赤目四十八瀧心中未遂

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著者 : 車谷長吉
  • 文藝春秋 (2001年2月1日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167654016

赤目四十八瀧心中未遂の感想・レビュー・書評

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  • 2015年最後に読んだ本。著者の車谷長吉さんが2015年に亡くなったから年内に、と思って。(誤嚥性の窒息が死因だったとかでけっこうショッキングだった)
    直木賞受賞作。この映画で寺島しのぶが賞を総なめしたイメージが強い。

    33歳の生島は、歩んでいたエリート街道を外れて底辺の生活へと身を落とす。尼崎にあるアパートの一室で、病気で死んだ牛や豚の臓物を串に刺し続けるという仕事にありつく。
    向かいの部屋からは彫眉という男が女たちに刺青を彫る苦痛の声が漏れてくる。
    階下の部屋には彫眉の情婦で妙に艶かしい女・アヤ子が住み、生島は密かに心惹かれていたのだが、ある日アヤ子が突然部屋を訪れたことから、事態は動き出す。

    日本が舞台の物語なのに、退廃的すぎてもはや寓話の域とも言うべきか。
    日がな一日臓物を串に刺し続ける生島と、雇い主のセイ子。毎日無言で臓物を届けに訪れるさいちゃん。彫眉にアヤ子。元々がエリートである生島以外はいわゆる底辺で生きる人々で、彼らを取り巻く人間たちもまた同じく底辺にいる。
    生島も自ら選んで堕ちた道に来たものの、他の道を選ぶことが出来ずに運命的にその場所にいる周りの人間から見ると、生島はやはり異質なものに見えてしまう。みな生島のことは嫌いではないけれど、住むべき世界が違うと感じて、遠回しに元の世界に戻るよう促したりする。その周りの人間の優しさが痛々しくて哀しくて不器用で、そしてとても愛おしく感じた。

    ヤクザ、刺青、コンクリ詰め、兄の借金の肩代わりに売られていく女…物騒で個人的には全く縁のない世界が描かれていて、人間臭く、恐ろしく、性の匂いも強く、雑然とした町の匂いとか、アパートの部屋に染み付く臓物の匂いまでが読んでいて感じられるような気がするほどなのに、一本芯に不思議な美しさが消えずに存在するように思えた。
    アヤ子の揺れる心情と最後に見せた強さが哀しく、読後の変な空虚間がしばらく消えなかった。

  • 病死した牛や豚の臓物を切り刻み、串に刺す手にねばりつく脂。
    隣室の老娼婦が慰めを求めてとなえる、絶望的な呪文の声。
    骨を噛むような呻き声をあげ、刺青を入れる人たち。

    どん底の狭い世界で生きる、アウトローな人々。
    動物のように本能のままに、ただ口を糊するために生きている。
    その泥沼の底に見た、蓮の花のような女。
    彼女はより一層の地獄へ堕ちるため、
    命さえ投げ出してくれるほどの、誰かの愛が欲しかった。

    心中未遂を経て、男はまた人間らしい生活に戻る。
    男にとっては、ただの行きずりの出来事だったのだろう。
    男達の業を絡めとり全てその身に抱えた女は、二度と浮かび上がれない。
    しかし、自分に命を賭した男がいたという事実は、
    生命の奥底の温かい灯となり、彼女を救うのだ。
    哀しいまでに潔い、女の覚悟が胸を衝く。

  • ひりひりするような文章を、もっと読みたくなる。

    かつて読んだことがありましたが、また私の年齢環境想いも違って、新鮮に楽しめました。

    最後まで読み進め、瀧での放浪、その後の泥まみれの映像だけ、自分の脳裏に当時しっかりと焼き付けていたようで、そのシーンにあたるところでそうだーそうだ、これだとぴたりとあてはまりました。

    見てはいないのだけれど、どうしても、映画、寺島しのぶ、というイメージに引っ張られてしまう面は否めない。

    あれ、アヤちゃんだったのか、いやそれともこの赫毛の女なのか?と思い読み進め、ああアヤちゃんなのか、と合点の行く始末。

    ちなみに他の出演者は誰だったのさと気になって調べてみると、主演は大西滝次郎改め大西信満さんという方―ああキャタピラー主演でまた寺島さんと共演しているんですね―とセイ子ねえさんは大楠道代さんか。

