暇と退屈の倫理学

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  • 朝日出版社
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  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

感想・レビュー・書評

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  • ”ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいわけではない”に始まる「退屈」の原理、メカニズムの壮大な考察。

    主となり真理とも思える退屈に関する主張を早々に謳いつつこの分厚い書物がどう展開されていくのか不安がよぎったのだが、とっかかりの予感よりもはるかに奥深い議論にいざなわれる良書。

    ただ、正直この議論に真っ向勝負で挑んで行くのはしんどい。
    昔々の哲学者が提起した命題について、この視点が抜けているとか、別の切り口で深堀りされても、元々の命題に対する理解もままならないから、う〜ん確かにそうなのかもしれないけど、となんとなく勢いに押された感が残る。

    それでもやはり全体として、”定住によってもたらされた退屈”という人類学から見た起源だったり、”貴族階級の暇の見せびらかせ”、”仕事人間と余暇”、”浪費と消費”といった経済発展・資本主義との複雑な関連、果ては”疎外”や”決断→(思考の)奴隷化”、”習慣”といった哲学的観念を取り入れた考察は本当に議論の幅が豊かでおもしろい。

    結論だけ読むと抽象的なのだが、著者も言うように結論だけでは意味がなく、この議論を経て様々考えることが重要なのだと思う。
    確かに、この消費は煽られているのか!?とか何となく満たされない感(自分のにも他人のにも)に敏感になった気がする。

  • 「倫理学」と書かれてあるが、哲学入門書として最適。
    何てわかりやすく噛み砕いた本なんだ。
    大学生の時に読みたかったなあ。

    一見無駄そうに思える、暇と退屈がもたらしたもの。
    著名な哲学者に対しての論述や、
    その思想が現代にどのような影響を与えているか、
    どう社会を変化させてきたかが丁寧に書かれてある。

    「要するに何なのよ」という結論を早急に求める読者に対して、
    この章だけを読んだら全体を読んだ気になると思った
    行為をあざ笑うかのように
    トラップを仕掛けている著者に笑う。

    論述の過程を一緒に巡ることで主体が変化していく。
    そうした過程こそ哲学にとって重要であるのだから。

    幸せな人とは、
    楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、
    楽しみ・快楽を求めることができる人。
    「何を得たか」ではなくて、夢中になって
    「何を得ようとしているのか」という状態を指す。

    「暇」と「退屈」の定義がいいね。

    「暇」とは何もすることがない、する必要のない時間。
    暇は暇のなかにいる人のあり方や感じ方とは
    無関係に存在する。
    暇は「客観的な条件」に関わる。

    「退屈」とは何かをしたいのにできないという
    感情や気分を指す。
    それは、人のあり方や感じ方に関わる。
    退屈は「主観的な状態」のこと。

    ノヴァーリスの「哲学とは郷愁(Heimweh)である」
    という言葉はとても刺激的だ。
    『Heimweh』はホームシックも意味するので、
    自分流に訳すなら、
    「どこにいても家にいるような心持ちでいること」だろうか。

  • 「すべての人間は、退屈と闘っているんじゃないか?人間にとって一番つらいのは、もしかして”退屈”なのではないか??」という考えが、用事を済ませてホッとした私が車を運転しているとき、突然降ってきた。
    この仮説を「いや、違う」と否定してくれる別の考えは、私には用意できなかった。

    これは...もしかして、重大なことに気づいたのかも!!

    そう思った私は、すぐにネットで「暇 退屈 人間にとって最大の 哲学者」というキーワードをもとに検索。すると、この本が出てきた。

    読みながら、筆者と読書会?勉強会?をしているような気持ちになる。
    「先生、ということは、こういうことですか??」
    と、素直な気持ちで質問してみたくなる。
    知的好奇心を刺激してくれる本だった。また、今まで一度も哲学に興味を持ったことがなかったが、私のように「暇ってなんだろう」「暇と闘う方法」を考えるところから哲学が始まったとか始まらないとかいうことを知ったのも、この本をきっかけとしてだった。

    気晴らしをしながらも「楽しかった」と「退屈だった」が混在するくらいが一番人間として健全なのかなって、そういうところに落ち着いた。
    何かに夢中だったり、自分としか対話していなかったりしているときって、どちらにせよ、余裕がないから、時々自分の世界に不法侵入してくるワクワクするようなことも、キャッチできなくなってしまう。どこで待ち伏せしていれば、自分が動物的に夢中になれる何かが通りかかるのか・・・少しはわかるようになったのも、数々の失敗経験やこれまで食べてきた美味しいものや、別の人の考えにさんざん耳を傾けてきたことのおかげだったんだな。
    思えば、この本に出会ったあの考えが私の頭の中に不法侵入してきたときこそ、退屈と気晴らしが混在していた瞬間だったのだ。

    浪費と消費の違いについて、読んだときはよくわからなかったけれど、水中毒の患者さんの治療法を別のサイトで読んで、「浪費」がここで推奨されていることの意味がやっとわかりました。(読んでわからなかった方、調べてみてください。おすすめです!)

