こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち (文春文庫 わ)
- 文藝春秋 (2013年7月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (558ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167838706
作品紹介・あらすじ
ボランティアの現場、そこは「戦場」だった――自分のことを自分でできない生き方には、尊厳がないのだろうか? 介護・福祉の現場で読み継がれる傑作ノンフィクション!
感想・レビュー・書評
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映画を観たあと、この本を手に取った。順番としては、それが正しい読み方であると、読んだ後に思った。そして、既観映画の人は是非、本書を読んで欲しいと思う。
ノンフィクションであるから、当然映画脚本の通りではないのは明らかだ。そうではなくて、(1)映画は様々な登場人物の名前からして違うし(鹿野以外)、第一「バナナ事件」は、当事者の性別も場所も経過も全て映画と違う。(2)映画に描かれていない多くの「事実」があるのは当然としても、映画では描き切れていない重要なテーマもある。(3)しかし、そうであっても、鹿野は正に大泉洋が演じたままのように思えるし、高畑充希のような女性は、結局ここに出てくるたくさんのボランティアの一面を代表していたと思う。だから、映画を観て本書を読むと、とてもイメージが湧いて面白い。
いい映画だったと思う。でも、原作はもっといいのである。
原作は、福祉も医療も門外漢だったフリーライターの著者が、筋ジストロフィー患者を取材したノンフィクションである。患者が自立生活する「シカノ邸」に入った約2年間で見聞きしたことをまとめた。
多くのボランティアたちが鹿野のワガママにも付き合い、体位交換をし、間違えれば命の危険もある痰吸引もし、買物代行もする。その中で彼らをは、何を考えてボランティアをするのか。それは映画でも答えにならない答えを描いていたが、原作は豊かにそれをほぼ550ページかけて描き尽くす。現在の私は福祉ボランティアこそしていないが、「金にならない労働」は週のうち多時間を割いているので、このような「様々なボランティアたち」を見て自分を見つめるきっかけになった。読者はきっと、1人は自分に似たボランティアを見つけることが出来るだろう。
鹿野は、思ったことをほとんど表に出す稀有な患者だった。それでも、死ぬ直前、最期に見せた鹿野のあまりにも優しく冷静な判断(著者の推測)は、この本を読んだぐらいで「筋ジス患者のホントの気持ち」なんて安易にわかったと思っちゃいけない。という気にさせる。
だからこそ、文庫化に当たって大幅に改稿追記された注釈や、中段部分の70ー90年代の鹿野の人生は、きちんと踏まえておくべきものだろう。筋ジス患者が自立生活するまでに、いかに多くの闘いがあったかを知るべきだ。実際、映画では原作内容を半分ぐらいしか使っていない。もっと面白いエピソードはたくさんある。この私でさえ、もう一本ぐらい脚本がかけそうだ。その時の題名はもう決まっている。「こんな夜更けにバナナかよ 青春篇」。
2019年1月11日読了詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
筋ジストロフィーを患う鹿野靖明さんと、彼が亡くなるまで関わった多くの介助ボランティアの人たちとの物語である。
筋ジストロフィーは、全身の筋肉が衰えていく進行性の疾患であり、有効な治療法は見つかっていない。筋肉が衰えていくと、歩けなくなり、手が使えなくなり、呼吸に必要な筋肉が衰えて自力での呼吸が出来なくなる。鹿野さんは、自力呼吸が出来なくなり、人工呼吸器を装着している。使える筋肉は、両手の指が少し動く程度なので、日常生活で自力で出来ることはほぼない。唯一、自分で出来るのはしゃべることだけであり、しゃべることによって、自分のして欲しいことを、介助者に伝えることは出来る。
