- Amazon.co.jp ・本 (299ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167654047
感想・レビュー・書評
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作者が文士を目指すまでの自伝的な作品だが、作者の血肉が詰まった濃密で凄絶な内容。
女性との特異な出会いと別れが幾つか描かれるが、そういった描写が本当に巧く感心する。世間的にはクズと呼ばれる部類だと思うが、厨を転々とする日々、作者の才能を信じている編集者との友情、女性との向き合い方に触れるうち、いつの間にか作者を人間的に好きになってしまった。
遅咲きだが、確実に天才の1人だと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2002年刊の長編小説で、車谷が自らの青春時代を振り返った作品だ。
私は川本三郎さんの『マイ・バック・ページ』(河出書房新社)という作品が大好きなのだが、これは“車谷版『マイ・バック・ページ』”という趣の作品。
『マイ・バック・ページ』は、川本さんが『週刊朝日』の記者だった20代の日々を振り返ったもので、「ある60年代の物語」という副題どおり、1960年代のさまざまな流行・風俗がちりばめられた出色の青春グラフィティとなっていた。
この『贋世捨人』も、時代背景となる1970年代初頭の社会的事件が随所に盛り込まれ、車谷らしい切り口でとらえた70年代グラフィティとして楽しめる。時代にどっぷりつかるのではなく、一歩退いた位置から時代を冷ややかに眺める視点が保たれているのだ。
三島由紀夫の自決(1970)に衝撃を受けて小説を書き始めたという車谷は、伝説的雑誌『現代の眼』の編集部で働き、連合赤軍事件(1972)や金大中事件(1973)にも、ある具体的なかかわりをもつ。
のち、『現代の眼』編集部を辞めて朝日新聞社の中途採用試験に合格するも、石油ショック(1973)によって朝日が新規採用自体をとりやめ、せっかくの就職をふいにする。そして、関西の料亭の下足番として、「無一物」の生き方を始めるのだった。
つまり、『赤目四十八瀧心中未遂』で描かれた時代の手前までが、この作品で描かれるのだ。
大江健三郎、小林秀雄、小佐野賢治、児玉誉士夫、竹内好、齋藤十一などの大物が次々と実名で登場し、ゴシップ的興味からだけでも十分面白く読める。
新潮社の「天皇」と呼ばれた齋藤十一(元重役。『週刊新潮』『フォーカス』の生みの親でもある)に批判的に言及した部分があるが、にもかかわらずこの本が新潮社から出せた(単行本時)のは、齋藤がすでに世を去ったからであろう。
車谷自身についての部分では、他の作品と重複するエピソードも多いのが難だが(ま、これは私小説作家のサダメだ)、小説としてすこぶるていねいな仕上がりで、読み応えがある。
『マイ・バック・ページ』は清冽なリリシズムに満ちた切ない作品だったが、同じ青春グラフィティでも、こちらは車谷らしくむごたらしい印象。「青春という名の地獄巡り」という趣である。
無惨な初体験(娼婦を買ったら、事後に相手が小学校時代の同級生であることに気づいた、というもの)や手ひどい失恋のことなども、自らの心の傷をグリグリえぐるように描いている。
また、物語の後半では、文芸誌『新潮』の担当編集者と車谷との、四六時中睨み合うような凄絶な関係が描かれる。
車谷の才能に惚れ、世に出そうとする編集者の入れこみようときたら、よく言えば「熱意にあふれている」が、悪く言えば「もうムチャクチャ」だ。
1本の小説を『新潮』に掲載するまでに、じつに12回(!)も原稿を没にし、原稿を持っていくたびに「俺は失望したよ」とか「お前、よくも俺にこんな原稿を読ませやがったなッ」などという悪罵を投げつけるのだ。
そのくせ、自分のボーナスの一部を一方的に車谷に押しつけ、経済的援助をしたりする。こんな文芸編集者はいまどきもういないと思うが、車谷が逃げ出したのも無理はない。
ちなみに、天皇・齋藤十一は車谷の作品を蛇蠍の如く嫌っていて(さもあろう。なんとなくわかる)、「車谷に入れ込みすぎた」という理由でその編集者を文庫編集部に異動させてしまったという。
いやあ、じつに面白かった。
面白さということでいえば、『赤目四十八瀧~』の次くらいに位置すると思う。
『贋世捨人』というタイトルも、車谷らしくてよい。世捨人を気取った自分に酔いしれるのが並の私小説作家だとしたら、車谷には、そんな自分を一歩退いた位置から眺めて皮肉な笑いを浮かべている趣がある。「しょせん贋世捨人やないか」と……。 -
小説として素晴らしいとは思わない。私小説というのはそういうものだと思う。見方が悪いのかも知れないけれど、僕が考える小説とは違うのだろう。
贋にすら憧れてしまうような切実さや苦悩を思うと、それはもう贋じゃないのかもと思ってしまうけど、それも違うくて。ただ単に僕は人間の話が好きなのだと分かった。人間臭い話が。 -
世捨人になりきれないつらさ。いや、世捨人だからこそ、お金に固執するのか。自堕落な筆者が作家になるまでの半生を赤裸々に描いた、私小説。最後は、作家になることこそ、世捨人になるのだと大悟していく。
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昨年、病気になり、とうとう会社も辞めてしまった時、『贋世捨人』というタイトルに惹かれ、本を手に取った。
そして、車谷長吉氏が、私小説の作家であり、作家になるということはどういうことか?、詩や小説を書きたいと思っている自分にとって、社会とどのように距離をとればいいのかを、みつめてみたいというのもあった。
印象に残ったのは、ある主人公の友人である精神医学者の「小説を書くというのは、この男のように狂気でするのではなく、正気で風呂桶の中の魚を釣ろうとすることではないか」という言葉だ。
風呂桶には当然魚はいない。そんなことは無益なことなのかもしれない。
だが、作家になるとは、世の中の常識、つまり、“風呂桶の中の魚を釣ろうとすることが狂気である”とレッテルをはるようなものと対峙することなのだと理解したのだ。
これから文筆をする上での参考になるだけでなく、この小説は、自分と社会のありようを見つめることができるものだと考えた。 -
いいんだけど、赤目を先に読んじゃったから免疫がある。それが残念。
だけども、車谷長吉の一冊目は絶対赤目!! -
まずます面白かった。
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2008/9/30購入
2011/5/26読了 -
作者の車屋長吉が小説家になるまでの苦闘を記した自伝小説。
世を憂い、ごく当たり前の人生を送る事よりも西行のように世捨て人として人生を費やしたいと考える長吉。
出家を考えるも挫折し、会社に入社し転々と職を変えながらも小説家を目指し投稿した小説が今一歩のところで落選してしまう。
挫折しながらも旅館の下足番や料理屋の下働きとして口に糊しながら小説を書くが何度書き直しても良い作品が書けず、苦悩する長吉。
大学時代の友人である谷内という精神科医に、『研究所内の風呂場で浴槽に釣り糸を垂れている患者に「釣れますか?」と声をかけると、「馬鹿、風呂桶で魚が釣れると思っているのか」と怒鳴られた。世の中で自分を正気だと思っている人達は、価値あることだと思っているが人の一生は風呂桶の中に釣り糸を垂れ続けるようなことではないのだろうか。』長吉に正気で風呂桶の中に釣り糸を垂らし続ける様に進めます。
長吉は、正気で風呂桶の中に垂れ続けよとは、「時代に反発しながら生きよ」との事だと啓示を受けます。
奥歯を噛み締めながら小説を書き、