暇と退屈の倫理学

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著者 : 國分功一郎
  • 朝日出版社 (2011年10月18日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

暇と退屈の倫理学の感想・レビュー・書評

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  • 「すべての人間は、退屈と闘っているんじゃないか?人間にとって一番つらいのは、もしかして”退屈”なのではないか??」という考えが、用事を済ませてホッとした私が車を運転しているとき、突然降ってきた。
    この仮説を「いや、違う」と否定してくれる別の考えは、私には用意できなかった。

    これは...もしかして、重大なことに気づいたのかも!!

    そう思った私は、すぐにネットで「暇 退屈 人間にとって最大の 哲学者」というキーワードをもとに検索。すると、この本が出てきた。

    読みながら、筆者と読書会?勉強会?をしているような気持ちになる。
    「先生、ということは、こういうことですか??」
    と、素直な気持ちで質問してみたくなる。
    知的好奇心を刺激してくれる本だった。また、今まで一度も哲学に興味を持ったことがなかったが、私のように「暇ってなんだろう」「暇と闘う方法」を考えるところから哲学が始まったとか始まらないとかいうことを知ったのも、この本をきっかけとしてだった。

    気晴らしをしながらも「楽しかった」と「退屈だった」が混在するくらいが一番人間として健全なのかなって、そういうところに落ち着いた。
    何かに夢中だったり、自分としか対話していなかったりしているときって、どちらにせよ、余裕がないから、時々自分の世界に不法侵入してくるワクワクするようなことも、キャッチできなくなってしまう。どこで待ち伏せしていれば、自分が動物的に夢中になれる何かが通りかかるのか・・・少しはわかるようになったのも、数々の失敗経験やこれまで食べてきた美味しいものや、別の人の考えにさんざん耳を傾けてきたことのおかげだったんだな。
    思えば、この本に出会ったあの考えが私の頭の中に不法侵入してきたときこそ、退屈と気晴らしが混在していた瞬間だったのだ。

    浪費と消費の違いについて、読んだときはよくわからなかったけれど、水中毒の患者さんの治療法を別のサイトで読んで、「浪費」がここで推奨されていることの意味がやっとわかりました。(読んでわからなかった方、調べてみてください。おすすめです!)

    学んでいかなければ、とことん楽しむこともできない。美味しい料理の味の違いがわからないのと一緒で。
    経験して、学んで、時々動物みたいに何かに夢中になって、また退屈して。気晴らしをするのであれば、とことん贅沢して、一瞬一瞬を味わって。もういらな~い!満足!ってくらいまで。
    な~んだ、そんなことでよかったのか。
    というオチだということは、自分の考えと合っていたということだろうか。哲学・倫理学に興味を持たせてもらったので、★5つ。

  • 幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。(p.55)

     定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。」いわゆる「文明」の発生である。(p.88)

     (ハイデガーの言述)哲学に関してどんなに広範囲のことを扱ったとしても、問うことによって私たち自身が感動させられているのでないならば、何事も理解はできない。結局はすべて誤解にとどまる。(p.200)

     本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
    私たちの最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい……。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである。(pp.240-1)

    人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。
    退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力そのものであるのだから、けっして振り払うことはできない。したがってパスカルが言っていた通り、人間はけっして部屋に一人でじっとしていられない。これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう(p.244)

    人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ自分なりの安定した環世界を、当方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。
    はじめて保育園や幼稚園まるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでに彼ないし彼女が作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難な課題である。だからしばしば失敗も起こる。(pp.322-3)

    単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
    人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっているのは必然である。(p.325)

  • 暇と退屈について深く掘り下げて考察していく。
    経済史・人類史・自然科学など多岐にわたる切り口でこれを考え、
    結論(人生の楽しみ方)に収束していく過程が面白い。
    難しくて読み飛ばした箇所もあるが、
    哲学ってこういう学問なんだということが少し理解できた。

