中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

著者 :
  • 医学書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260031578

作品紹介・あらすじ

【本書「あとがき」より】 中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃であった。衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。 だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずればよいというのか。その後、大学院に進んでスピノザ哲学を専門的に勉強するようになってからも事態は変わらなかった。 ただ、論文を書きながらスピノザのことを想っていると、いつも中動態について自分の抱いていたイメージが彼の哲学と重なってくるのだった。中動態についてもう少し確かなことが分かればスピノザ哲学はもっと明快になるのに……そういうもどかしさがずっとあった。 スピノザだけではなかった。数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。 私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。 (中略) 熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。 その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。 次第に私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。──そのような気持ちが私を捉えた。 (以下略)

感想・レビュー・書評

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  • プロローグで紹介されるアルコール依存や薬物依存を代表的な例に、「能動」と「受動」という観念だけで人間の行動を説明できるのか、という問いへの答えを求めるべく、「中動態」という概念を提示する著書。本文は290ページほどの9章立て。

    「中動態とはかつてのインド=ヨーロッパ語にあまねく存在していた態である」。中動態は過去の文法のひとつであり、現在の受動態はこの中動態の派生であるとされる。中動態はその名が示すような「能動」「受動」の中間的な存在ではなく、過去に「能動態と中動態の対立は、能動態と受動態の対立に取って代られる」過程があったとされる。つまり中動態は、能動対受動とはまた別のパースペクティヴが自明だった事実を過去の文法の歴史が示した証でもある。

    中動態と能動態の文法の特徴としては、能動態の動作が主語の外で完遂することを含意するのに対して、中動態では主語がある過程の内部にいることを示す。このような、能動態と受動態の「する」と「される」の対立とは異なった位相で浮かび上がるのは、能動対受動にある大きな特徴であり、人間の「意志」について強く意識させられる点である。対して中動態においては、「能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない」。

    著者はこの中動態の概念を引用し、過去の著名な哲学者・思想家の著作や発言から、この中動態と類似するコンセプトを取り出して、説明しがたい能動と受動の外にある視点が、中動態によって容易に理解されうると指摘する。本書は能動と受動で説明される世界への違和感に端を発し、中動態という観念を用いて「意志」という考え方に固執するあり方に一石を投じている。終盤は議論をさらにスピノザ哲学にある自由へと発展させ、「中動態の哲学は自由を志向する」として、中動態を知ることは自由に近づくための希望だと締めくくる。

    他の著書もだが、話の進め方で丁寧でわかりやすい。各章冒頭に用意さえている前章のまとめも理解を助けてくれる。同著者の『暇と退屈の倫理学』と『はじめてのスピノザ』を併せて読んだうえで、テーマを変えても著者の根源的な関心や主張は一貫していると感じた。核となるキーワードはやはり「自由」だろう。

    能動と受動の捉え方として、本書の一節としてある「スピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた」という言葉は、「意志」に囚われる機会を減らすための現実的で有用なフレーズのひとつだと思える。

  • この本は、ハイデッガーやアレントはもとより、デリダにラカン、フーコーにドゥルーズ、と有名どころを次々と繰り出しては、能動と受動という二つの対立以前に在った「中動態」という態の存在をあぶりだすことを目的として書かれている。聞きなれない名前だが、「中動態」の存在は早くから知られていたし、研究も存在していたという。著者自身、ずっと前から気になっていたのだが、アルコール依存症患者に係わる知人と話したりするうちに、書かねばという気にさせられたのが執筆の契機だという。

    アルコール依存症患者は、意志が弱いから再発するのだ。もっと強い意志を持たねば、と普通は考えるが、実はそれがまちがいのもとだ、とその人は言う。発想が逆転している。そもそも、人が行動を起こすときに意志が先に立ったりはしない。意志は後から現れるのだ、と。では、何故そう思ってしまうかというと、われわれは、この世界を能動と受動という二つの態に分けてとらえてしまうからだ。無理やり飲まされて(受動)いないなら、自分で飲んだ(能動)ということになる。

    銃で脅迫されて、ポケットから財布を取り出す行為は能動か受動か?ハンナ・アレントによるとアリストテレスの哲学なら能動になるのだという。なんでそうなるの?と欽ちゃんみたいな声が出そうになるが、「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」だから。確かに、財布を出すことを選択せず、ボコボコにされることを能動的に選択できる余地が残されてはいるものの、納得のゆかない説明だと感じる。