    学んでいかなければ、とことん楽しむこともできない。美味しい料理の味の違いがわからないのと一緒で。
    経験して、学んで、時々動物みたいに何かに夢中になって、また退屈して。気晴らしをするのであれば、とことん贅沢して、一瞬一瞬を味わって。もういらな~い!満足!ってくらいまで。
    な~んだ、そんなことでよかったのか。
    というオチだということは、自分の考えと合っていたということだろうか。哲学・倫理学に興味を持たせてもらったので、★5つ。

  • 私は理解できたのか?笑

    哲学って言うのは人間とは何かを問いそれを探究する学問ということなのだろうか
    倫理学はいかに生きるべきかを問う学問だとこの本に書いてあった

    偉大な哲学者はあまたいるけど、どの人をとってもその思想はその学者のものであって、正解でも不正解でもないのかも。結局は人は自分で自分の事をとことん見つめて生きていくしかないのかな。人間である以上生きることをとことん考え、悩み、学び、思考し続けることはとても大切なこと。本当にやりたいことは何なのかを自分に問いかけ続けること。そして生きることを楽しむこと。本当に楽しむためには学ばなければならないこと。

    いやあ、大変です、人として生きるということは。でも絶えず変化する日々の生活や環境にすぐに順応できる人っていうのはほんとに凄い存在だ。






  • その「好きなこと」は本当に好きなことなのか?
    与えられた好きなことを楽しもうとして暇を搾取されている。暇や退屈をどう過ごせばいいかわからず、没頭することを必死に探し見つけてしてしまう。たとえ苦しいことでも。
    退屈を時折感じつつも、それを受け入れ楽しみ思考すること。
    お休みを有意義に過ごさねば!は間違いということか。
    もちろん翌週からの仕事に向けた休養でもない。
    何も予定がないので休暇を取らない、と言ってた人もいたなぁ。。
    103冊目読了。

  • 本書の最後の結論
    人間的なものを楽しむことで、動物になることを待ち構えることができるようになる
    本書を通して読むことで、この言葉が至るまでめっちゃ長い説明があるけれど、それを乗り越えて考えた自分に、自分の心にじんわりとやわらかく染みた
    本書を通して、「暇」と「退屈」、世間一般で大切にされないであろう、今まで自分も大切してこなかったこの二文字を本当に大事にしていきたい。

  • 衣食住一たりた先進国に生きる我々は、一体どう生きるべきか?を「暇と退屈」をキーワードにその人類学的・歴史学的・思想的背景を織り交ぜながら、著者なりの結論を導き出した現代思想的、思想書。

  • この本はとても素晴らしい。面白い、たくさんの発見があり、生き方を変え得る本だと思う。真摯に緻密に丁寧に書かれている。☆5つは、こういう本のために取っておかなくちゃいけなかったんだなあ、あの本は☆4つだったなあと思っちゃう。私の心の友書ランキングのトップを争う本になりました。ぜひご一読を!

  • やりたいことが分からない≒人生の退屈、であることが一番大きい気付き。
    退屈は、①暇なので何も刺激を得られない退屈、②忙しいがもっと楽しい刺激があるのではないかと思ってしまう退屈、③状況によらず不意に感じる退屈の三つに分類される。そして、人は①③と②を交互に移動する。その移動は往々にして、移動の決断が先行した移動である。すなわち、本当の自分の衝動とは異なった衝動に生きようとするので、結果的にまた退屈を感じる。
    人間にとっての楽しみは、環世界の中なかから得た衝動である。環世界が人それぞれで選択可能だから、衝動も人それぞれで選択可能。つまり、楽しみは自由に選択可能である。

    よって、自分の環世界をイメージして自分の衝動が何かをよく探すことが、退屈から逃れる手段であり楽しさを享受する手段だ。

  • やっと読み終わった。もう一回読もう。図書館で借りた本だから今度は買おう。それくらいいい本だった。

  • 暇と退屈を哲学的に考えていく本。昔の哲学者が考えたことを軸に著者の考えを解説していく。
    簡単な言葉で書かれているし、例が挙げられているので、イメージしやすく読みやすかった。
    暇は客観的、退屈は主観的でイコールではない、
    暇じゃないけど、退屈という形態が説明されていて、「わかる!!」ってなった。この状態って辛いよね。
    多分結論は「生活を楽しめ!楽しむために学べ!自分が好きなこと、熱中できることにのめり込め!」と言っているのだと思う…(??)

