風の谷のナウシカ 2 (アニメージュコミックスワイド判)

著者 :
  • 徳間書店
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  • Amazon.co.jp ・マンガ (136ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784197735822

感想・レビュー・書評

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  • 2巻目からは、アニメと似ているようで、或いは正反対の物語が描かれ始める。

    「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」
    これを言ったのは、老女ではなくて土鬼(トルク)軍の辺境のマニ族の僧正であった。漫画版ではナウシカは「死んで生き返る」ことはない。僧正は云う「(その者は)そなたたちを、青き清浄の地へみちびく」だろう。それは(その者=ナウシカ)が世界を救うという預言でもある。預言者の役割として、僧正は伝えた途端に殺される。ただし、ユパには伝えられ、ユパにはその者はナウシカであると直感的に判る。伝説の勇者ユパには、この預言を確かめる役割が与えられるだろう。アニメはここで終わるが、漫画版はここから本格的に始まるのである。つまり、僧正の預言がそのまま正しいわけではないことが、読者にも微かに伝わってきている。

    風の谷の(100歳以上と言われる)大ババは、伝えられてきた「歴史」を語る役割が与えられる。
    「大海嘯」の伝説である。
    世界は、「火の7日間」のあと、一挙に文明の技術を失ったわけではなかった。この1000年間で3回大海嘯(腐海が津波のように押し寄せること)が、あったという。最後は300年前だった。その頃は砂漠にオアシスのように文明技術が保たれた都市があった。しかしその国は覇権を争う内乱を呼び起こし、王蟲を狩る方法を編み出し、その甲皮を使って武具を作った。やがて、王蟲の暴走が始まり、都市は飲み込まれ、技術も永久になくなり、王蟲の死骸から広大な腐海が広がっていったそうな。

    今回の三つ折りポスターは、流石に主人公格2人のアップ画が使われている。1人は当然ナウシカである。武具を脱いでくつろぐ姿だ。もう1人は当然と思う人も多いと思うが、クシャナ姫である。トルメキア王位継承3番目の皇女にして、勇猛果敢、部下の信頼厚く、トルメキア戦役で腐海南下政策を事前に神聖皇帝側に漏らされて謀略を画された女性。「もののけ姫」におけるエボシ御前の役割である。何故「もののけ姫」のアシタカの役割を(この時点でまでは)持つペジテのアスベルが、ポスターに選ばれなかったのか?大河ファンタジーに少年少女の恋を入れ込んだ方が、絶対読者受けはいいはずなのだが、やがてアスベルは物語からフェイドアウトしてしまう。それは編集者にもどうにもならない、宮崎駿の強い意志があったと見るべきだろう。一方、クシャナ姫には、最後の最後になって、とてつもなく大きな役割があったことが知らされるのである。そのことについて書くのは、ずっとのちのことになる。

    マンガ「映像研には手を出すな」を見た人なら分かると思うが、アニメにとって、設定と動画は、同等の、時には設定の方が重い位置づけになる。宮崎駿は、アニメ畑で鍛えられた人物だから、設定に拘る、拘る。大ババが言った300年前のオアシス都市の造形は、アトムや他作家の未来都市とは一線を画していた(強いて言えば諸星大二郎)。表紙のナウシカの着ている服は、土鬼軍マニ族の皇族の晴れ着が王蟲の血で青く染まったものだ。胸の標は公家の家紋だろうか。鳥を意匠としていて素晴らしいと思う。この意匠も全くのオリジナルである。表紙裏には、おまけとしてナウシカの戦闘服装備の解説を載せていた。ストーリーに活かされた設定もあれば、活かされなかったのもある。しかし宮崎駿は描かざるを得なかったのだろう。業といえば業だが、この語らざる設定が、このファンタジーを傑作としているのも事実だと思う。

    今回のトルメキア侵略戦争がどういう構造になっているのか、うっすらと見えてきた。世界を二分している、トルメキア連合国と土鬼軍神聖皇帝国の世界の覇権をかけた戦争であり、腐海を越えてトルメキアが神聖皇帝国に侵攻しているのだが、兄弟の裏切りに遭い三女のクシャナ姫軍は待ち伏せの罠に遭い壊滅的な打撃を受けたところである。一方、二国の思惑とは別に、王蟲が全体で動き出して、大海嘯を始めたのではないか、とナウシカは見ている。

    この世界は、一千年前の文明のお裾分けで保っているのに過ぎない。それなのに、なおかつ未だ覇権を争い、王蟲の培養さえ始めている。読者の我々は「愚かだなあ」と思うかもしれない。しかし、文字も失われ、インターネットもないこの時代で、それを突き止める人物が果たして現れることができるのだろうか。

    長くなった。また、次号でいろいろ考えたい。

  • 【あらすじ】
    ぺジテ市のアスベルとともに、腐海から脱出したナウシカ。その頃トルメキア戦役が勃発し、ナウシカは古い盟約によってトルメキア第三皇女クシャナ軍に従軍する…。映画では語られなかったその後のナウシカの物語がここから始まる!