    はたしてそう簡単に割り切れるものかどうか。そこで、著者は前々から気になっていた「中動態」をこの際極めてみようと、ギリシア語まで学びなおして、語源からたどり直す。このあたりは、大事なところなので、読み飛ばすわけにはいかないが、正直あまり面白くは感じられない。ただ、古くは、能動態に対立するのは受動態ではなく、中動態であったということが分かってくる。それが、いつの間にか消滅し、その後を襲ったのが受動態、とまあ簡単にいえばそうなる。

    そこで、そのちがいだが、能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるが、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるのだという。例えば「曲げる」は、主体から発して体の外で完遂する過程を表す。問題は、「生きる」も「在る」も、それと同じカテゴリーに入っていることだ。つまり、当時は「生きる」ことも、主語から出発して主語の外で完遂する過程と考えられていた。生きることに主体の関与は必要なかったのだ。

    ここで、カツアゲの例に戻る。「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」の中に、もう一つ概念が必要だったことがわかる。それが同意だ。私の行為には自発性は存在しないが同意は存在する。アリストテレスの場合、強制がなければ自発的ととられているが、強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意はしている。そうした事態は日常的に多くみられる。自分はカツが食べたいが仲間が蕎麦にしようというから仕方なく蕎麦屋に行くというパターンだ。強制か自発か、つまり能動か受動か、ではなく能動と中動の対立する事態を枠組みとして設定すれば、事態が分かりよくなる。

    著者はこの後スピノザを持ち出し、かなりその哲学について詳述している。かなり煩雑になるので結論から言うと、能動と受動を行為の方向と考えずに、スピノザは質の差だと考えた、というものだ。行為の方向から考えると困っている人にお金を渡すのも、カツアゲも同じ行為である。しかし、質は異なる。自己の本性の必然性に基づいて行為する物は自由であるとスピノザは言っている。同じように見える行為の中に、自己の認識の差を見ているのだ。

    最後の唐突に登場するのが、ハーマン・メルヴィル。『白鯨』の作者である。そのメルヴィルの遺作『ビリー・バッド』という小説に登場する、三人の人物を「善」と「悪」と「徳」の寓意として読み取り、どの生き方も完全ではないとする。彼らは強制はされていないが誰も自由ではない。彼らの生き方を問うことで、われわれが置かれている世界は、完全な自由などないが、完全に強制されているわけでもない。つまりは中動態の世界なのだ。では、どう生きるか?中動態の世界を知ることで、より自由に近づいていこうと呼びかけて終わっている。

    ハイデッガーやアレント、スピノザについて、少しではあるが学ぶことができたのは収穫である。ありもしない自由意志に縛られていることは、以前から朧気ながら気づいていたので、それを文法上の問題として改めて考えられたのはよかった。しかし、最後まで読んできて、えっ、これで終わり?と思ったのも確かだ。何か、肝心なところで手を離されたようで落ち着かない。もう少し展望の見える位置まで引っ張って行ってほしい気がする。それこそ、個人一人一人の問題だ、と著者は言うだろうけれど。

  • ある行為が「能動態(〜する)」か「受動態(〜される)」のどちらに分類されるかということは、その行為が誰によってなされたか、もっと言えばその行為の"責任が誰にあるのか"が定まることに他ならない。そうすることでぼくらや社会はいつも、何を誰がやったかを気にできる。

    いつもそのことに違和感を持っていて、ぼくらが育ちいま感じている環境は違うし周りの人たちとの繊細で複雑な関係性の中で、100%だれかに責任を押し付けられる出来事なんてないし、だれが善い/悪いなんて言えないと思っていた。


    (以下引用)
    一般に能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に向いていれば受動だというのが一般的なイメージであろう。それに対しスピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた。



    外からのある要請に対して、どれだけ自分の本質に従い/抗って事を成すか。それはそのまま「自由」の議論へと繋がっていく。自分のやりたいことをやる、あるいはやらされる、それらを含めて本質に忠実に生きる、というある種の必然性が自由なんだとスピノザは言う。能動/受動に絡め取られずに、その自分自身だけの濃淡をいかに見極められるかが「自分の自由」を決める条件になる。