  • 結論に書かれている内容(どう生きるべきかの提案?)は、老人の知恵だな、と思った。悪い意味ではなく。

    初読は恐らく2014年で、いま(2023年)久しぶりに読み返した。この間、要らないものを捨てる意識で9割以上の本を処分したけど、直感的に重要だと感じて手元に残した数少ない本のうちの一冊。「退屈」は人生の重要課題であり、自分も死ぬまで考え続けるだろうし。
    初読時にも価値を感じた覚えがあるけど、内容はほとんど覚えてなかった。約10年後に読み返した今、倫理学としての結論の主張には感覚的(経験的?)に同意でき、一部は自身の変化で自然に実践してたりする。

    1つ不満な点を挙げると、自然科学寄りで学び育った自分としては、なぜ人間が退屈を感じるのかについて進化論的・生物学的な観点での議論もカバーしてほしかった(そういう学説もあるだろうとの想像の上で)。そのメカニズムを理解できれば、空腹感や疲労感と同じように楽しむことができるかもしれない。食欲には際限がないが、多少の知識と自制心があれば、健康を維持して食を楽しむ生活を持続できる。退屈も、そういう知識でもって飽きることのない日常の幸せに変えていきたい。

  • 後半にかけてちょっと難しい内容だったけど、色々と考えるきっかけになってよかった。こういう本は暇がないと読めない。暇を作りたい。

  • 暇と退屈という一風変わったテーマを哲学的に考察した本。

    暇と退屈を分けた上、「暇ではないが退屈」という状態が現代人の直面している退屈であり、それはハイデガーの言う第二形態の退屈「(原因ははっきりしないが)なにかをするに際して退屈」に該当するという指摘は鋭いと感じた。
    仕事が忙しく暇はないけど、どこか退屈を感じたり、休日も退屈を埋めるように色々な場所に出かけるけれど、やっぱりどこか退屈を感じてる、なんてことは確かにある。

    ハイデガーは「退屈であることは決断の可能性に溢れていることであり、決断で回避できる」と言ったそうだ。一方本書では、退屈を避ける方法として、「暇を楽しめる術を身につけるべし」と主張している。確かに、決断することで「暇でも退屈でもない」状態になるか、暇を楽しむことで「暇だが退屈ではない」状態となるか、二つに一つだ。
    哲学に耽るというのも、暇を楽しむ一つの術かもしれない。

  • 暇と退屈のついて哲学した本。

    ちょっと長いけど、概ね楽しめました。うなってしまうような面白い引用が沢山。ハイデッガーとか名前しか知らなかった。

    僕が一番好きだった部分は、『日常的な楽しみに、より深い
    享受の可能性がある』というところで、もっともっと人生を
    楽しむために参考にしたいと思いました。

  • 暇と退屈の倫理学 第一章

    パスカル

     見事な分析


    人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために怒る。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

    =みじめ(ミゼール)

    ウサギ狩りをする人は気晴らしをしたいだけなのに自分はウサギが欲しいと思い込んでいる

     気晴らしには熱中できることが必要だ

    そしてそれを指摘する人も気晴らしをしているだけにすぎない

     →じゃあどうすれば?

    神への信仰によって救われる!

    →人間は負の要素=苦しみを求めるのか? 気晴らしには苦しみや負荷が必要なのか?

    (自分のコントローラブル(うまくやった感)があればいいんじゃない?)

    ニーチェ

     数百万人のヨーロッパの若者は退屈に苦しんでいる

     →苦しみを求める →苦しみの中から自分の行動の理由を求めたい

    レオ・シュトラウス

     ナチズムについて

     近代主義と共産主義の狭間で、若者たちは緊張と真剣の中にある生を求めた

    ラッセル『幸福論』

    食と住に不自由しない20世紀の現代人 の不幸 日常的な不幸

     その理由は?

     ハイデガーも同時期に同じことを言っていた

    「退屈とは事件への期待が打ち砕かれた状態である」

    (事件であれば不幸でもいい)

    「退屈の反対は快楽ではなく興奮である」

    人は楽しいことなど求めていない

    そして、楽しいことを求めることができる人が幸福である

    熱意を持って取り組むことができる対象があれば幸福である

     →解決策:興味をできるかぎり幅広くせよ!

    でもそれは戦争とかにつながらないか?

     不幸への憧れを生み出すような倫理学は良くない。

    スヴェンセン『退屈の小さな哲学』

    「退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義のせいだ」

    「ロマン主義者は人生の充実を求める」

    近代以前、共同体が生き方を決めてくれていた

     →解決策:ロマン主義的な個の追求を諦めること そんなものはないのだから



    疑問点

    ・「諦める」って解決になってなくない?

    ・ロマン主義的以外の退屈もあるんじゃないか?

    暇と退屈の倫理学



    序章

    ラッセル

     「いまの西欧諸国の若者たちは不幸だ」

     社会を豊かにすると人は不幸になるのか? おかしくない?

    豊かになると人は何をする?

     それも消費社会にコントロールされてない?

    ガルブレイス

     広告が人の欲望を形作る

      そもそも人は固有の欲望なんて持っているのか?

