形而上より愛をこめて メタフィジカル・パンチ (文春文庫 い 56-1)
- 文藝春秋 (2005年2月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (243ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167679323
感想・レビュー・書評
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著者が雑誌『諸君!』に連載した哲学的人物批評のほか、著者が敬愛する小林秀雄に宛てて書いた手紙の形式の文章などを収録しています。
『諸君!』という雑誌の読者は、おおむね著者のいう「この世のこと」に関心を寄せていると考えられますが、著者はそうした読者を相手に「この世のこと」を丸ごと宙づりにするところに「哲学」の意義を見ようとしており、そうした問いかけをしないではいられない者のまなざしで、評論家やエセ哲学者たちに舌鋒鋭い批評を投げかけています。とはいっても、高みに立って俗世間的な価値観を切り捨てるのではなく、「この世のこと」の「外」のまなざしが純粋に示されていて、清潔な印象を受けました。
個人的には、養老孟司の「唯脳論」に対する著者の批評がきわめて的確で、おもしろく読みました。養老はしばしばわれわれ人間の認識活動を脳の機能であるという発言をおこなっており、その立場を物的一元論の一種とみなすような解釈を招いているのですが、著者は養老が東大を退官したさいに述べた「私が教えるのは、死体とはなにか、である。その答えは、じつは私だ、というものである」ということばに注目し、「唯脳論は、唯心論を唯物的に語るための方法である」と主張します。こうした著者の理解は、ベストセラーになった『バカの壁』(新潮新書)に引き継がれる養老の構造主義的な発想の根幹をいいあてており、たとえば大森荘蔵の唯脳論についての理解に比してもすぐれたものであるように思われます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
p.2005/2/13
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池田晶子という銘の刻まれた刀を、我流で、ただひたすらにぶん回す。
後には、刀で無残に斬られた者が横たわり、刀によって守られた者が立ち尽くしている。
著者の言う「哲学」という言葉は、決して難解なものではない。
「誰か人が考え、考えつつある現場、そこでそれがどのような仕方で為されているか、どれほど自覚的なのか、そのことを見極めることの方がよほど面白いと思うのだ」(P.47)
考えるということについて考える、ということを哲学と呼ぶのなら、著者は紛れもない哲学者だろう。
そうして、彼女によって愛を注がれる哲学者たちが、これまでの歴史とこれからの歴史を、連綿と形作っている。
「自分がたんに自分であることの卑小な個人性から、人類的な精神性へと昇華されることができるのは、古典を愛し、また愛した人々をさらに愛するという我々の心の無限の連鎖を感受するときだろう。新しい知識や方法を追うのに忙しいタイプの学者さんに感じる危なかしさの、それはちょうど裏返し、人間が考えることがそうそう変わるはずはないのだから、静かな、超然としたそういう人の方が、私はいいなあ。」(P.142) -
2011.09
メタフィジカルパンチ
知っていて悪を為すものはない ソクラテス
ニーチェは信仰の神を殺すことによって真性の神を生き返らせたのだ
明晰判明の人デカルトは信じるの語を故意か否か無視している
ある語はその語が意味するところのもの以外ではない ソクラテス
歴史は鏡だ 過去の鏡に自分が映る 人間の顔が映る 小林秀雄
私は対象を語る しかし私が語るのではない 対象が語るのだ
私は、対象を語る私を語るのではない 対象が語ることを語るのみである
哲学は常識に到着するのではない 常識から身を起こすのだ
手遅れ状態で発見されれば病人として生きる期間は短くてすむ選択もある
健康はそのことを考えたときに人は不安になってしまう
病は気からというように、病は自然現象につけられた名称であって、私たちの頭の中や観念のうちにしか存在しない
がんにおいてこそ、病という観念から死ぬまで解放される
哲学と人生とは実は真っ向相反する関係にある
思い悩むなんてのは現実認識が甘いのである プライドが足りないのである
現実とは言葉以外の何物でもない -
いろんな人間をばったばったと切りまくる。
でも小林秀雄にはある意味ラブレターだな〜てまじラブレターなんですがw -
そもそも哲学なんていうのは著者がいうように、考えたくなくても考えずにいられない人がするものであって、ニーチェ全巻読破してやろうと勢いこんでやるものではないし、哲学ぶってる私ってかっこいいとか思う人がするものでもない。別にニーチェを読まなくても哲学はできるのである。皆さまエセ哲学入門書などでその気にならないようお願い申し上げます。