暇と退屈の倫理学

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  • 朝日出版社
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  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

感想・レビュー・書評

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  • ”ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいわけではない”に始まる「退屈」の原理、メカニズムの壮大な考察。

    主となり真理とも思える退屈に関する主張を早々に謳いつつこの分厚い書物がどう展開されていくのか不安がよぎったのだが、とっかかりの予感よりもはるかに奥深い議論にいざなわれる良書。

    ただ、正直この議論に真っ向勝負で挑んで行くのはしんどい。
    昔々の哲学者が提起した命題について、この視点が抜けているとか、別の切り口で深堀りされても、元々の命題に対する理解もままならないから、う〜ん確かにそうなのかもしれないけど、となんとなく勢いに押された感が残る。

    それでもやはり全体として、”定住によってもたらされた退屈”という人類学から見た起源だったり、”貴族階級の暇の見せびらかせ”、”仕事人間と余暇”、”浪費と消費”といった経済発展・資本主義との複雑な関連、果ては”疎外”や”決断→(思考の)奴隷化”、”習慣”といった哲学的観念を取り入れた考察は本当に議論の幅が豊かでおもしろい。

    結論だけ読むと抽象的なのだが、著者も言うように結論だけでは意味がなく、この議論を経て様々考えることが重要なのだと思う。
    確かに、この消費は煽られているのか!?とか何となく満たされない感(自分のにも他人のにも)に敏感になった気がする。

  • 「すべての人間は、退屈と闘っているんじゃないか?人間にとって一番つらいのは、もしかして”退屈”なのではないか??」という考えが、用事を済ませてホッとした私が車を運転しているとき、突然降ってきた。
    この仮説を「いや、違う」と否定してくれる別の考えは、私には用意できなかった。

    これは...もしかして、重大なことに気づいたのかも!!

    そう思った私は、すぐにネットで「暇 退屈 人間にとって最大の 哲学者」というキーワードをもとに検索。すると、この本が出てきた。

    読みながら、筆者と読書会?勉強会?をしているような気持ちになる。
    「先生、ということは、こういうことですか??」
    と、素直な気持ちで質問してみたくなる。
    知的好奇心を刺激してくれる本だった。また、今まで一度も哲学に興味を持ったことがなかったが、私のように「暇ってなんだろう」「暇と闘う方法」を考えるところから哲学が始まったとか始まらないとかいうことを知ったのも、この本をきっかけとしてだった。

    気晴らしをしながらも「楽しかった」と「退屈だった」が混在するくらいが一番人間として健全なのかなって、そういうところに落ち着いた。
    何かに夢中だったり、自分としか対話していなかったりしているときって、どちらにせよ、余裕がないから、時々自分の世界に不法侵入してくるワクワクするようなことも、キャッチできなくなってしまう。どこで待ち伏せしていれば、自分が動物的に夢中になれる何かが通りかかるのか・・・少しはわかるようになったのも、数々の失敗経験やこれまで食べてきた美味しいものや、別の人の考えにさんざん耳を傾けてきたことのおかげだったんだな。
    思えば、この本に出会ったあの考えが私の頭の中に不法侵入してきたときこそ、退屈と気晴らしが混在していた瞬間だったのだ。

    浪費と消費の違いについて、読んだときはよくわからなかったけれど、水中毒の患者さんの治療法を別のサイトで読んで、「浪費」がここで推奨されていることの意味がやっとわかりました。(読んでわからなかった方、調べてみてください。おすすめです!)

    学んでいかなければ、とことん楽しむこともできない。美味しい料理の味の違いがわからないのと一緒で。
    経験して、学んで、時々動物みたいに何かに夢中になって、また退屈して。気晴らしをするのであれば、とことん贅沢して、一瞬一瞬を味わって。もういらな~い!満足!ってくらいまで。
    な~んだ、そんなことでよかったのか。
    というオチだということは、自分の考えと合っていたということだろうか。哲学・倫理学に興味を持たせてもらったので、★5つ。

  • 本書の最後の結論
    人間的なものを楽しむことで、動物になることを待ち構えることができるようになる
    本書を通して読むことで、この言葉が至るまでめっちゃ長い説明があるけれど、それを乗り越えて考えた自分に、自分の心にじんわりとやわらかく染みた
    本書を通して、「暇」と「退屈」、世間一般で大切にされないであろう、今まで自分も大切してこなかったこの二文字を本当に大事にしていきたい。

  • 衣食住一たりた先進国に生きる我々は、一体どう生きるべきか?を「暇と退屈」をキーワードにその人類学的・歴史学的・思想的背景を織り交ぜながら、著者なりの結論を導き出した現代思想的、思想書。

  • この本はとても素晴らしい。面白い、たくさんの発見があり、生き方を変え得る本だと思う。真摯に緻密に丁寧に書かれている。☆5つは、こういう本のために取っておかなくちゃいけなかったんだなあ、あの本は☆4つだったなあと思っちゃう。私の心の友書ランキングのトップを争う本になりました。ぜひご一読を!

