暇と退屈の倫理学

  • 2279人登録
  • 4.19評価
    • (252)
    • (191)
    • (97)
    • (20)
    • (2)
  • 252レビュー
著者 : 國分功一郎
  • 朝日出版社 (2011年10月18日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
デール カーネギ...
シーナ・アイエン...
ウォルター・アイ...
高野 和明
大野 更紗
ウォルター・アイ...
ジェームス W....
有効な右矢印 無効な右矢印

暇と退屈の倫理学の感想・レビュー・書評

  • 「すべての人間は、退屈と闘っているんじゃないか?人間にとって一番つらいのは、もしかして”退屈”なのではないか??」という考えが、用事を済ませてホッとした私が車を運転しているとき、突然降ってきた。
    この仮説を「いや、違う」と否定してくれる別の考えは、私には用意できなかった。

    これは...もしかして、重大なことに気づいたのかも!!

    そう思った私は、すぐにネットで「暇 退屈 人間にとって最大の 哲学者」というキーワードをもとに検索。すると、この本が出てきた。

    読みながら、筆者と読書会?勉強会?をしているような気持ちになる。
    「先生、ということは、こういうことですか??」
    と、素直な気持ちで質問してみたくなる。
    知的好奇心を刺激してくれる本だった。また、今まで一度も哲学に興味を持ったことがなかったが、私のように「暇ってなんだろう」「暇と闘う方法」を考えるところから哲学が始まったとか始まらないとかいうことを知ったのも、この本をきっかけとしてだった。

    気晴らしをしながらも「楽しかった」と「退屈だった」が混在するくらいが一番人間として健全なのかなって、そういうところに落ち着いた。
    何かに夢中だったり、自分としか対話していなかったりしているときって、どちらにせよ、余裕がないから、時々自分の世界に不法侵入してくるワクワクするようなことも、キャッチできなくなってしまう。どこで待ち伏せしていれば、自分が動物的に夢中になれる何かが通りかかるのか・・・少しはわかるようになったのも、数々の失敗経験やこれまで食べてきた美味しいものや、別の人の考えにさんざん耳を傾けてきたことのおかげだったんだな。
    思えば、この本に出会ったあの考えが私の頭の中に不法侵入してきたときこそ、退屈と気晴らしが混在していた瞬間だったのだ。

    浪費と消費の違いについて、読んだときはよくわからなかったけれど、水中毒の患者さんの治療法を別のサイトで読んで、「浪費」がここで推奨されていることの意味がやっとわかりました。(読んでわからなかった方、調べてみてください。おすすめです!)

    学んでいかなければ、とことん楽しむこともできない。美味しい料理の味の違いがわからないのと一緒で。
    経験して、学んで、時々動物みたいに何かに夢中になって、また退屈して。気晴らしをするのであれば、とことん贅沢して、一瞬一瞬を味わって。もういらな~い!満足!ってくらいまで。
    な~んだ、そんなことでよかったのか。
    というオチだということは、自分の考えと合っていたということだろうか。哲学・倫理学に興味を持たせてもらったので、★5つ。

  • 幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。(p.55)

     定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。」いわゆる「文明」の発生である。(p.88)

     (ハイデガーの言述)哲学に関してどんなに広範囲のことを扱ったとしても、問うことによって私たち自身が感動させられているのでないならば、何事も理解はできない。結局はすべて誤解にとどまる。(p.200)

     本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
    私たちの最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい……。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである。(pp.240-1)

    人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。
    退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力そのものであるのだから、けっして振り払うことはできない。したがってパスカルが言っていた通り、人間はけっして部屋に一人でじっとしていられない。これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう(p.244)

    人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ自分なりの安定した環世界を、当方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。
    はじめて保育園や幼稚園まるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでに彼ないし彼女が作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難な課題である。だからしばしば失敗も起こる。(pp.322-3)

    単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
    人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっているのは必然である。(p.325)

  • 暇と退屈について深く掘り下げて考察していく。
    経済史・人類史・自然科学など多岐にわたる切り口でこれを考え、
    結論(人生の楽しみ方)に収束していく過程が面白い。
    難しくて読み飛ばした箇所もあるが、
    哲学ってこういう学問なんだということが少し理解できた。