  • 君君、その暇その退屈どうするの、と。
    ハイデッガー云う退屈の第二形式“気晴らしと退屈が絡み合った状態”に人間らしさを見る。これ正気。鼻息荒く「なにかしなくては!!」という狂気に隷属しない。
    気晴らしと退屈が絡み合う第二形式は人間の高い環世界移動能力がなせる技。退屈に対する刺激を楽しむ余裕。刺激を消費でなく浪費する(観念のゲームに陥らない)。気晴らしを存分に享受する“贅沢”。
    退屈の中で気晴らしを楽しむ余裕が人間らしさ。この人間であるということを楽しむことをベースに大きな流れに身を任せる(自分が取さらわれる瞬間)ことを待ち構える。“生命・人間の本性”と“人間の運命”は行ったり来たり。振り子の運動で楽しむことができると思う。

  • とっても面白かった!

    暇(生活に余裕ができて空いた時間)と退屈(満たされない、自身に抱く疎外)に、どう向き合うべきかを説いた本。


    結論はある。だけど、真の結論は読者に委ねられる。

    この本を読んだ人は皆、同じ講義を通じてそれぞれの結論を持ったはずです。

    知的な読書体験がしたい方にオススメ。
    ぶ厚いですが、さらっと読めます

  •  読みたいとは思っていたもの手付かずになっていた本。読み始めると、一晩で読み終わった。

     ハイデガーの退屈の第三形式においての「決断せよ」が、そこから先に進んでくれて本当に嬉しかった。これはサルトルをかじった時に「君は自由だ。選びたまえ。つまり造りたまえ」と言われて、きょとんとしたのを本書のおかげで乗り越えれたからだと思う。

     いろいろな方向からアプローチしている分、本書には随所に興味深い箇所があった。ただ、ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を通じての退屈の議論で、最後に第二形式に光を見出したのがなんだか残念。その前の箇所で、アーレントのマルクス理解が「本来性」にとらわれているせいで誤読していると指摘があるが、退屈の議論そのものも結局は本来性を想定しているために生まれる議論という点が自分としては否めない。西田、西谷の無の概念(本来性なき議論)と退屈を絡めてみるとおもしろそう。

     西谷の『宗教と非宗教の間』で真の遊びについて論じられているけれど、自分としてはどうもそちらの議論ほうが上な気がする。

     

  • 毎日忙しくすごしているとき誰もが「ああ、休みが欲しい…」「ゆっくりしたい…」と思うのではないでしょうか。
    しかし、いざ、休みが取れるとなにをしたらいいかわからない…なにかしたいことがたくさんあるはずなのに、なにもすることが思い浮かばない…
    そんな人が多いんじゃないかと思います。
    そして悩みは深まり、自分は仕事をするためだけに生まれてきたのか?そんなはずはない…じゃあなんのために?と哲学的な問いにたどり着いてしまったりして…笑

    そんなときに、この本、暇と退屈の倫理学です。倫理学なんて聞いたことも見たこともない人でも読める平易な文章です。
    退屈とはなんなのか?暇とはなんなのか?その対処法とは?といったところを様々なー自分では絶対に読まないようなー文献を参照し筆者の意見と共に論じられていきます。

    タイトルに惹かれる方、考えがちな方、暇を持て余す大学生(笑)におすすめの一冊です!買って損はないと思います。
    特にこういった類の本をはじめて買われる方にはおすすめ!

  • 人生論について思いを巡らすのに「退屈」という感覚を軸にするのは確かに有効であるが、それだけでは不十分だと感じる。つまり仕事や現在の生活のことなど、短期的な領域、つまり「生きること」に対しては幅広く適用することができても恋愛や自己実現といった長期的な領域、「生きていくこと」については「退屈」はカバーできないのではないか。

    たとえば「寂しさ」。筆者はパスカルの言う通り、本当に不幸の原因は退屈だけだと考えているのだろうか。それとも寂しさは退屈に含まれるとでも?