  • やっと読み終わった。もう一回読もう。図書館で借りた本だから今度は買おう。それくらいいい本だった。

  • 結論に書かれている内容(どう生きるべきかの提案?)は、老人の知恵だな、と思った。悪い意味ではなく。

    初読は恐らく2014年で、いま(2023年)久しぶりに読み返した。この間、要らないものを捨てる意識で9割以上の本を処分したけど、直感的に重要だと感じて手元に残した数少ない本のうちの一冊。「退屈」は人生の重要課題であり、自分も死ぬまで考え続けるだろうし。
    初読時にも価値を感じた覚えがあるけど、内容はほとんど覚えてなかった。約10年後に読み返した今、倫理学としての結論の主張には感覚的(経験的?)に同意でき、一部は自身の変化で自然に実践してたりする。

    1つ不満な点を挙げると、自然科学寄りで学び育った自分としては、なぜ人間が退屈を感じるのかについて進化論的・生物学的な観点での議論もカバーしてほしかった(そういう学説もあるだろうとの想像の上で)。そのメカニズムを理解できれば、空腹感や疲労感と同じように楽しむことができるかもしれない。食欲には際限がないが、多少の知識と自制心があれば、健康を維持して食を楽しむ生活を持続できる。退屈も、そういう知識でもって飽きることのない日常の幸せに変えていきたい。

  • 私たちは「退屈」とどう付き合って生きていけばいいのか。古来、哲学者たちが挑み続けてきた難題に向き合う一冊。
    確かに私もよく「暇だなぁ」と口にするし「退屈だなぁ」と感じる。二つの概念を区別せずに欝々とした気持ちを表していたけれど、よくよく考えてみたことはなかった。身近なクセモノの正体を明かしたい、と手に取ってみた。

    結論、衣食住であるとか、芸術作品であるとか、人付合いのための会合であるとか、嗜好品であっても構わないんだけど、きちんとその“モノ”自体を丁寧に受け取り、考えて(勉強して)楽しむことが、「退屈」と付き合うコツなのだと。その繰り返しによって、自分がズッポリと絡めとられる、嵌り込める対象がなんであるかが分かるようになると。

    なるほどなぁ。
    本書にあるように、私たちは本当の「贅沢」からは程遠い、「消費」活動を強いられていると思う。やれ有名店でランチだの、やれ人気ブランドの財布だの、やれ隠れ家的スポットだのを求めて、そのものの価値は分からずに「意味」だけを受け取り、発信しては受け流す。“満ち足りた”とは程遠い気持ちで。
    理想は本来の「浪費」つまり「贅沢」を通して満足すること。私はまだその感覚を掴めていないだろう。その感覚を知りたい、分かりたい。“モノ”自体を受け取って楽しむって具体的にどうすることだろう。例えば私は読書が好きだし、お菓子やワインも好きだけど、それらを本当に楽しむって?それらを研究し、精通するってこと?もしかして、“それらを好む私”という自意識から離れるってこと?
    思考は続く。

    だけど間違いなく言えるのは、今後「あぁ暇だなぁ」「退屈だ」と感じたとき、私はきっとその暇と退屈さを“楽しめる”だろうということだ。


    以下、本書の“私なりの”要約。
    ●人類はいつ「退屈」に出会ったか
    そもそも私たち人類が「退屈」と生きねばならなくなったのは、定住生活を送るようになったからだ。気候変動による環境変化で狩猟が困難になり、貯蔵が必須になったため止むを得ず定住化が進んだ。遊牧生活では優れた潜在的な探索能力を存分に発揮できたが、定住生活では探索能力は行き場をなくした。それが「退屈」の始まりだった。私たちは「退屈」を回避する必要に迫られることになる。

    ●「退屈」とはなにか
    パスカルが、人間は部屋の中にじっとしてはいられない、気を紛らわせてくれる騒ぎを求める生き物だ、と言ったように「退屈」は私たちにとって身近な存在だ。