  • 君君、その暇その退屈どうするの、と。
    ハイデッガー云う退屈の第二形式“気晴らしと退屈が絡み合った状態”に人間らしさを見る。これ正気。鼻息荒く「なにかしなくては!!」という狂気に隷属しない。
    気晴らしと退屈が絡み合う第二形式は人間の高い環世界移動能力がなせる技。退屈に対する刺激を楽しむ余裕。刺激を消費でなく浪費する(観念のゲームに陥らない)。気晴らしを存分に享受する“贅沢”。
    退屈の中で気晴らしを楽しむ余裕が人間らしさ。この人間であるということを楽しむことをベースに大きな流れに身を任せる(自分が取さらわれる瞬間)ことを待ち構える。“生命・人間の本性”と“人間の運命”は行ったり来たり。振り子の運動で楽しむことができると思う。

  • とっても面白かった!

    暇(生活に余裕ができて空いた時間)と退屈(満たされない、自身に抱く疎外)に、どう向き合うべきかを説いた本。


    結論はある。だけど、真の結論は読者に委ねられる。

    この本を読んだ人は皆、同じ講義を通じてそれぞれの結論を持ったはずです。

    知的な読書体験がしたい方にオススメ。
    ぶ厚いですが、さらっと読めます

  •  読みたいとは思っていたもの手付かずになっていた本。読み始めると、一晩で読み終わった。

     ハイデガーの退屈の第三形式においての「決断せよ」が、そこから先に進んでくれて本当に嬉しかった。これはサルトルをかじった時に「君は自由だ。選びたまえ。つまり造りたまえ」と言われて、きょとんとしたのを本書のおかげで乗り越えれたからだと思う。

     いろいろな方向からアプローチしている分、本書には随所に興味深い箇所があった。ただ、ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を通じての退屈の議論で、最後に第二形式に光を見出したのがなんだか残念。その前の箇所で、アーレントのマルクス理解が「本来性」にとらわれているせいで誤読していると指摘があるが、退屈の議論そのものも結局は本来性を想定しているために生まれる議論という点が自分としては否めない。西田、西谷の無の概念(本来性なき議論)と退屈を絡めてみるとおもしろそう。

     西谷の『宗教と非宗教の間』で真の遊びについて論じられているけれど、自分としてはどうもそちらの議論ほうが上な気がする。

     

  • 毎日忙しくすごしているとき誰もが「ああ、休みが欲しい…」「ゆっくりしたい…」と思うのではないでしょうか。
    しかし、いざ、休みが取れるとなにをしたらいいかわからない…なにかしたいことがたくさんあるはずなのに、なにもすることが思い浮かばない…
    そんな人が多いんじゃないかと思います。
    そして悩みは深まり、自分は仕事をするためだけに生まれてきたのか?そんなはずはない…じゃあなんのために?と哲学的な問いにたどり着いてしまったりして…笑

    そんなときに、この本、暇と退屈の倫理学です。倫理学なんて聞いたことも見たこともない人でも読める平易な文章です。
    退屈とはなんなのか?暇とはなんなのか?その対処法とは?といったところを様々なー自分では絶対に読まないようなー文献を参照し筆者の意見と共に論じられていきます。

    タイトルに惹かれる方、考えがちな方、暇を持て余す大学生(笑)におすすめの一冊です!買って損はないと思います。
    特にこういった類の本をはじめて買われる方にはおすすめ!

  • 人生論について思いを巡らすのに「退屈」という感覚を軸にするのは確かに有効であるが、それだけでは不十分だと感じる。つまり仕事や現在の生活のことなど、短期的な領域、つまり「生きること」に対しては幅広く適用することができても恋愛や自己実現といった長期的な領域、「生きていくこと」については「退屈」はカバーできないのではないか。

    たとえば「寂しさ」。筆者はパスカルの言う通り、本当に不幸の原因は退屈だけだと考えているのだろうか。それとも寂しさは退屈に含まれるとでも?

    暇がないから「退屈」でもなく、完全に不幸は克服できないにしても衣食住足りて「自分の仕事」ができているからといって「寂しさ」に目を背けることのできる社会は受け入れ難い。それは、自分がなるべく「かけがえのない誰か」として他者に関わりたいからだ。

     そこには、一人でも多く、いや、たった一人でもいいから自分のことを本当に分かってほしいという甘えも含まれている。

     その程度には強く、その程度には弱くありたい。以上が、「暇と退屈の倫理学」に感銘を受け、また触発されて明らかになった、私の倫理観である。

  • おもしろくてすぐ読み終わった。そして、とてもよく書けていると思う。あんまりよく書けているので何も言い足す気が起きず、レビューを書くのをずっとためらっていた。でも今日は勇気を出して書いてみようと思う。この本に対して言いたいことがあるから。

