徳川家に伝わる徳川四百年の内緒話 家康の仕事術 (文春文庫 と 19-4)

著者 :
  • 文藝春秋
3.15
  • (0)
  • (9)
  • (6)
  • (4)
  • (1)
本棚登録 : 62
感想 : 9
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167801649

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB99362461

  • 本の内容は良いが、タイトルがおかしい。著者が徳川の血族であることから出版社の意図もあったと思うが、まず「内緒話」ではないし、「仕事術」もそれほど多く語られていない。本書は、基本的には徳川家康の立身出世の物語で、竹千代時代から開幕後、駿府で大御所となってその後15代続く基礎固めをするところまで網羅される。他の有名武将との性格や行動における対比や、戦も武力だけではなく、裏工作や根回しをいかに配慮したかが語られ、読み応えはある。直接的な仕事術、ビジネスの類の本ではないが、歴史から学び、人生や仕事に活かすというのはこの本に限った話でなく古今の歴史書すべてにあてはまる。
    秀吉に江戸への転封を命じられた時の家康の行動は、今後、自分も仕事の場面で異動などなった時に思い返して力にしたいと思う。江戸の開拓・発展とそれが現在の東京にどうつながっているかという部分は非常に勉強になった。

  • いったいどこが内緒話なのか、
    ただの先祖自慢だし、史学的に出典が曖昧な話も載せてるし、自分の憶測も載せてる。後半は笑いながら読んだ。

  • 歴史書というよりはビジネス書である。
    家康の手腕は現代でも通じるものがあるといった内容。

  • 田安徳川家第11代当主の筆者さんが、家康さんの行なった事業を今の仕事に役立てるようにわかりやすく解説した読み物です。
    歴史のお勉強にもなるし、今のビジネスに役立てられる部分もあるので、とても楽しかったです。
    最初家康さんの十男の頼宣(よりのぶ)さんが水戸に入ってから駿府に移り、家康さんの死後に紀伊に動いて今で言う「御三家」になったとは知らなかったなぁ…。
    なかなか為になる本でした。

  • 2013.5.13~27 読了(もらい物の本)
    家康が天下を取るまでのエピソードはよく知られている話ばかり。しかし後半は江戸の城下町作り構想や幕府の長期政権化の仕組みづくりが興味深い。江戸城を中心とした”の”の字型で始まっているので現代の巨大都市化を可能にした、という点は説得力あり。また幕府の仕組みでは農政、寺社政策、大名統制、朝廷対策など全てがきめ細かく配慮されていたことが判るが、それもこれも三河時代以来の豊富なブレーンがいたからで信長、秀吉にはそのブレーンがいなかったので直ぐに滅びた、という指摘には納得。

  • 家康の末裔の書いた本ということと、現代の社長や企業に置き換えて、家康の功績を紹介してもらえるので、読みやすかったが、内容は浅かった印象。

  • 著者が家康の末裔である身びいきを割り引いても、読んでいて、家康の政治手法、経営感覚はたいしたものだと改めて感心できる。

  • 戦国時代の有名な武将は何と言っても、信長・秀吉・家康ですが、私も若いころは派手さのある秀吉あたりが好きでした。社会人になって様々なことを体験してくると、肥大してしまった軍事国家・あり余った人員をどのように上手くリストラするかで手腕を見せた家康の素晴らしさも理解できるようになってきました。

    特に明治政府は前政権である徳川幕府を否定する必要があったため、少なくとも私が歴史を学んだ数十年前には徳川家康についてあまり評価されていなかったような気がします。

    そのような先入観のある私にとって、この本は徳川家康の魅力を、徳川の血を引く徳川宗英氏によって解説されていて興味深く読ませてもらいました。

    以下は気になったポイントです。

    ・チャンスは誰にでも訪れるが、それを活かすには知恵が必要、桶狭間の戦いから岡崎復帰までの家康の行動は、チャンスがめぐってきたときこそ慎重に行動すべきことを教えてくれた(p31)

    ・今川氏真は、やがて京にもいられなくなり、各地を転々とした末に、最後には家康の庇護を受けて、武蔵国品川に屋敷と捨扶持を与えられた、品川氏を名乗り、大名に準ずる高家として、幕府の典礼を受け持った(p36)

    ・家康は自分の家は藤原氏というかたちにして、三河守という受領名を手に入れた、源氏を名乗る天正14,15(1586,87)頃までは藤原氏と称していていた(p39)

    ・姉川の戦いは、家康の働き(激戦の末、多勢の朝倉軍を切り崩し、信長担当の浅井軍の横腹を突いた)によって、織田・徳川軍の大勝利に終わった(p43)

    ・家康は強力な武田の兵力を手に入れただけではなく、召し抱えた遺臣たちに信玄のことを尋ねて、敵の経営哲学を学ぼうとした(p49)

    ・秀吉も晩年はイエスマンを周りで固めたが、家康は家臣の意見が自分と違っていても嫌な顔をせずに「なかなか面白いことを言う」と耳を傾ける冷静さと思慮深さを身に着けていた(p55)

    ・織田信長が本能寺で討たれた時に、家康は伊賀とゆかりの深い半蔵に命じて土豪と交渉させて、道案内と警護を協力させた、この時協力した伊賀・甲賀の土豪たちは、後年、伊賀同心・甲賀同心をして徳川幕府に仕えた(p60)