    アドルノとホルクハイマー

     文化産業についての研究

     消費者の感性があらかじめ制作プロダクションのうちに先取りされている

     人間はカント的な主体性(火を熱いと感じるような)を持っていない

      あらかじめ受け取られ方の決められたものが差し出されている

    資本主義で人々は裕福になったが自分では何をしたらいいかわからない

    そこに資本主義がつけこむ

    労働者の暇が搾取されている

    暇のなかでいかに生きるべきか

    退屈とどう向き合うべきか

    モリス

     生活はバラで飾られる必要がある

    (みんなそんなに広告に騙されるほど馬鹿なのか?

     人は自分で選んでいるという錯覚を持つ必要がある)

    ジュパンチッチ

     大義に人は誘惑される



    1

    パスカル

    ラッセル

    2

    定住革命

    3

    ヴェブレン

    4

    ルソー

    マルクス

    アレント

    5

    ハイデガー

  • 私たちは「退屈」とどう付き合って生きていけばいいのか。古来、哲学者たちが挑み続けてきた難題に向き合う一冊。
    確かに私もよく「暇だなぁ」と口にするし「退屈だなぁ」と感じる。二つの概念を区別せずに欝々とした気持ちを表していたけれど、よくよく考えてみたことはなかった。身近なクセモノの正体を明かしたい、と手に取ってみた。

    結論、衣食住であるとか、芸術作品であるとか、人付合いのための会合であるとか、嗜好品であっても構わないんだけど、きちんとその“モノ”自体を丁寧に受け取り、考えて(勉強して)楽しむことが、「退屈」と付き合うコツなのだと。その繰り返しによって、自分がズッポリと絡めとられる、嵌り込める対象がなんであるかが分かるようになると。

    なるほどなぁ。
    本書にあるように、私たちは本当の「贅沢」からは程遠い、「消費」活動を強いられていると思う。やれ有名店でランチだの、やれ人気ブランドの財布だの、やれ隠れ家的スポットだのを求めて、そのものの価値は分からずに「意味」だけを受け取り、発信しては受け流す。“満ち足りた”とは程遠い気持ちで。
    理想は本来の「浪費」つまり「贅沢」を通して満足すること。私はまだその感覚を掴めていないだろう。その感覚を知りたい、分かりたい。“モノ”自体を受け取って楽しむって具体的にどうすることだろう。例えば私は読書が好きだし、お菓子やワインも好きだけど、それらを本当に楽しむって?それらを研究し、精通するってこと?もしかして、“それらを好む私”という自意識から離れるってこと?
    思考は続く。

    だけど間違いなく言えるのは、今後「あぁ暇だなぁ」「退屈だ」と感じたとき、私はきっとその暇と退屈さを“楽しめる”だろうということだ。


    以下、本書の“私なりの”要約。
    ●人類はいつ「退屈」に出会ったか
    そもそも私たち人類が「退屈」と生きねばならなくなったのは、定住生活を送るようになったからだ。気候変動による環境変化で狩猟が困難になり、貯蔵が必須になったため止むを得ず定住化が進んだ。遊牧生活では優れた潜在的な探索能力を存分に発揮できたが、定住生活では探索能力は行き場をなくした。それが「退屈」の始まりだった。私たちは「退屈」を回避する必要に迫られることになる。

    ●「退屈」とはなにか
    パスカルが、人間は部屋の中にじっとしてはいられない、気を紛らわせてくれる騒ぎを求める生き物だ、と言ったように「退屈」は私たちにとって身近な存在だ。

    そして「退屈」は否定的な概念として捉えられる。
    ラッセルは『幸福論』の中で革命の只中にある国に暮らす若者は世界中のどこよりも幸せだろうと論じた。打ち込むべき仕事を外から与えられているからだ。つまり「退屈」ではないからだ。「幸福である」とは“熱意”をもった生活を送れることらしい。

    では、表題にもある「暇」と「退屈」の関係性とは?「暇」とは何もすることのない時間。客観的な概念である。一方「退屈」とは何かをしたいのにできないという感情。主観的な概念だ。
    この2つの概念の関係性を、本書では4象限で説明している。すなわち、
    ①暇であり退屈である
    例:資本主義の展開により労働階級が裕福になり(ブルジョワジー)、時間的金銭的に余裕が生まれ、いきなり「暇」が与えられた。
    →何をして気晴らしをすれば良いか分からない。そこでレジャー産業が出現した。何をしたらよいかわからない人たちに、やれ旅行だの、やれ映画だの、やれかっこいい車だの、生産者主導で「したいこと」「欲望」を与える。消費者は「モノ」そのものではなく「気晴らし」を与えられることに慣れきってしまう。
    ②暇であり退屈ではない
    例:かつての“有閑階級”のように代々裕福で暇との関わり方を知っている人たち。
    ③暇ではなく退屈でもない
    例:四六時中やるべきことに追われている人たち。
    ④暇ではなく退屈である
    ★こここそ、私たちが苦しめられている象限。