    わたしの言いたいことを一言でいうと、「ウサギ狩りをバカにするなー!」って事。第一章「暇と退屈の原理論」でのウサギ狩りのくだりだ。この叫びは、著者に対してだけではなく、著者がこの原理論を依拠したパスカルに対しても発したい。「原理」の部分で完全には賛成できない以上、この本に対して賛辞を送ることを決して惜しまないが、わたしにとってはあるひとつの試みに過ぎない、と思う。(まぁ、すべての論考は試みに過ぎないわけだが)

    説明してみようと思う。著者はウサギ狩りに行く人を見て、「〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉と取り違え」(P.37)ている、と指摘する。腹など空いていないというのに、ウサギが欲しいからウサギ狩りに行くのだと思い込む(P.38)。その思い違いが悲劇だ。なのに皆、その区別から目を逸らそうとする。「狩人よ、よく考えろ、ウサギという対象は、ウサギ狩りの原因ではない」と。

    しかし、果たして熱中しているとき、私たちは本当に〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉を取り違えて不幸なのか?〈対象〉と〈原因〉って、概念化すると言葉の力で確かにスッキリ差異化されはするけれど、両者はそれほどまでに異なるものでありうるのか?それどころか、理性を以ってそれらを差異化し、両者の区別に気付かずにいる人間を不幸だ、悲劇だ、と批判する著者の営み自体が、熱中している人に対する冷笑だ、と言いたい衝動を、私は抑えきれずにいる。

    この私の立場を論証するため、引き続き狩人の例を使って考えよう。〈欲望の対象〉を〈欲望の原因〉の峻別を説く國分氏の議論に対して、古代ローマ皇帝ハドリアヌスならこう反論するかもしれない。この皇帝は哲学者でもあり、狩りを愛していた。

    「私の狩りにおける〈欲望の対象〉とは「生の実感」であり、私が狩りに対して欲望を禁じ得ない理由(〈欲望の原因〉)は、私が取り巻きの追従や元老院での無駄話に飽き飽きして、毎日生を実感できていないためである」、と。つまり、この狩人にとって〈欲望の対象〉はウサギなどの獲物ではなくて「生の実感」であり、〈欲望の原因〉は「生を実感できないから」。こうして見ると、〈対象〉と〈原因〉はそれほど異質な二つではないことは明らかで、お互いは表裏一体で紙一重とさえいえる。

    ではなぜ、「狩りは「生」を実感させる」のか?それは狩りが、生命を賭けた逃走と追跡だから。枝を踏み入っては山を分け、道なき道を迷っては進む。その点で、狩人と獲物は平等だ。生死を分かつのは、機略、慎重さ、勇気――。それらは、両者の間の緊張を、間違いなくいっそう静かで、張りつめた、厳粛なものにする。それこそが、お互いの生をより強く実感させる。

    そして、仕留めた後に発生する残虐――。現前する死は、それに対置する「生」をより一層際立たせる。意気揚々と凱旋の帰路につき、その毛皮を剥ぎ、キッチンで調理されるウサギの肉。それは今の今まで生きていて、跳ね回って躍動し、自分が追いかけ追い求めていたウサギなのだ。だがそれは既に冷たく、もはや無言で動かないものとなった。その体の血は流れておらず、両眼が映し出す映像は暗闇でしかない。それが「死」だ。
    ウサギは捕まれば死に、逃げおおせれば生き残る。この単純さ。そんな関係性は政治の表裏での各場面とは対照的に、潔く、清らかでさえある。そしてこのようにして「死」に直面することこそ、自分の「生」を浮かび上がらせることに他ならない。自分の胸に耳を傾けると、その身体は心臓がうつ鼓動でリズムを刻まれ、そこから送り込ま... 続きを読む

  • 結構なボリュームがあるのでゆっくり読もうと思っていたが、面白くて一気に読んでしまった。

    人間であれば日常的に感じる暇と退屈という問題について、その起源からはじまり、歴史上、数々の思想家がそれをどう捉えてきたのかを紹介しつつ、それらに対しての考察を行い、最終的に、我々が暇と退屈とどう付き合っていけばいいか、その方向性を示している。