    暇がないから「退屈」でもなく、完全に不幸は克服できないにしても衣食住足りて「自分の仕事」ができているからといって「寂しさ」に目を背けることのできる社会は受け入れ難い。それは、自分がなるべく「かけがえのない誰か」として他者に関わりたいからだ。

     そこには、一人でも多く、いや、たった一人でもいいから自分のことを本当に分かってほしいという甘えも含まれている。

     その程度には強く、その程度には弱くありたい。以上が、「暇と退屈の倫理学」に感銘を受け、また触発されて明らかになった、私の倫理観である。

  • おもしろくてすぐ読み終わった。そして、とてもよく書けていると思う。あんまりよく書けているので何も言い足す気が起きず、レビューを書くのをずっとためらっていた。でも今日は勇気を出して書いてみようと思う。この本に対して言いたいことがあるから。

    わたしの言いたいことを一言でいうと、「ウサギ狩りをバカにするなー!」って事。第一章「暇と退屈の原理論」でのウサギ狩りのくだりだ。この叫びは、著者に対してだけではなく、著者がこの原理論を依拠したパスカルに対しても発したい。「原理」の部分で完全には賛成できない以上、この本に対して賛辞を送ることを決して惜しまないが、わたしにとってはあるひとつの試みに過ぎない、と思う。(まぁ、すべての論考は試みに過ぎないわけだが)

    説明してみようと思う。著者はウサギ狩りに行く人を見て、「〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉と取り違え」(P.37)ている、と指摘する。腹など空いていないというのに、ウサギが欲しいからウサギ狩りに行くのだと思い込む(P.38)。その思い違いが悲劇だ。なのに皆、その区別から目を逸らそうとする。「狩人よ、よく考えろ、ウサギという対象は、ウサギ狩りの原因ではない」と。

    しかし、果たして熱中しているとき、私たちは本当に〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉を取り違えて不幸なのか?〈対象〉と〈原因〉って、概念化すると言葉の力で確かにスッキリ差異化されはするけれど、両者はそれほどまでに異なるものでありうるのか?それどころか、理性を以ってそれらを差異化し、両者の区別に気付かずにいる人間を不幸だ、悲劇だ、と批判する著者の営み自体が、熱中している人に対する冷笑だ、と言いたい衝動を、私は抑えきれずにいる。

    この私の立場を論証するため、引き続き狩人の例を使って考えよう。〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉の峻別を説く國分氏の議論に対して、古代ローマ皇帝ハドリアヌスならこう反論するかもしれない。この皇帝は哲学者でもあり、狩りを愛していた。

    「私の狩りにおける〈欲望の対象〉とは「生の実感」であり、私が狩りに対して欲望を禁じ得ない理由(〈欲望の原因〉)は、私が取り巻きの追従や元老院での無駄話に飽き飽きして、毎日生を実感できていないためである」、と。つまり、この狩人にとって〈欲望の対象〉はウサギなどの獲物ではなくて「生の実感」であり、〈欲望の原因〉は「生を実感できないから」。こうして見ると、〈対象〉と〈原因〉はそれほど異質な二つではないことは明らかで、お互いは表裏一体で紙一重とさえいえる。

    ではなぜ、「狩りは「生」を実感させる」のか?それは狩りが、生命を賭けた逃走と追跡だから。枝を踏み入っては山を分け、道なき道を迷っては進む。その点で、狩人と獲物は平等だ。生死を分かつのは、機略、慎重さ、勇気――。それらは、両者の間の緊張を、間違いなくいっそう静かで、張りつめた、厳粛なものにする。それこそが、お互いの生をより強く実感させる。

    そして、仕留めた後に発生する残虐――。現前する死は、それに対置する「生」をより一層際立たせる。意気揚々と凱旋の帰路につき、その毛皮を剥ぎ、キッチンで調理されるウサギの肉。それは今の今まで生きていて、跳ね回って躍動し、自分が追いかけ追い求めていたウサギなのだ。だがそれは既に冷たく、もはや無言で動かないものとなった。その体の血は流れておらず、両眼が映し出す映像は暗闇でしかない。それが「死」だ。
    ウサギは捕まれば死に、逃げおおせれば生き残る。この単純さ。そんな関係性は政治の表裏での各場面とは対照的に、潔く、清らかでさえある。そしてこのようにして「死」に直面することこそ、自分の「生」を浮かび上がらせることに他ならない。自分の胸に耳を傾けると、その身体は心臓がうつ鼓動でリズムを刻まれ、そこから送り込まれる血液によって体温を維持し、この獲物を食べることでエネルギーを確保し、目の前の世界を映像として認識している。それが「生」だ。
    血と内臓を分け、骨を除けて食らうウサギの肉。そのグロテスクな痕跡は、生そのもののぬくもりをまだ残していることだろう。そして、自ら与えた「死」に、達成感と憐憫の情を同時に覚える。その矛盾。それこそが「生」だ。

