世界は村上春樹をどう読むか (文春文庫 編 7-1)

制作 : 柴田 元幸  沼野 充義  藤井 省三  四方田 犬彦 
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167753894

感想・レビュー・書評

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  • 村上春樹をめぐるシンポジウムの様子を収録したもの。四方田犬彦さんがシンポジウムをひっくり返すようなことをおっしゃるあたり、ああ。という感じもしなくもないが、これは芸風ということで。もっと他国の翻訳者たちの話を聞きたかったなあ。
     地味にスラ研なんかのシンポも付録でついていて、そこのところがとてもありがたい。勿論一番の読みどころはパワーズの講演である。

  • こういう会談形式の文章って読みやすくて好き
    沼野ッチが『海辺のカフカ』ならぬ「山の中の春樹」とかいってておもしろかった

    村上春樹が優れているかとか純文学であるかとかそういう文学評論家の話はほんとうにどうでもよくて、ただ彼を通して知れたこと、興味を持てたことが私にとってとても多いしそれが全て今の私の血肉になっているのでありがたいと思っている。

  • 予想外におもしろかった。

    村上春樹を語る国際会議、みたいなのがあって
    世界中の翻訳者とかが集まって
    彼の作品や、翻訳状況について語っているのですが。

    基調講演でその作風を「ミラーニューロン」に例えた
    科学的なアプローチが興味深かったです。
    文学と科学。

    繰り返される「異世界」「井戸」「2つの世界」の話。
    登場人物は、カップルでいるようでいて
    そこには1人しかいない、とか
    そういうことをうまいこと解説してくれてました。

  • 何かをするのを想像することと、実際に何かをすることは、重なりあう営みなのだ。(p.44)村上春樹の小説が多くの人々に訴えるのはむしろ当然でしょう---ナショナリティ、自己、その他かつて人をひとつの場所につなぎとめていたものたちが、グローバルな資本と貿易の互換性の流れにあっさり呑み込まれていくのを感じてきた人々すべてに。(p.62)(冒頭の、リチャード・パワーズの基調講演より)/世界中の村上春樹翻訳者たちを一同に介し、村上春樹文学との出会い、翻訳者になった道行き、翻訳する際に苦労した文化の違い、各国での村上春樹文学の受容についてなどなど、幅広く語られている。特に興味深かったセッションは、各国で出版されている村上春樹の本の表紙を次々と見せ、それにまつわることを話してもらったセッション。ひとつとして日本出版時と同じものはなく、日本の作家だからとゲイシャフジヤマ的ステレオタイプな日本イメージをはりつけたものから、最近はこのほうが売れゆきがいいからとあざやかな抽象的なものまで幅広く。また、擬音語やカタカナで書かれる固有名詞などが特に訳しにくく、”ドイツではマンガの擬音語・擬態語を訳すためだけの辞典が出ているそうです”というのは興味深いエピソード。また各方面への村上春樹文学の影響のなかに、個人的に大好きな映画、ウォン・カーウァイ監督「恋する惑星」が挙げられていて、なるほど、と。最後は、棚から、映画「パン屋襲撃」「100%の女の子」のDVDを引っ張り出してきて見返そうかなという気持ちに。

  • 2006年に行われた国際シンポジウムの議事録的なやつなんですがまーオモシロイ。個人的にいちばん共感したのは付記にあるタイの翻訳者の言葉。
    「村上作品は白か黒にはっきり分かれ、中間はなし。まあまあといった中庸の批評は一切なかったです。読者は二つのグループに分かれます。つまり、村上春樹の言葉を一言たりとも理解しない人々と、彼のスタイルに心底惚れ込んでしまう人々と。」
    ドイツなんかでもかなり評価が割れてると聞いたことがありますが、なんででしょうね。まぁ平易な言葉でそれなりに高度なことをやっているからでしょうか。あと韓国では「春樹世代」という言葉があるつー話も純粋にすげーなと思いました。ファンなら読んで損はないです。おすすめ。

  •  世界各国の村上春樹の翻訳者が一堂に会した講演会の記録。みな村上作品のファンになって翻訳をしているひとたちばかりなので専門家による一大ファンダムといった印象。

     各国の村上作品の表紙を切り口にした、「日本の表象としての村上」や、「スパナ」と「夜のくもざる」を題材にしたワークショップなど普通の翻訳本や解説本と違うおもしろい形式である。
     特にワークショップでは、「スパナ」では日本語の多様なオノマトペをどうやって自国のものに流し込むか、「夜のくもざる」ではひらがな、カタカナ、漢字の使い分けをどう表現するかを、翻訳者たちが苦心し、工夫する様子がそれぞれおもしろかった。「くもざる」では日本生まれの我が子(つまりナチュラルなバイリンガル)に自分の訳したものを聞かせおもしろかどうか尋ねるというハンガリーの翻訳者のエピソードがへぇーと思った。


