自殺 (文春文庫 ゆ 4-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (198ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167621025

感想・レビュー・書評

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  • 自殺をしたいと思うことって別に異常じゃなくてむしろ普通ですよって言われたらちょっと嬉しいんですよね。
    人間って自殺したら「なんで自殺したの?」「自殺の原因は?」「誰が悪いの?」って思いますよね、でもじゃあこれがもし「なんで生きるの?」とかだったらどう思いどう答えますか?
    実は人間って死ぬことに関しては原因や理由を求められるのに生きることについては意外と無関心だと思います。そんな方に読んでほしいし、考えてほしいと思います。

  • キネマ旬報社によって編まれた原一男監督を特集した雑誌、「タブーこそを撃て!」に掲載されていた監督と柳美里氏の対談記事を通して。

    あとがきに含まれる監督の文章というのが気になったのだが、仮に書店で出会ったとしてもあまりにもどストレートなタイトルに手に取ることを躊躇するに違いない本書ゆえエイッとKindle版を購入してみて読み通した。その結果…

    あとがき含まれてなーい!(悲哀)

    どうやら文庫版を求める旅が始まりそう。

    ただこれを気に柳美里作品に囚われてみたい気になったのも確か。さて、どれから始めたものか。

  • まだ小説を出していない、劇作家だったころの著者24歳のころの本。自殺の話なら自殺未遂したことのある柳美里さん、というオファーもすごいなと思うが。眼目は、"私がみんなにいいたいのは、自殺を自分の人生の中にプログラムすべきだということです。"といったところでしょうか。ただ今日と同じ明日を繰り返すのではなく、なにかこれ!と人生でやることを決めたらそれを機に…楔を打ち込むような思いで、ということかな。自殺が特権化して美しく語られるケースへの疑義、死は彼岸にではなくこの世の内側に在る、”自殺は必ずしもネガティブな行為ではなく積極的に自己を表現するための行為だともいえる”という逆説、”日常というのはある種の人間にとっては凶器のように自分を脅迫するもの”、といったあたりが印象に。

  • 生きることを考えたいなら、死ぬことを考えてみようと思い読んだ。
    わたしは自殺をしたいと思ったことはないが、死にたいと思ったことは何度もある。
    死について考えたとき、消沈していくのではなく、むしろエネルギーが上がっていくのは、生きたいからだろう。
    タイトルにヒヤッとなるが、冷たくなく、むしろ温かい本だった。

  • 自殺する理由の本当の処は、想像の粋を超えられないのだと思いました。
    自殺をすると地獄に落ちるのが嫌だな〜と思い考えた事はないけれど苦しくてもう手の施しようが無かったら…あるのかもしれないな〜と思いました。
    誰に向けての本なのかな?

  • 選択肢

  • いい印象のなかった柳美里が自殺について語ったり対話している本。なぜいい印象がなかったかは読んでいてわかった。この本を読む限りではある意味では、人として普通の感覚を持っている気もする。自殺について、その魅惑性やある種の必然を肯定した上で、冷静に書くというのは、やはりイカてれいるというか狂っているような気もするが狂人にこの言葉は紡げないし、思索もできないだろう。ひとりの人としてのメッセージとしては考えさせられることの多い内容だったように思う。

  • 原一男さんの解説まで是非読んで下さい。

  • 死について考えることは悪いことなのか。なぜ生きるか、なぜ死ぬか。それを語り合うことが出来ない時代に生まれたことが辛い。

    死に時を逃してしまったから死ねないし、生き直すほどの気力もない。幸せの絶頂で死にたいけれど、もう平凡な人生しか歩めない。

    尊厳を守っていられるあいだに死にたかった。


    以下引用

    彼の死を知って、「人生の最も美しい贈り物は、好きなときにそこから抜け出させてくれる自由だ」といったそうです。(p22)

    ひとが自殺をする理由は人が生きる理由ほどあるんです。けれどひとが死を選ぶ本質的な理由は、自己の尊厳を守るという強い動機に支えられている、といえます。自殺は尊厳死であるといってもいいと思います。ひとは、自己を脅かしつづける屈辱を葬り、自己の尊厳を守る権利があるということをおぼえておくべきだと思います。(p25)

    つまり、自殺は必ずしもネガティヴな行為ではなく、積極的に自己を表現するための行為だともいえるということを考えていただきたいのです。(p26)

    夭折を美しいものとするセンチメンタリズムはよそう。死ぬことは何としてもぶざまだ。首をくくってのびきった身体、そしてその一部一部分、あるいは吐しゃ物。これが美しいと言えるか。問題は生きることがぼくにとってそれ以上ぶざまだということだ。(p43)

    日常というものは、ある種の人間にとっては凶器のように自分を脅迫するものなんですね。狂うことができれば、その日常からはるかかなたに逃れることができ、日常そのものとの関係を断ち切ることが可能なのだけれども、狂えない者はどうすればいいのかなと、私は思います。どうやってその攻撃に耐えればいいのでしょうか?(p54)

    自己規定とは他者の視線、つまり自分は他者からどう見られているのか、どのように期待されているのかという自意識から生まれます。この自己規定の閉塞状況から自由になれないことが異常な数の自殺者を出している原因とも言えます。(p180)

    死の解釈は気分としての死の美学に流されるよりも、はるかに重要な精神的支柱と成り得るものです。それさえ持つことができれば、自殺を批判的に捉えられもするし、死の誘惑に負けそうになったとしても、その原因と動機が自分の死の解釈に合致するものかどうかを検証してみるという冷静さを保てるかもしれません。死とは何かを考えることが、じつは死の抑止にもなるのです。(p185)

  • また読み返したい。死ぬことについて考え直したい。

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著者プロフィール

柳美里(ゆう・みり) 小説家・劇作家。1968年、神奈川県出身。高校中退後、劇団「東京キッドブラザース」に入団。女優、演出助手を経て、1987年、演劇ユニット「青春五月党」を結成。1993年、『魚の祭』で、第37回岸田國士戯曲賞を受賞。1994年、初の小説作品「石に泳ぐ魚」を「新潮」に発表。1996年、『フルハウス』で、第18回野間文芸新人賞、第24回泉鏡花文学賞を受賞。1997年、「家族シネマ」で、第116回芥川賞を受賞。著書多数。2015年から福島県南相馬市に居住。2018年4月、南相馬市小高区の自宅で本屋「フルハウス」をオープン。同年9月には、自宅敷地内の「La MaMa ODAKA」で「青春五月党」の復活公演を実施。

「2020年 『南相馬メドレー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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