    ・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

    感想は最終巻にまとめて記載予定です。

  •  土鬼(ドルク)のマニ族に捕らわれたナウシカとアスベル。ナウシカは族長である僧正との対話で、風の谷を王蟲に襲わせる作戦が進んでいることを知る。彼女はメーヴェで脱出した後トルメキアの艦船に飛び込み、クシャナと対峙。王蟲の群れは食い止めたものの、この戦争そのものを止めねばならないと決意したナウシカはトルメキア軍に志願して加わる。
     一方、単独行動を続けていた剣士ユパは偶然土鬼の船に残っていたアスベルと出会い、行動を共にすることになる。
     映画化されたのは2巻の途中まで。ナウシカはこの時点でただ一人、世界の行く末を見通した存在になっていて、映画とは比にならないほどの物語のスケールの大きさに圧倒される。

  • 2巻の中盤くらいまでが映画とだいたい同じ筋。
    これ以後、映画では「奇蹟」にしてしまった後悔から、漫画ではますます問いかけと混迷を深めていくわけだ。
    ところで漫画版のこの時点ではまだ何かの象徴、おそらく核の、に過ぎなかった巨神兵を映画では再生させ、再生途中で腐り落ちる様子を描いた。
    あの崩落や爛れの印象が美しかったわけだが、出産可能な状態になる前に産み落とさなければならなかった状況をそのまま表しているようでもある。
    実は3巻以降は紛失してしまったのだ。
    せっかくなので箱入りのものを購入して再読するつもり。

  • ごく個人的な理由ですが、いまものすごくやる気が欲しい、モチベーションが欲しくて。人生を変えるぐらいの力がある素晴らしい作品というのは、この世の中に1〜2割ぐらいしかないと思ってます。
    そう考えたとき、ほんとにほんとに偉大なアニメ作家である宮崎駿の力をお借りするしかない…と思い、ナウシカの漫画版を読むことにしました。

    FFさんがブルータスの「食わず嫌い」の本を読んでいたので言うと、僕にとっては黒澤明でもキューブリックでもビートルズでもなくて、思いつくのは宮崎駿とかだよなあと感じます。
    宮崎駿に対してはものすごく尊敬していて好きな部分と、その半面食わず嫌いなところもありました(食わず嫌いじゃなくて、食った上でだけど)。で、これは宮さんのせいではなくて、'88〜90年ごろの世間のイメージや同調圧力が原因。
    個人的に「食わず嫌い」というのは馬鹿馬鹿しいと思ってるし、正確ではないと思う。たぶんみんな、子どもの頃〜若い頃に触れる以外は「なんとなく観る・読む機会を逃してしまっている」ぐらいのことだと思いますね。クリエイターはこれとは別に「影響を受けたくないからあえて観ない」とかはあると思うけど。
    だって、「食わず嫌い」に当てはまる作家って、有名な人たちばっかりでしょ?全然有名じゃなかったら「食わず嫌い」に当てはまらないと思うんですよね。それと(こういうことする人は稀だけれど)作品って食ってもないのに良いか悪いかの判断ってまったくできないですよね。だから「食わず嫌い」ってのはまったくもって馬鹿馬鹿しいし、意味がない。
    それと、世の中は「知ってること」と「知らないこと」の二種類しかない。やったことがあるかないか、読んだこと、観たことあるかないかのふたつしかない。
    知識というのはただの点にすぎません。その知識を繋げて、線や面にしていく。自分のなかで体系化していくこと。そして自分自身を知ること、感情や感受性を豊かにしていくことで本物の教養になっていくと思います。
    ただ人生の時間は有限なので、クソみたいな作品に触れるよりは、できるだけ良い作品に触れた方が良いですよね。そのための方向性を決める、取捨選択する、舵取りをするのがセンスなんじゃないかなあと最近は思っています。