    それは結局のところ、自分のできる/できないや、そこから何がやりたい/やりたくないをメタに見つめ続けるという営みでしか達成できないのではないかと思う。

  • 能動か受動か。
    確かに、この二択で事態を捉えている。

    まず中動態を認識していないと、能動か受動かだけで言葉を解釈することになり、違う解釈となってしまう。

    アルコール依存症の例示が大変わかりやすかった。
    アルコール依存症は、自分の意思や、やる気ではどうにもならない。でも刑務所で講演会すると、努力すればやめられるという捉え方をされてしまう。

    強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している。能動か受動かという対立で物事を眺めるとこれが見えないという。

    自身を思考する際の様式を改める。
    中動態の世界を認識して、少しずつ自由に近づくとある。

    自由って難しいですな。

    身体、気質、感情、人生、歴史、社会、他の人々とつくり上げた関係ゆえに自由ではいられず行為を強制される。

    自由に近づくために、中動態を認識する。

  • 衝撃的な一冊。普段感じる能動でも受動でもないモノを追求して構造化・言語化しようとしている。文法論からスピノザまで大風呂敷を広げた上で、真の自由とは何かを追求した1冊。

    私は謝りますと言う。しかし実際には私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである。
    出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。
    能動と受動を対立させる視点が意志の概念に直結する。
    ソクラテス以前の哲学者は、彼らの哲学そのものが素晴らしかったわけではなく、彼らがその中で息をしていた言語が、能動と受動に支配された、尋問する言語には転換しきっていない、中動態的なものを宿す言語だった。
    能動と受動に支配された言語は行為の帰属を問う言語。つまり意志の概念と強く結びついている。
    原因と結果の関係は、働きかけると働きを受ける、の関係であることをやめて、原因が結果において自らの力を表現する、という関係になる。
    われわれの変状が我々の本質によって説明できるとき、われわれの変状が我々の本質を十分に表現しているとき、我々は能動である。逆にその個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現している。その場合にはその個体は受動である。スピノザは能動と受動を方向ではなく質の差として考えた。
    純粋な能動にはなりえない。能動は、個体が受ける刺激の種類や量、その力としての本質に依存する。個体の本質は固定的ではなく、力の度合いであって、高まることも弱まることもある。だが、自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動は二者択一ではなく、度合いをもつもの。純粋な能動にはなることはできないが、受動の部分を減らして能動の部分を増やすことはできる。
    自由は必然性とは対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由である。自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識する(自分はどのような場合にどのように変状するのか)事が自由に近づく第一歩。

  • 私でもあなたでも、その三人称でもない世界を考えるよいきっかけになる。言語学のアプローチを多用して、そもそもギリシャには中動態があったのにそれが時代とともに消えてしまったという。今でも再帰動詞にその名残はあり、言語学的にはまったく別系統の日本語にも見ゆ、聞こゆ、がそれに当たるという。後者はちょっとした発見だった。

    言語学の歴史だけでも楽しめるのだが、本論である中動態に関しては自由意志は存在するのか、などは読み応えがある。スピノザの自由/強制の議論やコナトゥスの議論になるとやや難解にはなる。ここでついていけても最後の章でやや消化不良になってしまった。

    本を読む前になぜ医学書院から出てるいるのかと考えた。その理由はあとがきでもわかるのだが。医師はそれこそ中動態で仕事をしている人たちなのだと理解した。

  • ずっと読みたいと思っていたが、難しくて読めないだろうと思っていた。読み始めてやっぱり無理だわと思っていたら、第5章でハンナ・アレントが出てきたあたりから、なぜかグングン面白くなってきた。アリストテレス、ハイデッガー、スピノザとどれほど私に理解できているか分からないが、著者の解説により、私の知りたかったことをこの人たちは語っている、みたいに調子良くなってきて、言葉を逃さないように、長文で抜き出しを行い始めた。いつもならここにそのまま載せるが、長文すぎるのと、引用の引用みたいなのが多いのと、自分の補足みたいなものを足さないと意味不明になりそうなのでちょっと無理。

