選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫 S 13-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167901554

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  • 人間は、選択肢を与えられれば与えらるほど嬉しいわけじゃない。選ぶ気がなくなる。

  • 示唆に富む一冊である。

    本書のキーワードはズバリ「選択」である。
    日常生活でもビジネスシーンでも何かを選択する機会はいくらでもある。
    さてさて、その選択について我々はどの程度知っているだろうか。
    たとえば、選択肢は多いほうが良いのだろうか、そもそも選択とは自由であることと同義であろうか、選択をするのは自由意志なのか、何か特別なパラメータに強く依存するのだろうか。
    これらを知っているのと知らないのでは、結果は大きく違うことになるだろう。

    結論としては、
    ・専門的な判断が必要となる場合には重要な選択でも専門家の判断を仰いだ方がいい
    ・選択肢は多すぎないほうが良い。最大でも30!
    ・アジア人は選択について、全体最適化する傾向があり、アメリカ人は個人最適化をする傾向がある
    ・選択結果の精度を上げたい場合は、その選択を選んだ際に、それをなぜ選択したかを自問自答すると良い

    ということであろう。
    当たり前だと言われるかもしれないが、上記の主張に対して科学的な実験の結果を交えて紹介されているので説得力がある。
    個人的には、選択結果に人種に依って変わりうるという事が興味深い。

  •  だれもがことあるごとに、自分だけは他の人とは違うと、自分に言い聞かせている。では、自分がだれよりユニークなのだとわたしたち全員が信じるその根拠は、一体どこにあるのだろう?
     一つの根拠は、自分自身に対する親密感だ。自分のことは隅から隅まで知っている。自分が何を考え、何を感じ、何をしているかを、目が覚めている間はつねに把握している。自分のことを熟知しているからこそ、自分とまったく同じように考え、感じ、行動することができるような人は、だれ一人としていないと断言できるのだ。でも、ほかの人に目を向けると、どうだろう? みんな、それほど違わないように見えるのではないだろうか? だれもが同じような店で買い物をし、同じようなテレビ番組を見、同じような音楽を聴いている。みんなが同じ選択肢を選んでいるのを見ると、人の真似をしているように見えるのに、いざ自分でその同じ選択肢を選ぶ段になると、自分がたまたまほかの人と同じことをしている理由について、もっともらしいご託を並び立てるのだ。かれらが何も考えずに同調しているのに対し、自分だけは、じっくり考えた末に、判断を下したのだと言う。もちろん、わたしたちがみな、現実から目をそらす順応者というわけではない。わたしたちはただ、他人の思考や行動もまた、自分の思考や行動とまったく同じように、複雑で変化に富んでいることに、必ずと言っていいほど気がつかないだけなのだ。わたしたちはみな、羊の群れの中のひとりぼっちではなく、羊の皮を着た個人なのである。
     実際、わたしたちが求めているのは、「真の独自性」と言えるほど極端ではないものだ。あまりにもユニークなものには、興ざめする。先ほど紹介した、店の個数を当てさせる実験を行なった研究者たちは、同じ実験を方法を少し変えて行った。このときも、前と同じように、一部の協力者たちには、点の数を実際より多めに推測する多数派に属していると言い、一部には少なめに推測する少数派に属していると伝えたが、残りの協力者には、あまりにも特異な結果が出たため、「過大評価なのか、過小評価なのか、分類不能」だったと告げた。この実験でも、先と同じように過大評価者は自尊心が低下し、過小評価者は自尊心が高まったが、あまりに特異なため分類不能と言われた人たちも、自尊心が急低下したのである。わたしたちが一番心地よく感じるのは、「ちょうどよい」位置につけているとき、つまりその他大勢と区別されるほどには特殊でいて、定義可能な集団に属しているときだ。

