- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784264024361
作品紹介・あらすじ
北海道浦河町にある「べてるの家」は1984年に発足した。精神障害をかかえる当事者による地域貢献、社会進出を旗印に「商売」として日高昆布の産地直送、紙おむつの宅配に挑戦。93年には、「べてるの家」のメンバーのほか、全国の出資者を得て有限会社福祉ショップべてるのを設立。総勢100名をこえる当事者が関わるまでに成長した。2002年には、全国ではじめて当事者が理事長・施設長に就任、社会福祉法人を設立。さらに小規模授産施設、グループホームを運営し、地域と一体となった事業を展開している。笑いあり涙ありのエピソード集。
感想・レビュー・書評
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「べてる」との出会いの、1冊。
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猫丸(nyancomaru)さん偉そうなコトは言えないですが、もっと読まれて知られるべき本。。。偉そうなコトは言えないですが、もっと読まれて知られるべき本。。。2012/11/28
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日本にこういう場所があるのは、実生活はファンタジーじゃないと思うけど、ムーミン谷があるみたいでとってもよいです。ユーモアのセンスがイケてます。
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「肉体的、精神的そして社会的に成長し、成功を成し遂げた『にもかかわらず』、いのちとして私たちは降りてしまっているのである。そして、きょう一日、私たちは「死んだ」のである。それは右上がりの人生を否定し、降りる人生を選択するというようなわれわれ自身の選択と決断を超えた現実としてある。」
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当事者と触れ合いたいと思った。
精神障害は特別な才能でも欠陥でもない。
同じく生きてるだけ。
こういう本を読むと私は「当事者」に憧れ「異」や「才能」に惹かれてしまうけれど、魅力は「異」にあるのではなく、生き方なのだと思う。 -
統合失調症の方の幻聴の様子がよく分かります。
それに対する向谷路先生の対応方法が面白いです。
薬を飲まずに幻聴と付き合っていくという方針には驚かされました。 -
雨宮処凛さんの著書「この国の不寛容の果てに」から、向谷地生良さんとべてるの家を知り、読んだ。読んで、何故雨宮さんが向谷地さんのことを生きづらさ界のラスボスと称していたのか理解した。彼のバイタリティーに敬服する。彼はソーシャルワーカーであり、常識でいくと個人情報は明かさないのが普通なのだが、オープンにしていて、1日に何十件もの着信があったり、住所もオープンにしているものだから、家の中に人が入ってきたり。なかなかできることではないと思った。しかし、公私混同を掲げる彼は、支援者と支援される側の垣根を越えてべてるの家を作り、事業を展開している。そこには、精神病という言葉からイメージしていた鬱屈とした暗さ閉塞感からは程遠い、ユーモアと茶目っ気たっぷりな、生きている実感だった。私は泣いた。まるで、北の果てで、私が寄り添ってもらったような気になったのだ。障害者や、精神病と健常者との違いは何か?それを個性として、受け入れ、笑うこと。私達はそれぞれ当事者研究をするべきなのだ。そして、一人一人が自分自身を助ければいいのだ。
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「べてるの家」は、ざっくりまとめて言うと、北海道の浦河町にある、統合失調症当事者の自助団体である。
統合失調症の当事者と支援者にできることが、双極性障害の当事者と支援者にもできないはずはないと思う。
今の一つの夢は、双極性障害版の「べてるの家」を作ってみたいということである。
本書の中の最後のエピソード「冬のどなた」の中で、高齢者介護に関する示唆に富む文が書かれているのでメモ代わりに引用する。
そして、老いて身体が弱り、人の力に依存することが避けられない現実となった時、人はちぐはぐであっても、人間としての誇りを振り絞るようにしてそれに立ち向かおうとする。そこで起きる周囲との軋轢と、自分では了解しきれない暗闇にも似た混乱のなかで、当事者は出口を必死に探している。その当事者の思いを「もし、それが自分だったら」という現実感をもって想像を巡らすことの大切さ、そして、「すること以上に、何をしないかの見極め」の大切さを語った。 -
読み終わった後、暖かい気持ちになった。社会福祉を学んでる自分は向谷地pswの凄さと当事者の肯定的な諦めに感涙した。「リストカッターにしておくのはもったいない。良いシェフになれるよ」「それは順調な苦労だよ」
言葉の持つ力のすごさに感動し続けた。精神障害者は私たちが日常的に感じる苦労でさえ、幸せと感じるかもしれない。そう考えると自分の苦労は幸せの象徴であると思う。
【今の自分は欠点だらけだ。しかしそれを変えることは大変難しい。じゃあ諦めて今の自分を受け入れる。今の自分も最底辺ってほど悪くないしなぁ。そう思うと気が楽になる。諦めて何が悪い。これから自分にできることから始めよう。そうすると不思議と悩んでる自分もかわいくてしょうがなくなる、好きになる。もうこれ以上落ちることがないなら笑って過ごそう。】そう思える本でした。 -
読後感を一言でいえば、「ほっとした」。そういう本は他に多くない。「言葉は人となった」という聖書の言葉の受肉。
神は小さきものを選ばれる、というのはキリスト教信仰の核心。それは単なる感傷的な慰め(現実逃避)ではなく、「リアル」なもの。このリアリティに気づき、生き始めることが「回心」であるとするならば、べてるの家こそ、「真の回心者」たちによるキリスト教共同体なのかもしれない。 -
誰もが他でもなく、自分だけの人生を生きている。
大きな生きづらさを抱えていても。
そして、それはどんなに近い関係だろうと、自分だけのもので決して侵されてはいけない権利のようなもの。
しかし、ともすると医療はその権利を「治療」という大義のもとに奪ってしまう恐さ。更に、支援する立場の人ですら支配的になってしまっていることはないだろうか。
誰かに関わる、誰かを支援する、誰かを支える、そういうことを生業をしている人はその権利を侵してしまってはいないだろうか、奪ってしまうことにはつながらないだろうか、常に問いただし考え続けていく必要があるのだろうと胸にささった。そのうえでその人のもつ強さをいかに引き出すのか。
人が生きようとする力の強さ、存在としての底知れない力強さを感じた。
本書のように生きづらさを抱える人たちだけでなく、
色んな人を大らかに受け止められる社会の受け皿が求められている。それは、社会的なシステムだけでなく、一人一人が成熟したものの見方が必要だと思う。
2006年 いのちのことば社 -
もりどん→hanaさん