    スピノザの「受動から脱する」部分は最近接している仏教(タイ仏教)の教えに一致しているように思え、驚いた。この部分だけ抜いておく。

     "スピノザはいかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると言っている。(略)
    他人から罵詈雑言を浴びせられればひとは怒りに震える。しかし、スピノザの言う「思惟能力」、つまり考える力を、それに対応できるほどに高めていたならば、人は「なぜこの人物は私にこのような酷いことを言っているのだろうか?」「どうすればこのような災難を避けられるだろうか?」と考えることができるだろう。そのように考えている間、人は自らの受動の部分を限りなく少なくしているだろう。
     他人の能力や実績を見て、ねたんでしまったときも、「どのようにして自分はこの人物をねたむに至ったのか?」と問いうるほどに思惟能力を高めていれば、妬みに占領されてしまった変状に変化をもたらすことができるだろう。
     この意味では、罵詈雑言を浴びたらそのまま怒りに震えるとか、他人の高い能力やすぐれた実績を見たらそのままねたむといった、変状の画一的な出現を避けることがスピノザの『エチカ』では一つの大きな課題となっていると言ってもよい。" 260ページ

    直後に書かれている「自由」に関する考え方も一致する(近い)のかもしれないが、悲しいことにちょっとそこはわからなかった。

    頭がグルングルンした。書かれていることが理解できたのかと言われれば、ほとんど理解できていないかもしれないけど、グルングルンしたことは無駄ではなかったように思う。
    それに何よりも精神的に救われた。例えば「感情が悲しみの方向に舵を切る」という表現。

    私の悲しみや苦しみの元になるものが少し解明されたようで、慰められたような気もする。

  • 自らの意志で行った行為には責任が伴う。意志を持って行った行為とはつまり能動的な行為であり、一方、他から強制されて行った行為は受動的な行為と呼ばれる。受動的な行為においては、その責任は少なくとも部分的には免除される。

    私たちの社会におけるこのような認識は、人間には自由意志があり、その意志との関係性で能動的な行為と受動的な行為が区別できるという前提に立っている。

    しかし、本当にそうだろうか?という疑問から、この本は始まる。

    いかに自由な意思に基づいているように思える行為でも、その意志の背後には様々な外的要因や歴史が影響を及ぼしている。そう考えると、われわれの自由な意志を想定する根拠は、実はそれほど確たるものではない。少なくとも、能動的/受動的という区分により、片方に自由な意志の存在を想定することにはやや無理がある。

    実際、哲学史を遡っても、古代ギリシアの時代において論じられていたのは、自由意志の概念ではなく、そこにはプロアイレシス(過去からの様々な影響を踏まえて、理性と欲望が作用しながら行われる「選択」)という概念であった。

    そしてその時代には、言語においても「能動態/受動態」という対比があったのではなく、「能動態/中動態」という2つの態が対比構造をなしていた。つまり、「する/される」という比較が問題なのではなかったということである。

    ではこの「能動態/中動態」は何を対比しているのか?現代の感覚ではなかなか捉えるのが難しかったのだが、能動態とは「動詞が主語から出発して、主語の外で完遂する過程」を表しているのに対し、中動態とは「主語がその過程の内部にある状態」を指している。

    例えば「曲げる」という動作は、主語が明らかにその外にある対象を曲げることによって完遂する、能動的な作用である。

    一方、「欲する」や「希望する」は、主体の心の中で生まれる作用であり、その主体自身がその過程の中にある。

    「能動態/受動態」の対比においては、主体と客体という2項が常に存在し、「する/される」という関係性の中でその作用の方向性が異なるという区分がなされるが、「能動態/中動態」の対比においては、主体と客体という2項が存在するのは「能動態」の時であり、「中動態」においてはその動詞の作用は主体がどのように変化するのかという観点にとどまっている。

    中動態という概念は、筆者も述べているように、現代の感覚からすると衝撃的だ。しかし、主体か客体かという比較論を離れ、外部との作用があるのかないのかという観点から行為や作用を捉えることによって、われわれの自由や責任に対する考え方に新しい視野を拓くことが可能になる。

    本書の後半では、スピノザの哲学を中動態の観点から読み解くことで、その可能性を論じている。

    スピノザの描く世界は極めて中動態的である。「神」とはあらゆるものの原因であり、またその作用の現れもまた神が現れたものである。つまりは、主体自身がその過程の中にあるという中動態の概念によって構成されている世界である。

    一方、この中動態の世界の内部においては、神の現れの一つであるそれぞれの存在=様態が、相互に作用をし、変化をしている。この変化=変状の段階には、外部からの原因が作用するという能動態的な段階と、その作用を受けて、個々の様態が変状するという中動態的な段階の、二つの段階から成り立っている。