そういった状況のなかで、鹿野さんは、施設や病院ではなく、一人暮らしを選択する。勿論、自分の力では生きていくことは出来ず、24時間の介助を必要とする。その介助者の多くがボランティアなのである。24時間を3交代制で組むと、1日に必要な介助者は3人。実際には負担の大きい夜勤は2人体制を組むので、必要数は最低でも4人となる。1週間で28人。学生のボランティアが多いので、試験期間中や学校の休みの期間中は、人の手配が大変大きな課題となる。人の数だけではなく、習熟度も勿論問題となる。ある程度の知識とスキルがないと、鹿野さんの介助者にはなれない。入れ替わりの多いボランティア1人1人に、そういった知識とスキルを身につけてもらうための教育が必要であり、それは当たり前ではあるが、簡単な話ではない。
その介助の現場は一筋縄ではいかない。鹿野さんはして欲しいことを言葉で伝えるしか出来ないが、気が利く介助者かそうでないかにより、介助の質が大きく異なってくる。自分で何も出来ないからこそ、これは非常に大きなストレスとなる。また、ボランティアの介助者なしには、基本的に1日も生きられないが、介助に必要なボランティアを集めることは容易ではなく、これもストレスとなる。鹿野さんは、遠慮しない人である。ボランティアの介助のうまい下手について、歯に衣を着せずにボランティアに言う。鹿野さんもストレスを感じながら言っている訳であるが、言われたボランティアの方も、非常にストレスを感じる。せっかく善意でやって「あげているのに」と思うが、ボランティアをやっているうちに、それなしでは鹿野さんが生きられないこと、だから鹿野さんが、ある意味命がけでボランティアと接していることを理解する。理解はするが、納得は出来ない。更には生身の人間同士なので、相性の良し悪し等もある。
本書は色々な読み方の出来る本である。例えば。
鹿野さんというキャラの立った人物の物語として読める。鹿野さんの病気で、鹿野さんの症状で一人暮らしをするのは、ある意味では常識外れなことであるが、それを要求し続けることによって実現した鹿野さんの物語。
逆に、ボランティア、あるいは、介助者たちの鹿野さん介助を通しての気づきや成長の物語としても読める。
また、鹿野さんとボランティアを中心とした介助者の人間関係を描いた物語としても読める。
更には、日本の福祉制度に対しての問題提起の物語としても読むことが可能だ。
筆者の渡辺一史は、上記の全てを書いているが、何かに偏った書き方はしていない。本書はあとがきまで含めると546ページに及ぶ大部の本である。何か特定の視点に寄らず、色々な視点で、色々な物語を書いている。だから、分厚い、ボリュームの大きい物語となったのだと思う。
最近読んだノンフィクションでは、一番好きになった本だ。 -
2019年4冊目。ボリュームはあったけれど一気読み。何に感動したかというと著者の鹿野さんやシカノ邸、ボランティアに対する向き合い方。在宅介護の現実に対する思考の堂々巡りに悪戦苦闘している様子と生みの苦しみとが行間から滲み出ている。妥協のない覚悟を感じる。然し乍らテーマ含め重くなりそう話題であるにもかかわらず読みやすく、それは登場人物への愛が溢れているからだと気づいた。それだけ濃密な人間関係とそれぞれの個性が魅力たらしめているからだ。
本著は自分とその周囲の人々との関係にも置き換えられる「人と人とのつながりの本」だと思った。鹿野さんは人よりも砂時計の穴が大きい、ということが僕らが忘れがちな人間関係のすばらしさを教えてくれる。ひとにオススメしたい一冊である。 -
金曜ロードショーでやっていた映画が途中から観ただけでもすごく面白かったので、原作があると知って読んでみた。
これは障害者やその取り巻く環境や人を、ただの美談に仕立て上げたものではない。一人の鹿野靖明という人物が、剥き出しで現実と取っ組み合いながら、ボランティアと自分を曝け出しあいながら、必死になって生きてきた記録。著者自身がボランティアの一員となって数年間過ごし、鹿野さんと生身でぶつかっている。
障害者福祉について、またボランティアをすることについて、日頃自分がいかに何も考えていかということに思い知らされた。映画化されなければ自分がこの本を手に取ることもこの分野に興味を持つことも無かったわけで。「障害者を障害者たらしめているのはその人自身ではなく社会そのもの」という言葉には、社会の物理的な障壁や制度的な面もそうだけど、悲しいことに健常者と呼ばれる人たちの「無関心」も大いに要因になってしまっているのだと気付いた。