    これほど強く生を実感できる経験が、他にそうあるだろうか。狩人が狩りに求めるもの、それは敢えて言えば「生の実感」だ。それを実感したくて狩りに出かけるのであって、腹が減ったからでもなければウサギの肉が欲しいわけではないことは、固より承知の上なのだ。そして狩人にとっての狩りに、〈対象〉と〈原因〉の区別などない。なぜなら二つとも「生の実感」なのだから。つまり、ほんとうに夢中になれる事柄において、両者は同じものを言葉の上で便宜上別に表現したものに過ぎないのである。

    狩りについてだけ言えることではない。著者はウサギ狩りのすぐ後で賭け事についても分析しているが、これも全く同じだ。人はお金が欲しくてギャンブルに興じるのではない。明日はすべてを失って路頭に迷うかもしれない、というリスクを間近に感じながら、ルーレットを回す。ギャンブラーにとってはそのスリルこそが彼を病みつきにさせるのであり、自分が生きていることを鮮やかに実感するための行為なのだ。ギャンブラーはギャンブルに興ずることで憂き世のあれこれから長く逃れて、生を実感することができるのだ。

    こうして見ると、本書の理論的前提が揺らいでくる。だって、著者が幸福のカギだ、と説く対象と原因の明確な区別は、決して自明なものではないのだから。だが問題はそれだけではない。私には、著者の分析のような明晰な区分こそが、かえって人を不幸にするように思えてならない。なぜなら、著者の論とはまったく反対に、対象と原因が言語も理性も超えて不可分になるほどに夢中になれる心理状態こそが幸せなのだ、と思えるから。

    しかし、このような熱中状態を國分氏は自己欺瞞だと言う。そして、狩人なりギャンブラーなりは自らの自己欺瞞に気づき、熱中状態からもほどなく醒める、と。なぜなら「熱中できなければ、自分をだますことができ」ず、「気晴らしにはならない」(P.42)から。

    自分をだます…。
    OK。そうかもしれない。明敏かつ廉直な者には、欲望の〈原因〉と〈対象〉の撞着は卑怯な蒙昧と映るだろう。でも、声を大にして言いたい。
    「自分をだまさずに生きているやつなんていねーよ」と。

    狩りを愛し、夢中で狩りするハドリアヌス帝は、自分をだましてウサギ狩りに出かけていくのか?ポーカーに病みつきになって今日もまたポーカーテーブルに着く人も、自分をだましているって?たしかに、もっと複雑で醜く、自分の思うままならない現実から逃れているだけかもしれない。ふと我に返って自分の愛する「暇つぶし」に疑いを持つことがあるかもしれない。でも、夢中になっている人たちは「不幸ではない」。

    また例を挙げて考えよう。スポーツにおいてはどうだろう?わたしが言いたいのは、週末のレクリエーションとしてするようなスポーツではなく、勝ち負けに徹底的にこだわる競技として行うスポーツだ。そんなスポーツ競技では、〈欲望の対象〉とは、勝利そのものである。一方、〈欲望の原因〉は、たとえばそのスポーツがが好きだから、であって、勝利ではない。

    架空の野球選手を考えよう。彼は、子どものころから野球が好きで、才能にも恵まれて、さいきんプロ野球選手になった。しかしいかに才能に恵まれても、負ける時もあれば挫折もスランプもある。普通に人生を歩んでいれば、誰もがいろいろな困難や問題に直面するのと同じだ。いつしか周りからの視線も冷たく感じる。「あいつはさいきん、チームの勝利に貢献しない」。泥沼から抜け出したいと一番強く思っているのは彼自身なのに。