    P2
    藤井省三:台湾を起点に、香港→上海→北京と10年かけて時計回りで展開し、シンガポールにも伝わった村上ブームは各地における高度経済成長と深い関わりがあります。新たに登場した中産階級が、経済成長の踊り場にさしかかると自らが棄ててきた過去をじっくりと回想し始めるのです。

    P4
    沼野:要するに適度にエキゾチックでありながら、基本的には普遍的な現代文学の土俵の上に乗っている。

    P7
    柴田:(アメリカの若手作家の中にも村上春樹の影響を受けている作品が時々見られる)要するに、書き手の潜在意識、意識の深層がポップカルチャーでできているということは世界共通になってきているのかなと思います。

    P49(基調講演)
     ハイテク後期資本主義の世界にあっては、日常的なもの、ありふれたものが、想像もつかないもの、奇蹟のようなものと隣り合って存在しています。それらの奇蹟をここでわざわざここで繰り返すまでもないでしょう。時間と空間の克服、人間的限界の変容と超越。村上作品に出てくるどんなに途方もない展開であれ、じつはわれわれが日々目にしている情景に比べて、格別に奇怪でも疎外感を引き起こすものでもないのです。
     しかしここで、内と外のミラー・マッピングをやってみましょう。個人に疎外感を与える力において、グローバリゼーションは、分散した意識のモデルを用いて今日のニューロサイエンスがあざやかに説明している、もろもろの混乱した意識の病理と奇妙に似ていないでしょうか。グローバリゼーションもまた、世界を見慣れないものにし、顔を識別する力をわれわれから奪い、われわれを分裂させ、われわれが棲んでいる場はでっち上げられた異境だとときます。いまや個人のアイデンティティは上からも下からも攻撃にさらされています。心地よい、整合性ある国境から、無数のグローバル市場の「息をのむばかりに圧倒的な互換性」へと追い立てられることは、目の高さで見るなら、単一にまとまったかつての自己から追い出されて、何百もの脳のエリアが作るゆるやかな連合に入っていくこととよく似て見えます。どちらにおいても、かつては統合されていた「私」はどうしようもなく流動化し、切り放たれ、即興を強いられ、幻でしかなかった故郷を追われて、深い地下世界へと、われわれの内なる幻想が他者の外なる動きに自在に共鳴する異境へと入っていくのです。
     そしてこの見慣れない、流動的な、すべてが組み直される場所の中を、村上春樹の子供たちは動いていきます。懐中電灯を手に地下をさまよい、ひとつの世界の終わりに行き当たりながらも別の世界の始まりに迷い込みます。けれども、不思議なことに、かつ素晴らしいことにーそしてここにこそ村上春樹の小説の驚異的な文学的成功の秘密が潜んでいるように思えますー村上の登場人物たちは、かつて確かだったものたちが崩壊していくことに、はじめこそ恐怖の念とともに反応するものの、やがてどんどん発見のスリルを示すようになるのです。「ガーディアン」紙のインタビューで、世界中にこれだけ多様な地域でかくも広範な読者層を得た理由を問われて、「僕の本は読者に、自由の感覚をー現実世界から自由になった感覚をーもたらすのかもしれません」と村上は答えています。言い換えれば、世界はわれわれに固定した予測可能な居住地しか与えてくれないという思いこみからの自由、われわれは変化することなき単一の統一的存在だという虚偽からの解放。
    「われわれ」が何百もの異なる国の産物であること、自己と外界の大まかなモデルをそのつどでっちあげている何百ものニューロン領域の産物であることを、彼のフィクションは半ば本能的に肯定しています。村上春樹の物語は、分裂した自己を生きること、古い国家が消えて得いく中で新しい世界主義(コスモポリタニズム)を生きることにめざましい心地よさを見いだしています。難民状態が普遍化した時代にあって、われわれはどこで生きることを望めるでしょう?あらゆる場所にほかなりません。故郷がないからこそ、世界のどこにでも住みうる自由が生じます。ミラーリングする心の交渉の中から、いたるところすべての場が立ち上がってくるのですから。自ら生きることによって、自分が書く物語の中に故郷を見いだす自由がわれわれにはある。そして他人が生きるのを見ることによって、自分が読む物語の中で生きる自由がわれわれにはあるのです。
     村上春樹を読むことからわれわれが得るのも、われわれ自身の脳の皮質の中で、彼のニューロン的コスモポリタニズムを盗用することの喜びにほかなりません。リアルとシュールリアル、孤独と社会、グローバルとローカル、見慣れたものと見慣れないもの、これらすべてが、脳の劇場の中で肯定され、却下され、改訂され統合されていることを村上春樹の小説は詩っています。ここには危険も潜んでいます。すべての経験の、不可避的にニューロンに根ざした本質をそうやって謳い上げることは、容易に独我論にー「実在するは我のみ」という自己中心的な思いにー堕してしまいかねませんし、実際、村上春樹の小説を両横から囲んでいる伝統的な小説にしろポストモダン小説にしろ、どちらも極端に走ればそうした危険が生じるものです。下手をすれば、われわれはみなそれぞれ、一個の完結した、閉じられた、外からは知りようのない自己のシュミレーションの中に閉じこめられてしまうでしょう。そうならずに済んでいるのは、グローバリゼーションと、ニューロサイエンスと、村上春樹の小説とが、同時にひとつの真実に行き当たったおかげですーすなわち、それ自体で独立した自己などあり得ないという真実に。プライベートな生とは、つねに広がりつつある会話にほかなりません。それは常に、より大きなものの一部として、自分ではとうてい形にできないほど大きな何かをミラーリングしているのです。
     だとすれば、村上春樹の物語が、ありとあらゆる種類の愛によって支配されていることに思い当たっても、もはやすこしも驚きはしないでしょう。(略)もし村上の小説が、存在の無限の奇怪さ、途方もない奇妙さにイエスを唱えているとすれば、それが肯定すべき何より奇妙なものとは、人と人とがつながりうる途方もない可能性ーいや、とんでもない必要性といいましょうーにちがいありません。もし村上文学に何かひとつ支配的なテーマ、何かひとつの抗しがたい魅力があるとすれば、「われわれ」がどこで終わってどこで他者が始まるのか誰にもわかりはしないという、奥深い、かつ遊び心に満ちた叡智こそがそれでしょう。
     心を作り上げている迷路は、これからもずっとわれわれと現実のあいだに立ちはだかることでしょう。しかし、逃れようのない脳の洞窟からも、たったひとつ出口はあります。共感による飛躍、国境を越えた交通、ミラーリングするニューロン。世界を知ることは不可能ですが、そのとまどいのなか、互いを知ることは可能なのです。『海辺のカフカ』の学校教師も書いているように、「この世界における一人ひとりの人間存在は厳しく孤独であるけれど、その記憶の元型においては、私たちはひとつにつながっているのだ」



