春の庭 (文春文庫 し 62-1)

著者 :
  • 文藝春秋
3.17
  • (11)
  • (30)
  • (67)
  • (21)
  • (4)
本棚登録 : 854
感想 : 58
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167908270

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • あなたは、見ず知らずの人の家を『観察』したりしますか?

    いやいや、朝顔の種を蒔いて芽が出るかを『観察』するわけじゃないんだから、他人の家を『観察』するなんてことはしないでしょう。そもそも警察に通報されたら間違いなく捕まる行為です。泥棒の下見なのか?ストーカーなのか?それとも何らかの組織の陰謀なのか?捕まったあなたは散々に取り調べを受けるでしょう。そもそもそんなリスクを犯してまで他人の家を『観察』する意味がわかりません。

    しかし、一方で私たちには他人の生活というものに漠然とした興味を抱く感情というものもあるように思います。例えばこのブクログの場がそうでしょう。”非公開”設定をしない限り、このブクログという場におけるあなたの家、つまり”本棚”は誰の目にも等しく公開されています。他の人がどんな本を読んでいるのか、読んだのか、そしてこれから読もうとしているのか。読書というものはもちろん趣味の世界ですが、私たちはそんな共通の趣味を持つ見ず知らずの人の、ある意味での”プライバシー”を自由に覗き見することができるのです。

    …と、話がすっかりそれてしまいました。そもそも私たちには”プライバシー”というものがあります。ブクログのように公開されていることを知った上で”本棚”を”公開”している以上、見ず知らずの人にその隅々まで見られてもそれはあなたの責任であり、あなたの意向です。そこにはなんの問題もありません。一方で、家というものを広く一般公開される方は普通にはいないと思います。そこには、その人の”プライバシー”があります。しかし、その家がかつて何らかの理由で社会に公開されていたとしたらどうでしょうか?しかも『写真集』まで出版されていたとしたら…。

    ここに、かつて『写真集』に掲載された隣家がとても気になるという一人の女性を描いた作品があります。そんな女性が、さまざまなあの手この手で隣家を『観察』する様を描くこの作品。しかし、主人公はそんな女性自体を『観察』する男性であるというこの作品。そしてそれは、『だって、ずっと家の観察してたなんて言われたら、怖くないですか?』と、自らのことをわかった上で、それでも『観察』に突き進む女性の行動のその先に、この作品はそんな家こそが主人公なの?と感じてもくる物語です。

    『二階のベランダから女が頭を突き出し、なにかを見ている』という光景を見るのは主人公の太郎。『ベランダの手すりに両手を置き、首を伸ばした姿勢を保』つ女は『ちっとも動』きません。そんな女の視点を見ると『顔が向いているのはベランダの正面。ブロック塀の向こうにある、大家の家』でした。『上から見ると”「”の形になっている』というアパートの一階に暮らす太郎。『まったく同じ位置のまま』動かない女を見て、『二階からなら大家の家の一階や庭も見えるには違いない』とは思うものの『そんなに変わったものがあるとも思えない』という太郎は、ふと、『女が見ているのが正面の大家の家ではな』く『大家の隣の家。水色の家』であることに気づきます。そんな時、『ぴーっ、ぴーっ、と鳥の甲高い鳴き声と、枝葉が擦れ合う音が、突然響』いた『次の瞬間、女と目が合』いました。そして、『太郎が目を逸らすより前に』女は部屋に引っ込み『それきり出て』きません。別の日、太郎が仕事から帰宅すると女の『隣の部屋の住人』が『鍵を落としませんでしたか?』と訊いてきました。『事務所の鍵』だと気づいた太郎はお礼を言い、同僚にもらった出張土産をお礼に渡します。さらに別の日、出張土産のお礼を持って先日の住人と共に、あの女が現れます。そして会話を交わした太郎と女は、また別の日に再会します。それは、女が『コンクリートブロックを二つ積み上げて足場にし』『水色の洋館』へとよじ登ろうとしていた場面でした。『ここの中庭、入ったらだめだと思う』と言う太郎に『そこのお家を、見たいんです』と言う女は『決して強盗の下見とか盗撮とか、そういったことでは』なく『あの家が好きなだけなんです』と語ります。しかし女は、結局その先の行動を諦め、西と名乗ると太郎を晩御飯に誘います。そして、出かけた居酒屋で西は一冊の本を取り出しました。『この家が、あの家なんです』と取り出した本は『「春の庭」と題された写真集』でした。そして、『あの家とのいきさつを話し』、異様な執着を見せていく西を見る太郎の物語が描かれていきます…という表題作〈春の庭〉。何かが起こる予感がぷんぷん漂う独特な世界観の物語でした。