    そんな時、この選手が、〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉とを純然と区別したらどうだろう?「あれ?そもそも俺は、なんで野球をやっているんだろう?そういえば、子どもの頃から野球が好きで野球をしていただけだ。勝ちたいからじゃない。だから、勝てなくても野球ができればいいんだ」。このような考えは、彼をきっとスランプ脱出から遠ざける。結果に対してあまりにも淡々としたら、勝利に貪欲な選手たちが作り上げる厳しい世界で、彼が生き残ることは難しい。

    ひょっとしたら彼はプロを辞めてアマチュアになるかもしれない。それはそれでもちろん幸せになれるが、自分を「だまし」、理由を捏造してでも、生き残ろうともがくのがプロだ。本来別ものだった〈欲望の対象〉=(野球に勝つこと)と〈欲望の原因〉=(野球が好きだから)を「進んで」錯覚し、取り違える。「勝利そのものが俺がプレーする理由であり原因なのだ」、と。そうして貪欲に勝利を求めて厳しい世界で自分の居場所を求めるうち、両者を混同した(だました)自分が本当の自分になっていく…。

    こんな混同も、著者は欺瞞と批判するだろうか。騙してでもプレーし続けられるプロは幸せだし、進んで錯覚を起こしてまで勝利に貪欲であろうとする姿は倫理的ですらある。そうまでしてでもプレーし続けるプロフェッショナルが、自分の職業に〈生の実感〉を見出す。だからプロとは、生の中心に職業を据え、すべてをそれに接続・連続させる人である。職業のために、他を犠牲にする人のことなのだ。確かに、しばらくしてふと我に返り、混同に気づくことはあるかもしれない。しかし、混同する選択だって、混同した状態でだって、ひとはじゅうぶん幸福になれる。

    それでもなお、著者はこの混同を不幸な欺瞞と言うかもしれない。そんな時はこう言おう。野球選手だけじゃない、矛盾や偽善だらけの社会で傷ついても立ち直ろうとする大人は、大なり小なりみんな自分をだましてでも、なんとかやっていこうとしている。みんな自分をだましても、それでも一生懸命生きてんだよ。キレイごと言ってんじゃねーよ。私がこの本に対して言いたいことは、要はそういうことなのです。

    「内容と表現とは、決して対応もしなければ符合もしない。この両者は、互いに他を前提しつつ同形的であるというに過ぎない」(千のプラトー(上)P.102)

    唐突を承知でドゥルーズを引用するのは、本書で論じられる〈対象〉と〈原因〉が、上の引用文の〈内容〉と〈表現〉に対応していると思うからだ。だから、<対象>と<原因>の差異を、ドゥルーズのいう内容(何を)と表現(どうして追求するか)に置き換えて考えてみよう。

    先にわれわれは〈対象〉と〈原因〉が対立し合うものではないことを確認した。両者は、内容と表現について言えるように、対応も符号もしていない。それらはむしろ、二つで一つの文章(テーゼ)を形成するものなのだ。作家にとっての書くことの要諦が、内容を指示するだけではなくて文体表現とも不可分であるように。同じように、生の実感を求め、実感する狩り人、ギャンブラーやプロスポーツ選手の意識の中で、〈対象〉と〈原因〉は、溶け合っている。つまり、「互いに他を前提しつつ同形的である」のだ。ふと〈対象〉と〈原因〉のこの結婚を疑問視することはあっても、それらが区別されず、夢中に起こす行動の中で両者がお互い結びついている状態は理想であり、幸せである、そう敢えて言いたい。

    なぜなら、幸せとは夢中になって生を貪り、実感することであって、それは概念化や言語化といった小賢しい理性によって分節化されないものだから。生の実感がより強く、より長く、より連続している方が、私たちはより幸せだから。そして生を実感することは、理性なんかよりもずっと前に「ある」、ダイナミックなものなのだから。

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