    そのうえで、「退屈」とはなんなのか。
    ハイデッガーは退屈を大きく三形態に分けた。
    【第一形態】は「何かによって退屈させられている」状態。例えば駅舎で何十分も遅れている電車を待っているようなときは、遅れている電車によって退屈させられている。他にやるべき事(仕事)があり電車を待っているが、周りの物がわたしが期待しているものを提供してくれず、時間がぐずついている。そのため、いくつも“気晴らし”をしながらやり過ごす。
    これはやるべき事(仕事)の奴隷になっている状態である。例えば、内戦や対外戦争の只中にいる国民もこれだ。やるべき事に戻れば、退屈からは逃れられる。
    【第二形態】は「何かに際して退屈である」状態。何かを待っているわけではなく、自分で選択して何かを行なっている(例えば飲み会に参加している)。楽しく会話して美味しい食事もとり笑っているが、帰宅してみると「何だか退屈だった」と感じるような。こんなとき、実はその飲み会自体が“気晴らし”であり、“気晴らし”そのものが退屈だったと言うことに気付く。
    革命や強制労働などに隷属しているわけではなく、自分と向き合う余裕はあり、普段の私たちはこの状態といえる。イベントを企画してみたり形式を重んじてみたり。やることを選べて「暇」は回避しているけれど、「退屈」を感じる状態。
    【第三形態】「何となく退屈」という状態。第二形態のような“気晴らし”が行われたのは、この「何となく退屈」という状態に定常的になっているからだ。そして「何となく退屈」だと気付いてしまったら、そこから逃れるべくわざわざ日々の仕事の奴隷になることを決断し、やるべきことを作ってしまうことも。すると第一形態に陥る。

    ●「退屈」は人間だけのもの?
    ユクスキュルは「環世界」という概念を説く。人間の環世界、犬の環世界、かたつむりの環世界…それぞれの種は異なる環世界を生きている。例えば、ダニは木のような高いものに登り、哺乳類が近づくと飛び移り血を吸う。…と、人間は人間の環世界を通してそう解釈するのだが、ダニの環世界を通すと違う。視力も聴力も保有しないダニは、哺乳類が発する酪酸を嗅覚で捉えるとそれを合図に飛び、摂氏37度を感じとるとそれを合図に吸血行為を行う。「哺乳類」ではなく「酪酸」や「摂氏37度」をシグナルとして衝動を停止したり解除したりして行動を制しているらしい。人間とダニの環世界は違い、環世界ごとに時間の流れ方も違う。
    では、人間と動物の違いは何かというと、「環世界間移動能力」の差だ。人間は他の動物よりも格段に高くこの能力を有し、容易に他の環世界との間を行き来する。ときに科学者の目線で、上司の目線で、母親の目線で、周囲の環境を生きることができる。そのことゆえに人間は「自由」である。ただ、新しいもの全てに反応するのは疲れてしまう。フロイトの「快原理」によると生物にとっての「快」状態は安定した状態である。興奮状態は不快だ。(だからこそ、興奮したら最大限度まで高めて解消させる。)だから、いちいちショックを受けて考えないで済むように、習慣を獲得し、安定を得る。

    でも、想像できるように、習慣を作り出すとマンネリ化して「退屈」が首をもたげる。
    人間は快状態(安定した状態、考えなくていい状態)を作るために習慣を作るが、それゆえ退屈が生まれ、それをごまかすために気晴らしを行う。

    ●ところで「贅沢」とは?
    「贅沢」は“不必要なもの”と関わる。私たちは“必要なもの”だけでは有事にあたってのリスクが大きく、生きていけない。人が豊かに生きるには「贅沢」が必要だ。
    「浪費」と「消費」の違いも「贅沢」の概念で説明できる。「浪費」は必要以上に物を受け取り吸収すること。例えば、腹十二分に食べるなど。物自体を受け取るのでどこかで満足が訪れる。これが「贅沢」をする、ということ。
    一方、「消費」は対象が物ではない。概念や意味。ブランド品を買うとかSNSで話題のお店に行くとか。物自体を受け取らないので満足が訪れない。
    現代の消費社会は生産者主権のため売りたい物しか市場に出ない。まだまだ利用できる旧型のPCも車も市場から消えていく。物が足りない。私たちに新型モデルの“カッコよさ”“今風さ”を買わせ、浪費家ではなく消費者にして、浪費によって満足すること(贅沢)を妨げている。

