中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

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著者 : 國分功一郎
  • 医学書院 (2017年3月27日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260031578

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)の感想・レビュー・書評

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  • この本は、ハイデッガーやアレントはもとより、デリダにラカン、フーコーにドゥルーズ、と有名どころを次々と繰り出しては、能動と受動という二つの対立以前に在った「中動態」という態の存在をあぶりだすことを目的として書かれている。聞きなれない名前だが、「中動態」の存在は早くから知られていたし、研究も存在していたという。著者自身、ずっと前から気になっていたのだが、アルコール依存症患者に係わる知人と話したりするうちに、書かねばという気にさせられたのが執筆の契機だという。

    アルコール依存症患者は、意志が弱いから再発するのだ。もっと強い意志を持たねば、と普通は考えるが、実はそれがまちがいのもとだ、とその人は言う。発想が逆転している。そもそも、人が行動を起こすときに意志が先に立ったりはしない。意志は後から現れるのだ、と。では、何故そう思ってしまうかというと、われわれは、この世界を能動と受動という二つの態に分けてとらえてしまうからだ。無理やり飲まされて(受動)いないなら、自分で飲んだ(能動)ということになる。

    銃で脅迫されて、ポケットから財布を取り出す行為は能動か受動か?ハンナ・アレントによるとアリストテレスの哲学なら能動になるのだという。なんでそうなるの?と欽ちゃんみたいな声が出そうになるが、「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」だから。確かに、財布を出すことを選択せず、ボコボコにされることを能動的に選択できる余地が残されてはいるものの、納得のゆかない説明だと感じる。

    はたしてそう簡単に割り切れるものかどうか。そこで、著者は前々から気になっていた「中動態」をこの際極めてみようと、ギリシア語まで学びなおして、語源からたどり直す。このあたりは、大事なところなので、読み飛ばすわけにはいかないが、正直あまり面白くは感じられない。ただ、古くは、能動態に対立するのは受動態ではなく、中動態であったということが分かってくる。それが、いつの間にか消滅し、その後を襲ったのが受動態、とまあ簡単にいえばそうなる。

    そこで、そのちがいだが、能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるが、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるのだという。例えば「曲げる」は、主体から発して体の外で完遂する過程を表す。問題は、「生きる」も「在る」も、それと同じカテゴリーに入っていることだ。つまり、当時は「生きる」ことも、主語から出発して主語の外で完遂する過程と考えられていた。生きることに主体の関与は必要なかったのだ。

    ここで、カツアゲの例に戻る。「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」の中に、もう一つ概念が必要だったことがわかる。それが同意だ。私の行為には自発性は存在しないが同意は存在する。アリストテレスの場合、強制がなければ自発的ととられているが、強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意はしている。そうした事態は日常的に多くみられる。自分はカツが食べたいが仲間が蕎麦にしようというから仕方なく蕎麦屋に行くというパターンだ。強制か自発か、つまり能動か受動か、ではなく能動と中動の対立する事態を枠組みとして設定すれば、事態が分かりよくなる。

    著者はこの後スピノザを持ち出し、かなりその哲学について詳述している。かなり煩雑になるので結論から言うと、能動と受動を行為の方向と考えずに、スピノザは質の差だと考えた、というものだ。行為の方向から考えると困っている人にお金を渡すのも、カツアゲも同じ行為である。しかし、質は異なる。自己の本性の必然性に基づいて行為する物は自由であるとスピノザは言っている。同じように見える行為の中に、自己の認識の差を見ているのだ。

    最後の唐突に登場するのが、ハーマン・メルヴィル。『白鯨』の作者である。そのメルヴィルの遺作『ビリー・バッド』という小説に登場する、三人の人物を「善」と「悪」と「徳」の寓意として読み取り、どの生き方も完全ではないとする。彼らは強制はされていないが誰も自由ではない。彼らの生き方を問うことで、われわれが置かれている世界は、完全な自由などないが、完全に強制されているわけでもない。つまりは中動態の世界なのだ。では、どう生きるか?中動態の世界を知ることで、より自由に近づいていこうと呼びかけて終わっている。

    ハイデッガーやアレント、スピノザについて、少しではあるが学ぶことができたのは収穫である。ありもしない自由意志に縛られていることは、以前から朧気ながら気づいていたので、それを文法上の問題として改めて考えられたのはよかった。しかし、最後まで読んできて、えっ、これで終わり?と思ったのも確かだ。何か、肝心なところで手を離されたようで落ち着かない。もう少し展望の見える位置まで引っ張って行ってほしい気がする。それこそ、個人一人一人の問題だ、と著者は言うだろうけれど。

