- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167907891
作品紹介・あらすじ
B県海塚市は、過去の災厄から蘇りつつある復興の町。皆が心を一つに強く結び合って「海塚讃歌」を歌い、新鮮な地元の魚や野菜を食べ、港の清掃活動に励み、同級生が次々と死んでいく――。この町に母親と2人で暮らす小学五年生の恭子の視点を通し、淡々とつづられる回想は、やがて歪んだ異世界を浮き彫りにする。集団心理の歪み、蔓延る同調圧力の不穏さを、小説でしか出来ない方法で描き、読む者を驚愕・震撼させたディストピア小説の傑作!解説は『想像ラジオ』のいとうせいこう氏。
感想・レビュー・書評
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著者は芥川賞作家の吉村萬壱さん。震災から復興した町の物語、ディストピア小説等の触れ込みがあり、怖いもの見たさで手にしました。
物語は、主人公の恭子が小5の頃を回想する形で始まります。舞台はB県海塚市。長い避難生活から戻ってきた人々は、〝結び合い〟で繋がった人たちです。
ところが、何ということでしょう! 少しずつ不穏な様子が描かれていきます。同級生がぽろぽろ死に、葬儀や学校での授業での異様な光景、海塚讃歌、食の安心・安全の同調圧力等々、不穏を通り越して、宗教がかった怖さと危うさを感じます。盲信する人にとっては理想郷、外から見たら暗黒社会です。
因みに、「ボラード」とは、船を繋ぎとめる太い鉄柱で、道路の車止めとしても設置される物とのこと。恭子はどちらの世界に繋ぎ止められるのでしょうか‥?
福島第一原発事故で帰宅困難を強いられている方がいまだにいる中、放射能とその後、被災地の未来と重ねて考えさせられました。
何が正しく、何が真実なのかが曖昧な世の中ですが、簡単に集団心理に巻き込まれずに、違和感をもてる人でありたいし、行政が愚かな方向に進まないことを願うばかりです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
最終章はまるで鈍器で頭を殴られたような衝撃があった。全編を通して作中にずっと漂っていた不気味さ、海塚市の気味の悪さがこの最終章で一気に昇華されている。見事な結末。
こんなに最後の一行で打ちのめされた小説は他に記憶にない。
主人公の小学五年生の恭子の目を通して描かれた海塚市民の姿がとにかく不気味。得体の知れない悍ましさが漂っている。大人の欺瞞に疑問を持ち斜に構えてしまう子供ならではの感性の裏に、「本当にこの街の人々はどこかおかしい」と思わせる確かな淡々とした描写。直接的なビッグブラザーが存在しない、よりグロテスクな日本的管理社会。“世間”という言葉の持つ異様性、異常性。
出版時期から間違いなくあの災害を念頭に置いて書かれたことは察せられるがその深奥にある日本社会の薄暗さの描写は他に類するところがない。
同調するか、抵抗するか。狂うか、狂わないか。普通や一般という名の異常な正常者。正気なのは、間違っているのはどちらなのか、次第に分からなくなる。これは一種のサイコホラー作品だ。 -
主人公の少女時代の回想として語られる海辺の復興の町。統制された町。幻想のディストピア。病気なのはどちらなのか?狂っているのは誰なのか?苦しくってぎゅうぎゅうする。薄気味悪くってぞわぞわする。どう生きるのが正しくって、どう生きるのが幸せなのか?エンディングも読後感も悪い。作者の術中に嵌っている。
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「ボラード」って何かなってまず気になって調べたら、ざっくり言うと「地面から出ている杭」で、もともとは港で船を繋留しておくための杭のこと、昭和世代なら若い頃の小林旭や石原裕次郎が波止場で水兵服を着て片足を乗っけてるやつ、あれですあれ、あれを思い浮かべてください(※イメージで語ってます)
ただ作品の中に「ボラード」は出てきますが「ボラード病」という言葉は使われていません。そこは読者が頭を使って考えるしかない。とにかく自分の目で見て、自分の頭で考えること、それが真実かどうか見極めるのは難しくても他人には違うように見えていたとしても、自分の目と頭以外に信じるものはないのだから自分で決めること、読み終えたときに感じたのはそういうことでした。
序盤、語り手である小学5年生の恭子の日常描写から始まり、母子家庭で古い農家に暮らしていて貧しいながらも、ちょっとお母さんがヒステリックで怖いなくらいで一見普通の日常を送っているように見える。しかし徐々に彼女が住む「B県・海塚」という土地の異常性、何かから「復興」するために住民が戻ってきたこと、そのため過剰な「結び合い」と地域への愛着を強要されていること、しかも子供たちがほんの数か月で何人も突然死んでいくこと、どうやら30代になった恭子はどこかの島に軟禁されておりこれは彼女の回想記録であるらしきことなどがわかってくる。
状況だけみればこれはいわゆる近未来ディストピア小説の一種ということになるのだけれど、この海塚という小さな共同体内で強要されている同調圧力は、むしろ昭和の戦時中の、少しでも反戦的な発言をすれば「非国民」と罵倒されたり逮捕されたりした時代の狂気を思わされた。突然いなくなった父親、教師、「絶対に安全」な海産物や農産物を美味しいと完食しなければマークされるけれど、食べた子供たちはどんどん死んでいく。
それでも全体主義はそこに協調し洗脳されてしまったほうが生きるのは楽で、ハイテンションなライブや祭りの場で冷めている人間はあきらかに排除すべき異物だ。冷めていることを悟られ、そこからつまみ出されないためには自分もノっている演技をしなくてはならない。しかし恭子は失敗する。
原発とか放射能とかそんな言葉は一度も出てこないけれど、解説でいとうせいこうが言うようにこれは寓話ではなく現実だと確かに思います。考えると怖くなるから考えないようにする、見たくないものは見なかったことにする、でもすでに起こってしまったことをなかったことにはけしてできない。大変怖い小説でした。 -
三角をみて、みんなが丸というとだんだん丸になっていく、と書かれていた言葉が印象的。
同調とか洗脳って自分の考えがなく生きていけるから楽だし、周りからの圧力を感じず生きていけるので、
ある意味究極の幸せなのかもしれない。
まぁ気づいた時の喪失感とか虚無感がすごいだろうから、そうはなりたくない。
だけど実は自分も今同調している状態なのかもなぁ…
と思える怖さがあった -
自分が病気なのか、それとも周囲が病気なのか。
最後まで読んで、何が正しいのかわからなくなる。 -
不愉快な感覚が読んでいる間ずっと続いていた。
小説内では全てが明らかにされないが、それもまたリアル。
自分の見ている世界はある意味簡単に変わりうるし、宗教のように思考を委ねることは楽なんだろうな。
海塚町の閉塞感は昔ながらの共同体の閉塞感というより、なかったことにしよう・自分たちは素晴らしいという新しい未来に向けての同調であり、リアリティを感じた。 -
すごかった。
信頼する案内者のおすすめにて予備知識なしで読んだがそれで正解。先入感やネタバレなしで読むべき。 -
これは本当に怖かった。
ちょうど震災の数年後くらいに読んだのもあって、排他的な街の雰囲気や、異物を良しとしない不穏な感じが常にまとわりついてくる感じ。
大人になった今、もう一回読んでみたい。