    結論としては平易で分かりやすい方向に帰結するし、自分の周りの出来事に照らし合わせると単純なことだったりするのだが、一見掴みどころの無い問題をここまで考え抜き、料理できるものかと、感心しながら読み進めた。
    それと、暇と退屈というと個人の生き方だけの問題と思っていたし、実際そこを考えたくて購入したのだけど、実は文明の発展や、戦争、現代の非正規雇用の問題にまで繋がる、社会的かつ根源的な問題なのだと気付かせてもらえたことにも、非常に価値があった。

    ただ、本書にははっきりと書かれていないように思ったのだが、退屈に対処する上での注意点として、退屈の第一形式、第二形式を取り違えないことが重要であると感じた。
    本書では、第一形式に対しては仕事の奴隷であること、第二形式に対してはパーティに参加することなどのいわゆる気晴らしや趣味を例に出しており、第一形式を自己を喪失する危険な状態とした上で、第二形式の気晴らしをより良いものとしていくことを推奨している。
    しかし、これだと、第一形式=仕事、第二形式=趣味と固定的に捉えられてしまうきらいがあるのではないだろうか。
    重要なのは、退屈を紛らわす行動をしっかりと味わい、楽しむことで余裕を持ち、それに対して思考することに没入していくことだと思われる。
    よって、仕事をしていてもそうした状態になることはあるだろうし、逆に自分は趣味を楽しんでいると思い込んでいても、実際には思考を停止して、趣味の奴隷になってしまうこともありえる。
    そこは、自分の中で常に自問自答していく必要があると感じた。
    判断基準としては、やはり、自分が本当にそれを楽しんでいるか否か、になるのだろう。

  • 「退屈とどうむきあっていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向きあう生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。」

    ハイデッガー、スピノザ、ドゥルーズ、カント、ホッブス、ガルブレイス、ヘンリー・フォード、オルテガ、ウィリアム・モリス、バートランド・ラッセル、コージェブ、そしてマルクス

    覚えているだけでも、これだけの名前がでてくる。
     本書は、著者の思考の足あとであり、偉大な知識の断片を踏みながら「私の退屈」について考察していく。読むものを置いてきぼりにすることなく、とても丁寧に、とても日常的な言葉で。

    「退屈とは自分が自由である証だから、その退屈を喜び眼前に開かれている可能性に喜び、自由で退屈な時間を利用して決断をして突っ走って行こう」
    というハイデッガーの結論に対して、
    「決断とは心地よい奴隷状態のことだから、退屈を忘れるために決断し、自分の行動を「目的」によって拘束するのは、本末転倒なんじゃないの?自分で選んだかどうかの違いだけで」
    と著者は反論する。
    これは、夢とかやりたいこととかを実現する!みたいな人生観にたいするマイルドな批判だったりする。

     不景気になってしばらく、生き方について色々な考えが流布しているけれど、人生論なんて、要はすでに準備された時間という器を何で埋めるのかとういうことだと思う。「目的」で無理やり埋めなくても、他の埋め方があるんだよというのを教えてくれる。

  • 「ふつう」は退屈かもしれない。しかし「ふつう」な毎日のなかに楽しみを見出すことができれば、退屈しなくなるし、暇が怖くなくなる。暇が待ち遠しくなる。

    ウェブ業界にはアッパー系(気分アゲアゲ)の「面白さ」を追求する会社が少なくありません。その中にあって「未来のふつうをつくる」という理念を掲げているのがゼロベースです。「ふつう」の生活のなかに幸せを見出していく「真っ当」な在り方を追求しています。刹那的・享楽的な「気晴らし」を求めるのではなく、「第二形式の退屈」(気晴らしと退屈が混じり合った状態)と向き合って〈人間であること〉を楽しもう、楽しめる社会を構想しようとしています。

    「楽しむ訓練」を通じて日常的な物事を楽しめるようになれば退屈しなくなる。ふと「編み物好きな女性」「茶道を習っている女性」などのイメージが浮かびました。

    ref.
    日本のデザイン http://booklog.jp/users/zerobase/archives/4004313333

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができる。

    〈人間であること〉とは、退屈と気晴らしの入り混じった生。それを楽しむということは、生活に〈贅沢〉を取り戻すこと。〈贅沢〉とは〈消費〉ではなく〈浪費〉のことで、日常的な快を享受すること。〈消費〉は物ではなく記号や観念を用いるので、限りがない。〈浪費〉は物を必要以上に受け取り、余裕を持って暮らすこと。物である以上は限りがある。