    自分の中の世界と、イメージが違う配役であるのと、そもそも独白だらけのこの作品を映像にすることというのはどうやってこの世界を表現していくのか、言葉をそのまま発信していくのか、この言葉に真正面からぶつかっている物語を映像にどう転換していくのか。
    それが映画監督、俳優たちの腕の見せ所なのかな、と思います。

    私はそれが映画よりも文字から思念する世界の方がより好み、なのでしょう。

    言葉で虐げられ、言葉で傷つけられても、それでも言葉に救いを求め、すがって、支えにする自分が居るんです。

    こういうひりひりするような文章が読みたいので、他の作品もメモ。

    しかし私に圧倒的に足りないのは花に対する知識だと、改めて。
    前回塩壷の匙や、吉屋先生の屋根裏の二処女を読むにつけ痛切に感じ、でも植物辞典はちょっと、趣味じゃないから俳句の季語辞典みたいなのを通読してみようかしら。

    なにか、おすすめ、あれば教えてください。

  • 映画は、寺島しのぶの出世作(見てないけど)。タイトルから、曽根崎心中のような浄瑠璃をイメージしていたが、昭和53年の尼崎。くすんだ、淀んだ町の底辺の人たちの物語だった。
    もともと都会の会社員だった主人公が、自ら世を捨て、流れ流れて尼崎。余計なことはしゃべらず、他人と距離をおき、ひっそりと過ごす。痛いほど、自分を落としていく。だが、掃きだめの鶴、アヤちゃんに心奪われ、欲情があらわになる。そこから物語は急展開する。
    発する言葉は少ない。だから言葉への執着が半端なく、重い。伝えたい思いは、心の中で練られて考えられ、結局はしょられ、言わなかったりで、もどかしく苦しい。
    小説から見えるその町は、濁った色で脂っこく臭い。その分、彫り物の鮮やかさ、四十八滝の滝の飛沫が際だつ。怖いほど。
    読み終えてから、作者車谷長吉さんが数日前に亡くなったことを知った。死因は誤嚥。切なすぎる。

  • 小説を書くことで生きたい男が身を持ち崩し、まっとうな社会に背を向け隠遁の生活を彷徨うのだが、そこは言語を弄するような観念の世界と真逆なリアルな生き方しかない社会の底辺であって、結局はそこの住人たちから異物として扱われ排斥されていく物語。書くべき人生を持たない主人公が、底辺の社会で生きる住人たちの人生にその書くべきものを見出してしまうことでそこの住人にはなれないのだ。あえてただただ日々の生を生きて見ようとするのだけれども、所詮は異物同士お互いに馴染めないまま、それでもつかず離れず共生している主人公と住人たちの姿に独特の味わいがある。

  • 古本で購入。

    一読して絶望した。
    小説の巧みさとは別に確固として存在する作者の曝け出したナマの部分、おそらくそれは人の心を何かしら抉る力をもっているはずだが。

    心中は「未遂」に終わった。
    結局のところ、「私」にとっては尼崎における何もかもが「未遂」だった。
    尼崎を離れて数年後、再び訪れたその街には「私」が関わった人々はどこにもいなかった。作中の“物語”は、「私」が尼崎に存在しようがしていまいが起きた。

    その人々にとって「私」は何ももたらさないマレビトにすぎなかったのだ。
    「そろそろこの街を離れようか」と“思える”「私」と、“思えない”人々との間の断絶は深く暗い。所詮は破滅志向を行動に移したにすぎないインテリと、そこに生きざるを得ない人間とは交わることができない。
    再び東京で会社勤めを始め、小説家としても再デビューし、文学の世界で成功をおさめた「私」こと車谷長吉が「心中未遂」したのは、ただ女ひとりではなく、自分が身を置こうとしてついにはできなかった「温度のない街」尼崎、そこに横たわる社会、あるいは世間だ。
    それは一人称の文体をとりながら、どこか三人称的・鳥瞰的な、冷静な語り方からも感じられる。
    自分を含めたすべてに対して観察者になっている人間が、“そこで”生きていると言えるのだろうか。

