓を整えろと言われたり、血縁の集まりは知らないことも煩わしいこともあった。
    病院の老医師のことを思い出した。望みとは違った道に進んで医師になったと言う話に<font color="cc9933">
    「後悔はしておられないんですか」
    「起きてしまった出来事はそれをそっくり身に纏うしかありません、そうやってみんなとんでもない老人になってゆくんです」
    と、嬉しそうに笑い続けていた。</font>
    隣の席の老人が
    <font color="cc9933">「本を書くっつうのは怖えことだ」
    と老人が背をさすってくれた。「おれのおやじはなぁ、うけをねらって村の後家の浮気の噂を本にしただ。みんなに笑われて温泉の源泉井戸に飛び込んで死んだ女がいただ。酸の強え湯でなぁ、引き上げられたときにはにゃあ、はあ骨になってただ。それっきり本なんぞ書かなくなっちまってこの宿におさまっただ」
    「なにをおっしゃりたいんですか」y
    「たぶん、おめえのおばあさんはそういうこんを教えなかっただんべから、教えておくまでだ。おれだってここでおめえに会わなきゃあ語るまでもなかった。先に死ぬもんが語ることを語るのは仁義だ」
    老人の表情は喜怒哀楽のいずれにも分類不能で、語りの単調さだけが印象に残った。</font>
    帰り道に濃霧が立ち込めるところは象徴的。

    <strong>「火映」</strong>
    高校の同級生だった山内が亡くなった後、その妻から手紙が来て。書いてあった小説が送られてきた。山内には運動でも勉強でも勝てず、彼は東京の医学部に現役で合格し、論文を発表して肩書きも上がっていた。
    高校時代、英文を完璧に和訳して見せた山内が書いたその小説「火映」は、下手な小説だった。
    淡い思いを抱いた看護婦と見た火口のうえに火が映っていた。爆発の前触れだと看護婦が言ったので、車を発進させて大急ぎで逃げた。と言う風景が書かれていた。原稿は山内の息吹をまざまざと感じさせた。
    ふと着替えをして電車に乗り新幹線で高校まで行ってみた。街はすっかり当時とは変わっていた。

    <strong>「廃屋」</strong>
    生家の屋根が飛んで崩れたので、なおすからと親切な隣人から連絡があった。任せきりにも出来ないと、訪ねることにした。体調がいいので、山を越えて歩いてみた。<font color="cc9933">
    いつの間にか視線が下に向いており、意識して顔を挙げるとそのたびに軽い浮遊感をおぼえる。仕方なくほんの数歩前の地面ばかりを見て道を登っていった。いつか下りになる、いつか下りになる、いつか下りになる・・・・
    空白になった頭の中におなじことばが回転し始め、呼吸が同調し、身体が極めて単純な歩く機械と化す。目的はいつか歩くそのものになっている。</font>
    川は綺麗に護岸工事され、家の庭は防護壁も壊れ後ろの森の木々に呑まれそうになっていた。

    <strong>「底石を探す」</strong>
    岩魚つりに熱中していた頃、ポイントの場所でいつも乗っていた石があった。川の水が減ったときにその石に、つり大会で準優勝したときの釣果の数17を彫り付けた。病気が治りかけた十数年後、またその川で釣りをした。つれなかったので諦めたが、昔いつも近くで元気に釣りをしていた老人が、車椅子に乗って現れた。カンテラつきの「水面」を貸してくれると言う。それで水の中を覗きながら石を探した。思った場所ではなかったが苔の生えた石が見つかった。


    中では「濃霧」と「廃屋」が読み応えがあった。

    「廃屋」にたどり着く話の中に息子の破れたスニーカー、散歩の途中で探した四つ葉のクローバー、赤い花が咲く満天星のこと、「歩く坊さん」、物置にあった古いランプにまつわる話、広辞苑で読んだあおぞら「青空」のこと、どれも小さなエピソードになって文中に埋まっている。物語の中にしっくり馴染んで忘れがたい、そういったものと呼応する精神的な状態が、淡々と書かれている.

  • 「体力がないと読めない。」最初はそんな感じがしました。精神的に疲れ気味の時にはちょっと辛い。
    日常の風景を切り取った私小説なので、結論など考える事無くそのまま呑み込んでしまえば良いのでしょうが、所々に哲学のようなものが現れる"論理的"文体に惑わされ、ついつい行間を読もうとしてしまいます。それが疲れを感じさせる理由なのでしょう。特に最初の2編にはそれが感じられました。
    どこが違うのかよく判らないのですが、最後の方はその感覚が無く、上手く飲み込むことが出来ました。

  • 短編5編.
    鷲田清一の解説が難しい.
    本文より難しい解説も珍しい.

  • 2010年11月7日読み。母の蔵書だったもの。

    南木佳士の著作を読むのは初めて(阿弥陀堂だよりは映画で見ただけ)。
    うつ病・パニック障害の医師(主人公)がちょっとした出来事を通じて影響を受けていく、という短編集なんだけど、自分にはあまり面白く思えなかった。

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著者プロフィール

南木佳士(なぎ けいし)
1951年、群馬県に生まれる。東京都立国立高等学校、秋田大学医学部卒業。佐久総合病院に勤務し、現在、長野県佐久市に住む。1981年、内科医として難民救援医療団に加わり、タイ・カンボジア国境に赴き、同地で「破水」の第五十三回文學界新人賞受賞を知る。1989年「ダイヤモンドダスト」で第百回芥川賞受賞。2008年『草すべり その他の短篇』で第三十六回泉鏡花文学賞を、翌年、同作品で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞する。ほか主な作品に『阿弥陀堂だより』、『医学生』、『山中静夫氏の尊厳死』、『海へ』、『冬物語』、『トラや』などがある。とりわけ『阿弥陀堂だより』は映画化され静かなブームを巻き起こしたが、『山中静夫氏の尊厳死』もまた映画化され、2020年2月より全国の映画館で上映中。

「2020年 『根に帰る落葉は』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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