    消費社会にはモデルチェンジがあり、ポスト・フォーディズムの生産形式のために非正規雇用が構造的に要請される。消費社会の人間は自分自身を疎外している。その疎外は自身の〈消費〉に起因する。従って〈消費〉から〈浪費〉・〈贅沢〉への転換が必要。

    〈動物になること〉とは何かにとりさらわれていること。とりさらわれているときには退屈を忘れる。とりさらわれの瞬間を待ち構えるためには、自分をとりさらうのが何なのかを自覚している必要があり、そのためには物事を楽しむための訓練が必要になる。

    私の考え。浪費の贅沢とは足るを知ること。モリスのアート・アンド・クラフト運動と柳宗悦の民藝運動の類似性。日用の物を愛でる心性。茶道や華道のような日本的「スノビズム」こそ〈暇と退屈の倫理学〉の好例。原研哉の『日本のデザイン』、「欲望のエデュケーション」。白洲正子、柳宗悦、小林秀雄のように日常の些細な物事に感心できる感性を育みたい。

    一気に読んだ。

  • 久しぶりに読んだ前提知識なしにどこまでも深く読めるという太い本だった。大作だと思った。知識として第二章の定住革命のところは驚きを感じたし、最終章から結論に至るまでの展開はスリリングだった。著者の価値判断が挟まることが通常であれば面映くも映るものなのだが、この著者の語り口にはそういったところが感じられなかった。一周回ってハイデガーの実存主義を体現しているかのような気にもなった。
    消費と浪費の考察は広告やにとっては耳の痛い問題であるし、俺自信にとっては教育系へと移行したのなら、贅沢のための教養を志向するという具体的行動指針をもらったような気にもなった。
    多義的な解釈が出来るための材料がちらばっていて素敵な本なので、輪読にもいいかもしれない。新年初頭から豊穣な読書体験となった。風呂でちまちま1章ずつ読んだけど出来れば1日で一気に読み進めたほうが興奮度が高いかもしれない。

  • この本では「暇」と「退屈」について、複合的な視座から分析し、現代におけるそれら概念の在り方について検討している。

    「暇」と「退屈」は異なる。「暇」は客観的な条件である。時間に余裕がある、何らかの仕事に追われていない。そういう状態。
    対して「退屈」はこれと異なり、主観的な規定である。
    だから、この2つの概念から4つの場合に分かれる。
    「暇であり、かつ退屈である」「暇であり、退屈でない」「暇がなく、退屈である」「暇がなく、退屈でない」

    これらの中で一番想像しにくく厄介なのは、「暇がなく、退屈である」状態だと思われる。後にハイデガーを援用して、この「暇がなく、退屈である」状態とはどういうことかを分析する。


    後の議論の展開は読んで欲しいところであるが、自分にとっては示唆に富むとこが多かった。「消費/浪費」「環世界」など、極めて重要と思われる概念について詳細に書かれ、全体の議論の見通しが良かった。アレントのマルクス批判を批判する箇所は痛快だった。
    わからなさ過ぎて困った、というようなところはなかった。それは序章にもあるが、意図的なところなのだろう。

    本の刊行にあたり、度々著者は「自分の思うところをぶつけたので、是非読者の感想を聞きたい」という旨のことを言っていた。
    個人的に、ここに書き連ねたくなるようなものではないが、皆何かを喚起される文だと思う。


    あまり関係ないが、並行して読んでいた森岡正博「無痛文明論」との近似性を感じるとこがあった。あまり上手く説明できないので、同じような感想を持つ人の詳細なレビューを待つか、頃合いを見て自分が纏めてみたいと思った。

  • 余暇の歴史をみて、その哲学を読んで、現代人の価値観がどのようにして構築されてきたかを学ぶことができた。

  • 役にたつからでなく、「楽しむ」ために、いろんな場所や人、ものに触れて行きたいなと思った。

    あとは、こういうなんとはない一種のけだるさを伴った思考が強制されていない状態も肯定すること、思考が強制される状態ばかりでも、まいってしまうと思う。

    ふらーっと退屈の気晴らしに朦朧とした意識で出かけて行く、そして楽しむ、その中で不意打ちをくらう、そんな感じで良い。

    あんまりだーーーーーって感じを基準におかないこと、退屈がまず前提。退屈から逃れるために意志の奴隷になっても何も解決しない。

    ぼやっとした毎日、それも肯定する。


    以下引用


    決断という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。しかし実際にはそこに現われるのは、英雄的有り様からほど遠い状態、心地よい奴隷状態に他ならない