     わたしたちは幼いときから、自分の周囲の世界を、自分の好みに応じて分類する作業を始める。「アイスクリームが好き。芽キャベツはきらい。サッカーは好き。宿題はきらい。海賊が好きだから、大きくなったら海賊になりたいな」。このプロセスは、年を取るにつれてますます複雑になるが、わたしたちが自分自身に対して持っている基本的前提は変わらない。「わたしたちはどちらかと言えば内向的だ」、「わたしたちはリスクテイカーだ」、「旅行は好きだけど、短気で空港セキュリティの煩わしさには耐えられない」。わたしたちが目指すのは、自分自身と世界に向かって「私はこういう人間だ」と宣言し、それを正当な評価として認めてもらうことだ。究極の目標は、自分自身を理解し、自分の本当の姿を、つじつまの合った形で描き出すことなのだ。
     しかし人間は、一生の間に大いに発達し変貌を遂げる、複雑な存在だから、いつもそう簡単に自分の積み重なった過去を理解できるわけではない。記憶や活動、行動が積み重なった層の中から、自分の中核を象徴するものを何とかして選び出さなくてはならない。だがそうするうちに、さまざまな矛盾がいやでも目につく。たしかにわたしたちは自分の意思で行動することが多いが、諸事情からやむを得ず行動することもある。たとえばわたしたちの職場での振る舞いのうち、服装の選び方や上司に対する話し方などは、家庭や友人に見せるふるまいに比べて、ずっと堅苦しく、保守的なことが多い。わたしたちはこうした食い違いや曖昧さが入り混じったものをふるいにかけて、なぜ自分がそのような選択を行なったかを自覚し、その上で将来どのような行動をとるべきかを決めなくてはならないのだ。
     エマーソンの弟子ウォルト・ホイットマンが、詩『ぼく自身の歌』によって、このジレンマを的確にとらえ、きわめて詩的な反論を展開している。「ぼくが矛盾しているって? 結構、では矛盾しているということにしておこう(ぼくは大きい。ぼくは多くのものを内に抱えている)」。だが内に抱える多くのもののつじつまを合わせるのは、そう簡単なことではない。特に問題が生じるのは、自分のいろいろな側面の間の矛盾や、信念と行動の矛盾に気づいたときだ。たとえば保守派を自負していたベニントンの女子学生は、リベラルな同級生たちと政治問題について語り合ううちに、相手の意見にますます共鳴していく自分に気がついた。自分のこの状態は、一体どういうことなのだろうか、それとも周りの圧力に屈して、信じてもいない意見に同調しているのだろうか? どちらを認めても、自分が「理性的で裏表のない人間」だという自己像の、最も中核的な要素が脅かされることになる。相矛盾する二つの力の板挟みになるという、この不快な状態は、「認知的不協和」と呼ばれ、不安、罪悪感、困惑を引き起こすことがある。
     正常な心の働きを取り戻すには、不協和を解消しなくてはならない。イソップ物語の「すっぱいブドウ」の話を思い出してほしい。キツネはどうにかしてブドウを取ろうとして、しばらくの間がんばってみるが、どうしても届かない。そこでキツネはあきらめ、こんな負け惜しみを言って立ち去るのだ。「あのブドウは、どうせすっぱいに決まってるさ」。キツネの心変わりは、わたしたちが不協和を軽減するために本能的に取る方法の典型例だ。わたしたちは自分の信念と行動の矛盾に気づくとき、時間を巻き戻して行動を取り返すことはできないため、信念の方を、行動と一致するように変えるのだ。もし物語の筋が変わって、キツネがブドウをとうとう手に入れ、食べてみたらすっぱかったなら、キツネは努力が無駄になったと感じないために、自分はすっぱいブドウが好きなんだと、自分に言い聞かせることだろう。
     人は認知的不協和を回避して、自分自身についてつじつまの合う物語を生み出す必要から、もともとは意に反して取り入れた価値観や考え方を肯定し、自分の価値体系の中に組み入れることがある。一例として、自分の個人的信念に反する意見、例えば自分が反対する増税を支持する作文を書かされると、次第に自分が主張したのその意見に賛成するようになることが、数々の研究により報告されている。ベニントンの学生にとって、不協和を軽減する方法は、大学に浸透していったリベラルな思想が、たしかに価値のある問題を争点としているのだと思い込むこと、あるいは自分はかねがねそのような考え方をしていたが、今になってようやくそれを表現する機会を得たのだと思い込むことだっただのだろう。自己意識をこのように変えたからこそ、外的要因がその後も長きにわたって影響をおよぼし続けたのだ。
     同様に、わたしたちは一貫した自己像を作り上げると、それを裏付けるような選択を行うことで、不協和を事前に回避しようとする。ベニントンの女性たちの例で言えば、リベラル派の夫と結婚したり、リベラル派の友人と交際するといったことだが、同様のパターンは保守派にも、あるいは宗教団体、環境団体など、どんな集団にも見られる。もちろんこのような行動は、純粋に不協和を回避するためだけに行われるわけではない。自分と似た人を探し、つき合うことで、わたしたちは帰属欲求を満たす。このように自分の意思で選んだ相手とのつきあいを通して、私たちの自己像は時間とともに定着し、周りの人たちにわかりやすいものになっていく。
     首尾一貫した自分でありたいという欲求は、自分の人生をどう生きるべきかを考えるとき、ジレンマを生むことがある。一方でわたしたちは、一貫性のない行動は取りたくないし、一貫性のない人だと思われたくもない。「あなたのことがわからなくなった」と言われるとき、その言葉には、はっきりと否定的な意味合いが込められている。他人が認め、好感を寄せるようになった自己像にそぐわない行動を取れば、よくわからない人、信用できない人と思われてしまう。だがその一方で、現実世界は絶え間なく変化しているため、整合性にこだわりすぎると融通がきかなくなり、世間からずれていってしまう。