著者自身、この本を完成させるまでに長くかかったと言っているが、参考文献の多さにも、著者がたくさん勉強をしながら悩みながら書き上げたものということが分かる。各章の最後に註がまとめて載っていて、そこがすごく勉強になった。
途中出てきた小山内美智子さんの著書も何冊か是非読んでみたい。 -
夢中で読んでしまった。心情的には星7くらいは付けたい。
恐らくこの本の一番のポイントは’バランス’だと思う。
著者・渡辺一史 氏がこの親本を執筆された当時はまだ30代前半から半ば、福祉や医療分野にはさしたる興味や知識があった訳ではなく、「日々を切実に、ギリギリのところで生きている人に会ってみたい」(p13)という動機から取材が始まったとある。
こういった背景だったからこそ、客観的立場かつ’ごく一般的な感覚で’シカノさんやボランティアと接する事が出来たのではないだろうか。
とりわけ難病や障害、福祉を題材にとった文章や取材だと、どうしたって当事者側に寄り添った内容になるのは当然で、ただし、それが入り込み過ぎると過剰な「美談」や障害者や福祉従事者・ボランティアを「神聖視」したものになってしまい、それはそれで偏見に繋がっているという点は改めて納得。(p141、p149、p376)
そういった全てを包括していて、かつポップな印象も感じられる本書のタイトルは実に秀逸な題付けだと思う(実際に国吉氏が発言したかは怪しいらしいが…)。
惜しむらくは、もうシカノさんがいないという事。
が、「俺は死なない」という言葉通り、本作に触れた人の中にはきっと強烈に存在が刻まれる事だろう。
実写映画未視聴だが大泉洋 氏は配役ピッタリだと思う。
小山内美智子氏の著作も読んでみたい。
4刷
2021.8.27-
まっしべさん、おはようございます。
フォローをありがとうございました!
原作は読んでいないのですが映画化されたものを観て衝撃的だったのを...まっしべさん、おはようございます。
フォローをありがとうございました!
原作は読んでいないのですが映画化されたものを観て衝撃的だったのを思い出し、久しぶりに自身が書いたレビューを読み直した次第です。その想いを分ってくださる方が居て嬉しくなりついコメントしちゃいました。
よろしかったらお暇な時にどうぞ!https://booklog.jp/users/lemontea393/archives/1/B07R3ZNZRM2024/03/26
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小説とは違って、ノンフィクションは読むのに時間がかかる。生き生きと書かれていて面白い分、読む間、その人の人生や事件が重くのし掛かってくる感じ。今回もそう。
鹿野氏を始め、いちごの会、鹿ボラの行動力のある登場人物たちに驚く。悩んでるけど常に動いていて、とてもギラギラ(あくまでもキラキラではなくギラギラ。)していて優しくて。
羨ましくもあり、私にはできないなぁとも思ってしまって。。読み終わったあと、どっと疲れてしまった。 -
題名で映画からのノベライズ版に興味があったのが、きっかけだったが、図書館にあったのが、こちらだったので、読み始めた。
これだけの障害があるにもかかわらず、個性的で、図太い生き様が素晴らしかった。
分厚本の半ばで、何度か読破することを諦めそうになったが、登場人物の飾らぬ言葉に先を進ませられた。
どのような境遇に陥っても、諦めずに、生きることに貪欲でありたい。 -
ずーっと読みたいと思っていて、でも重そうなテーマに尻込みしていました。
やっと手に取ることができたのは、最近ドキュメンタリーを観るのがマイブームということと、自分自身が入院するという想像もしていない状況に陥ったからだと思います。
読む前は、重度障害者の破天荒な生き様を描いた作品だと思ってました。あながち違うとも言えないんですが笑、なんでしょう、◯◯を描いた作品です、と一言では言い切ることが難しい作品でした。
障害者を取り巻く福祉や、ボランティアのあり方、そして重い障害を負って生きること。
生きるってなんなんでしょう。生を全うするってなんなんでしょう。
読んだ後にそんな疑問を自分に問うてしまう作品でした。 -
#3522ー139ー93ー345