    無痛の痛みのような揺らぎを心に生じさせる作家だと思った。
    これから他の作品も、おそらく淵の底を窺うように読んでしまうのだろう。

  • 蠢く言葉に圧倒される。相応しいレビューが書けない自分をもどかしくも思う。自分にとっては至高の作品。

  • 人間の業をえぐりとる、恐ろしく読み応えのある文章。尼崎が舞台で知ってる地名が多くリアルかつ幻想的。

    この小説を読んで以来、そこらの文章が味気なく感じるほど、一度味わったら忘れられない濃厚な文章。
    予想外な終わり方も好き。

  • 文章がかなり好みだった。こんなにすっと自分のなかに馴染んでいく文章を読んだのはかなり久々だ。

    なんの足がかりもなく突如として会社を辞め、ジリ貧の生活の末に阪神尼崎にたどり着いた。(ところで尼崎といえば現在コンクリ殺人の報道が毎日のようにされていて大変タイムリー)
    「私」はかなりワケありのアパートの一室に住み込み、一日中病気で死んだ家畜の臓物を串に刺しつづける。

    この、串刺しがよかった。女主人や東京の客人から「あなたはこんな仕事をしている人間じゃない」「ここにいるべき人間じゃない」と言われながらも「私」は串に腐った臓物を刺しつづける。その修行僧のようなストイックさ。けどその勤勉さがアダにもなってかえって周りの人間からは疎外というか、遠ざけられている。
    「私」は結局、小説をとおして本当の意味では誰とも触れ合っていないんじゃないかっていう気がする。
    むしろセイ子ねえさん、晋平ちゃん、さいちゃんといった一癖も二癖もある登場人物たちとの触れ合うか触れ合わないかの、接点がヒリヒリするような会話の描き方とか、とても上手いと思う。

    しかしながらタイトルの「殺人未遂」にもあるとおり、アヤちゃんと駆け落ちのように外へ外へと逃げていくところから、だんだんと共感が薄れてしまった。なんか、そういうんじゃないんだよなあっていうか。わからん。

    私小説は時代遅れとは言うけれど、こういうの読んじゃうと日本人には(少なくとも自分には)、自堕落な人間の私小説に思わず共感してしまうDNAでも組み込まれているんじゃないかと思ってしまうのだ。

    解説から抜粋―
    「現代の多くの小説が、社会の表層に浮遊しているだけなのに対し、車谷長吉は、時代の流れに抗うように、社会の底へ、人の心の深部へと下降していく。日々、消費されていく日常の時間とは別のところに身を置こうとする。生半可な言葉を拒否し、生の深みへ、淀みへ、泥土へと降りていこうとする。」

  •  凄まじい物語である。
     この話はすでに10年以上前に書き上げられている。その年の直木賞を獲っている。
     その後しばらくして、もう私小説は書かないと著者は宣言した。命を削るような話は最早書けないとも言った。当然だろう。

     『漂流物』が、本命視されていたにもかかわらず芥川賞を逸したとき、この話は原稿用紙にして300枚ほどすでに出来上がっていたという。著者の奥さんは、コノ物語が完成した直後、夫はコノ作品で次の直木賞を獲る。と断言し吹聴して回ったという。身内の欲目、では断じてないと思う。彼女とて一級の詩人であるからではない、ある程度の読書人であれば、一読すればその「確信」が解る。
     白洲正子が「十何年もまえに見っけたのは私なんだからねっ」と豪語したのは直木賞受賞の直後だから既に10年前だ。稀代の目利きが見出してから世間が認めるまで十数年を要したことになる。私のような凡人がその存在を発見したのが四半世紀後であっても恥ずかしいことではなかろう(でも、もっと早くに知っていたならもっとよかっただろうが)。

     書くことに命を賭し、あるいは書くことで命を苛み、生きて狂ったか、あるいは狂って死した累々たる文豪たちの人生と作品との比較において、凄みの点で一歩も引けをとらず、むしろ凌駕するほどのものである。尚且つ今生き、書き続けている作家である。
     そしてまた、世に出た後も、なぜか埋もれている存在でありつづけて見えるのは、この作家に一層凄みを加えている。

     万人にお薦めできるものではない。それどころか万人に戸惑いと一種の嫌悪を抱かさずにはいられないこの作家と作品は、それ故にこそ紛うことなき逸品に違いない。稀代の目利きが見出し、第一級の文学賞を獲った作品だから、ではない。読むものがそれぞれ読んで感得するしかない凄みがある。

     最後の文豪である。少なくとも私ひとりはそう確信する。

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「私」はアパートの一室でモツを串に刺し続けた。向いの部屋に住む女の背中一面には、迦陵頻伽の刺青があった。ある日、女は私の部屋の戸を開けた。「うちを連れて逃げてッ」-。圧倒的な小説作りの巧みさと見事な文章で、底辺に住む人々の情念を描き切る。直木賞受賞で文壇を騒然とさせた話題作。

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