  • 「戚」という漢字は戈(ほこづくり)を部首とし、「いたむ」、「うれえる」と訓じる(「尗」は音符)。この文字は自らのいでたちから、暴力によって発生した喪失を哀悼するという能動的な動詞であることを示している。しかし「戚(いた)む」時、私は狂う。私たちは自分の意志に反して、いつも自分のものではないもの(他者)との関係性(絆)に巻き込まれてあるので、私が他者を失うと、自分が誰かわからなくなるほどに揺さぶられる。私は単にあなたの死を悼むだけでは済まず、物語(アイデンティティ)を混乱させ、発話能力を毀損される。その時私はダメージにさらされ、傷を被る受動的な座となる。その過程は否応なしであって、自らの意志によって抜け出せるはずもない。つまり私が「戚む」(能動)とき、その結果は常に私という座において回帰する(受動)。私は行為の過程の内部に存在しつづけ、また、追悼の行為が「戚んだ」という完了時制を取ることで発生させた憂鬱で暗い状態に長く置かれ続ける。しかし、私たちは自らの弱さゆえに永遠に哀しみの状態に留まることはできず、私たちはやがて再構築へと受け渡されていく。好むと好まざるとにかかわらず、別様の絆へと取り込まれ(受動)、関わって(能動)いく。

    このように「戚む」という動詞は、能動/受動という態の区分に干渉し、反転すらさせるという意味において極めて中動的だ。そしてそれは共同体のあり方でもある。血縁という一義的な条件を無視したとき、親「戚」になるのに能動も受動もない。私たちが絆の中に関わり、取り込まれていくのは、ただ「そうだからそうなのだ」。子どもみたいな言い方だが、そもそも共同体の原初的な基礎について言葉が語れることはあまりない。確かなことは、それは意志の問題ではないということ。意志が介在していなくとも主体にとって素晴らしいことはいくらでもあるのだ。

  • 30ページほど読んでもう読まなくていいと判断した。
    哲学の本のくせに、最初から結論が出ていると思ったからだ。でないとしても、8〜9割は結論が出ているような書き方で、まるでミステリ小説のように、核心をそらすような書かれ方がしてある。それがいやらしいと思った。
    実際読み始めればそれなりの知識を得られるとも思ったのだけれど、本を閉じることにした。というのも、目次がすごく誘惑的でキャッチーだったからだ。マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント(この組み合わせ!)、もちろんスピノザに、ドゥルーズ、なんやかんや。
    「意志」を疑うのに、こんなに錚々たる顔ぶれが必要か。哲学的に意志を批判しようとしているのに、最初に脳科学に言及していることも気に食わなかった。けっきょく、この著者が、哲学を信じていないのだと思った。
    もっと自分で考えろ。

  • 知的興奮を覚える好著。再読したい。

  • 『責任を負うためには、自分の意志で自由に選択ができなければならない』―『第一章 能動と受動をめぐる諸問題 3意志と責任は突然現れる』

    ハラスメントを巡る議論が活発になる世の中。モラルの低下を嘆く声も多いことであるし、ハラスメントを加える側に非があることは原則として正しいと思う。しかし非難される側を非難されて当然と決めつけ、やや行き過ぎたペナルティを加えがちな風潮にどこかしら違和感を覚える事もまた事実。そう感じるのは決して自分だけではないだろう。そんなことを考えていると、先日亡くなった元プロ野球監督の生前の指導の在り方が、そんな寛容性の無い白黒の付け方に一つのアンチテーゼを投げ掛けているようにも見えてくる。

    漠然と感じていた「意志」と「責任」の関係についてのもやもやとした思いは何処から来るのか。悪に基づく行動をすることは罪であると考えることは当然と感じる時、その「当り前」という感覚は何に由来するものなのか。かつてハンナ・アーレントを読んだ時、彼女の展開する論理の明快さ故にそこで定義された「意思」と「責任」という概念に納得したこともあったけれど、改めて問い直して見ると「意志」という存在はやはり極めて曖昧だ。そこにアーレントが導入した「自由」という文脈を持ち込んだとしても、それは自由という言葉の持ち得る曖昧さに問題を転嫁しただけ。それ故、会社の中間管理職が部下に仕事をさせることとナチスの下級兵士が非人道的な行為をすることとに構図としての差異はなく、命じる側の「責任」と命じられる側の「意思」の問題は単なる能動と受動の関係に切り分けることが難しい。横綱のかわいがりと暴力の線引きが難しいのも根源的には同じ問題であるように思える。

    『だがそのように思えてしまうのは、それまで自分が意思と行為あるいは意思と選択の間にぼんやりと想定していた関係を、意識されないものと意識されるものとの関係にも投影してしまうからである』―『第5章 意思と選択 4意思と選択のの違いとは何か?』

    この本を読み始めた時に、まさかそんな事を考えることになるとは少しも思っていなかった。しかし読み進めて行くと「中動態」を巡る議論とはまさに現代社会が抱えている「責任の在り処」という問題に直結した議論であることに気づく。議論は何処までも学術的に展開する。豊富な参照文献とその丁寧な解釈を基に。メディアに登場する人々のようなヒステリックな申し立てとはかけ離れている。それでいて、古典ギリシャ語の古い文法書の読みから失われた言葉の文脈を読み解くくだりなどは、古代の言語を読み解く者を無意識のうちに規制している解釈者自身の扱う言語の特徴にも踏み込み、失われた言語の考古学的問題に中立的な立場が存在し得ない事を解き明かす。それだけで既に下手な推理小説よりも刺激的だ。そして言語をそこまで解きほぐした上で「中動態」という「態」の存在とその意味を問い直し、徐々に人間の「意思」というものを巡る哲学的な課題へと移行する。