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筋ジストロフィーを抱えながら、自分の思いを軸にした暮らしを体現しようと試みる、シカノさんとボランティアの悪戦苦闘の日々。
かなり分厚い本なのだけど、最後まで血が通っているというか、筆者が書こうとしたことが、上手く伝わってくる一冊だった。
ああ、このエピソードのセリフをタイトルにしたんだな、という意味も、とてもよく分かった。
ボランティア、福祉、介護、そういう領域に正式には入ったことのない私だけど、支える側と支えられる側の関係……という点では、ものすごく得るものがあった。
「普通、ボランティアとは、時間や生活にゆとりがあって始めるものだと思いがちだが、そうとばかりも限らないことになる。献血といい、ボランティアといい、人間にとって『人を支えること』は、『支えられること』以上に大切なことなのだ」
思うより、対等な関係を築くって、難しい。
特に、自分が仕事なんかで、ある立場にいる時に、その立場よりももっと人として関わりたいって思っていながら、上手くいかないことがある。
結局、自分が怯えているのは、上手く関われないことで、それはつまり必要とされていないことだったのかもしれない。
そして、そんな風に思っている時点で、対等を目指したのではないのだろう。
シカノさんは身体が動かせない「支えられる側」だから、周りに感謝しなければならない。我慢しなければならない。
そんなハズがなくて、でも他者を巻き込む以上、お互いにストレスで、フラストレーションが溜まっていくのも当然で。
そんな中で20人や40人のボランティアを〝相手取った〟シカノさんのコミュ力には、感嘆する。
居なくなっては、困るのだ。
でも、自分の生活のために、居て欲しいのだ。
サービスという無機質なものでは成り立たなかった、生の部分、生きることの交錯を可能にしたから、この日々って可能だったんかなと勝手に思う。
このまま何もなく生きていっても、きっと何十年先の自分は、またこのテーマを直視することになる。
その時は、私もサービスだけでない、生の交錯ができればいいのだけど。 -
同じ病名ではないが、これから同じ道を歩く可能性が高い病気の罹患者のため、今後のためと思いすごく勇気を持って読んだ。すごくすごく感慨深かった。明け透けなく書かれていてこれはみんなに是非読んで欲しい。自分の語彙力のなさが恨めしい。
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ずっと前から知っていた本をようやく読み終えた。550ページがあっという間。自分も障害がある人の家で泊まり込み介助をするボランティアをしていたから、あの頃のことを思い出しながら懐かしく読んだ。
本作をもとにした映画もそんな傾向だったし、どちらかというと、筋ジス・鹿野靖明さんのほうに焦点が当たることが多い気がするけれど、サブタイトルが示しているとおり、もう一方の主人公はボランティアたち。鹿野さんのボランティアに通ういろんな立場の人が、それまでの人生、その後の人生にまで触れながら書いてあり、いろんな人のボランティア観や人生模様を知ることができた。
渡辺さんの視点がいい。宙ぶらりんな立場だからこそ、やさしい目線で鹿野さんやボランティアの人々を見ることができ、それをていねいに綴ることで550ページもの大著になったのだろう。あえて答えを出さないとでもいおうか、決めつけや押しつけがないのも読みやすい。それは鹿野さんの周囲の空気感とも似ているんじゃないかな。 -
障害者ノンフィクションとして読むと、乙武洋匡が『五体不満足』で(その後、著者自身も後悔する)明るく元気な障害者像を打ち出してから 5年後の 2003年、障害者の聖化に真っ向から NO を叩き付けた快作だが、しかし、それはあまりにも浅い読み方だろう。この本は、障害者と介助ボランティアの話ではなく、人間達と人間達の話なのだ。「生きるとは何か」「人と関わるとか何か」を異常に濃密な人間関係の中で考え続けた著者の苦悩録なのだ。筋ジストロフィー患者シカノの圧倒的な存在感を背景に一気に読ませる。タイトルも秀逸。
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自分のことを自分でできない生き方には、尊厳がないのだろうか?介護・福祉の現場で読み継がれる傑作ノンフィクション!