    ナウシカの話に戻ると。
    宮崎駿作品はかなり観たんだけれど(雑想ノートのシリーズも読んだり持ってたりしている)、ナウシカの漫画版だけ読まずに月日が経ってしまってました。たぶん、一番重要なのがこの漫画版ナウシカだと思ってて、一番重要なのが最後になってしまった。
    アニメ版は大昔に観ましたが、ただのパイロット版だなあって感じで、一本の映画としてはそこまで面白いとも感じなかったです。漫画版の方は「オタクが標準装備しとかないといけない」兼、ジブリ作品との繋がりを考えても「一般的にも標準装備しとかないといけない」ぐらいの重要な作品なんじゃないかなあ?って思ってます。ラピュタ観てバルス言ってる場合じゃない、と。

    その理由のひとつは、この主人公が女性だから。宮崎作品で少年少女が主人公とか、ヒロインの少女が重要な鍵を握るとかはあったんだけど、他の作品よりも若干年齢が高い女子の、初めての主役。その後に連なる戦闘美少女の系譜でもあります。
    90年代は映画なんかでも「強い女性」が多くなるんだけど、70年代末〜80年代初期の頃に他にあったかなあ?と考えると、そんなに無い気がする。
    若干外れるけどラムちゃん、アラレちゃん、あと『童夢』のエッちゃんとか『ダーティペア』ぐらいかなあ。79年の『エイリアン』のリプリーにしても、ホラー映画の絶叫クイーンに毛が生えたぐらいで、本格的に強い女性になるのは86年の2からだしね。強い女性が大好きなジェームズキャメロンが宮さんのことをリスペクトしているのも、すごくわかる気がします。

    あと、ナウシカは宮崎キャラでたぶん最も巨乳のヒロイン。これは後輩とも話したんだけど、母性の象徴なんだろうなと。

    昨年、何がきっかけだったかは忘れたけど(たぶん『未来少年コナン』だったと思う)自分の中で大きな宮崎駿とジブリブームがありまして、それで1巻をようやく読んだのに放置してました。ちょっと前に1巻を読み返してようやく2巻、先は長い。しかし、読み終えるのがすごく勿体ない気もしてくる。

  • この巻の中間までが,映画版の原作となります。クシャナ様が「手向けだ」と言って,髪の毛を切ってしまうシーン,すごくかっこいいです。

  • アニメのお話はここまでなんですね。原作ではまさにこれからのところではないですか。土鬼(ドルク)の僧正さまをして「やさしさと猛々しさが混然として奥深い…」と言わしめたナウシカの魅力も、アニメでは実はほんの一部だったということでしょう。クロトワがクシャナ殿下を救うシーンはおおっと身を乗り出しました。そのあとの部下を失ってたむけに髪をバッサリ切って投げ落とすクシャナ殿下が胸熱すぎます!クシャナ殿下の部下になりたいです。

  • 『忍者武芸帖』に出てくる「ジバシリ」が、ここでは「そういう現象の気合の入ったやつ(原典ではネズミさんが固まって目の前のありとあらゆるものを喰ひ散らかして暴走するが、こっちのはものすごくでかい蟲さんが有毒の菌とかをまき散らしながら暴走するのである)」になってゐる。まさか後に特殊被差別民の呼称になる(『もののけ姫』で特殊な狩人の呼称として出る)とは思ってなかったし、「蟲使い」といふ皆さんは、大海嘯となんとなくしか関連しない。
     その蟲使いさんは、風の谷で差別を受けてた上に、セラミック鉱山で更に具体的な差別を受ける。はー。
     網野善彦歴史学における「凶悪な暴力機構は被差別民の保護みたいなものをやる」と言ふのは、既にある。
     アスベルー

  • 第二巻。

  • 「その者青き衣をまといて金色の野に降りたつべし失われた大地との絆をむすばん」名ゼリフですな。

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著者プロフィール

アニメーション映画監督。1941年東京都生まれ。学習院大学政治経済学部卒業後、東映動画(現・東映アニメーション)入社。「ルパン三世 カリオストロの城」(1979)で劇場作品を初監督。1984年には「風の谷のナウシカ」を発表。1985年にスタジオジブリの設立に参加。「天空の城ラピュタ」(1986)、「となりのトトロ」(1988)、「魔女の宅急便」(1989)、「紅の豚」(1992)、「もののけ姫」(1997)、「千と千尋の神隠し」(2001)、「ハウルの動く城」(2004)、「崖の上のポニョ」(2008)、「風立ちぬ」(2013)を監督。現在は新作長編「君たちはどう生きるか」を制作中。著書に『シュナの旅』『出発点』『虫眼とアニ眼』(養老孟司氏との対談集)(以上、徳間書店)、『折り返し点』『トトロの住む家増補改訂版』『本へのとびら』(以上、岩波書店)『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』(文春ジブリ文庫)などがある。

「2021年 『小説 となりのトトロ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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