    2014年に、第151回芥川賞を受賞した柴崎友香さんの代表作でもあるこの作品。四つの短編から構成されています。短編間に繋がりはなく、また表題作が全体の3分の二という分量を占めるなど、バランス感も歪で、一見、物語を単に四つまとめた短編集です。以上。という雰囲気も感じます。しかし、物語は不思議と雰囲気感を同じにし、一冊の作品として一体感を作り出しているようにも見えます。では、まずは四つの短編について簡単にご紹介しましょう。

    ・〈春の庭〉: アパートの二階に住む女が隣家の『水色の家』を見ているのに気づいたのは主人公の太郎。そんな女と話すようになった太郎は、女が西という名前であること、『水色の家』の掲載された『春の庭』という『写真集』を持っており、その家の隅々まで知りたいと思っていることを知ります。『そのお風呂場、いいですよねー』と『水色の家』に執着を見せていく西は『お願いがある』と、ある計画を太郎に持ちかけます。

    ・〈糸〉: 『通りの向こうに住む女を、男が殺しに来た』という報道のことを思う主人公の長沼武史は『母親の住んでいたこの2Kの部屋』で母親に線香をあげに来る方の対応をしています。そんなところに息子の時生が戻ってきて『おばあちゃんはやさしい人だったんだね。お葬式に来た人も、みんな、あんないい人が、って言ってた』と語ります。それに『いい人っていうのは、自分にとって都合がいい人、の略や』と答える武史…。

    ・〈見えない〉: 『ぱちん、ぱちん、と音が聞こえてきて、誰かが爪を切っている』と思うのは主人公の『住人』。そんな『住人』は『これはたぶん、東大寺の盧舎那仏の指』と思います。『二年前の夏』にこのアパートに引っ越してきた『住人』は、『その木を「雑種」と呼ぶことにし』ます。『「雑種」は、また葉や枝が生えてくるのだろうか?』と思う『住人』。そんな『住人』は『雑種』のそれからを注視していきます。

    ・〈出かける準備〉: 『もう、立ち入り禁止なん?』、『めっちゃパトカーとか警察とかおったわ』と会話を交わすのは主人公の『わたし』と蛍子。『蛍子の住む部屋の近くで一トン爆弾の不発弾が発見され』『半径三百メートル』の『避難区域』に蛍子の部屋が指定され、会うことになった二人。そんな蛍子は飼っている『亀』を連れて来なかったことを心配します。『ほかにも、残ってる猫とかインコとかいそう』とも語る蛍子。

    四つの短編はいずれも何か大きなことが起こることはありません。それこそが、内容紹介に書かれた”何かが始まる気配。見えなかったものが見えてくる”という感覚です。その中でも、やはり表題作〈春の庭〉の印象は強力です。そんな短編には読みどころが幾つかあると思います。三つを挙げてみたいと思います。まず一つ目は、小技を効かせた描写です。

    『一人で住んでいた大家のばあさんが介護施設に入所して、もう一年になる。家の前を掃除するのを見かけたときは元気そうだったが、八十六歳になるらしい』。

    そんな風に淡々と描写されていく背景事情は取り立てて珍しくもありませんし、これで終えてもおかしくない文章です。それが、

    『情報は不動産屋経由である』。

    えっ?という一言が情報のでどころを示唆します。あってもなくても良い一文。でもこれがあることでなんだか語り手に親近感が湧きます。もう一点。

    『作業は無事に終了し玄関で靴を履きかけたら、今度お礼します、と西に言われたが、太郎は別にいいです、と答えた』。

    これまた、なんのことはないアパートでの暮らしの一コマが描かれた箇所です。これで終えても全く問題はないと思います。そこに、

    『部屋に戻ると冷蔵庫が、どるるん、と音を立てた』。

    これまた、えっ?という印象を抱きます。『どるるん』という冷蔵庫の音はどことなくわかる気がしますが、だから?という気もします。その次には全く別の文章が続いていく中に、なんだか不思議な一文の存在。しかし、この一文があることでなんだか物語を読む緊張感がほぐれるようにも感じます。まさしく小技だと思いました。