    彼は決断(例えば資格勉強)によって「何となく退屈だ」の声から逃げることができた。だから彼はいま快適である。やることは決まってゐて、ただひたすらそれを実行すればいい

    しかし、ひとたび習慣を獲得しても、いつまでもそこに安住はできない。習慣はたびたび更新されねばならない。

    環世界論の考え方から言えば、習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換すること


    退屈しつつも、様々な気晴らしを恒常的に自らに与える。今日は映画に行き、明日はパーティーにいく。食事が出され、音楽、葉巻。退屈さもそれなりにはあるが、楽しさもそれなりにある。これが人間らしい生

    しかしこの人間らしい生がくずれることがある。何等かの衝撃によって己の環世界が破壊された人間は、そこから思考し始める。環世界に不法侵入してきた何らかの対象がその人間を掴み、放さない。人はその対象にとりさらわれ、思考することしかできなくなる

    ある特定のものが言うことを聴いてくれないが故に、人は退屈し、空虚のなかに放置された。しかし、ハイデガー自身が言っていたように、あの田舎駅の周りは空虚ではないのだ。駅舎も街道も、街路樹もある。そこにはそれまで自分が生きてきた環世界に不法侵入するものが存在している

    人がものを考えざるをえないのは、そうして作りあげてきた環世界に変化がおこったとき。習慣の変更を迫られる

    あの場でハイデガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったからに他ならない。

    人間はおおむね気晴らしと退屈の混じりあいを生きている。だから退屈に落ち込まぬように、気晴らしに向かう詩、これまでもそうしてきた。消費社会はこの構造に目を向け、気晴らしの向かう先にあった物を記号や観念にこっそりすり替えた

    人間は気晴らしという楽しみを創造する知恵を持っている。ところが消費社会は気晴らしをすればするほど、退屈が増すという構造を作り出した

    人間はひとつの環世界にひたっていることができず、容易に退屈してしまう

    ならばどうすればよいか?より強いとりさらわれの対象を受け取れるようになるしかない、習慣化によってすぐさま対応できる不法侵入ではない何かにとりさらわれるようになるしかない

    人間はおおむね退屈の第二形式を生きている。人間らしい生活とは、そのなかで退屈を時折感じつつも、物を享受し、楽しんでいる、そういった生活。そこには安定と均整がある。つまり余裕がある

    決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け入れない。しかし退屈を時折感じつつも、物を享受する生活の中では、そうしたものを受け取る余裕を持つ

    楽しむことは思考することにつながる。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。

    思考は強制されるものだと述べたドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。「なぜあ... 続きを読む

  • まずはここまでを書き上げた著者に拍手を送りたい。文体は砕けていて学術書というには私見が多い気がするが、それはあとがきにもあったように、読者に伝わることを意識してのこと。そして専門家でもない僕が、この一冊をもって感動をえていることがその成功だろう。

    退屈を哲学する、とはまたチャレンジである。僕たちの生活とか人生の中では躍動が主役だと思い込み、退屈は無駄である。無駄を哲学しても答えが出るのだろうか。何かしら言葉にすることができても自分にとって、また隣人にとって意味があるのかと思えば二の足を踏む。ただやはりこうして取り上げられ哲学されて初めて、それは大変な問題であることに気づく。僕たちは退屈に悩んでいるんだ。

    これは現代社会のコンテクストにおいてより深刻な退屈が表出しているからこそ哲学に値するものになったのだろう。その意味ではスピノザやラッセル、ハイデガーが退屈をそれぞれの仕方で哲学していたことに驚く。多くの人には理解されなかったであろうから。

    それにしてもこの著の哲学的考察の豊かさが心地よい。はっきり言うと、著者の國分と僕自身の倫理や政治的信条は違う。それ故に彼の私見の中には承服しがたい部分も少なくはない。そうだとしても、この著の知的誠実さはやはり心地よい。

    人間であることは退屈と向き合うことである。複雑な環世界を個別に持った人間であり、その環世界をかなりフレキシブルな仕方で移動できる人間であるからこそ、物事にとらわれることが難しい。それは自由であることの代償としての退屈である。その退屈とどう向き合うか。本書での結論は、<人間であること>を楽しみ、<動物になること>を待ち構えることであるとする。答えは平凡である。しかし、そこまでの論理展開が私たちに退屈と真正面から向かい合わせてくれる。これでいい。