    そして、この変状のあり方がどこまで自らの本質に従っている変状なのか、逆にどこまでが他者の作用により規定されている変状なのかによって、スピノザは「自由」と「強制」を定義した。

    つまり、われわれが自由であるか否かを考えるためには、その作用が外部からもたらされたものか内部から持たされたものかではなく、一連の作用の帰結としての変状が我々の本質をどれだけ十分に表現しているかを考えなければならない。

    結局のところ、われわれは自らの本質を見つめ、それを理解しなければ、真に自由になること、自由を感じることはできないということなのだ。

    このような中動態の世界に立ってみると、本書の冒頭で取り上げられていた、「意志」や「責任」に関する我々の認識体系は、かえって実態からは遠いものに思われてくる。

    自由意志を持った個々の主体の判断の積み重ねで構築される世界ではなく、相互の作用と各々の本質が関連しあう世界の方が、われわれの住む世界の実態をより忠実に表しているように感じられる。

    それでは、われわれは、このような世界において、どのようにして相互の関係性を調整しながら、各々の自由を最大限に享受できる社会をつくっていけばよいのだろうか?意志と責任に代わる体系を、どのように作っていけばよいのだろうか?

    本書においてその答えは直接的には示されていないが、最終章に取り上げられたメルヴィルの『ビリー・バッド』という小説の読解を通じて、その糸口に関する考察が述べられている。

    『ビリー・バッド』に登場する3人の登場人物は、いずれも思うが儘に行為することが出来ない存在として描かれている。しかし、彼らの行動は受動的でありながらも、その行動の中に各々の存在の本質が幾分か現れている。ここに、彼らが能動的な変状を通じて自由になる契機、可能性が残されている。

    筆者の与えてくれたこのような糸口を基に考えると、身体(気質)、感情(人生)、歴史(社会)といったわれわれを自由から遠ざける要素と、われわれの本質を峻別し、われわれの本質をより引き出す手立てを考えていくことが、われわれを孤立した自由意志の概念から解き放ち、相互に関係性を持ちながらも自由な在り方を実現できる社会の実現にとって、重要なことであると思われる。

  • 私たちは「〜をする」「〜される」という二項対立の世界で生きている…ように思える。しかし、実はそうではない。能動と受動の対立は、実は文法から来ているのではないか?というのが、この本の出発点である。
    文法の歴史を紐解くと、かつて中動態という概念があった。ここから中動態とは何か?なぜ今使われていないのか?と考察が続く。
    そして、中動態から発展して、ビリーの物語を通じて、自由意志があるかどうか、という本質的な問題を考えていく。
    人は、言葉を覚えると、重要な概念は、カテゴリー化する。
    カテゴリー化するのは、わけのわからないもの(カオス)に対処する為である。分類できれば、安心できる。
    しかし、カテゴリー化とは厄介なもので、フィルターを作ったり、本来とは違う枠組みになってしまったりといった、デメリットもある。
    まして、文法などのほぼ無意識に使っている考え方ならなおさらそうなってしまうだろう。
    この本においても、そもそも能動・受動という考えで、今まで困ったことがなかったはずなのに、読んでいて自分の足場がどんどん崩れていった。
    カオスは突然やってくる。足場が崩れたときにどうすべきか。そこに人となりが出てくると思う。この本を読んで、自ら崩してみてはいかがでしょうか?

  • 30ページほど読んでもう読まなくていいと判断した。
    哲学の本のくせに、最初から結論が出ていると思ったからだ。でないとしても、8〜9割は結論が出ているような書き方で、まるでミステリ小説のように、核心をそらすような書かれ方がしてある。それがいやらしいと思った。
    実際読み始めればそれなりの知識を得られるとも思ったのだけれど、本を閉じることにした。というのも、目次がすごく誘惑的でキャッチーだったからだ。マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント(この組み合わせ!)、もちろんスピノザに、ドゥルーズ、なんやかんや。
    「意志」を疑うのに、こんなに錚々たる顔ぶれが必要か。哲学的に意志を批判しようとしているのに、最初に脳科学に言及していることも気に食わなかった。けっきょく、この著者が、哲学を信じていないのだと思った。
    もっと自分で考えろ。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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