    ●退屈とうまく生きていくために
    ①退屈の【第二形態】=”人間であること”を楽しむ
    【第三形態】の「何となく退屈」という声に絡めとられて、【第一形態】である「仕事などの奴隷状態」に逃げることを決断することなく、【第二形態】の気晴らしを存分に享受する。お菓子作りであるとか、芸術鑑賞や旅行であるとか、気の合う友人との飲み会であるとか。それらを“きちんと”楽しむ。
    そのためには、消費ではなく、ものを受け取りちゃんと浪費し、その物について考え楽しむこと(=贅沢)を取り戻すべし。食べ物のおいしさ、民芸品の素晴らしさ、景色の美しさ。生活に根ざしたものから教養を求められる娯楽に至るまで。

    ②“動物になる”
    自らの環世界に侵入する何か(おかしいな、あるべきではないな、とら感じること)を待ち構え、受け取り、新しい環世界を作って浸る。とりさらわれる。

    自分がとりさらわれる対象は何か?
    それは①の過程で何ものをも楽しみ、そして待ち構えることで出会える。

    ○その他心に残ったこと
    スピノザ
    何かを理解した時、自分にとって“理解するとはどういうことか”も同時に理解する(反省的認識)
    →本を読むとは、その論述との付き合い方を読者が発見していく過程。結論だけ読んでも、その結論の奴隷になるだけ。

  • 幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。(p.55)

     定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。」いわゆる「文明」の発生である。(p.88)

     (ハイデガーの言述)哲学に関してどんなに広範囲のことを扱ったとしても、問うことによって私たち自身が感動させられているのでないならば、何事も理解はできない。結局はすべて誤解にとどまる。(p.200)

     本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
    私たちの最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい……。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである。(pp.240-1)

    人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。
    退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力そのものであるのだから、けっして振り払うことはできない。したがってパスカルが言っていた通り、人間はけっして部屋に一人でじっとしていられない。これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう(p.244)

    人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ自分なりの安定した環世界を、当方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。
    はじめて保育園や幼稚園まるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでに彼ないし彼女が作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難な課題である。だからしばしば失敗も起こる。(pp.322-3)

    単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
    人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっているのは必然である。(p.325)

  • 暇と退屈について深く掘り下げて考察していく。
    経済史・人類史・自然科学など多岐にわたる切り口でこれを考え、
    結論(人生の楽しみ方)に収束していく過程が面白い。
    難しくて読み飛ばした箇所もあるが、
    哲学ってこういう学問なんだということが少し理解できた。

  • とっても面白かった!

    暇(生活に余裕ができて空いた時間)と退屈(満たされない、自身に抱く疎外)に、どう向き合うべきかを説いた本。


    結論はある。だけど、真の結論は読者に委ねられる。

    この本を読んだ人は皆、同じ講義を通じてそれぞれの結論を持ったはずです。

    知的な読書体験がしたい方にオススメ。
    ぶ厚いですが、さらっと読めます

  •  読みたいとは思っていたもの手付かずになっていた本。読み始めると、一晩で読み終わった。

     ハイデガーの退屈の第三形式においての「決断せよ」が、そこから先に進んでくれて本当に嬉しかった。これはサルトルをかじった時に「君は自由だ。選びたまえ。つまり造りたまえ」と言われて、きょとんとしたのを本書のおかげで乗り越えれたからだと思う。

     いろいろな方向からアプローチしている分、本書には随所に興味深い箇所があった。ただ、ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を通じての退屈の議論で、最後に第二形式に光を見出したのがなんだか残念。その前の箇所で、アーレントのマルクス理解が「本来性」にとらわれているせいで誤読していると指摘があるが、退屈の議論そのものも結局は本来性を想定しているために生まれる議論という点が自分としては否めない。西田、西谷の無の概念(本来性なき議論)と退屈を絡めてみるとおもしろそう。

     西谷の『宗教と非宗教の間』で真の遊びについて論じられているけれど、自分としてはどうもそちらの議論ほうが上な気がする。

     

  • 毎日忙しくすごしているとき誰もが「ああ、休みが欲しい…」「ゆっくりしたい…」と思うのではないでしょうか。
    しかし、いざ、休みが取れるとなにをしたらいいかわからない…なにかしたいことがたくさんあるはずなのに、なにもすることが思い浮かばない…
    そんな人が多いんじゃないかと思います。
    そして悩みは深まり、自分は仕事をするためだけに生まれてきたのか?そんなはずはない…じゃあなんのために?と哲学的な問いにたどり着いてしまったりして…笑

    そんなときに、この本、暇と退屈の倫理学です。倫理学なんて聞いたことも見たこともない人でも読める平易な文章です。
    退屈とはなんなのか?暇とはなんなのか?その対処法とは?といったところを様々なー自分では絶対に読まないようなー文献を参照し筆者の意見と共に論じられていきます。

    タイトルに惹かれる方、考えがちな方、暇を持て余す大学生(笑)におすすめの一冊です!買って損はないと思います。
    特にこういった類の本をはじめて買われる方にはおすすめ!