重度の筋ジストロフィー患者の鹿野靖明さんと、彼を支える学生や主婦たち約40名のボランティアの日常を描いた渾身のノンフィクション。人工呼吸器をつけた病の極限化で、人間的自由を貫こうとした重度身体障害者と、さまざまな思惑から生の手応えを求めて介護の現場に集ったボランティアたち。「介護する者、される者」の関係は、ともに支え合い、エゴをぶつけ合う、壮絶な「戦場」とも言えるものだった――。
史上初、講談社ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞した大傑作ノンフィクションが、ボランティアの人々の後日譚を加え文庫化。解説は山田太一氏。
鹿野泰明が、国立療養所を退所してでもケア付き住宅でボランティアの手を借りて自立生活をすることにこだわったのは、国立療養所での嫌な思い出に起因する病院や医療関係者への不信感が原因。
国立療養所は、規則づくめで息苦しく、多くの友人と死に別れ、大学病院や医療関係者の視察の無遠慮な視線に晒され、鹿野は「俺はモルモットじゃない」「どんなことをしても生きていたい」と思いを募らせた。
鹿野は、身体障害授産施設で同期入所した我妻に刺激され、我妻と障害者の自立生活を押し進める「札幌いちご会」という団体を設立し、自立生活や外出に役立つ情報を収録した配信する情報誌を発行し、ケア付き住宅建設運動を押し進めた。
障害者の介護において壁となるのが、「してあげている」「させてあげている」という意識。
介護される側の「こうして欲しい」と介護する側の「ここまでは受け入れられるけど、ここからは受け入れられない」というエゴのぶつかり合いが、介護の場にはある。
その中で妥協点を見つけ、介護される側が出来る部分を増やしていくのが介護。介護の場では、介護する側される側にお互いに対する遠慮は、いらない。介護の場では、剥き出しの人間性が露になる。鹿野とボランティアの人間性のぶつかり合いのドラマ。
そして鹿野のように、「障害者は遠慮して生きていかなければならない」という暗黙の了解に沈黙せず声を上げた人がいるから、障害者の権利が広がったことが解る傑作ノンフィクション。 -
質・量ともに、ずっしりとした一冊だった。
筋ジストロフィー症で42歳で世を去った鹿野靖明さんと、彼の自宅での介護を支えたボランティアをめぐるドキュメンタリー。
次第に症状が重くなっていく彼が、親元ではなく独立して暮らしたいと願う。
制度も十分ではなく、ボランティアに頼って生活する決断をする。
ボランティアなので、いついなくなっても文句は言えない。
プロではない相手に、命を預けることになる。
薄氷の上を歩くような生活、壮絶な挑戦だ。
自分ならー、と思う。
まず、治療法のない神経難病にかかった時点で絶望するだろう。
介護を受ける立場には、将来必ずなる。
おむつ交換をしてもらうとき、申し訳ないと思うだろう。
卑屈になり、生きる気を失うかもしれない。
年老いて受ける介護とはまた違うかもしれないが、自分なら、と思うと、心が平静ではいられない問題だ。
そう考えると、体が弱っていくにつれて、自我が強くなっていく鹿野さんは、只者ではない。
呼吸器をつけていても、トレーニングしてしゃべれるようになるって、いったいどういうこと?
