カノン

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著者 : 中原清一郎
  • 河出書房新社 (2014年3月10日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (370ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309022666

カノンの感想・レビュー・書評

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  • ”自分として生きること”の生き辛さ
    時は近未来。医療技術の進歩により、脳間移植が可能となった。人間の記憶を司る脳の器官である海馬を交換することができるようになった時代。末期がんを患い死を宣告された58歳の北斗と、記憶が退化する「ジンガメル症候群」という海馬の病を患い、死の淵にある32歳の歌音(かのん)。二人は脳間移植手術を決意し、北斗は老いた身体から抜け出し生き残るため女になることを、歌音は4歳の息子のために母親の存在を残すことを選択する。果たして男の記憶をもった北斗が歌音の身体に入り、母親となっていけるのか。
    少しSFめいた設定にも思えるが、”自分になること”の難しさ、”自分として生きること”の辛さは、普通に生きている誰にでも共通することのように思えた。
    移植手術後、歌音の身体に移植された北斗の海馬は、意識としては58歳の北斗のままで、32歳の女として、母親として生きて行くためのリハビリを受ける。女の仕草を身につけ、母親としての振る舞いを覚える。女性は家庭では主婦であり母親であることで、職場ではOLであることでさまざまな困難、軋轢、トラブルに直面する。それを男性の視点から描き出しているのも面白い。
    しかしそれ以上にジェンダーを超えたところで、人間はさまざまな生き辛さに遭遇しても、それを受け入れつつ、生きて行けることを教えられた気がして、救われた気持ちになった。
    中原さんの次回作を待ちたい。

  • 末期ガンの58歳男性と幼い男の子を抱えた記憶が失われていく病の32歳女性が、記憶を司る海馬の移植によって、肉体はそのままに入れ替わるというトンデモ設定ですが、理屈で語らず、エピソードを重ねていく手法がとても丁寧で、物語にどんどん引き込まれていく自分がいました。若い肉体を受け取った主人公が、手術前の約束を守り、困難や葛藤を乗り越え真摯に生きていく姿に打たれました。

  • 人とは何か?記憶こそがその人だ、という考え方がある。とすると記憶だけを保存して、服を着替えるように身体という器をどんどん変えていけば、記憶が消えない限りにおいては、その「人」はずっと生き続けている、ということなのだろうか。不老不死。その昔、栄華を極めた秦の始皇帝が最後に求めた者は永遠の命だったという。もしも進化し続ける医療技術によって人の記憶だけを乗り換えて行けば、ある意味永遠の命を手に入れるということなのだろうか。我々は遠くない未来に始皇帝さえ手に入れられなかった不老不死を手に入れることになるのだろうか。しかし今「永遠の命を手に入れたいですか?」と尋ねても、そこまでして欲しくはない、という意見の人が多数だろう。しかし、どうしてももう少し生きたい、生きねばならない、という事情を抱えている人も少なくないはずだ。例えばどうしても守らなくてはならない人がいる場合などは。今回紹介する本は記憶を司る海馬の移植が始まった時代をシュミレーションした小説である。

    この小説は近未来、明記はされていないが2020年代後半くらいの時代設定。末期がんにおかされた58歳の男の病室にコーディネーターがやってくる。移植のための相手が見つかったそうだ。移植というのは脳の中の記憶を司る機関である海馬の移植である。その手術は脳間海馬移植と呼ばれ日本では今まで一件の術例しない始まったばかりの医療行為だ。相手方の年齢を聞くと32歳だという。若年性アルツハイマーに近い病気のため日に日に記憶が失われていき1年から2年の間には完全に記憶がなくなるらしい。男は移植によって自分が32歳の男としてもう一度生き直せるのか?と夢想する。しかし話は驚くべき方向へ向かう。なんと相手は女性らしい。そして4歳の子供がいるらしい。女は4歳の子供のために今回の移植を決意したのだという。つまり男は移植が成功したら母親として生きるということになる。