    久しぶりにそれなりに、濃密な思考時間を持つことができた。良書と出会えたことに感謝。そして次の書にも期待。


    17.8.10

  • 筆者の國分功一郎は高崎経済大学で教えているそうです。

    消費というのは、浪費とは違って、ものをもらっているのではなく、観念や記号を受け取っているのだ、だから限界が無いのだ、という考えはとても面白いが、もう少し説明してほしかった。

    退屈に耐えられない結果としてファシズムとか過激な宗教に身を投じる人を羨ましく思ってしまうのは、やはり退屈に耐えられないから。

    退屈と気晴らしが入り混じった、ハイデガーの言う退屈の第2形態は極めて人間的なもので、しかしハイデガーが言うほど悪く無いのではないか、というのが筆者の主張。食や文化を楽しむ訓練をして、上手に気晴らし(退屈とは不可分な気晴らし)ができるようになることが、退屈への処方箋のひとつである。

    しかし、その人間らしい生、己の環世界がなんらかの衝撃によって崩れる時、人間は思考し始める。「環世界に不法侵入してきた何らかの対象がその人間を掴み、離さない。そのとき、人はその対象によってとりさわられ、その対象について思考することしかできなくなる。」(332ページ)
    「衝動によってとりさらわれて一つの環世界にひたっていることが得意なのが動物であるのなら、この状態を動物になることと称することができよう。」(333ページ)

    という風に、人間らしさから逃れて動物らしく思考することは、世界をよくしていこうとすることにつながっていくと最後に筆者は言っています。

    面白かったです。

  • ★理解する過程を知る。~スピノザ「反省的認識」

    ★贅沢を楽しむ。そして楽しむことを訓練する。
    楽しむことは容易ではない。努力や鍛錬が必要。(だからサービス産業はそこに付け込む)
    ※私達は美味しいと巷やテレビで言われているものを、美味しいと言うためだけに口を動かしていないだろうか…?

    退屈しのぎから芸術や文化は生まれた。
    だからそれらは決して無駄なモノではないし、それらをないがしろにする功利主義者を信用してはいけない。

    人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時にパンだけでなくバラも求めよう。人の生活はバラで飾られなければならない。人の生活がバラで飾られるようになれば、人間生活も産業構造も少しづつ変化していくだろう。暇と退屈の倫理学は革命を目指してはいない。だが社会総体の変革を目指している。~著者

    <人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。~著者

  • 退屈とはどういうことなのか,様々な面から迫る.
    「定住革命」「疎外」「環世界」など,(退屈と一見関わりのなさそうな)興味深い要素をわかりやすい言葉で説明してくれ,それらの説明だけでも楽しめた.
    退屈に対しての考え方を広げることこそが,退屈をどうにかするために必要なことだと感じられた.

  • 面白いが、追っかけて読まないとどうにもならず、速読不能。一日この本に使っていい時があれば読みたいけれど、今年中は無理かな。
    移動を使って一日かけて読む。退屈に対し、贅沢を取り戻す。そのものを楽しむ、より深い享受の可能性を開くための訓練。ハイデッガーの第二形式の、自身についての退屈の、気晴らしを十分に享受すること。
    環世界論と定住革命については読んでみよう。動物的に、環世界の移動をなるべく考えずに享受する。楽しむことを思考することにつなげる。待ち構える。
    注が楽しかったのは久しぶり。

  • 暇とはブルジョワに与えられたもの
    退屈とは期待したものが得られない感情
    自分の仕方で切り開く
    贅沢(浪費)を取り戻す

  • 登録番号:24

  • 仕事に追われることや,自分探しにやっきになること,私たちは何を求めているのか,日常生活で,なかなか立ち止まって考えることができないテーマを,わかりやすく,丁寧に訴えています。
    「暇と退屈は違う」ということ,後半の,人間や,他の生物の環世界の考え方などは,目からうろこでした。
    2015年に読んだのですが,その年でおそらく一番,感動しました。人間の気持ちにこんな影響を与えられるなんて,哲学者ってすばらしいですね。

全252件中 1 - 25件を表示

暇と退屈の倫理学に関連するまとめ

暇と退屈の倫理学を本棚に「読み終わった」で登録しているひと

暇と退屈の倫理学を本棚に「積読」で登録しているひと

ツイートする