    そして「退屈」は否定的な概念として捉えられる。
    ラッセルは『幸福論』の中で革命の只中にある国に暮らす若者は世界中のどこよりも幸せだろうと論じた。打ち込むべき仕事を外から与えられているからだ。つまり「退屈」ではないからだ。「幸福である」とは“熱意”をもった生活を送れることらしい。

    では、表題にもある「暇」と「退屈」の関係性とは?「暇」とは何もすることのない時間。客観的な概念である。一方「退屈」とは何かをしたいのにできないという感情。主観的な概念だ。
    この2つの概念の関係性を、本書では4象限で説明している。すなわち、
    ①暇であり退屈である
    例:資本主義の展開により労働階級が裕福になり(ブルジョワジー)、時間的金銭的に余裕が生まれ、いきなり「暇」が与えられた。
    →何をして気晴らしをすれば良いか分からない。そこでレジャー産業が出現した。何をしたらよいかわからない人たちに、やれ旅行だの、やれ映画だの、やれかっこいい車だの、生産者主導で「したいこと」「欲望」を与える。消費者は「モノ」そのものではなく「気晴らし」を与えられることに慣れきってしまう。
    ②暇であり退屈ではない
    例:かつての“有閑階級”のように代々裕福で暇との関わり方を知っている人たち。
    ③暇ではなく退屈でもない
    例:四六時中やるべきことに追われている人たち。
    ④暇ではなく退屈である
    ★こここそ、私たちが苦しめられている象限。

    そのうえで、「退屈」とはなんなのか。
    ハイデッガーは退屈を大きく三形態に分けた。
    【第一形態】は「何かによって退屈させられている」状態。例えば駅舎で何十分も遅れている電車を待っているようなときは、遅れている電車によって退屈させられている。他にやるべき事(仕事)があり電車を待っているが、周りの物がわたしが期待しているものを提供してくれず、時間がぐずついている。そのため、いくつも“気晴らし”をしながらやり過ごす。
    これはやるべき事(仕事)の奴隷になっている状態である。例えば、内戦や対外戦争の只中にいる国民もこれだ。やるべき事に戻れば、退屈からは逃れられる。
    【第二形態】は「何かに際して退屈である」状態。何かを待っているわけではなく、自分で選択して何かを行なっている(例えば飲み会に参加している)。楽しく会話して美味しい食事もとり笑っているが、帰宅してみると「何だか退屈だった」と感じるような。こんなとき、実はその飲み会自体が“気晴らし”であり、“気晴らし”そのものが退屈だったと言うことに気付く。
    革命や強制労働などに隷属しているわけではなく、自分と向き合う余裕はあり、普段の私たちはこの状態といえる。イベントを企画してみたり形式を重んじてみたり。やることを選べて「暇」は回避しているけれど、「退屈」を感じる状態。
    【第三形態】「何となく退屈」という状態。第二形態のような“気晴らし”が行われたのは、この「何となく退屈」という状態に定常的になっているからだ。そして「何となく退屈」だと気付いてしまったら、そこから逃れるべくわざわざ日々の仕事の奴隷になることを決断し、やるべきことを作ってしまうことも。すると第一形態に陥る。

    ●「退屈」は人間だけのもの?
    ユクスキュルは「環世界」という概念を説く。人間の環世界、犬の環世界、かたつむりの環世界…それぞれの種は異なる環世界を生きている。例えば、ダニは木のような高いものに登り、哺乳類が近づくと飛び移り血を吸う。…と、人間は人間の環世界を通してそう解釈するのだが、ダニの環世界を通すと違う。視力も聴力も保有しないダニは、哺乳類が発する酪酸を嗅覚で捉えるとそれを合図に飛び、摂氏37度を感じとるとそれを合図に吸血行為を行う。「哺乳類」ではなく「酪酸」や「摂氏37度」をシグナルとして衝動を停止したり解除したりして行動を制しているらしい。人間とダニの環世界は違い、環世界ごとに時間の流れ方も違う。
    では、人間と動物の違いは何かというと、「環世界間移動能力」の差だ。人間は他の動物よりも格段に高くこの能力を有し、容易に他の環世界との間を行き来する。ときに科学者の目線で、上司の目線で、母親の目線で、周囲の環境を生きることができる。そのことゆえに人間は「自由」である。ただ、新しいもの全てに反応するのは疲れてしまう。フロイトの「快原理」によると生物にとっての「快」状態は安定した状態である。興奮状態は不快だ。(だからこそ、興奮したら最大限度まで高めて解消させる。)だから、いちいちショックを受けて考えないで済むように、習慣を獲得し、安定を得る。

