硝子生命論

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著者 : 笙野頼子
  • 河出書房新社 (1993年7月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309008486

硝子生命論の感想・レビュー・書評

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  • 笙野頼子の作品にはどんな非現実的な設定でも一種の私小説感がつきまとうけれど、そういう意味ではこれは、今まで読んだ笙野作品の中でもっともフィクションっぽさのある小説らしい小説だった。書物化した語り手である「私」が語っているのが、自分自身ではなく「ヒヌマ・ユウヒ」という別の女性についてだからかもしれない。私小説における作者自身の「私」的な部分が、語り手である私ではなくおもに他者であるヒヌマ・ユウヒに託されることで、距離を保って客観的に、他人事のように語られている。

    失踪した「死体人形作家」のヒヌマ・ユウヒ、彼女の顧客でもありライターという職業柄インタビューもしていた私、そして死体人形愛好家の女性たち、彼女たちの共通点は一様に、異性愛者であるにも関わらず男性を嫌悪してやまないこと。このあたりの描写はいかにも笙野頼子的だけれど、硝子で出来た死体としての人形たち、単純な愛玩物としての美少年の形態ではなく別の生物と合体したり皿として活用されたり、それぞれ発注者の異様な嗜好を反映して抽出された病巣を結晶化したような人形たちの存在が、一種耽美的で、ある意味笙野頼子らしからぬ硬質な透明感を作品に与えている気がする。

    神格化されたヒヌマ・ユウヒと、狂乱の儀式を繰り広げるその人形の愛好者たち、最終的に彼女たちがたどりついたのは一種のユートピアだったのだと思う。

  •  機会があって、読ませていただいた本である。なかなか興味深い読書体験だった。終盤の論理的な狂気描写にはさすがに気疲れしてしまったけれど。

     ここで描かれるものは私には「意思を持つ他者への嫌悪と恐怖」と感じられるのだけど、少なからず共感するところもあって、なかなか興味深い読書体験であった。
     本質的には某巨大掲示板で女性への嫌悪を撒き散らす向きと変わらない。傷つけられることへの過大な恐怖は、結局のところ自己へのコンプレックスの裏返しだ。
     特に異性(男性)への攻撃的な描写には社会的にパートナーとなるべき存在への抑圧的な感情が見られ、自分を傷つける意思を廃した人形を代替として扱う屈折は、現代のオタク評論でも読んでいるような心地で読んでしまった。このへん、作者の慧眼を感じ入るべきか、時代が変わり性別が反転しても人の本質は変わらないと思うべきか。
     ただ、女性がこうした感情を持つ場合、男性とは比較にならないほど「性的暴力」の可能性が潜んでいる。その点では、男権主義的な社会への反発以上に、含みをもって描写されている気がする。生殖、性的機能といった単語が出てくるたびに、そうした怯えのような感情を感じた。

     普段は読み慣れない純文学(で合ってのだと思う)を読んで、少し感想が膨らんでしまった。
     その上で、どうでもいい余談であるが、多崎つくるを今年読んでいるために、純文学・私小説では失踪がセオリーなのかと勘違いし始めている私であった。

  • 人形とか少年とか。
    彼らはやっぱりそういう存在だと思う。生きてたらだめ。時間が止まってなくてはだめ。だから、硝子じゃなくても、硝子でなければならない。

    初めて読んだ笙野頼子やったけど、難しかった…。書かれすぎてて難しかった。
    それにしても、ぶさいくさんの気持ちが分かりすぎて心に刺さりまくったぞ…

  • 全四章。なお、雑誌での掲載順でいうと、第一章と第二章が入れ替わる。
    第一章 硝子生命論
    第二章 水中雛幻想
    第三章 幻視建国序説
    第四章 人形歴元年

    ~簡単なあらすじ~
    「死体人形」≒「硝子生命体」を作成し、そして失踪してしまったヒヌマ・ユウヒ。
    彼女に取材という形で関わり、また「死体人形」の所有者ともなった私、日枝無性。
    「死体人形」の愛好家達が集まり、失踪したユウヒを追憶する中で、やがて彼らは新しい国を幻視するのだった。
    そして国が作られると同時に、”私”は一冊の本となる。その本の名前は「硝子生命論」。