    次に二つ目は、まるで映画のワンシーンのようにカメラをパンし、またズームしていくような描写を文字の上に展開するものです。『その朝は土曜日で、十時過ぎまで寝ていた』太郎は『畳に転がって』います。『大家の家の方角から』『カラスの声が断続的に聞こえ』るという中に『ベランダに面した網戸越しに、空が少し見えた』『いい天気だ』と思う場面。そんな時『物音がする』のを聞いた太郎は『起き上がり、ベランダに近づいて』『外に人影』を見ます。『雑草が伸びた中庭』に目をやる太郎。『ブロック塀の隅、大家の家と水色の洋館とコンクリート金庫との境界』に目を移すと、そこには『スウェットにデニムの女』がいました。『コンクリートブロックを二つ積み上げて足場にし、ブロック塀に手をかけてよじ登ろうとしている』女。『成長しすぎた蔦で覆われ』た塀の上には『楓の枝が飛び出している』こともあって『なかなか上れない』という女を見て、思わずベランダに出て『ちょっと』と声をかけるというこのシーン。そこからは見事に音声付きの映像が浮かび上がってくるのを感じます。この作品にはこのような描写がとても多いです。そこには読者の頭の中に映像を浮かび上がらせるかのように、見えているはずのものを細かく描写していく柴崎さんの筆致があります。執拗なまでに映像を描写していく柴崎さん。これが作品に独特な雰囲気感を生んでいきます。

    最後に三つ目は読書の中で私自身が混乱してしまったポイントです。これは、〈解説〉の堀江敏幸さんも指摘されていますし、他の方のレビューでも触れられている部分です。それは、視点の瞬間的な切り替えです。この作品は基本的には主人公の太郎視点で展開します。上記してきた内容の部分もそうですし、これから語ろうとする箇所の直前の文章も

    『なにかスポーツでもやっていたんですか、と聞くと、野球を、と意外な答えである』。

    そんな風に太郎が西に質問をして、『意外な答え』と感じていることが書かれています。それが、

    『それから西は、あの家とのいきさつを話し出した』。

    ここまで間違いなく太郎視点だったものが次の一文で瞬時に西に切り替わります。

    『西があの家を見つけたのは、今年の初め…』

    そんな風に続いていく文章から、西の回想含めた物語が展開していきます。これには、えっ?となってしまいます。そして、その先に

    『それだけ話すあいだに、西は生ビール中ジョッキを七杯飲み、トイレに二度行った』。

    と、視点が切り替わっていた時間の長さを加えながら再度元通りに太郎に視点を戻していきます。また、後半に入ると、いきなり『わたし』という記述が登場し、再び読者を混乱に陥れます。”太郎の視点のままで終わるのは違うなと思ったんです”と語る柴崎友香さん。そんな柴崎さんは”現代の生活では、客観的に誰が見ても同じ世界、というものは存在しない。人が見ている世界はそれぞれ全然違うんです”と続けられます。そして、”読んでいる人にも’あれっ’と揺らぐような体験をしてほしい”と入れられたのがこの視点の切り替えです。これから読まれる方には、この切り替えを意識してこの場面の登場を楽しんでいただければと思います。私はこの情報を知らなくて読み、混乱してしまったということもあり、敢えて記させていただきました。
    この短編は、以上のような点にも注目するとなかなかに興味深い読書ができるのではないかと思います。

    “もともと家を見るのが好きだったんです”

    そんな風に語られる柴崎さんが家の描写に徹底的にこだわった表題作の〈春の庭〉含め四つの短編から構成されたこの作品。そこには、いかにも芥川賞作家さん的こだわりの先に書き上げられた物語がありました。家を『観察』する西を『観察』する太郎という構図、さらにそれを読書という手法によって『観察』する読者というなんともシュールな構図がそこに浮かび上がるこの作品。小技の効いた表現や、まるで映像作品のような描写が強く印象に残るこの作品。

    何か大きなことが起こるでもない淡々とした描写の中に執拗なまでに描かれていく家の描写によって、人よりも家の存在が強く印象に残った、そんな作品でした。

  • とてもよかった。思わずほっと息を下ろしてしまうような安心感と、内側から満たされるような温かさ。柴崎友香の小説はどれも読んでいると、「世界は私に開かれていて、受け入れるのを待ってくれている」という感覚になるが、今作は特にそれが強かった。この小説世界に生きられたら……。この作品から受ける感触は本当に温かく、包み込まれるような感じさえする。よく考えたら登場人物たちは、おそらくたいして満足いく生活や人生を送っていないのだが。そこそこの年齢で結婚もしていなければ、友人知人も仕事場の関係しかなく、収入も多くない。そんな生活でも「縁」によってこれだけ支えられているし世界と繋がっているんだよ、というメッセージを感じる。縁とは「その時その場所にいることそのもの」なのだなあと。ある時のある場所を写した写真集というモチーフにそれが端的に表れていると思う。今回とみに感じたのは、繋がりが時間的にも空間的にも宇宙的広がりを持つと同時に精神の内部にまで浸透するような感覚。それは解説にあった人称の入れ替わりや俯瞰視点の導入が効果覿面だったのだと思う。それらの手法の使い方に過去作品と違う工夫を感じた。この作品で芥川賞なのもとても納得できる。歴史でも科学でも物語でも、関係のなさそうな物事が実は繋がっているということに感動しない人はいないと思うが、それは特別なことではなく、凡庸な私たち一人一人の存在や生活の営みもその例に漏れるものではないんだよというのが柴崎友香の一貫して伝えようとしていることなのではないかと思い至った。