驚嘆しかない。
筆者の渡辺さんは、取材に訪れ、そのままボランティアの一人となっていく。
ボランティアと鹿野さん、そしてボランティア同士のよくもわるくも濃い関係も、生々しく描かれる。
中には違和感を感じ、離れていく人もいたとか。
その中で、繰り返し介護する側とされる側の関係性が問われていた。
また、ノーマライゼーションとは何か、ということも考えさせられる。
十年後くらいに、もう一度読んでみたい。
この本が自分がどれくらい変わったか、世の中がどのくらい変わったかを知る試金石になるだろう。
ただ、そのころには注の字が小さくて、読む気が失せているかもしれないな、とも思う。
本の作りはもう少し何とかしてほしい。 -
高校くらいに読んだ気がするけどなんか心に染みた気がする
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過剰でもなく無関心でもなく、自然に手を貸す、が出来たらいいのにと思う。
障害のある人だろうと妊婦だろうと老人だろうと体調が悪い人だろうと。
生活の中でどう思うか感じるか、いたるところにある「立場」に思いを巡らせた。 -
映画が良かったのでオリジナルも読んでみようと思いました。
結果、映画よりも面白かった、正確に言うなら映画とは全く趣の異なる面白さがあった。
鹿野さんの生きざまを描いた(切り取った)のが映画だとしたら、鹿野さんを含んだ周囲の生きざまを描いたのが本著であろう。
鹿野さん(と周りのボランティアさん)を通じて、人間がより良く生きるためには制度や法律、インフラ…といったマクロ的で外部的な問題から、自己の存在を見つめようとする、マズローの自己実現理論を想起させるような哲学的で内部的な問題まで、全方位的に「生きる意味」提起している。
この本がすばらしいのは、鹿野さんだけでなく様々な人生を背負ったボランティアさんのひととなりまで描いていることである。山田太一さんがいうように「読む人の心に届く」ことである。
奇しくも、本編にて鹿野さんのことをボランティアは「尊師」といってからかい半分に呼称している時期があるが(笑)、ボラさんたちが鹿野さんの介助ボランティア活動にハマっていくさまは、かの「オウム信者」と似た構造かもしれない(失礼・笑)
ただ、障害者介助関係者だけでなく、生きる意味や人間関係、他者との関係などに悩んでる人は読んでみてもいいかもしれない。
最後のほうに出てくる、斉藤大介さんの(453ページ以降)達観的な?一連のくだりは私の中で着地点として答えは出でいるような気がする。
障害者だろうと健常者だろうと「生きる」のは大変で苦悩だらけだけど、それ以上でもそれ以下でもない、そんな域まで行きたいとおもう。 -
筋ジストロフィーの鹿野さんがボランティアと共に自立生活を営む姿を描いたノンフィクション。
話の面白い人(著者)が過去に会った面白い人(鹿野さん)を語る時点で面白さは約束されていて、濃厚で、笑えるところもあって、面白かった。
介護という、物理的にも精神的にも人と密接に関わらないといけない現場で、支える側はある種生きる意味を求めて、支えられる側は少しでも自由に普通らしく生きたい、そういう綺麗事じゃないぶつかり合いが人を変える、みたいな。
いや、そういう雰囲気の話じゃないんだけどうまく言えないな…とりあえず、読んで良かったし、とても人に勧めたくなる本。(私も母親に勧められて読んだ) -
介助させていただく、とは、バイアスがかかる言葉だなぁ。
認知症と診断されたから、その人にとっては普通の行動でも、
介助者にしてみたら、奇異に思えると、必ず「あの人は認知症だから」と言う。
認知症の人は、個性を出すことも許されないのか?
障害者でも、自分らしく生活したい。
だけど、すべてにおいて人の介助が必要な鹿野さんが、自分の要望を言うと、障害者で人手がかかるからダメ。
障害があるから、高齢者だから、性欲があることは汚らわしい?
普通の人間がただ自分でやれないことが多いだけで、
障害がその人を拘束する道具ではない。
今の介護は、経営を無理して組み込むからいけない。
チームで仕事していても、仕事量が人により差があり、だから仕事量を増やさない為、気づいていてもやらない。
これもおかしい。
考えて動くことも大切だが、気づいて手を出すことも大切。