- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784260015493
感想・レビュー・書評
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研究者として賞を受けるほどのひとでありながら、いや、だからこそ、なのかもしれないが、介護の現場にその身を投じ(というより介護職員そのもの、になってしまう)、著者の考えることに対する姿勢は見習わなければいけない、と考える。
介護施設といわれる場所でたくさんのひとに囲まれて暮らしている老いつつあるひとびとの孤独を解きほぐしていくのは「赤の他人」なのか、と、祖母とともに暮らしているわたしや母としては複雑な気持ちになるところであるが、そういう「赤の他人」を緩衝剤にして、ようやくわかりあえるきっかけをつかむかつかめないか、というくらいに、家族というものは、入り組んでいてぐっちゃぐちゃでずぶずぶのべったべた過ぎてよくわからないものなんだろうな、と再確認できたような気がする。
たとえば祖母が、その人生を終えるまでに、わたしたちとの関係性をすっきりさっぱり清算してから気持ちよく逝ってもらおうかねえ、と腐心苦心するのは最早こちらの勝手な思い込みなのだろうか、それとも、やはり、祖母は、誰かに生きてきた証を見せ語り託して逝きたい、と思っているのだろうか。そうやってわたしの考える日々は続いていく。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
記憶って頭にあるんじゃない。
身体に刻まれてるんだよ。 -
看護学生の頃に感じたこと、六車さんが感じたことと似ていて懐かしい。高齢者の方を「看護・介護の対象者」ではなく「人生の先輩」だけでなく「民俗学の宝庫」と捉えられたらこんなに面白い。
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民族研究者であり介護職員でもある筆者、介護現場で出会う老人たちは民俗学にとってフィールドワークのような刺激に満ちた存在であること。民俗学を役立てられること。
介護の現場は、学者のノウハウが活かせる場だとわかった。今は、職業としての地位認識のギャップが大きいけれど。 -
回想法との違いが興味深かった。
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本書の何が「驚き」であるかといえば、著者が元来看護の専門家ではなく、小たりとはいえ高等教育機関に職を得たのちこの道に転進したという経歴である。我々研究者は専門バカだから研究職に就く以外の選択肢を想像すらできない。世間にはこれを蔑(なみ)する向きもあるがこれは実は謬見である。なぜなら研究者の養成には多大の税金が費やされているわけであって、研究者が専門職に就かないことは国家的に見て大きな損失であるからだ。数年前に某地国で学位を取った者が研究職を断念して漁師になった例があったらしく、これをリベラルぶった脳足りん新聞が「博士が漁師に」と大いに称賛して記事を書いたことがあったが、まったくバカとしか言いようがない。この漁師は糾弾されて然るべきだ。漁労従事者が博士号を取得したのなら快挙といえるかも知れないが博士が漁師になってしまったらこの男の教育に使われた血税はドブに捨てられたに等しい。この学位持ち漁師の専門は水産学とは何の関係もない分野だったから尚更である。我々が何故研究してるかといえばむろん好きだからという理由が第一だがそれは単なる趣味とは違う。専門的知識を現在に活かしかつまた未来に伝えるためであって、だからこそそこに社会的価値が生まれるのである。
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介護施設で会う利用者たちに、昔の生活について聴き取りをおこなったら、色々な発見があったという記録。
親の過去も聞いてみようかなと思った。 -
医学書院、ケアを開くシリーズ。
話を聞くこと、評価するものされるもの、の逆説的な問。 -
とても読みやすい。
はじめて耳にする「介護民俗学」と言う言葉。
民俗学で介護とはどうであったのかということではなく、介護しながら聞き書きをすることだった。
お年寄りからの情報収集は貴重ではあるが、民俗学専攻の学生の就職先が限られているから介護のほうに流れて楽しみながら仕事をして欲しいというのは難しいかな~
著者はたまたま介護士と研究と両方できたけど、介護に興味がないとツライ職場だと思う。
著者の言わんとすることもわかるのだが・・・