    プラトンからアリストテレスへ至る「行為」に伴う意思の捉え方の変遷と、中動態が本来意味していたことが失われていく過程の言語学的論証に基づく比較。そしてスピノザのヘブライ語文法書とエチカに記されている中動態的思考についての再解釈。その一連の展開自体がとてつもなく刺激的だ。だがそれ故に胸の奥に巣食う違和感の存在を告発されたような思いも強くなる。悪と善の対立を絶対的な倫理の軸とする現代人には見えにくい別の倫理軸を著者は「徳」と「悪徳」という軸として再定義し、そこに中動態的精神の根源を見る。例えば他人を殴るという行為にも神の意志を見出すスピノザの哲学は、殴るという行為を常に「悪」とする現代人には理解し難い。しかし殴るという行為が「徳」に基づくものか「悪徳」に基づくものかという軸で問い直すことが可能であるかと問われれば、ことは理解し易くなる。そう理解できればスピノザが「怒りに駆られて」為された「殴る」という行為を「受動態」で表現し、そうでない場合に「中動態」で表現することの論理は朧気ながらに見えてくる。すなわち神の意志の発露である徳に基づく行為は、行為者の意志というよりは神の意志に基づく行為であり、形式的には受動態にも見える中動態となる。いずれにせよ、どちらの殴るという行為にも「能動態」という表現がないことに衝撃にも似た感慨は覚えるのだが。

    当然、これだけの文献、言語に通じていないものに、たった一度の読書で全てが理解出来る筈もないが、本書は間違いなく今年最も刺激的で知的好奇心を呼び覚ます本であったことは確かである。

  • 結構難しかったですが、でもだいぶわかりやすく書いていらっしゃるように感じた。

    凄かった。毎ページ凄くて、うわっと圧倒される。
    入り口は言語ですが、とても普遍的なお話で、
    体験的にもしっくりくることが多いです。

    ビリーバッド側からものを見る自分からはじまり、
    読み進めるとどれも理解ができて、自分の中にあるものであることを知り、わけがわからなくなった。
    自己関係の投影…。

    もう少し深い理解がいつかできたらいいなと思う。

  • 2017-18年越し本。
    め、めちゃくちゃ面白かった…!!
    まるで門外漢の私でも、一つ一つ指差して教えてくれるように丁寧で、でもそれは粗雑な単純化ということではもちろんなくて、筆者の手腕に脱帽。
    言語と思考の可能性の関係、意志/選択、自由意志は存在するのか、能動と受動は二択ではなく度合い、などなど考えることや足がかりが一挙に増えて、頭も心も読み終えてもわくわくしている。
    と言っても全て受け止め切れているわけではない、というかまだほとんど目の前でふわふわ浮いているので、これから再読も含めてゆっくり咀嚼していきたい。

  • “「読めよ。さらば救われん」”

  • いろんな書評で好評ということもあって読んだ。なぜに医学書院がこのような本を?と疑問を持って読んだが読み終わってもその疑問は解決されなかった。これとケア論がどう結びつくというのか。まったくもって意味不明。そうしてまったく自分の人生には影響を及ぼさない内容だった。

  • -2017.12.17
    自由の問題を巡る議論の混乱は、意識の問題と同様に、近代西洋の知が設定した枠組みの産物であるといふ側面を持つ。その枠組みから出て問題を見直せば、新しい視点、より現実に即した考へ方が見つかることがある。
    かうした知の枠組みが作られた時代には、これらの問題についても、より幅広く、深く考へられてゐた。デカルトは極端な二元論やその後の唯物的な見方の親玉のやうに見られることが多いが、実際にはより多面的な考へを持つてゐた。この本で取り上げられてゐるスピノザは、デカルトを批判した人だが、問題の核心に関はる思想を展開した点は共通してゐる。彼らの時代まで立ち返つてみることは、有益だ。
    能動態と受動態の区別も、近代社会の枠組みの中で顕在化、固定化された可能性がある。
    この本が、雑誌『精神看護』の連載を元に書かれたといふのは、非常に興味深い。

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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)の作品紹介

【本書「あとがき」より】 中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃であった。衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。 だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずればよいというのか。その後、大学院に進んでスピノザ哲学を専門的に勉強するようになってからも事態は変わらなかった。 ただ、論文を書きながらスピノザのことを想っていると、いつも中動態について自分の抱いていたイメージが彼の哲学と重なってくるのだった。中動態についてもう少し確かなことが分かればスピノザ哲学はもっと明快になるのに……そういうもどかしさがずっとあった。 スピノザだけではなかった。数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。 私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。 (中略) 熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。 その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。 次第に私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。──そのような気持ちが私を捉えた。 (以下略)

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