    ・信長死後に、甲斐・信濃では反乱がおこり、信長が配していた領主たちは殺されたり逃亡した、その両国を家康は獲得した、北条氏直に次女の督姫を嫁がせて、徳川は甲信を、北条は上野を領した(p63)

    ・小牧長久手の戦いで、家康に「徳川の子を養子にいただきたい」と人質を要求しに来たのが、一緒に戦った信雄であった、次男・於義丸(後の結城秀康)を差し出した(p68)

    ・秀吉は、小牧の戦いで家康に味方した長宗我部元親、佐々成政、根来・雑賀衆をつぎつぎと制圧した(p69)

    ・文治派の石田三成、小西行長は、朝鮮出兵において勝ち目がないと悟った瞬間に、秀吉に内緒で和睦交渉を始めた、秀吉の命令に忠実に従った加藤清正、福島正則はそれに激怒した(p75)

    ・秀次は当時の豊臣家で唯一の成人男子で、政務も家臣に補佐されて無難にこなしていたのに、秀頼を後継者にするために「乱行」を理由に廃嫡、切腹させた、秀次には家康も簡単には刃向えなかったかもしれない(p77)

    ・小早川秀秋は慶長の役では総大将になたが、三成の讒言により帰国を命じられて、筑前筑後33万石から越前北の庄12万石に左遷された、家康は秀吉死後に旧領に戻して20万石を加増した(p79)

    ・源氏長者は名門貴族・源氏の代表であり、朝廷で強い発言権を持つが名誉職なので、政治の実権は握れない。武士の棟梁である征夷大将軍と、公家としての権威づけである源氏長者を兼ねることで、はじめて政治的支配権が持てる(p94)

    ・江戸城の普請や町づくりに動員された西国の外様大名は、つぎつぎと江戸にやってきて現場で指揮をとるようになったので、豊臣方を接触する機会は自然と少なくなった(p101)

    ・大阪の陣で家康は豊臣家を滅亡させたわけではない、秀吉正室・ねねの兄(木下家定)は、木下家を残して備中足守に2.5万石の所領を与えた、明治維新後には子爵として華族に列せられ、現在も続いている(p108)

    ・江戸という地名は、海水が陸地に入り込んだところ(江)の入口(戸)と言う意味(p126)

    ・利根川のつけかえにより、江戸周辺をはじめ、武蔵・常陸・下総で新田開発が進んだ、また船は危険な鹿島灘や房総半島の迂回から、利根川が使えるようになった(p139)

    ・江戸時代に日本橋は何度も架け替えられ、明治44年に洋風の石橋(20代目)になった、平成23年には架橋100年を迎えた(p145)

    ・慶長から元和期にかけてつくられた幕府の重要な建物(江戸城、伏見城、二条城、知恩院、増上寺、東照宮等)は、ほとんどすべて、中井正清が手掛けた(p152)

    ・大天守の屋根を当時の最新技術である軽量の鉛瓦で葺いたことで、姫路城よりもひとまわりも大きい天守閣ができあがった(p155)

    ・江戸は「の」の字型(右渦巻き状)に拡張する都市計画に基づいて成長を続けた、江戸が世界有数の大都市に発展したのは、家康とそのブレーンが考案した都市計画にある(p160)

    ・外濠の要所には門が築かれ、見張り役人が常駐して城を守っていた、それらは見附門と言われ、市谷見附、四谷見附、赤坂見附などの地名として残っている(p160)

    ・徳川三代によって築いた江戸城は、日本一の規模を誇った、外濠の総延長は約16キロ、外郭の総面積は2.3平方キロ、内郭だけでも101万平方キロで、当時の平均的な城下町が入るレベル、しかし明暦の大火(1657)で江戸の町の6割(天守閣含む)が焼けた(p164)

    ・江戸の遺産が最も活用されたのは、首都高速道路、ほとんどは江戸時代の水路かそれを埋め立ててつくられた(p166)

    ・御三家は家康が大御所になってから、秀忠の他に4人息子がいて、9男義直を尾張、10男頼宣を駿府、11男を水戸、家康の死後に駿府の頼宣を紀州に移して確定(p183)

    ・1611年スペイン国王の使者ビスカイノが幕府の許可を得て、江戸から仙台あたりの海岸線を測量した、本当の目的は日本との貿易でなく「金銀島」の探索であった、それがないことがわかると本国へ帰国した、日本海側であったらスペインは攻めてきた可能性あり(p194)

    ・大名行列というと家来たちが隊列美しく行進するイメージがあるが、あれは江戸のなかと国もとの城下のみ、途中の道中は最小限の人数で、他はレンタル(p197)

    2012年7月4日作成

全9件中 1 - 9件を表示

著者プロフィール

とくがわむねふさ 1929年ロンドン生まれ。御三卿筆頭・田安徳川家第11代当主。学習院、江田島海軍兵学校を経て慶應義塾大学工学部卒業。石川島播磨重工業にて海外事業本部副本部長、関西支社長、石川島タンク建設副社長などを歴任。95年に退職。

「2017年 『徳川家が見た西郷隆盛の真実 』 で使われていた紹介文から引用しています。」

徳川宗英の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×