    硝子生命という存在は、自分を害さない自己から発した他者との関わりをもたらす物質である。
     生きていて欲しい、けれど死んでいてほしい、そんな欲求を硝子でないのに硝子生命と呼ばれるその物質に託して、そんな存在と関わる物語を人形という形にする。

     硝子生命には二つの存在的弱点があるように思える。
     一つは、それは自己の中から発するゆえに、内側にこもる性質のものになる。けれど、存在感を保つために「他者」も必要ともしていたこと。
     もう一つ。硝子生命≒死体人形には、「作者」がいること。所有の位置が定まらないこと。

    第三章、幻視建国序説では、その弱点をもって、存在がゆらぎ、けれど最後にはひっくり返る。「作者」を貶める無遠慮な「他者」として現れる登場人物”電子子羊”は、硝子生命の存在を脅かす。硝子生命との生活には現れない明確な「敵」という存在。
     その存在を、彼らは殺してしまった。一線を超えてしまった。彼らは他者に対して一つになり、守ろうとした「作者」は遠く離れた存在になってしまった。この辺りの心情は、創作者を「神」という別次元にして、神としての所有と人としての所有を分けてしまうことに似ている。
     
     いろいろな性質の楽しみが混ざっているように感じて、自分はこの話が好き。
    第一章の辺りの、硬質な概念を追う感覚。
    第二章の辺りの、内に籠る性質に幻想が絡んで、沈んでいくような感覚。
    第三章の辺りの、「他者」に対して対抗する感覚。
    第四章の辺りの、変わってしまった世界でまどろむような感覚。
    笙野さんらしいといえば、らしい本。ただ、国家建設という部分は共感が得られにくく、こんな展開なの? となることもあるのではないだろうか。

     「男性の人形を作り、それを対象として恋愛や、ごっこ遊びをする」という状況に対する普通の反応というのはよくわからない。男性が自分の性別を冒涜されたかのように感じて、嫌悪感を持つ、という感覚ならわからなくない。
     今回の話を踏まえて、もし男性が人形を作ったとしたら、と考えた。「死体人形」にならない可能性があるのではないだろうか。その人形は生きていて、「私、君のことが好きだよっ」と言う……のかもしれない。(この着想には、笙野さんの別の本に出てくる「火星人少女」のイメージがある)

     男性優位だとか、女性優位だとか、そこに帰着しないものがあるとは思っていて、それが最後の建国となるのだと思う。「国」というのも笙野さんはよく使うモチーフだが、「建国」とはっきりなるのはこの本が最初ではなかろうか。「国」自体はレストレスドリームや、初期短篇集のうちにも存在するけれど、そこから一歩踏み出した、ということなのかもしれない。


    ※書いてから読みなおしてみたけれど、見なおしてしまうと語り足らない部分が多すぎる。いろいろと難しい。

  • 書物と一体化する。書物の中での生命と語られる。死体人形。生きたい⇒人形⇒硝子体。
    これは女の発想である。生命体が人形と同化されたときのイメージは、ガス、電磁波というのが男のイメージ。無機質として硝子に向かうのは?鉱物か?

    私との考えの一致vsデジャブ。
    読者の依頼で、人形作成。(HPで行っている)
    記憶しか持っていなかった。(無機質がである)
    人形に性は無いのだが、少年の死体人形。恋愛対象としての死体人形、は硝子体である。

  • 久しぶりに姿勢を正し、襟を正して向かい合わなければならない本に出会った。祝福され建国された幻視者の為の「人形の国」を語る存在として書物になった、かつて人間だった「私」。自分の人形制作に対する意識がこの本を読んで確実に変わったと思う。「死体人形」作家「ヒヌマユウヒ」は憧れる。この本の続編と言われる『水晶内制度』も是非読みたい。

  • 2009/4/2購入

  • 「死体人形との恋愛生活、そして人形愛者達の幻視建国――。」笙野頼子は出会ったときからずっと好き。カルト作家と呼ばれても、J文学と言われても、ひたすらに格好いいのです。何度読んでも難解で、でも好きな本です。

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笙野頼子の作品

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硝子生命論はこんな本です

硝子生命論の作品紹介

失踪した異端の人形作家ヒヌマ・ユウヒを偲ぶ会が、彼女の顧客たちの手で催された…。今、最も熱い注目を浴びる気鋭の作家による超前衛カルト小説。

硝子生命論のKindle版

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