  • 人生論について思いを巡らすのに「退屈」という感覚を軸にするのは確かに有効であるが、それだけでは不十分だと感じる。つまり仕事や現在の生活のことなど、短期的な領域、つまり「生きること」に対しては幅広く適用することができても恋愛や自己実現といった長期的な領域、「生きていくこと」については「退屈」はカバーできないのではないか。

    たとえば「寂しさ」。筆者はパスカルの言う通り、本当に不幸の原因は退屈だけだと考えているのだろうか。それとも寂しさは退屈に含まれるとでも?

    暇がないから「退屈」でもなく、完全に不幸は克服できないにしても衣食住足りて「自分の仕事」ができているからといって「寂しさ」に目を背けることのできる社会は受け入れ難い。それは、自分がなるべく「かけがえのない誰か」として他者に関わりたいからだ。

     そこには、一人でも多く、いや、たった一人でもいいから自分のことを本当に分かってほしいという甘えも含まれている。

     その程度には強く、その程度には弱くありたい。以上が、「暇と退屈の倫理学」に感銘を受け、また触発されて明らかになった、私の倫理観である。

  • 結構なボリュームがあるのでゆっくり読もうと思っていたが、面白くて一気に読んでしまった。

    人間であれば日常的に感じる暇と退屈という問題について、その起源からはじまり、歴史上、数々の思想家がそれをどう捉えてきたのかを紹介しつつ、それらに対しての考察を行い、最終的に、我々が暇と退屈とどう付き合っていけばいいか、その方向性を示している。

    結論としては平易で分かりやすい方向に帰結するし、自分の周りの出来事に照らし合わせると単純なことだったりするのだが、一見掴みどころの無い問題をここまで考え抜き、料理できるものかと、感心しながら読み進めた。
    それと、暇と退屈というと個人の生き方だけの問題と思っていたし、実際そこを考えたくて購入したのだけど、実は文明の発展や、戦争、現代の非正規雇用の問題にまで繋がる、社会的かつ根源的な問題なのだと気付かせてもらえたことにも、非常に価値があった。

    ただ、本書にははっきりと書かれていないように思ったのだが、退屈に対処する上での注意点として、退屈の第一形式、第二形式を取り違えないことが重要であると感じた。
    本書では、第一形式に対しては仕事の奴隷であること、第二形式に対してはパーティに参加することなどのいわゆる気晴らしや趣味を例に出しており、第一形式を自己を喪失する危険な状態とした上で、第二形式の気晴らしをより良いものとしていくことを推奨している。
    しかし、これだと、第一形式=仕事、第二形式=趣味と固定的に捉えられてしまうきらいがあるのではないだろうか。
    重要なのは、退屈を紛らわす行動をしっかりと味わい、楽しむことで余裕を持ち、それに対して思考することに没入していくことだと思われる。
    よって、仕事をしていてもそうした状態になることはあるだろうし、逆に自分は趣味を楽しんでいると思い込んでいても、実際には思考を停止して、趣味の奴隷になってしまうこともありえる。
    そこは、自分の中で常に自問自答していく必要があると感じた。
    判断基準としては、やはり、自分が本当にそれを楽しんでいるか否か、になるのだろう。

  • 「退屈とどうむきあっていくかという問いはあくまでも自分に関わる問いである。しかし、退屈と向きあう生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。」

    ハイデッガー、スピノザ、ドゥルーズ、カント、ホッブス、ガルブレイス、ヘンリー・フォード、オルテガ、ウィリアム・モリス、バートランド・ラッセル、コージェブ、そしてマルクス

    覚えているだけでも、これだけの名前がでてくる。
     本書は、著者の思考の足あとであり、偉大な知識の断片を踏みながら「私の退屈」について考察していく。読むものを置いてきぼりにすることなく、とても丁寧に、とても日常的な言葉で。

    「退屈とは自分が自由である証だから、その退屈を喜び眼前に開かれている可能性に喜び、自由で退屈な時間を利用して決断をして突っ走って行こう」
    というハイデッガーの結論に対して、
    「決断とは心地よい奴隷状態のことだから、退屈を忘れるために決断し、自分の行動を「目的」によって拘束するのは、本末転倒なんじゃないの?自分で選んだかどうかの違いだけで」
    と著者は反論する。
    これは、夢とかやりたいこととかを実現する!みたいな人生観にたいするマイルドな批判だったりする。

     不景気になってしばらく、生き方について色々な考えが流布しているけれど、人生論なんて、要はすでに準備された時間という器を何で埋めるのかとういうことだと思う。「目的」で無理やり埋めなくても、他の埋め方があるんだよというのを教えてくれる。

