街場の文体論 (文春文庫)

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著者 : 内田樹
  • 文藝春秋 (2016年3月10日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167905804

街場の文体論 (文春文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 本人も言っているが、同じことを何回も繰り返して言っているので、よっぽど内田樹が好きじゃ無いと面白く無いかなと思う。

  • 2017年3月1日(水)読了

  • 以下、本文からの引用

    ──「私は嘘つきですから。私の言うことをあまり信用しないように」というのは「クレタ島人のパラドクス」の一種です。(略)パラドクスですから、論理的には理解不能です。でも、実際にはそうじゃない。誰も頭を悩ましません。だって、本人が「私は嘘つきです」って言っているんですから。「あ、そう。この人は嘘つきなんだ。じゃあ、あまり言うことを頭から信用しないようにしよう」と思う。それでいいんです。メッセージの解釈にかかわるメッセージはメタ・メッセージですから、そのまま一意的に受信していい。コンテンツは関係ないんです。(略)そのいちばん劇的な例が「神の言葉」です。
    ──神の言葉は理解不能であるはずなのに、アブラムはそれに従うことができた。なぜでしょう。その理由は、これまでの話からわかりますね。主はアブラムにメタ・メッセージを送ったからです。アブラムは主の言葉を理解したのではありません。主の言葉が彼には「届いた」のです。コンテンツは理解できないけど、届いた。それがメタ・メッセージというものの本性だからです。
    ──メタ・メッセージの最も本質的な様態はそれが宛先を持っているということです。それが自分宛てのメッセージだということがわかれば、たとえそれがどれほど文脈不明でも意味不明でも、人間は全身を耳にして傾聴する。傾聴しなければならない。もしそれが理解できないものであれば、理解できるまで自分自身の理解枠組みそのものを変化させなければならない。
    ──赤ちゃんが言葉を獲得するプロセスの基点にあるのは、「記号」という概念ではなく、「宛先」という概念です。そもそも「言葉」という概念さえもたない赤ちゃんが、短期間のうちに母語を自在に操ることができるようになるのは、考えてみればほとんど奇跡に類するできごとなのですが、それは赤ちゃんがコンテンツの理解できないメッセージが「自分宛て」であることについては先駆的に直感できるからなのです。
    ──母親が赤ちゃんを抱きしめながら、語りかける言葉はさまざまですけれど、その究極のメタ・メッセージは一つです。それは「あなたがいて、私はうれしい」です。それに対して赤ちゃんもまた同じメタ・メッセージを返す。この鏡像的なメッセージのやりとりによって、親と子は相互に承認を行っています。
    族長や予言者に呼びかけたときに、主は「宛先」をはっきりと指示しました。受信した人間はそのコンテンツを理解するより先に、「あなたは存在する。私はあなたが存在することを求めている」という主からのメッセージを理解したのです。人間はその贈与の返礼として、同じ言葉を神に返した。その瞬間に一神教信仰が成立した。

    ──ジョニー・デップの『パーレーツ・オブ・カリビアン』という映画を見てたら、なかに面白い場面がありました。海賊たちが檻に閉じ込められている。このままでは人食い人種に食われてしまう、窮余の一策で、「檻ごと転がってゆく」というソリューションを採択する。みんなが檻を持ち上げて、隙間から足を出して、ほいほいと転がってゆく。へえ、よくできたメタファーだなと思いました。檻に入っている人間でも、檻の特性、木でできているとか、丸いとか、隙間から足が出せるとかいうことを理解していれば、檻ごと動くことができる。それどころか檻を利用して、縦横無尽に野原を駆けめぐったり、ふつうに落ちたら死んでしまうような急峻な崖を転がり落ちることだってできる。檻に入っているせいで檻に入っていないときにはできないことができる。そういうことってあるんです。
     これは「言語という檻」についての考え方としては、きわめて前向きなものだと思いました。自分は自由である、何も制約されずに、自由に、思い通りに言語を操り、私は言語の主人であると思っている人間は、自分が閉じ込められている言語の檻について、客観的に記述することができません。だって、「自由」も「制約」も「主人」も、すべてそれぞれの言語共同体の「種族の思想」がこびりついているわけですから。「オレは自由だ」という言明が価値をもつのは、「自由には価値がある」という集団的信憑が成立している集団においてだけです。
     われわれはつねに言語に遅れている。つねに母語に対して遅れている。でも、「遅れている」という自覚を持つなら、どこかで言語を出し抜くチャンスがある。

  • 潜在性に身を開くために狭い自我に閉じ困らず、他者と同期すること。

  • 何故か読みやすく、自分考えを整理するるのに
    役に立つ。

  • 4/2 読了。

  • 文体と言語について
    内田さんの 大学教授最後の講義録。

    伝えたいことは
    「情理を尽くして語る」ことの大切さ。

    読み手に対する敬意を持って、
    「これだけは聞いてくれっ」と必死に懇請する言葉が、
    「他者に届く言葉」なんだ!
    と、情理を尽くして 講義されている。

    内田センセイのそんな熱いソウルに触れて、
    丸ごと一冊 響きました✨

  • 街場の文体論

    内田樹の本を読むようになって2年ほど経ったが、かれこれ12冊目の内田作品である。やはり面白い。
    村上春樹の作品にルーツがある話、本が読む話。などなどおなじみの話に加えて今回はアナグラムについての話があった。アナグラムというものは文字の置き換えであり、Elvis/livesというようなものがある。古くはラテン語の詩にあるアナグラムについての話は、人は何かを書くとき自分でも無意識な他の主体が書いているという結論に落ち着く。これから書こうとしている文字が、今書こうとしている文字を呼び出すというある種の矛盾した運動が人間にはあるというのである。
    そこから、エクリチュールの話と階級について、身体の同期について、メタ・メッセージについて、またしても既読の内容であった。
    しかし、そのときおかれた自分の状況に即して考えていくと、同じ内容の文章も違う視点で読むことができる。内田樹の文章の面白さには何度読んでも驚嘆する。いずれまた読みたくなるだろう。

  • これを大学生にむけてどのように講演したのか見てみたい。文章でこれだけ伝わるのだから、現場はもっと熱ぽかったのだろう。

  • 文体論と銘打ってあるが具体的な文章術に関する話ではなく、文章を書く前の心構えや姿勢について説いた講義録。
    届く文章の要諦は精魂込めて伝えること。これだけは聞いてくれ、分かってくれ、と誰かに文章や言葉を届けようとしたことがあるか。そのような自省を読み手に強く促す講義内容だった。
    言葉は相手への贈答かな。

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街場の文体論 (文春文庫)の作品紹介

ウチダ先生最後の講義完全収録!内田樹さんが最後の講義で「どうしても伝えたかったこと」がつまった一冊は、「言語と文学」について熱く語りつくした集大成。

街場の文体論 (文春文庫)の単行本(ソフトカバー)

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