     なぜこのような認識ギャップ(※他人からの評価と自己評価のギャップ)が生じるのだろうか? わたしは意外な評価を受けて心をかき乱される学生たちに、こう言ってきかせる、あなた方は自分の行動の背後にある意図がわかっているから、自分の行動を正当と考える。でも人は、自分の見るものだけに反応するものだ。ちょうど、歌のリズムでテーブルを叩いて、曲名を当ててもらうゲームのようなものだ。自分は頭の中で歌が聞こえるから、「ハッピーバースデートゥーユー」のリズムだということはだれでにもわかるはずだと決め込む。でもほかの人には、ただ「タン・タ・タン・タン・タン・タン」としか聞こえないため、米国国歌の出だしと勘違いする人がいるのだ。その上、他人はあなたの行動をからっぽの状態で判断するわけではなく、自分の経験のレンズを通して解釈するか、またはあなたの外見からこういう人物だろうと判断を下し、その人物像についての一般的な固定観念を通して解釈するのだ。
     三六〇度評価法がわたしたちに教えてくれるのは、他人の評価はまちまちだから真剣に受けとめなくていい、ということではない。わたしたちの日々の行動は他人によって解釈され、ひいては誤解される。人間社会に愛想を尽かして山にこもるのでもない限り、わたしたちは自分の自己認識と、友人や同僚、その他日々交流する数百人の他人による認識とを、できる限り一致させなくてはならないのだ。
     他人による評価は、現実を把握する手段として役に立つ。先の述べたように、わたしたちは「レイク・ウォビゴン効果」の影響に陥りやすく、本当の自分というものをなかなか知ることができないからだ。正式な三六〇度評価でなくても、自己覚知と呼ばれる、自分を知る作業を通して、同様の効果を得ることができる。人が自分の行動に示す反応をよく観察し、できれば自分のことをどう思っているか、周りの人に直接尋ねてみるのだ(三六〇度評価の効果が高い理由は、相手から直接、多様なフィードバックを得られるからだ)。人にどう思われているかがわかれば、対策の立てようがある。
     自分がそれほど立派に思われていないことがわかったなら、他人にどう見られたいかに合わせて、自分の行動を変えればよい。たとえば部下に傲慢で思いやりがないと思われていることを知った上司は、会議になにかと口を挟むのをやめれば、評価を上げることができる。あるいは行動を変える代わりに、自分は会議を有意義なものにするために口を挟むのだと、行動の背後にある考え方を説明するのもいい。自他の認識ギャップを完全になくすことは無理かもしれないが、ギャップを埋めるために打てる手はたくさんあるのだ。

     わたしたちは自分の決定権が脅かされそうな気配を感じると、反射的に拒否反応を示すことが多い。わずかでも決定権を放棄すれば、やがてロボット同然になってしまうのではないかという恐ればあるからだ。この不安はあながちいわれのないものではないが、過剰な不安は何も生まない。問題は、わたしたちが選択を理想化しがちなことにあるのかもしれない。選択をあまりにも偶像化し、全てを自分の意思で決めることができてあたりまえと考えているのだ。もしかしたら、自分の価値観を脅かすような影響と、基本的に無害な影響とに分けて考えた方がいいのかもしれない。そうすれば、自分の理性のプロセスを意識的に分析して、有害な影響に少しは対抗することができる。

    “ジュリー・ジレンマ”が教えてくれたように、ジュリーから生命維持装置を外すことを、医師が医学的に望ましい選択肢として提示したとき、選択者は、医師が意向を表明せず、ただ選択肢を提示したときほど、自分の決断に苦しめられなかった。わたしたちは、難しい決断の負担を軽減しようとして、権限や専門知識を持つ人たちに頼ることが多い。苦境に立たされたとき、自分が正しい方向に進んでいると太鼓判を押してくれる人がいれば、たとえ現実の結果が変わらなくても、苦しみは大いに軽くなる。わたしたちの文化では、選択の概念が、尊厳と主体性の美徳と、きわめて密接に結びついている。そのためだれからも、たとえそれが退行性脳疾患に苦しむ人であっても、選択の権利を剥奪すべきでないという強い意識が働いて、肉体的健康への配慮さえ、どこかに押しやってしまうことがある。その対処方法の一つが、ケアの最も厄介な側面を、医療専門家に任せることだ。息子や娘、夫が車のキーを隠す勇気がないなら、「運転はおやめなさい」という意思の一言が、祖母の運転免許証を返還するきっかけを与えてくれる。こうした難しい決断に限って言えば、選択の権利を行使するには、外部から何らかの助けが必要に思われる。
     人が保護と世話を完全に人に頼るのは、幼児期と高齢期だが、自立を完全な依存の状態に変えるのは、老年だけだ。わたしたちは介護者になることで、選択にまつわる精神的負担を、他人の分まで引き受けることになる。もちろん、いつだって愛するものたちの幸せを望んではいるが、生活の質にかかわる、めまいがするような選択の数々には、頭がどうにかなりそうになる。わたしの同僚の女性は、まるで天啓に打たれたように、あることに気がついてから、肩の荷が下りたような気がしたと話していた。
    「治療をどうするか何年も悩んでいたある日、突然はっと気がついたの。母は、わたしたちが何をやってもやらなくても、いつかは亡くなるってことに。残酷に聞こえるかもしれないけど、自分が母を治せないこと、母に自主性を戻してあげられないことを理解することは、わたしにとって本当に大切なことだった。そのおかげで、一緒に暮らした最後の数年間は、質の高い生活を二人で送ることだけを考えることができたのよ。完璧な介護者にならなきゃと、そればかりを考えていたあの頃は、とてもそんなことはできなかった」
     もしかしたら、わたしたちはみな、完璧になろうとして頑張りすぎずに、愛するものたちとともに過ごす喜びに、もっと目を向けるべきなのかもしれない。