  • 「ふつう」は退屈かもしれない。しかし「ふつう」な毎日のなかに楽しみを見出すことができれば、退屈しなくなるし、暇が怖くなくなる。暇が待ち遠しくなる。

    ウェブ業界にはアッパー系(気分アゲアゲ)の「面白さ」を追求する会社が少なくありません。その中にあって「未来のふつうをつくる」という理念を掲げているのがゼロベースです。「ふつう」の生活のなかに幸せを見出していく「真っ当」な在り方を追求しています。刹那的・享楽的な「気晴らし」を求めるのではなく、「第二形式の退屈」(気晴らしと退屈が混じり合った状態)と向き合って〈人間であること〉を楽しもう、楽しめる社会を構想しようとしています。

    「楽しむ訓練」を通じて日常的な物事を楽しめるようになれば退屈しなくなる。ふと「編み物好きな女性」「茶道を習っている女性」などのイメージが浮かびました。

    ref.
    日本のデザイン http://booklog.jp/users/zerobase/archives/4004313333

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができる。

    〈人間であること〉とは、退屈と気晴らしの入り混じった生。それを楽しむということは、生活に〈贅沢〉を取り戻すこと。〈贅沢〉とは〈消費〉ではなく〈浪費〉のことで、日常的な快を享受すること。〈消費〉は物ではなく記号や観念を用いるので、限りがない。〈浪費〉は物を必要以上に受け取り、余裕を持って暮らすこと。物である以上は限りがある。

    消費社会にはモデルチェンジがあり、ポスト・フォーディズムの生産形式のために非正規雇用が構造的に要請される。消費社会の人間は自分自身を疎外している。その疎外は自身の〈消費〉に起因する。従って〈消費〉から〈浪費〉・〈贅沢〉への転換が必要。

    〈動物になること〉とは何かにとりさらわれていること。とりさらわれているときには退屈を忘れる。とりさらわれの瞬間を待ち構えるためには、自分をとりさらうのが何なのかを自覚している必要があり、そのためには物事を楽しむための訓練が必要になる。

    私の考え。浪費の贅沢とは足るを知ること。モリスのアート・アンド・クラフト運動と柳宗悦の民藝運動の類似性。日用の物を愛でる心性。茶道や華道のような日本的「スノビズム」こそ〈暇と退屈の倫理学〉の好例。原研哉の『日本のデザイン』、「欲望のエデュケーション」。白洲正子、柳宗悦、小林秀雄のように日常の些細な物事に感心できる感性を育みたい。

    一気に読んだ。

  • 久しぶりに読んだ前提知識なしにどこまでも深く読めるという太い本だった。大作だと思った。知識として第二章の定住革命のところは驚きを感じたし、最終章から結論に至るまでの展開はスリリングだった。著者の価値判断が挟まることが通常であれば面映くも映るものなのだが、この著者の語り口にはそういったところが感じられなかった。一周回ってハイデガーの実存主義を体現しているかのような気にもなった。
    消費と浪費の考察は広告やにとっては耳の痛い問題であるし、俺自信にとっては教育系へと移行したのなら、贅沢のための教養を志向するという具体的行動指針をもらったような気にもなった。
    多義的な解釈が出来るための材料がちらばっていて素敵な本なので、輪読にもいいかもしれない。新年初頭から豊穣な読書体験となった。風呂でちまちま1章ずつ読んだけど出来れば1日で一気に読み進めたほうが興奮度が高いかもしれない。

  • この本では「暇」と「退屈」について、複合的な視座から分析し、現代におけるそれら概念の在り方について検討している。

    「暇」と「退屈」は異なる。「暇」は客観的な条件である。時間に余裕がある、何らかの仕事に追われていない。そういう状態。
    対して「退屈」はこれと異なり、主観的な規定である。
    だから、この2つの概念から4つの場合に分かれる。
    「暇であり、かつ退屈である」「暇であり、退屈でない」「暇がなく、退屈である」「暇がなく、退屈でない」

    これらの中で一番想像しにくく厄介なのは、「暇がなく、退屈である」状態だと思われる。後にハイデガーを援用して、この「暇がなく、退屈である」状態とはどういうことかを分析する。


    後の議論の展開は読んで欲しいところであるが、自分にとっては示唆に富むとこが多かった。「消費/浪費」「環世界」など、極めて重要と思われる概念について詳細に書かれ、全体の議論の見通しが良かった。アレントのマルクス批判を批判する箇所は痛快だった。
    わからなさ過ぎて困った、というようなところはなかった。それは序章にもあるが、意図的なところなのだろう。

    本の刊行にあたり、度々著者は「自分の思うところをぶつけたので、是非読者の感想を聞きたい」という旨のことを言っていた。
    個人的に、ここに書き連ねたくなるようなものではないが、皆何かを喚起される文だと思う。


    あまり関係ないが、並行して読んでいた森岡正博「無痛文明論」との近似性を感じるとこがあった。あまり上手く説明できないので、同じような感想を持つ人の詳細なレビューを待つか、頃合いを見て自分が纏めてみたいと思った。

  • やりたいことをやりたいようにやる。
    つまり、これしかないよな。後は、運任せぐらいだもんな。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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