    手術自体は成功する。どういう状態になったか?癌病棟で入院している58歳男性の海馬は急速に機能を衰えていく。32歳女性にはまだ充分元気な海馬が移植された。しかし基本的な問題がある。海馬移植のことは一親等の家族と数少ない例外以外には知られないようにしなければならない。なぜなら患者同士がお互いに術後接触してのトラブルを防ぐためである。だから男は女になるためのトレーニングを行わなければならない。歌舞伎役者の女形に女の動きを指導してもらう、ビデオで女性の映像を見て真似させるなどのトレーニング。そのあたりのディティールがすごい。トレーニングを終え男の海馬を持った女は家族の待つ家へ戻る。4歳の息子が駆け寄ってる。女の身体をもった男はとまどう・・・・。
    というような話。

    設定はSFだがジャーナリストである著者の集めた医療や脳科学の情報が豊富なためリアリティがある。そしてストーリーの展開もこうした設定の場合はおうおうにしておおげさなものになりそうだが、この小説の場合、拍子抜けするくらいに現実的な話に収束していく。描かれる登場人物たちの苦労は我々が日常で遭遇するトラブルばかり。職場での女性同士の嫉妬問題、よその子供に怪我をさせてしまう子供などなど。それらの問題をひとつひとつ地味に解決しながら「生きる」ことや「人とは何か?」を考えていくのがこの小説だ。かなり長いので正直途中で中だるみはしてしまう。しかしラスト10ページにおいてのサプライズと著者の生命に対するリスペクトが感じられて不覚にも泣いてしまった(いつものことだが 笑)面白い本という保証はしないが、読んでおいて絶対損のない本だというのは保証できる。上手く言い表すことは出来ないが、こんなに真摯という言葉が似合う小説はなかなかない。

  • 読後、後を引く。終わって行く人生と、これからまだまだ溌剌として生きていく人生が交錯する。
    近未来、本当に技術的に海馬を交換することが可能なのかわからないが、SF的に肉体と精神が入れ替わるのではなく、医療技術として入れ替わる。
    58歳の死にゆく男性と、32歳の若い女性カノン。
    小説はほぼカノンに焦点が当てられて描かれているが、男性の方の意識が全く描かれていないため、想像するしかない。少しその暗闇が描いてあってもよかったかもしれない。
    長い小説だったが読む価値はあった。「人は誰でも終末に向かう針」とは時計の比喩で、どんな人生を歩もうが、もう一度チャンスを与えられようが針は確実に進む。その進む針をどう生きるか、を問う秀作だ。

  •  海馬の移植手術、私カノンだったら、同じ選択をすると思う。北斗だったら移植しない。自分が達也だったら・・・・成長したときにもし事実を知ったとしたらどう思うのだろうか?
     心はどこにあるのか?黒沢は自分で一つの考えを持っているが、これは自分で考えてみるのも面白いと思った。

  • 32歳の氷坂歌音(カノン)は短期記憶がなくなる病気にかかっている。58歳の寒河江北斗は末期ガン。それぞれの海馬を交換するという手術が行われる。中年の男の記憶を持つ若い母親が息子の達也、夫の拓郎との生活に溶け込む過程を描いた物語だが、的確な記述を楽しみながら一気に読破した。医療チームの議論や拓郎との話し合い、復帰した職場での同僚のいじめ、達也の起こすハプニングなどを乗り越えて、カノンが成長する過程が良い。コーディネーターの黒沢の機転で、カノンの海馬を持っていて最後の時を迎えている寒河江に会う新しいカノン。良い場面だった。

  • 15/05/23読了
    記憶を取り替える話。

    これを書いたのが、60歳の男性なんだなぁ。不思議。

  • 文体も内容も視点が定まらず、目まいのする小説。
    読みながら酔いそうだった。


    死に行く年老いた男性と
    未来のある若い女性が
    それぞれの「海馬」を交換し、精神と身体を入れ替えるって話。


    このときの身体の持つ記憶と精神の持つ記憶のあいだのせめぎ合いが主題。

    もともと
    男の方は、精神的記憶は健康だけど、身体的記憶を失おうとしている状態で、
    女の方は逆に、精神的記憶が衰弱しつつあって、身体的記憶の健康さを維持したいと考えている。
    このとき、精神ってのはその個人のアイデンティティの本質を支持し、身体はその人の環境の要素を含んでいる。精神が見る主体で、身体が見られる主体とでも言えばいいだろうか。