  • 「選択」という行為を科学的に分析した本。
    人間(に限らず動物も)は、選択をしたがるいきものである。
    がしかし、選択肢が多すぎると不利益になる場合がある。
    学習や実践を通じて対処能力を高めるか、専門家に任せることが、よりよい選択の手助けや近道になることがある。
    育った環境によって、選択に対する考え方が違ったり、ファッション業界などにおいてはそもそも選択自体が創造されたものであったりと、選択に関する様々な興味深い話があった。
    選択と言っても、様々あり、時には命に係わるものもある。家族の延命措置をすべきか否かの判断を迫られた話を考えたとき、その判断は専門家である医師に任せることが最良のように思える。
    とても読みやすく興味深い話がたくさんあり、面白かった。
    ただ、実験結果などの記述は、もう少しコンパクトになったのではないかと思う。

  • 自由結婚か、パートナーが決められた結婚か
    自分で選択したことが全て幸せに繋がるとは限らないというのは勉強になった。
    そもそも自分で選択しているように見えて、選択させられていることも多いし、
    全ては自分とそれ以外の関わり合いの中で決定されること。
    その決定をどう意味付けするかがやっぱり大事なんじゃないかなと思います。

  • 人生とは選択の連続である。
    選択は人生を切り開く力になる。

  • 宗教によって制約が多かった著者の実体験に基づく「選択」について、「選択」について直感に反するような研究結果の紹介などが書かれている。

    著者のように選択の自由を宗教上制限されていたとしても「自分の人生を自分で決めている」という意識を持つのは可能である、といったように、選択についての疑問の答えが調査によって明らかにされる。

    本書は7つの講義から構成されている。そのうち著者の直接の経験に大きく関わる講義ははじめの2つで、残りは著者の研究に関する話や、一般的な認識と異なる研究結果の紹介になっている。

    個別の話の内容について書くと、本書の結論を盗み書きしているような記述になってしまうのでここには書かない。

    巻末には養老孟司による解説が添えられていて、これを読んであまりに上手くまとめられていて詳しい感想を書く気持ちが削がれてしまった。

    > 著者が有名になったのは、店頭に並べる商品の数は、せいぜい七つほどが限度だ、という調査をしたからである。...自由に選択することは幸か不幸か。著者は後半で、障害児のいわば安楽死問題に関する両親の選択を扱う。決して自由な選択が万能薬だなどとはいっていない。よく目配りされた内容である。ぜひ本書をお読みいただいて、人生における選択について、もう一度考えていただきたいと思う。多かれ少なかれ、今後の人生を生きる参考になるはずである。(解説 養老孟司 p.460)

  • 幸福論の文脈で目にした「選択のパラドックス」というキーワードが気にかかっていて、本書に行き着いた。選択肢で溢れかえった社会に生きている自分が、ちっとも幸せだと思えない。そんな実感からだった。

    著者は、「選択できる」ことの重要度が文化によって異なることを豊富な実験結果とともに示している。また、多すぎる選択肢がストレスにつながることや、ジレンマを生む選択肢に遭遇した時は選択を他者に委ねた方が心が楽になることも。

    「人は自由であればあるほど幸せだ」という命題は、一見真に思える。一方で、本書の内容には頷ける部分が多々ある。むやみに選択肢を広げることを追い求めず、この先に何を掴みたいのかを熟慮し、丁寧に選択を積み重ねていくことが幸せへの近道なのかもしれない。

  • 自ら選択しているという事が幸せにつながる。

  • 選択肢は多ければ良いというものではない。望ましくない選択肢ばかりの場合、選択権を与えられる事は却って、後に悔やんでストレスとなる場合が多い、という知見は、職業柄非常に参考になるものであった。

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