  • L字型のアパートに住んでいる主人公(30代男)とそのアパートの住人2人の女性と3人の話と、そのアパートから見える水色の家。水色の家は昔アーティストが住んでいて、それが"春の庭"という写真集にもなっている。それを高校時代に読んだ1人がその家の人と仲良くなり、家の中を見せてもらい、どうしても風呂場を見たいがために…ある事件になってしまう。
    主人公はベランダから見えるその家のステンドグラスが気になり、そして庭を掘り返している写真が気になる。
    自分の家に父親の骨を砕いて埋めたことがあるから。

    最後に主人公の姉が出てくるんだけれど、ここで姉=私 になる
    なぜ⁇

  •  難解な作品だな、というのが感想。
     途中までは何も起こらない、だけど何も起こらない故の面白さみたいなものが感じられて、スイスイと読み進められたのだが、作品の終盤近く、視点が三人称から「太郎」という登場人物の姉に唐突に変わってからは、作品の様相がガラリと変わってしまったように感じられた。
     視点どころか、過去・現在といった時系列も入り組んでしまったように感じる。
     しかも視点は姉に変わっているはずなのに、いつのまにか三人称、つまり変わる前の状態に戻ってしまっているようにも読める。
     ネットで検索してみると、この視点の変化については色々な意見が出されているのだが、「これだ!」という解釈は(当然のことながら)出されてはいない。
     少なくとも、作者は何かの意図をもってこういう書き方をしているのだから、単純に「読者を驚かせるための効果」などという軽視の仕方は出来ないだろうと思う。
     いずれにしても、この視点が変化してからの二十数頁が存在するおかげで、僕にとってこの作品は「何がなんだかよく判らないけれど、何かが間違いなく存在している」魅力ある作品となった。
     そういう意味でも(少なくても僕という読者にとっては)この視点の変化は必要不可欠だったことになる。
     書き忘れそうになったけど、第151回芥川賞受賞作品である。

  • 主人公が観察した西さんが観察した青い家が主人公。青い家を中心として過去と現在をまたぎつつ、場所が持つ力みたいな、場所も生きてるんだよ、、、みたいなことを描こうとしてたのかなぁ。

    なんか主人公が主人公っぽくないな、と思いながら読んでたけど、途中で姉に視点を切り替えたりして、敢えて主観性をなるべく固定化しないように、舞台を主役にするように描いてたんだな、と納得。


  • 彩りのある文章でリズミカル。唐突に現れる独特な表現が楽しい。

  • 読了

  • 難解でした。

  • 映画で時々見かけるドリーのような手法とでも言うのか、あるいは今風のドローン撮影のような感じと言う方が良いのか、視点が緩やかに変わっていくのに感覚的について行けず一寸苦労しましたが、巻き戻して(言い方が昭和…)再度読み直すなどすると慣れました。内容はともかく、豆腐への収斂がとても面白く印象的でした。

  • 何気ないことが気になって仕方がないという経験は誰しもあろう。しかし何気ないものを追って、ここまでシュール且つ人間味あふれるドラマを作りだした経験はそうないはず。庭の眺望。しかも「春」という限定付き。発想がいい。

著者プロフィール

柴崎 友香(しばさき・ともか):1973年大阪生まれ。2000年に第一作『きょうのできごと』を上梓(2004年に映画化)。2007年に『その街の今は』で藝術選奨文部科学大臣新人賞、織田作之助賞大賞、咲くやこの花賞、2010年に『寝ても覚めても』で野間文芸新人賞(2018年に映画化)、2014年『春の庭』で芥川賞を受賞。他の小説作品に『続きと始まり』『待ち遠しい』『千の扉』『パノララ』『わたしがいなかった街で』『ビリジアン』『虹色と幸運』、エッセイに『大阪』(岸政彦との共著)『よう知らんけど日記』など著書多数。

「2024年 『百年と一日』 で使われていた紹介文から引用しています。」

柴崎友香の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
又吉 直樹
村田 沙耶香
朝井 リョウ
恩田 陸
ミヒャエル・エン...
宮下奈都
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×