    一般的な感覚と違うのは、「記憶」という共通項で精神と身体を同じレベルに持ち込んでるあたり。
    つまり記憶≒主体性をもつということで、身体に精神性を見ている。


    文体から見るに、筆者自身、そういう身体感覚を持っていると思う。
    これは完全に妄想になるけど、
    ジャーナリストとしてやってきた筆者は、自らの環境の中で情報を集め、それを自分のものとして文章に昇華するという活動をしてきたと思う。すると、自分が書いている文章のほとんどが、自分以外のものから出来上がることになる。「中原清一郎」の名前のもとに、複数の他者の発言や情報を統合する。けど、ジャーナリストの中立性という性質上、その情報は本来、「中原清一郎」のものであってはならない。ここに他者からの「中原清一郎」への侵食・あるいは支配関係の転倒が起こる。自己と他者が混然一体となり、それらが識別不可能になるという奇怪な状態に陥るのである。
    この他者性を、この小説ではカノンの身体として描いているのだと感じた。

    実際この小説は、語る主体が俯瞰的視点に立ちながら、縦横無尽に登場人物へとズームアップ・ズームインしていったり、急に視点が変わったりする。それは、語る主体「中原清一郎」が登場人物とは別で存在し、登場人物とは身体性において相容れないでいることを示唆しているように思う。いや、むしろ、自らの身体性をすでに失っているといえるか。
    説明的文章が多かったり表現がどこか浮いているのもそのせいだろう。

    筆者が、自己の身体性を喪失し、他者の身体性に寄りかかって生きているということが伝わってくる面白い小説だった。

  • 男と女が入れ替わる「とりかえばや物語」は好きで、他にも読んでいるが、これは結構特殊な状況と「海馬」を取替え移植するという外科的な処理による方法が異色。
    記憶を失っていく難病「ジンガメル症候群」(海馬の変化によって生じている)に罹った女性と、末期ガンの男性、58歳。「脳間海馬移植特別措置法」に基づいて、日本で2例目となる移植が行われる。
    物語は、32歳の女性の体になった58歳の男性の状況が短介されていく。彼女には、4歳の男の子いて、その子のために「母親としての彼女」を生きてほしい、ということが伝えられている。
    「意識」とは何だろう、というのがテーマとしてある。男と女を分けるものは何か。
    体と意識が別であるという性同一性障害とも大きく関わってくる。自分が、男である、女である、という意識はどうやって作られていくのか、もしくは生まれた時からあるものなのか。
    自分にとっては、そこを問題提起していることが一番面白かった。
    とても長いお話は、主人公カノン(歌音)が、そこを突き抜けた自分を見つけ出そうとしているというような所で終わっている。が、とても不満なのは、母親としての存在に悩む59歳の男の意識が前面に出されていて、肉体生理としての女の問題をあっさりと割り切ってクリアしてしまっているような所だ。
    男が女になるといった場面で一番興味があり、当人にとっても問題になるであろうこのことは、少しはでてきていて、お連れ合いとのセックスは拒否しているし、匂いの問題として出されている。が、とても中途半端で面白くない。
    性欲は「意識」で制御できてしまうのだろうか。

  • 58歳の末期がんを患った男性と、32歳の徐々に記憶を失っていく女性。お互いの海馬を入れ替える手術を受ける。
    女性の望みは子供が母親を失わない事だった。58歳の男性はその望みにどう対するのか。

    時々凄く説明的な文章があって、そのために興を殺がれた。主題は重いが、その重さを伝えきれなかったのでは無いか。

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