    P63(基調講演)
    パワーズ:「村上春樹の主人公たちの核心には、流動性や即興性がある」というところです。彼らにとってそれは、世界の恐ろしさや痛みと折り合うための手段です。そして、村上春樹の作品の根元にある優しさは、この流動性や即興性から生まれています。

    P64 
    柴田:アドリブでその場限りの自己を「つくって」いく。そのかなで、tenderness優しさというものが必要なのだとリャンさんがいわれて、そこが見事に響きあっていると思いました。

    P112
    イカ・カミンカ:(80年代日本をぶらぶらしていて、)「ノルウェーの森」!?信じられない!と思って買いました。読んだらちょっとがっかりしました。ノルウェーとはぜんぜん関係なくて(笑)。(でも、日本の社会や文化にに関する本を山のように読んだがどれもイマイチだった)ところが、「ノルウェイの森」を読んだら、そこにはやっとーノルウェーのことはなにも描いてなかったけれどもー私が生きている今の日本があったんです。はじmて、生きている日本のことがわかるようになった、とてもありがたいことです。

    P178
     過去と現在をごっちゃにして書くスタイルは、ロシア語だとめちゃくちゃに聞こえて、編集者からも「このきたない文章をきれいにしてくれ」とかなら図言われます。

    P207
     村上作品にはロシア人の生活とは似ても似つかぬ要素がたくさん登場するので、第一にそういう点がひじょうに興味深く受け取られているようです。(略)小説の舞台として登場する現代日本もロシア人にとってはまったくの別世界のように感じられます。ファンタジックで本格的なミステリーのような筋書きのおもしろさや、ジャズの即興演奏のようなスタイルも魅力ですが、何より、主人公の自己認識の問題及び社会の中での孤独の問題というのは近年のロシアにとってはひじょうに近しい問題です。

    P303
     村上作品の主人公たちは誰もが社会システムや共同体へのまなざしは批判的で冷たいが、個へのまなざしは熱くてやさしい。いわば村上文学はあくまで「自我論の抒情詩」であり、個の賛美歌なのである。 

  • グローバルでありながらローカルな歴史に拘泥している点への評価が高い本書。また、国家レベル個人レベル問わず夢と挫折の経験がある人々に受け入れられているとういう点も重要な指摘。
    簡単でシンプルな言葉選びと、独特なリズムとユーモアには魅力しかない。
    個人的には『羊をめぐる物語』が一番好き。

  • 内田樹は編者に批判的。

  • ハルキ論!!

  • 村上文学を巡る海外翻訳者たちのレビューとワークショップの様子。読み物として面白い。

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