    でも、想像できるように、習慣を作り出すとマンネリ化して「退屈」が首をもたげる。
    人間は快状態(安定した状態、考えなくていい状態)を作るために習慣を作るが、それゆえ退屈が生まれ、それをごまかすために気晴らしを行う。

    ●ところで「贅沢」とは?
    「贅沢」は“不必要なもの”と関わる。私たちは“必要なもの”だけでは有事にあたってのリスクが大きく、生きていけない。人が豊かに生きるには「贅沢」が必要だ。
    「浪費」と「消費」の違いも「贅沢」の概念で説明できる。「浪費」は必要以上に物を受け取り吸収すること。例えば、腹十二分に食べるなど。物自体を受け取るのでどこかで満足が訪れる。これが「贅沢」をする、ということ。
    一方、「消費」は対象が物ではない。概念や意味。ブランド品を買うとかSNSで話題のお店に行くとか。物自体を受け取らないので満足が訪れない。
    現代の消費社会は生産者主権のため売りたい物しか市場に出ない。まだまだ利用できる旧型のPCも車も市場から消えていく。物が足りない。私たちに新型モデルの“カッコよさ”“今風さ”を買わせ、浪費家ではなく消費者にして、浪費によって満足すること(贅沢)を妨げている。

    ●退屈とうまく生きていくために
    ①退屈の【第二形態】=”人間であること”を楽しむ
    【第三形態】の「何となく退屈」という声に絡めとられて、【第一形態】である「仕事などの奴隷状態」に逃げることを決断することなく、【第二形態】の気晴らしを存分に享受する。お菓子作りであるとか、芸術鑑賞や旅行であるとか、気の合う友人との飲み会であるとか。それらを“きちんと”楽しむ。
    そのためには、消費ではなく、ものを受け取りちゃんと浪費し、その物について考え楽しむこと(=贅沢)を取り戻すべし。食べ物のおいしさ、民芸品の素晴らしさ、景色の美しさ。生活に根ざしたものから教養を求められる娯楽に至るまで。

    ②“動物になる”
    自らの環世界に侵入する何か(おかしいな、あるべきではないな、とら感じること)を待ち構え、受け取り、新しい環世界を作って浸る。とりさらわれる。

    自分がとりさらわれる対象は何か?
    それは①の過程で何ものをも楽しみ、そして待ち構えることで出会える。

    ○その他心に残ったこと
    スピノザ
    何かを理解した時、自分にとって“理解するとはどういうことか”も同時に理解する(反省的認識)
    →本を読むとは、その論述との付き合い方を読者が発見していく過程。結論だけ読んでも、その結論の奴隷になるだけ。

  • とっても面白かった!

    暇(生活に余裕ができて空いた時間)と退屈(満たされない、自身に抱く疎外)に、どう向き合うべきかを説いた本。


    結論はある。だけど、真の結論は読者に委ねられる。

    この本を読んだ人は皆、同じ講義を通じてそれぞれの結論を持ったはずです。

    知的な読書体験がしたい方にオススメ。
    ぶ厚いですが、さらっと読めます

  • 人生論について思いを巡らすのに「退屈」という感覚を軸にするのは確かに有効であるが、それだけでは不十分だと感じる。つまり仕事や現在の生活のことなど、短期的な領域、つまり「生きること」に対しては幅広く適用することができても恋愛や自己実現といった長期的な領域、「生きていくこと」については「退屈」はカバーできないのではないか。

    たとえば「寂しさ」。筆者はパスカルの言う通り、本当に不幸の原因は退屈だけだと考えているのだろうか。それとも寂しさは退屈に含まれるとでも?

    暇がないから「退屈」でもなく、完全に不幸は克服できないにしても衣食住足りて「自分の仕事」ができているからといって「寂しさ」に目を背けることのできる社会は受け入れ難い。それは、自分がなるべく「かけがえのない誰か」として他者に関わりたいからだ。

     そこには、一人でも多く、いや、たった一人でもいいから自分のことを本当に分かってほしいという甘えも含まれている。

     その程度には強く、その程度には弱くありたい。以上が、「暇と退屈の倫理学」に感銘を受け、また触発されて明らかになった、私の倫理観である。

著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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